【旅行・旅路】いつか見た風景 ~見たことのある、落ち着く景色~
新天地での新たなる始まりから、早一ヶ月が経とうとしております。
仕事でもプライベートでも取り組む内容をじっくり吟味し自分の中に落とし込みを行うこと。その中から「自分に不要な要素」を排除しつつ日々の時間を送っていきたいというのが、私の基本的な生き方です。
がしかし、仕事は仕事。妥協という言葉はありますが、それを上回る理不尽さや不自由さを抱えさせるのが仕事というもの。お金という対価を貰っている以上逆らうことはできません、が。
それでも生きる為のお金を得るものが仕事であり、それに柔順することにはどうしても抵抗があります。
お金の為に、生きている訳ではない。
金か命か。皆さんは、その辺りをどうお考えでしょうか。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
都心への勤務が続く毎日ではありますが、駅構内や職場での人の奔流には未だに慣れずにいます。
郷に入れば郷に従え。
環境が変わればそれに順応し、慣習やらやり方に従うのが賢い生き方だと言われています。
私の場合と言えば、自我が強過ぎて「そのやり方って、どうなの?」と率直に思うばかりか。
これまでの運営方針が変わったばかりに、元々所属していた方々までバタついて転入者に手が回らない状況自体に、甚だしく疑念を抱く日々の連続です。
などと言いつつ、20歳代の若手が「もっとバリバリ仕事したい」とった意見を聞き入れ、最悪辞めるかもと相談されながら、正直そこは個人に委ねられるところが大きいと言わんばかりに曖昧な返答を繰り返しています。
そのような日々に疲れ、転勤早々ながらも今の内なら休みが取れることがわかり、この記事を書いている今は仕事を完全に乖離しております。
たーぼぅさんの誘いの元、旅行先である宿泊地でお酒を楽しみながら、後日訪れるイベントの開催に心躍らせています。
ここに至るまで、まさにドライブ日和と言って差し支えのない天候と陽気の中、愛車と共に道中を楽しんで参りました。
今回は、久方振りとなる旅行記を綴って参りたい所存です。
実家から複数の県を跨ぎ、相棒と共に走ってきた景色の数々。
何度も訪れながらも、さっぱり地理や地図を覚えられない私が、それでも風景や景色として覚えていたものを見て、通り過ぎて。
ナビ上では「???」となりながらも、いつの日か見た風景、景色を見た瞬間。
あ、懐かしい。前も、その前も。何回も来たっけ。
懐かしさのみならず、温もりや落ち着くような心境を抱いた、まるで子どものような気持ちを今も抱きしめ続けていることに気が付くのでした
はじめに、本ブログの方針についてお話しさせてください。
これまでは精神的・心理学的な内容については積極的に述べており、時折旅行記という名目で旅の軌跡を投稿しておりました。
最初はそれで良いと思っていました。
好きなことを、好きなように書けば良いと言い聞かせるまでもなく、思ったことや感じたこと。個々人で差が出て表現の仕方もそれぞれ、差があっても別に良いでしょと勢いに任せて投稿しておりました。
私は元々、一つの文章を書き上げるまでに時間が掛かる悪い癖があります。体裁はいいか、似たような表現はないか、友人含む他のブロガーと違う表現を出していきたいといった思いに駆られるようになりました。
それがいつの日か、被るような内容なら投稿しても変化も何もないよなぁ……と思うようになっておりました。
本音を言うと……代わり映えのない投稿に価値なんてないよな、という独り善がりな思いに沈み込んでから、旅行記は独りの思い出で良いやと思うようになっておりました。
結果論と言えど、文章を書く頻度が下がったことで文章力・語彙力が下がったことに留まらずに。
私自身、文章を書くこと=自分と向き合う時間が少なくなったことで、ブログに向き合うことに興味そのものを喪失することとなりました。
思いを言葉にする。
その機会が減り詰まらない現実に向き合う時間が増えてしまたことは、必然と言えば必然のことでした。
意欲の下降も止まらなくなっていた、傀儡同然の中。
とあるイベントへの参加に招待される機会に巡り合うことができました。
相変わらず私は、能動的に企画するのではなく、飽く迄受動的であることを自覚しながらも。
然れどそれでも、意思だけは捨てなかったことが功を奏し、季節や陽気の移ろおうを、もう一度深々と見る機会を得るに至りました。
その行き先は。
これまで何回も訪れたことのある地でありました。
活動拠点となる、伊豆の地。
初めて自分の足で、自分の愛車と共に訪れた所。
何度も訪れている観光地でありますが、私にとっては思い入れが特に強いものです。
休みを利用して訪れたその地は。
初めては訪れた時は感情と情緒を揺るがされならがも、時を経て「通過点」「近い、でも関係ない風景」に変わり果てていました。
しかし、でも。
たーぼぅさんに教えていただいたことで初めて読み方がわかった「函南」の道の駅から見た景色は。
澄み渡る空気の先に見える、雪を被った富士山でした。
愛車の屋根をチラ見せしながら、再度富士山を撮影。
撮影場所は函南という地域に広がる道の駅ですが、この日は雲ひとつ無いドライブ日和にして旅行に最適と呼ぶのに相応しい暖かさと陽気に恵まれました。10月末ながら半袖や短パンと言った薄着の方々も多く見られ、長野の秋仕様の厚着姿の私の方が浮いてしまう程でした。
そこから一息入れた後、目的地のホテルに向かって車を走らせます。
私は地理に疎いだけでなく、地図が全く読めないという致命傷を抱えています。ナビを使ってもすぐに迷子になるという体たらくを、これまで何度も晒して参りました。
東西南北、どの方角に進んでいるのかさえわからなくなる、そんな程度に酷い方向音痴です。
この性質は、様々な方から弄られることとなっています。「まだ道覚えられないの?」と言われるのは日常茶飯事でしたが……その、頭に入らないものは入らない訳で。割と苦悩した時期もありました。
一昔前に話題となった男脳・女脳というものでしょうか。
道路名や地理的なものは壊滅的な私ではありますが、アプローチの違いはあれど別の方法で補完しています。
簡単に言えば、「風景の一部」として目立つものを覚える、という方法です。
効率は物凄く悪いですが、例えば「何の施設かはわからないが、道路の上を通るロープウェイ」や、「色褪せた塗装の、パチンコとゴルフ練習場を併設した珍しいお店」といったあまり見かけないものが強烈な印象として残ります。
それを目印代わりにして、「あっ、前にも見たことある」という記憶の引き出しから情景を引っ張り出して、ナビに案内されながらも「この道なら通ったことがある、大丈夫だ」と自分を安心させながら進むことができるのです。
私は、生物学的には男です。そういった観点から見ると、このような道の覚え方をするのは珍しいとされるそうなのですが、同じような経験をお持ちの方はどの程度いらっしゃるのでしょうか。
さておき、今の愛車と出会ってから訪れ、通った道に懐かしさを馳せながら通り抜けていき。
この日の休息地である、伊豆高原に無事到着しました。
目の前に広がる大室山、反対側には波が陽光を反射する海が広がる、何度も赴きすっかり見慣れた情景。
なのに私は、何年も前に訪れた故郷に降り立ったかのような、落ち着きあと安堵の気持ちに溢れていました。
いつか来た道。いつか見た風景。どこかで、見たことのある景色。
外部的な情報よりも、主観的な感覚から得る情景、音。私のような人間には、懐かしさを齎してくれるものばかりです。
かつてこのような、主観に基づくものは役に立たないと言われた時期もありました。現代社会でも不要と考える方もいらっしゃるのも、また事実です。
ですが、私にとって、それらは掛け替えのない大切な情報源となるだけでなく。
記憶と思い出を繋ぎ止めてくれる、なくてはならないものと、今は認識できるようになっています。
このご時世、効率的なものを求め求められる時代となっていると感じています。
そんな中でも、生まれ持った特性を、感性を。
誰に何を言われても、私は大切にしていきたいと思います。
少なくとも、同じような経験や感覚を持つ方がいる限り。
私は、私なりの伝え方で、このブログで書き伝えていきたいと 思っています。
次回は、慣らし運転も兼ねてこの数日で歩んだ旅路を綴って参りたい所存です。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【生き方・人生】笑顔の裏側で ~無意識に詮索する自分が醜い、でも前に進みたい~
真相はわからずながら、新型コロナの驚異が少しずつ小さくなり始めていますね。
他方で首都圏を中心にした大きな地震に始まり、来週はこの時期としてはあり得ない寒気に見舞われる予報が出ております。
時間だけでなく、季節は確実に移り変わっていることを感じながら、常に危機感を持つことだけは忘れるなと言われているような気がしてならない今宵です。
いつの日か出会った、狐さんたちのような温かい毛並みが欲しいです。
【生き方・価値観】職場環境が変わるのも、悪くない ~柵や蟠りを叩き壊す、神無月の静寂~
神無月。旧暦の10月の別称であると同時に、全国の神々が出雲へ出向き神が不在となることから名付けられた一月。
その名の通りかは定かではありませんが、暑く忙しかった夏が過ぎ去ることを実感しております。
鈴虫たちの鳴き声が響く朝夕の静けさを一人嗜む、そんな日々が続くようになりました。
と言いつつ、都心の暑さは身体に堪えますね。地元の早朝と都心の昼間の温度差に、すっかり疲弊しつつ、久方振りの文章を書き連ねている今宵です。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
ここ数ヶ月は業務の忙しさを言い訳にしながら、本当にブログをまともに書けない毎日でした。いざ記事に向き合おうとしても、書きたい言葉が出てこない。心を言葉にできない。書けないから、すぐに辞めてしまう。
もどかしさよりも、諦めと面倒さに傾いて。思いを言葉に変え連ねることが、段々と辛くなることをひそひそと感じすっかりブログというものから身も心も引いておりました。
そんな堕落した生活が一変することとなりました。
長く勤めていた勤務地から異動となり、十年弱という久しいにも程がある位に新天地に赴くこととなりました。
10月に入り間もない、つい先日。転勤先での一日を終えた私は、何とも言えない気持ちで満たされている自分がいることに気付きました。
それは元いた勤務地に対する寂しさや懐かしさでもありません。
新天地での新鮮さ、新たな人々との出会いを喜ぶようなものでもありません。
只々、妙に開放されたような。胸の内や脳裏のどこかで引っかかっていたものが取れたかのような清々しさにも似た心地好さ。
変化を嫌い執着することばかりだった私は、どうやら逆に位置する柵や蟠りに囚われていたようです。
それを叩き壊したことは、時に良いものを齎してくれることを信じさせるのでした。
今回は仕事に留まらず、学生生活、果てには血の繋がり合う者同士たちでさえ自らの人生に響く人間関係について書き綴って参ります。
転勤族と先輩方に言われ続けた職種に就いた私が。
社内でも一際長く、同じ職場に留まり続けたことの恩恵、そして。
固着にも似た、ある種の執着によりすっかり染み付いた柵や蟠りを、職場環境が変わることで一気に叩き壊すことを。
良し悪しを含みながら、書き連ねていきたいと思います。
- 不特定多数が行き交う職場に疲れ果てた
- 慣れ親しんだ故郷と職場。心地好さに包まれながら、時間と共に変化は顕在化して
- 親しみは、時を経るごとに柵と蟠りを生み出していた
- 神無月の静寂と共に、新たに開けた心境
不特定多数が行き交う職場に疲れ果てた
以前の記事でも、東京都のど真ん中に位置する本社という職場で心を壊した。
そんなことを記事にしたかと思います。忘れていたらごめんなさい。
出世が約束された、エリート揃いのその場にOJTという形で送り込まれた、20代当時私はひたすら絶望と失望を抱えたまま毎日を送ることだけで必死でした。
自分がこなしている仕事の意義。
説明を受けてはいたものの、頭で理解はしている「つもり」でも納得など到底できない環境であることは確かでした。
楽をしてお金を稼ぐ、そんなことはできません。自分の時間や身体・精神といったものを犠牲にして我武者羅に仕事をこなして稼ぐか、人生全体の運を賭して博打に勝つか。
それとも仕事は仕事と割り切って、自分を守る為に稼ぐことを諦めるか。
二兎追う者は一兎も得ず。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
故事成語というものは、本当に良くできているとつくづく感じています。
逆に言えば現代の、特に世界的に見ても労働に対する対価と生産性に欠ける日本の働き方を揶揄している言葉であると私は信じざるを得ません。
当時はまだ若さを武器と言い訳にしながら、言われるがままに業務を熟す為に職場へ早くから赴き、体力と精神を削りながら仕事を片付けてもぬけの殻と成り果て眠る為だけに帰るということを繰り返していました。
当然ながら、そんな職場に生きる意味など見出すことは最後の最後までありませんでした。
不特定多数の人間が行き交い、言葉もなく淡々と業務に勤しむその場に、私は生きる意味を見出すことは遂にできませんでした。
否、今思えば。そんなものを求める人間の方が圧倒的少数なのかもしれません。
然れど私には、壊れかけの人形の如く働き続けることは……我慢どころか、上層部に対して抗うまでに拒否し続けました。
精神を病んでさえもなお、それだけは譲ることも譲歩することもできませんでした。
上に立つ方々からすれば、さぞ面倒な若手社員だっただろうと思います。
しかし彼ら彼女らが思うと同じように、私も半ば意地と負けん気で張り合っていたことは事実です。
たかが下っ端でも、全て思い通りに行くと思うな。
こちらにだって、譲れないものはあるんだ。
そんな思いを貫き通し、業務を全うした私は、戻りたいと願い続けた古巣への異動が叶うこととなりました。
やっと、これで解放される。
そんな希望を持ちながら。
数年後に、そのような思いは別の咆哮に変わっていくことなど知らずに。
慣れ親しんだ故郷と職場。心地好さに包まれながら、時間と共に変化は顕在化して
幸いにも前職場の三本指に入る方に気に入られ、願っていた地元の職場に戻ることができた私を迎えてくれたのは。
互いに歳を取りながらも、かつて同じ苦楽を共にした先輩方の暖かい歓迎の言葉でした。
私としては、慣れ親しんだ故郷の職場と先輩たち。その方たちと再び仕事をできることに対する喜びに溢れていました。
激務と激動続きだった首都圏での社会人生活にすっかり疲れ果てた私は、子が親に縋るかのようとも形容できるものでした。
一方で。
威厳だけでなく。有無を言わさず上からの指示を垂れ流す上司にさえ容赦なく意見する確固たる意志を絶やさずにいた先輩たちは。
定年を控え、かつてのそれをどこかに置いてきてしまった姿を隠すことも忘れてしまったかのように振る舞っていました。
かつて肩書やプライドを源にして、向かうところ敵なしを具現していた方々も。
どこか寂しさとも、虚しさとも見える思いを携えながら、それでも。
私を始めとする若手に優しい言葉と眼差しを向けていました。
嬉しい反面で。
多分、きっと私は。
そんな先輩方の寂しさを感じ取ったのだと思います。
憶測は、いつしか確信へと変わっていくのでした。
親しみは、時を経るごとに柵と蟠りを生み出していた
何気なく、しかし感じ取り抱いた思いは、やがて現実のものとなりました。
定年間際の先輩たちは、次第に言われたことを淡々と熟すだけとなり。事務所にいるのが苦痛だと訴え始めました。
ちょうど私が社内システムの管理者として、内勤が当たり前となり始めた頃だったでしょうか。
ちょうど、かつて直属の上司だった方と一服している時のことでした。
「もうさ、どうでも良くなってきちゃったんだよな」
それは吐露でありながら、一番耳に残る一言でした。
私は、ただ情けなく相槌を打つことしかできませんでした。
ですが実際は、「貴方の口から、そんな言葉聞きたくなかった!」と糾弾したい思いに駆られました。
直後に、「白兎はまだ、先があるからな。まだまだ働いてもらわないと、俺たちの年金の為にさ」
乾いた笑い声を零しながら、私を見つめるその瞳は、地元に戻りたての私を見守るように澄み切っていることに変わりませんでした。
然れどそこに、「俺は、もう終わりだから」と言わんばかりの哀愁を纏っていたのは、恐らく気の所為ではなかったと今でも信じています。
昔の私は、まともに他人と言葉を交わすことどころか、自分の感情さえ素直に表すこともできずに相手に合わせることしか知らなかったのに。
そこに「仕事よりも、まずは雑談から始まる。俺はそう思ってる」と言って。
私に生きる術を教えてくれた言葉を齎してくれた分、余計に。
そんなこと、言わないでくれ。
遣る瀬無い、行きどころのない思いを噛み締めながら煙草を捻り消したことは、今も鮮明に覚えています。
別の方には、「思ったことがあれば、遠慮なく言えよ。もうお前もそれ位の歳なんだから、言われたことをただ受け入れるだけだとダメだ」と言ってくれました。
自分の意志を、通す。譬え間違っていたとしても、言わなければ負けを認めると同じだ。
肉体の横幅だけでなく、精神的な強さも身に着けなければこの先、生きていけない。そう確信した瞬間でもありました。
そうこうしている内に、私を可愛がりつつ育ててくれた先輩たちは、次々と姿を消していきました。
その度に寂しさを覚え。他方で喧嘩腰で物申す人が少なくなっていくことで、いつしか経営層の意思をただ伝える上層部と下々との間で柵や蟠りができつつありました。
十年弱その場で働いた私は、無謀にも御老害社員や上司にも喧嘩上等という態度で言い争うことも少なくありませんでした。
筋が通っていないことが、どうしても許せないという私怨もありましたが。
私も正しいとは思わない、だが自分だけが正しいと思うなという思いから、感情を抑えに抑え理屈で口論沙汰になることも珍しくありませんでした。
会社側からすれば、私は相当面倒でブラックリスト入りするような人間だったのだと思います。
それでも、構いませんでした。
表面だけ良く見せようとしていた私に、昔から持っていた負けず嫌いさと理不尽に対する反抗心を呼び覚ましてくれた方々に、私は寧ろ感謝する思いで一杯です。
そして、在職八年目が過ぎ去ろうとしたその日が、遂に来ることとなりました。
神無月の静寂と共に、新たに開けた心境
異動を言い渡された当初の私は、転勤族故の宿命と素直に受け止められることはできませんでした。
あれだけ好き勝手してきた癖に、いざ新天地に行くことを目の当たりにすると、怖くて仕方がなくなったのです。
古巣に戻る前の、地獄と空虚に満ちた首都圏での仕事。その場に行った時、私は自分を保っていられるのだろうか。
こんなことを言うと、私も唯の臆病で内弁慶に過ぎなかったのかと、自分を嘲笑いながら煙草を吹かしていました。
情けない。
そんな、綺麗な言葉も許されないとさえ思いました。
……ダセぇな、私。
自分に対する嫌悪感を引き摺りながら、それでも引き継ぎを終え、私は地元の職場を後にしました。
よりによって赴任日初日が、新型コロナワクチンの二回目接種直後でした。
副反応による発熱と節々の痛み、頭痛の為急遽お休みをいただくという体たらくを晒しました。
こんな私を見て、周りは馬鹿だとか口だけな奴と罵られているのだろうなと、寝床から這い出ることもできずに一人思っていました。
かつての先輩たちも、言い争い喧嘩寸前となった老害も。接種日をずらせないかと、このご時世に無理難題を言いつけた上司にも。
それは、一先ず置いておこう。
何とか回復し新たな職場へ赴いたそこは。
多くの社員が行き交い、誰が何をやっているかもわからない、未知の世界が広がっていました。
最初こそ慄いたものの、時と共に私は思うのでした。
これが、柵も蟠りもない世界なのだと。
そう思った途端、急に構えていた心の力が抜けていくのを感じました。
私はきっと、どこまでも自分本位な人間なのだと思います。
調子の良い時はものを言い、負け確定の状況ではダンマリを決め込んでやり過ごす、そんな汚いやり方しか知らない人間です。
ただ、わかったこともあります。
知らない世界に放り込まれた以上、もう戻れないこと。戻れないのだから、今までの勝手な振る舞いだけでは潰されるだけ。
なら、別の生き方を見つけられるかもしれない。
新たな職場で。
神無月の静寂と共に訪れた、柵も蟠りもない世界で。
上手くやれるかも、これまでの落とし前も付けられるかもわかりません。
ですが今、やれることは。
ただ、真っ直ぐ進むことだけ。
先輩たちが残してくれた、思いを掲げながら。
そう思えば、職場環境が変わることも、強ち悪いことだけではない。そう思える、一歩を踏み出せた気がしています。
最終的に何を言いたいのか、自分でもわからなくなってしまいましたが。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【生き方・感情】泣くことは、心の栄養 ~涙は、出そうと思わなくても流れる~
コロナワクチン、ようやく一回目の接種を終えました。接種して2日程経ちますが、未だに非利き腕、未だに筋肉痛のような痛みが引かずにおります。
加えて今年は新型コロナだけでなく、気候変動があまりにも著しく体調管理を難しくしている気もしています。
早く、涼しく穏やかな季節が待ち遠しく思う、今日此頃です。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
昨月は一回しか記事を書けない程、6月辺りからバタバタしておりました。
周囲の喧騒と状況変化、心身の摩耗と散々な状態が続き、自分の気持ちと向き合ったり顧みたりすることも叶わずにいました。
正直、生きることに疲れたと思いを引き摺りながら時間だけが流れていくと感じたのは、何時振りのことだっただろうかと思うばかりです。
無味無臭な時間と空気だけが漂う日々。
人間はそんな時、元気も活力も失ってしまいます。
私も例に漏れず、本当に何もしたくないという思いに支配され、ひたすら身体と心を休めることに専念するばかりでした。
そういう時、お気に入りの動画をラジオ感覚で流しながら横になることを日課代わりにします。以前はゆっくり系のものが中心でしたが、最近はゲーム実況や雑談系のものを聞いています。
以前からお話ししていることではありますが、どうも私は四六時中、休むことなく脳内で様々なことを考え続けるという癖があるようです。
それこそ、答えのないことに答えを求め続けたり。考えても仕方がないことを捨てもせず頭の中を巡らせたり。
日頃から休まらないようなことを無意識でやってしまうことで、私の内面はいつもぐちゃぐちゃです。自分でも理解できない程の混沌に塗れています。
唯でさえ弱いのに、外界から大きな刺激ですっかり参っておりました。我ながら
、いつまでも情けなさと惨めさで一杯です。
自分の変わらない弱さ、いつまで引き摺れば終わるのだろうと打ちひしがれていた折。
とある動画と出会い、気持ちが上方向に向かう切っ掛けが生まれることとなりました。
その方は半年程前から配信を始めた方で、実況や雑談では落ち着きがありながら温かみのある声色の持ち主です。しかしながら恐怖や驚きがあるようなゲームを実況する際は声が裏返ったり含み泣きのような声を上げるというギャップが物凄く激しいお方です。
話術や声のトーンや話し方も絶妙で、話し言葉が大の苦手な私から見れば羨望の塊を備えているとも言える、皆のお兄さんのような配信者。
動画を配信を行っている方々は、本当に凄いとしみじみ思うと共に。
思いを文章で、しかも回りくどい形でしか出せない自分が、どこまでも不器用だと知らされるのでした。
閑話休題。
それは偶然だったのかもしれません。
数年前に話題となりゲーム大賞を取ったアプリを、先述した実況者さんがプレイ実況として上げていたものでした。
内容は可愛いドット絵ながら生と死を主題に取り込んだもので、多くの方が泣いた作品として有名になりました。
私も実際にプレイし完結していたのですが、当時は「良い話、心が洗われるなぁ」程度の感想しか持ちませんでした。
然れど、実況者さんは違いました。
ゲーム内のセリフを読み上げながらライブ中継していくという形で配信していらっしゃいました。
内容に合うよう、温もりのある声色で読み上げていく配信。
そして物語の盛り上がりの場面。
実況者さんは、生配信中など構うことなく。
感極まったかのように「あぁダメだ、ごめんっ……!」と湿った声を上げました。鼻を啜り上げ、嗚咽を堪えながらも実況を続けていくのでした。
その姿を見、声を聴いた私は。
目から涙が零れていました。涙は止まることなく視界を遮り、肩を震わせながら落涙しておりました。
続く実況者さんの声、そしてゲーム内容で、すっかり涙は止まらなくなってしまいました。
その時まで、息苦しくて眠るのも辛い時が何度もありました。
その度に、泣きたい。泣ければ、楽になれるんだ。
泣けよ。泣けよ私。泣きたいんだったら、泣けって言っているだろ私。
思えば思う程涙腺は固く締まるように、涙が出てくることはありませんでした。
しかし実況者さんの声色は。いとも簡単に、泣くということを私に齎すのでした。
思えば、泣くなんて本当に久し振りのことでした。最後に涙を流したのは、いつだっただろうと思い返させた程です。
元々泣くことがほとんどないと思いながらも、感情が溢れ出た時は涙が止まらなくなる……泣くということが自分でもよくわからない人間だと思い詰めていました。
泣くことは女々しいだとか、泣かないことは冷酷なのかだとか、根拠のない思い込みと決め付けが、胸裏を錯綜してばかりでした。
ですが実際は、無理に泣こうとすれば程、涙は出てこないものであるということを。
逆に、譬え何気ない切っ掛けであっても、自然と涙は止めどなく溢れてくることを、改めて実感しながら考えさせられました。
そして、心身ともに……本当にボロボロになって動かなくなってしまうと、感情でさえ跡形もなく霧散する可能性さえあり得るのだと思い至りました。
そう考えると、溢れる感情は自分を傷つけることもあれば、潤すこともある。
悲しいという感情も、時には涙を流すことで心に栄養を注ぐのかもしれない、そう思ったのです。
どこかで、人は自分自身の為にしか涙を流さないという話を聞いたことがあります。
自分が哀しい。不甲斐ない。自分に腹が立つ、許せない。
場合によっては自身を慰める為に。譬え、大切な誰かを失った時でも。
道理としては、私も同意する所があります。私は特に、過去や今の自分と眼の前の事象を重ね合わせた結果、感情が昂ぶって思わず泣いてしまうことがあります。
でも。それでも。
そうやってでも、出そうと思わなくても出た涙で、傷ついた心に栄養を注いでいるのかもしれないな、と思うに至りました。
乾き切った心では、表情を変えることも感情を表面化させることも、恐らくできないのだろうから。
かつて心を擦り切るまで擦り切らせて、泣くことどころか泣くことは恥だと戒め泣かないと決意した。
部屋で一人とは言え、お構いなしに思い切りボロ泣きした。
そんな、別の意味で情けないなと思った私の、久方ぶりの記事として仕舞とさせていただきます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【人生・価値観】この世のもの全てに、寿命はある
例年にない、豪雨に見舞われたお盆となりました。
霊感のない私にはわかりませんが、迎え入れたご先祖たちは、この凄惨な状況を見てどのような思いを抱いたのでしょうか。
答えを求めても仕方がないことに思慮を巡らせること、私は好きです。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
お盆というこの季節、私は四季の中で最も好きな時期です。
ご先祖をお迎えして、数日(仏教の場合は)仏となった先祖の魂たちと過ごし、そして再びあちらの世界へ送り返す。
ヒグラシも鳴き始める8月の半ばは、静かで、暑さも鳴りを潜め始め過ごしやすくなるこの時間は、昔から私は好きです。
これまでの生活が普通であったのなら。
お盆と言えばいつもなら穏やかな、秋空に向かう夏の暑さを惜しむような晴れ空に恵まれてきた、そんな記憶が蓄積されています。
然れど今年はコロナ禍に加えて半ば強行された五輪、そして台風から続く前線の停滞による記録的大雨。
これら全ては様々な災禍を日本にも世界にも齎し、多くの犠牲と命の危機、そして規制などが発生し、今も尚続いています。
亡くなられた方々に哀悼の意を表すると共に、今も災害や新型コロナで苦しむ方々に、お見舞い申し上げます。
かく言う、私の元にも悪いことばかりが数多く降り掛かりました。
まずお盆の入る直前のこと。
冷蔵庫が壊れてしまいました。
私の記憶にある限り、その冷蔵庫は常に我が家の食材を保存し続けていました。30数年前から稼働しておりました。
今の冷蔵庫は冷蔵室、野菜室、冷蔵室の配列が異なっていますが、我が家の冷蔵庫は一番上に位置するのが冷凍室でした。幼い頃、キンキンに冷えたアイスが食べたくても、手が届かない。
椅子を持ってきてよじ登ろうとすると、母や今は亡き祖母に「危ない」と怒られながらも、取って貰ったアイスは夏の暑さを忘れる程のご馳走でした。
それから、体の成長と共に私も歳を取りました。
開けることも困難だった冷凍室は、勢い良く開ければ顔を強打する位置になり。
一番下の野菜室は大きく屈んで食材を取る程になっていました。
何より。私自身が、冷蔵庫本体とほぼ同じ高さになっていたことに、今更気付くのでした。
あんなに大きいと思っていた冷蔵庫。真っ白という、いかにも昭和に作られた本体。コンプレッサーはどう考えても電気を食う大きな駆動音を発して、それでも使命を全うすべく動き続けました。
数十年鎮座し続けたそれが壊れるのは、本当に一瞬のことでした。
そこにいるのが当たり前だった存在が、役目を果たし終えたかのように咆哮を上げるかのように大きな音を出し、冷凍室は保冷機能を失いました。冷蔵室も送風しているだけと呼べる状態に陥りました。
仕事柄、機械には慣れているつもりでした。
しかしいざ、自分と同じように。いえ、見守るように動き続けた冷蔵庫が機能を失ったと理解した時には。
これが、寿命なんだろうな。
妙に感慨深さとも感情的な思いが一気にこみ上げました。
幸い新たな品はすぐに見つかり、翌日搬出と搬入が決まりました。
たかが、家電かもしれません。壊れる時はいつか来ますし、それがすぐか何十年後かの違いだけです。
それでも私は、別れの前夜に。思わず、白くも生活と共に汚れ切った冷蔵庫を抱き締めていました。
そして。
今まで、ありがとう。そう呟いていました。
翌朝の搬出作業は、手慣れた作業員の方々の手でものの5分も立たぬ間に終わりました。別れを惜しむ間もない程、あっという間の出来事でした。
さようならを言うことも思うこともできぬまま、新たな冷蔵庫が我が家の食材管理者となりました。
色も機能も大きく刷新され、まだキッチンに居座る様が溶け込んでおらず違和感さえ覚える程です。
今の冷蔵庫、水を貯めるだけで自動製氷できることを初めて知りました。周りにそのことを話したら、「え、今更?」という顔をされましたが。
新しい家電を招き入れ、食材が駄目になる危機を免れてホッと息を吐く、そんな間もなく。
今度は車が致命傷となる故障を引き起こしました。
これは以前お話ししたかもしれませんが、今の私の愛車ではなく、母の脚となる軽自動車です。
初めて自分の給料で購入し、その後すぐ、廃車を検討していた母に譲渡した経緯のある、私にも母にも思い入れのある車が。
買い物途中でエンジンが全く掛からなくなるという非常事態に見舞われました。
詳細は省略いたしますが、エンジンを起動させる為の部位が何らかの原因で動かなくなってしまったようです。バッテリー上がりではありませんでした。
自走もままならない状態になりかけましたが、翌日ディーラーに預ける為にエンジンを起動させようとすると……昨日まで一度も掛からなかったエンジンが、嘘のように蘇りました。
ディーラーまでの道、運転する私は10年経っているのが嘘のような軽快さに嬉しさと寂しさに浸っていました。
かつて引きこもり気質でインドア派だった私を、外に出て駆け回る楽しさ。車を走らせる喜びを初めて教えてくれた軽自動車。
役目は変わり母の脚となり、病に伏す祖父や祖母の元へ。毎日の買い物へ。仕事場へと、軽々とした機動で母を支え続けてくれました。
ハンドルを握り締めれば締める程、アクセルを踏めば踏むほど、込み上げてくる思いを何とか抑えながらディーラーに預けて参りました。
結果的に、症状は再現しなかったとのことでした。
これはどのことにも当てはまることだと思いますが、症状が再現しない故障や不具合程厄介なものはありません。
部品を交換したくても、再現しなければどこが悪いのかわからない。経験と勘で悪い場所はわかっても、いざ修理して症状が出れば元も子もありません。
結局対処のしようがないと合意した上で引き取りましたが、幸い今日まで、元気に母と共に走り回ってくれています。
しかしながら、私だけでなく母自身もわかっていたようです。
この軽自動車も、来年の車検前には変えないといけないことを。この子も、寿命なのだと。
そんなことが続き家全体でバタついておりました故、ブログを書くことすらままならぬ日が続き、今日に至っております。
落ち着き、この記事を書いている今思うことは。
生きとし生けるものだけでなく、機械や車のような無機物にも、寿命はいつか来るのだ、と。
どれだけ惜しんでも悔やんでも、命が尽きる時は必ず訪れる。それに対して抗うことも、延命しようとも、最期に立ち会わなければならない、と。
私は元々無機物にも感情を抱く性質持ちなので、大袈裟に聞こえるかもしれません。
ですが、突き詰めれば人もそれ以外も、「終わりがある」という点では同じなのではないかと私は思っています。
いつそれが訪れるかわからない。
だからせめて、一緒にいられる時は、精一杯接していきたい。
後悔しないように。何をしても後悔は残るだろうけど、それでも。
自己満足でも構わないから、少しでも悔いを残さないように。
そんなことを思いながら、先祖の魂と過ごすお盆は過ぎ去るのでした。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【人生・人間関係】薄れない温もり、優しさ ~成功と失敗を重ねた、曇ることない証~
梅雨が終わったと思えば、真夏日を超え猛暑日の連続。
いよいよ夏本番か。
喜んでも良いのかもしれませんが、今年は前年以上に、そのような晴れた気分になれずにいるのは私だけでしょうか。
コロナ禍も、五輪も、何も解決していないからと思うのは、私だけなのでしょうか。
つい先日、すっかり放ったらかしにしていた車のSNSサイトにて投稿を行いました。
日数にして、約半年。その間に取り付けたパーツのレビューやブログを書かせていただきました。
書き終えて、そう言えば最後に車のSNSと向き合ったのは本当に久しいことだと思い返すのでした。
これと言った趣味も持たず、パソコンとにらめっこしてばかりだった私には無縁のものだと、あの時は信じて疑いませんでした。
不特定多数の人間が、しかも車という共通の趣味を持っている集まり。多少車に興味を見出しつつあった私は、覗き見るようなことはあっても決して自ら連絡を取るようなことはありませんでした。
車とい名と姿を持ちながらも。相棒は、私の中で満たしてくれる存在で良かった。
それなのに、私は興味と好奇心に負けてSNSの世界に飛び込んでいました。
初投稿は、確か。
確認してみたら、本当に納車して数カ月後。丁度5年前のことでした。
車についてどころか、それまでインドアもいい所だった私にはSNSの使い方すらままならない状況で、この世界に飛び込みました。
初めて相棒を登録し、自己紹介文を書いて。今は亡きお友達を増やそうと躍起になる一方で、自分が発する言葉に一々ビクビクしていた、そんな思い出が今でも鮮明に蘇ります。
それだけなら、今までの私のままでいられたと思っています。
どうしたら、あんなに飛躍できたのだろうか。
まさか自分から、この足で、相棒と共に。SNSで知り合った方々と共にオフ会に参加するだなんて、微塵にも考えておりませんでした。
始まりは、地元長野の姨捨山。夏の暑さもすっかり冷めた夜のことでした。
SNSで知り合った、顔すら知らない人たちと初めて会ってからの夜空撮影。
カメラの面白さだけでなく、同じアクセラという車を通して知り合った、第一歩でした。
次の日には、今や無二の友と呼べるたーぼぅさんと共にドライブを共にしていました。
この時から私は、車と一緒に過ごす日々が始まった。そう言っても過言ではありません。
そうは言いながら、私の中では「人と接する」ことに対し恐怖を抱いていました。
親しくなった人には、曝け出すことができるのに……相も変わらずビビリの象徴とも言えるような。
対人恐怖症のような怖さを、覚えていた記憶があります。
そんな中、残暑厳しい横浜の地。そこは、私の人生で初めてネット世界から発展したオフ会が開催される場所でした。
集まる同じ車種、知らない人たち。
どうすれば良いのか、それこそ路頭に迷うかのように、私は野に放たれた兎そのものでした。
周りから刺さる視線が、痛くて、怖くて。逃げ出したくても、どうやってその場を離れればいいのか、そんなこともわからなくなっていた私に。
当時まだ(辛うじて)20代だった私に、オフ会参加者の皆さんは、分け目隔てることもせず接してくださいました。
この時、MAZDAが発刊する雑誌の取材が行われ写真を撮っていただいている場面です。
痩せてるな私……じゃなくて、緊張しながらも、同じ車たちに囲まれて、初めて立ち入った私を迎えてくれた人たちに見守られながら。
このような地に立っている当時の自分は、今思えば相当勇気を振り絞っていたのだと思います。
人間を何度も裏切って、裏切られて。人という存在がすっかり怖くなって、二度と関わりなんて持ちたくないと、暗示をかけるかの如く人を避けてきた私には。
オフ会にいらした方々の言葉が、笑顔が、空気が。
全てが、温かくて。優しくて。心地好くて。
それでも私のようなやさぐれて、腐った輩には勿体ない程でした。
受け入れてくださる喜び。有り難み。そして優しさを、再び感じることができました。
それからは不完全燃焼だった青春を引っ張ってきて、まるで燃やし尽くす勢いで、みん友の皆さんと共に、相棒と共に数多くの場所へと赴きました。
本ブログでは上げていない、最近行った場所を例にさせていただきます。
未だに私の中で熱の冷めない、BEASTARSコラボで訪れた東武動物園。
新潟発にして山形まで行く観光列車に乗った、3月の終わり。
残雪と春の息吹溢れる、山形の映画撮影地。「おくりびと」や「おしん」「るろうに剣心」の撮影場所として、或いは撮影で使ったセットが集まる自然豊かな地。
調子に乗って、木刀を下段構えでいる様を撮影していただきましたが……うーん、厨二病の匂いが凄まじい。
それだけでなく。
専門学生時に立ち寄ったに過ぎなかった小田原に佇む、老舗ホテルに宿泊して、カラオケを楽しんで。
バブル期の繁栄をそのまま残す、商店街を撮影しにも歩を進めました。
翌日は初となる小田原市を、この足で友と歩きました。
和と洋が絶妙に絡み合い、どこか回顧心に刈られる松永記念館を訪れて。
翌日には。
癒やしを齎すという高周波オルゴールが数多く集められた、伊豆オルゴール館へ赴きました。
百年単位の年月を経て、今尚私たちの耳を癒やしに包み込んでくれる楽器が、そこには沢山静かに。それでいながら、威厳を放つかのように佇んでいました。
私どころか、両親も祖父母も知らない伝統と画期的技術を盛り込んだ機材が私達を出迎えてくれました。
当時の技術をこの目で見て、感嘆しながら。
丁度いいタイミングで、実際に演奏してくださるという、またとない機会に巡り合うことが叶いました。
これらは全て、円盤に刻まれた凸凹を読み取って一つの曲を。それも自動で演奏するというものです。
ただただデカいオルゴール、と言われればそれまでです。
然れど館内に響き渡る音色は、現代を取り巻く音楽とはまた違う次元を行く音を奏で上げました。(現代の音楽を否定するつもりはありません、念の為の補足です)
人は、死ぬ間際でも音。つまり聴覚だけは最期まで生きていると言われています。
同時に過去に聞いた曲 -例えば青春時代に聴き漁った曲- は特に記憶を超えて残り続けると言われています。
この場所で聞いた音楽は、音響は。
特に聴覚に敏感な、HSPを自負する私には衝撃を通り越して感動を……否、言葉では言い表せない感情を抱く程でした。
ダイジェストで記述した旅だけでなく、知らない世界は、まだこんなにあるということを実感させられながら。
自分が、如何に小さな世界で、抗うように。必死こいているように見せかけて生きてきたことを思い知らされました。
それは、一時は恥として私を苛みました。
でも、そんな恥は本当にどうでも良いことだったとすぐに気が付きました。
陰湿で、人生に対して斜に構える生き方をしてきた私は。
紆余曲折はあったけれど、それでも、湿った生き様を晒してきたことも、いつの間にか受け入れて。
今度はそんな自分を天日干しにする為に、兎に角走り続けていました。
私にとって、車のSNSでのやり取りは。SNSを飛び越えて実際にお会いした方々と過ごす時間は。
安っぽい言葉になってしまいますが、本当に掛け替えのない、何物にも変えられない一瞬一瞬でした。
それが、昨年から一変してしまいました。
新型コロナウイルスという、目に見えない驚異が突然現れて、私たちの行動を有無を言わさず制限を掛けることとなりました。
正直なお話をさせていただきます。
新型コロナウイルスで、オフ会も軒並み中止。
相棒Lupusも、もう弄るところがなくなり維持に向かう過渡期と、丁度重なっていました。
その頃からでしょうか。
勝手な思いから、私はSNSから次第に距離を置くようになっていました。
目新しいものがなくなってしまった、ということもありますが。
車のSNSで知り合った方々の多くが、他のSNSで活動を始めていることを知ってから。
もう、潮時かもしれない、な。
挨拶も何もなく、私はSNSをという界隈から消えていました。
実際に仕事やプライベートで沢山のことがあり、精神的に参っていた……なんて、言い訳になります。
然れど今、これまた勝手ながら情緒も安定して参りました。クルマに対しても、交流に関しても、意欲が再燃してきております。
時間は経ち、来るこの日。
久方振りに訪れた車のSNSにてパーツレビューを投稿した直後から、皆さんから沢山の評価を頂戴しました。
この感覚は、初めてパーツレビューや車の整備手帳を投稿した。
5年前のあの時と同じであるでした。
あの時に染み染みと味わった温もりは、変わらないでいることに、改めて気付かされた今宵です。
確かに、全てが成功だけだったとは言えません。
SNS上でも、実際に対面するオフ会に留まらず。
自分の車を弄るにあたり、沢山の失敗を重ねてきたことは、否定することで自分を消したくなる程の事実です。
ですが。
勢いで飛び込んだ車の界隈、そこで出会った方たちとの出会いは、今でも確固たるものであると私は信じています。
失敗した数も数え切れない程で、その度に落ち込みました。
でも、それよりも次はどうすれば上手くいくかと文献を漁り、時には掛け合い掛け合われたりしながら、私は今ここにいます。
そのようなやり取りがなければ、今の私はなかっただろうと、素直に言える自分がいます。
嘘偽りで固めて生きてきたあの時とは違う。
自分に問いかけても閊えることのない、自負とも自信とも言えるものを持つほどになりました。
きっとこれは、私が私を曝け出すことを切っ掛けに得られた「曇ることのない、私という人間が生きた証」なんだと。
傲慢かもしれませんが、自信を持って言い換えることができることだと自負しています。
十数年……いや、二十年前の私。
イジメに遭って、生きる意味を失って辛かった。
否。辛かっただなんて生温いよね。
でもね。
今日誕生日を迎えて、34歳になる私は、その辛さを駆逐できる喜びを得ています。
だって。
様々な場所で、多くな人たちと出会って。
辛さを飽和できる程の、温もりと優しさに満ち溢れているのですから。
そんな思いを抱きながら、今日この日、34回目となる誕生日を迎えることとなりました。
大分纏まりのない記事となってしまいましたが、今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
どんな形であっても。
終わった時に笑った者勝ち、だよね?
【生き方・価値観】時に人は、地面を見続けているのかもしれない ~たまには、空を見上げて~
今年も、早くも半年が過ぎ去ってしまいました。
普段なら「もう半年か」と感慨と寂しさを覚える所ではありますが、今年はどうやら少し違うようです。
率直な感想を述べるとするなら、そうですね。
長い。兎にも角にも長い。
いつまで続くのだろうか。大それた考えすら頭から離れないまま、これまででも特別長い6月でした。
新たな月を迎えながらも、気疲れと疲弊感を覚えている、今宵です。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
久方ぶりとなる投稿ですが、その間も、とてつもなくシンドイ日々の連続でした。私にとって精神的に、心にとっても悪い事態が連続したばかりに、自分と向き合う時間すらまともに取れない程でした。
何もかもが鬱屈で。全てが煩わしくて。世の中全体に、すっかり疲れ切っていました。
そんな環境で、安寧な日々など訪れることは、遂にありませんでした。
正直な所、本気で「これはいよいよ限界かもしれない」と思うほど追い込まれていました。毎週のように週末間際は急な休みを取り、早退する日が続いたことは、紛れもない事実でした。
食事も時間と共に喉を通らなくなっていき、睡眠も薬に頼っているにも関わらず数時間おきに起きてしまい、まともに疲れを取れない。
本当に、何もかもがギリギリの状態でした。
これだけだと、「なんだうつ病の波じゃないか」と腹を括り、これまでの経験と自負で乗り切るだけの自信がありました。
あった、はずでした。
どうやら私は、自分の弱さを軽んじていたと共に。
こんなにも弱くて、情けなくて、どうしようもない脆い人間なのだと思わされることとなりました。
周りを見れば、皆笑っている。本当の笑みか愛想笑いかは、判断も付かない最中。
それでも、「どうして皆、そんなに笑っていられるんだ?」という疑問だけは -邪推もない、純粋な思いで- 鮮明に浮かんで。
そうすることもままならない私自身を恨むように、罵るように、絶望するように見続けていました。
折れないようにする為、抗うつ薬の増量と睡眠薬を新薬に変えて、ひたすら耐える時間が経つ、そんなある日でした。
今年の梅雨は梅雨空らしからぬ、夕立と見紛うような激しい雷と大雨が連続する、ある意味特異な空模様でした。
今日も雨か。それも会社帰りのタイミングで。早く止めよ……そんな気怠さと鬱屈さをお供に帰路に着いた、その時でした。
珍しく、帰社時に辛うじて雨脚が弱まり、薄っすら夕日が雲の合間から覗いていました。
本当にたまたまでした。雨が止んだ空を、偶然ながら見上げた私は、不思議な感覚に入り浸っていたのです。
空って、こんなに雲が浮かんでいたっけ?
曇って、こんなに早く形変えたっけ?
空、こんなに綺麗だったかな?
その瞬間、私はどこまでも広がる空を見上げながら気付きました。
最近、空を見上げたことってあった、と。
いつも憂鬱な気持ちに引っ張られて、代わり映えのない地面しか見ていなかったんじゃないか?
ひたすら地面ばかり見続けてばかりで、少しでも何かを変えようとすることを忘れよとしていたのではないか?
いや、寧ろ。安定した地面を見続けることで、変わろうとしたり変化したりすることを怖がっていただけだったんだ。
そう思ってから、地面から視線を上げて空を見るようになりました。
帰路で使う新幹線の車窓から、雲から少しでも出ようとする陽光を見上げて。
後光の溢れる日差しが、私には眩し過ぎる時もあったけど。
それでも、陽の光はどこまでも私を惹き付けて。
昔の、ヒビだらけの殻に閉じ籠もろうとしていた私を、ひたすらに魅了し続けていました。
そこまでして、ようやく思い出しました。
車仲間の一人が、「辛い時でも、空を見続けることを心がけている」という言葉を。
そうすれば、自ずと状況は変化していくことを。
譬えそれが、良い方向にも悪い方にもなろうとも。
少なからず、現状を変えることができるということを。
以来、沈みに沈んだ私の心が動いていると。それに応じて精神も揺れ動いていることを感じ始めることができてきています。
少しずつ、ほんの少しずつではありますが。
休日の終わりには、愛車と共に晴れ渡った空を写真に収め。
またある時には、車検を終え心身ともに綺麗に仕上がった愛車と、流れる雲が漂う空を撮影しました。
何気ない景色だと思っていた、空。調子が良い時は、見上げても何も思わないことがほとんどなのかもしれません。
しかし色々と参っている時程、人は空を見上げることはないのではないかと思うに至りました。
周りに気負され、圧迫され、生きる気力を失えば失う程、視線は自然と地に落ちているのではないか。
そんな時こそ、たまにでいいから、空を見上げることが必要なのではないか、と。
そうすることで、特別何かが劇的に変わることはないのかもしれません。
でも。
滅入った気持ちと共に目線を地に向けるよりは、常に変化し続ける空を見上げることで、何か得られるものはあるのではないか。この一ヶ月程で、改めて私はそのように思うようになりました。
きっと人は、余裕がない時ほど変化を嫌うのかもしれません。どれだけ辛くても、苦しくても、我慢すれば何とかなるという思いが、時に地面を見続けることに繋がっているのかもしれないと私は考えています。
然れど、そんな時こそ空を見上げれば、雲の形が動物のように見えて面白く思うこともありません。
陽の光が眩しいと、目を細めることもあるかと思います。
暑さのあまり、太陽を憎むこともあるかもしれません。
それでも、変わることを嫌う人間に。特に、私のような人間には。
目的はなくとも、たまにでいいから、空を見上げることが、薬よりも良い影響を及ぼすこともあるかもしれない。
そんなことを思う水無月が終わり、暦は文月へ入りました。
梅雨明けはまだ先になりそうだという予報はありますが、どうやら私は、何とか浮上することが出来始めているような気がしています。
どうやら気分屋で移気の激しい私には、変わり続ける空は大きな影響を齎したようです。
自分語りばかりになってしまいましたが、最後に。
最近、地にばかり目を落としていませんでしょうか。
貴方が最後に空を見上げたのは、いつでしょうか。
空を見上げた時、何か感じることはありましたでしょうか。
朝でも、昼でも。夕や夜でも良いと思います。
皆さんも、気が向いた時に空を見上げてみてください。
心のどこかで引っかかるものがあるのなら、解消できたり感じ方が変わったり。
引っ掛かりや鬱屈した思いが、取り払われるかもしれません。
これは精神が硝子で、メンタルがお豆腐な私からの、細やかな思いと願いと捉えていただければ幸いと思いながら、締めとさせていただきます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【生き方・価値観】収まらない激情と、落ち続ける自分
【注記】
本記事では内容のない、愚痴に塗れた私の思いを綴っております。
思考を捨てグチャグチャになった頭の中を、ひたすら整理する目的で書いています。
このことに同意していただける方は、このままお読みくだされば幸いです。
【注記終了】
2021年、早くも半年が過ぎ去りました。
令和という新たな元号が始まり、日本を含めた世界は新たな時代へと踏み出すと思っていた矢先のこと。
新型コロナウイルスという驚異により、逆に文化や文明が退行しているように思えるのは、私だけでしょうか。
この文章を書いている今日は、祖父の十三回忌となるだというのに、向こう側で待つ祖父母は今の日本を、どう思っているのだろうと答えのない答えを求める今宵です。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
冒頭からこのようなことを綴っている私は、最近精神やら心の安寧をすっかり忘れてしまったかのような毎日を送っています。
仕事では、押し寄せるかのようにやることづくめ。元々目の前のことに没頭し集中して片付ける私にとって、順番を付けて処理することが苦手な毎日が心を削っていきます。
プライベートはというと、これまで友と共に駆け巡って参りました。しかしながら、それを記事にすることもできず、休日は只々疲れ切った脳を休める為に寝床に横たわる日々ばかりです。
合間に、出るのは溜め息ばかり。親しくしてくださる会社の人たちと話すことすら億劫になる自分。
生きるための金。そうやって自分に言い聞かせて久しいのに、それでも他人を無意識に気遣っている自分がいる。
ほとほと、元来持ち合わせてきた私の性格やら行動指針が嫌になって仕方ない。
人生、良いことは本当に少ない。嫌なことが大半。
だからこそ過去の思い出が支えになると信じてきた私が、最近馬鹿馬鹿しくなって思えてどうしようもない毎日です。
そしてその思い出すら記事にできずに、時間を浪費する私自身に、憤り、呆れを覚えて久しくあります。
いつから、かな。こんな風に自分を蔑む日々が続いているのは。
うつ病を初めて発症して、本気で自分で自分を殺そうとした、あの日以来かもしれない。
あの時と同じように、無駄に過ぎ去る日々を享受しながら、それでいながら燻る感情を嘔吐するかのように吐き出したいのだろう。
そのように自分を客観視している時点で、私は大分おかしいのかもしれません。
上手くいかないことが、生きる上で、ある意味当たり前な今この瞬間でも。
それでもなんとかしようと、足掻くように、藻掻くようにしている自分に、一番苛立っている気もしています。
行き詰まり、息詰まりとも言えるこの世の中で、勝手な思いを押し通そうとして落胆して。湧き上がる激情を制御することもできないまま、結局何もできずに落ち込み精神的に落ち続ける自分が一番許せない。
信じる者は救われる。努力は報われる。明けないトンネルはない。止まない雨はない。
きっと、今の私にはどの言葉も響かないと思っています。十数年前の汚れた現実を前に、諦めてしまったこともありますが。
兎にも角にも、今は抱える思いを吐露することもなく虚無一色な24時間、その連続を繰り返していることに変わりはありません。
夜を迎え、寝床に着くことも。朝日が昇り活動を開始しなければならない。そんな当たり前のことですら、ひたすら「面倒臭い」という思いを忘れることができた日は、ここ最近全く訪れずにいます。
ブログでも、書きたいことは沢山あるのに。
様式だけ作っては、ほったらかす時間がすっかり増えました。
五年前、今の愛車「Lupus」と出会って変わったと思えた自分は。
結局、何も変わっていなかったことを噛み締めています。
何の為に、生きているんだろう、私は。
その答えは、人が教えてくれることではないとわかっていながらも。
心の中では、一度見限った誰かに救いを求めている。
私は、強がっているつもりでも。いつまで経っても、弱いままだ。
【生き方・価値観】様変わりする人間関係 ~立場が変われば、所詮……~
なんだか台風が接近しているかのような、荒れた気候が続いていますね。
舞い上がる砂埃、唸る風、揺れる木々。
まるで現代を象徴しているように、荒れに荒れている。そう思えてなりません。
はい皆さん、こんにちは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
新型コロナが職場で発生して以来、相変わらず安定しない日々を過ごしております。世間で大騒ぎになっている騒動が、一度身近で起こると、混乱と不安を簡単には拭えない。
身体的にも精神的にも、シンドイ状況が続く毎日です。
これは、人間関係をより悪化させる要因の一つとなっています。そして、自分をシンドくさせるという負の連鎖となって私を苛ませています。
今回はこの、人間関係について改めて思うことが度々あった為、記事として綴って参ります。
立場、状況に変化があれば、それまでの人間関係など簡単に崩れ去ってしまうこと。一度壊れた関係は、修復することはほぼ不可能であること。
最後は、様変わりする人間関係を自らどうにかしようと努力することをやめてしまうことを、経験談を交えながら、書き連ねて参ります。
立場が変わる事による人間関係
これは主に仕事で起こり得ることかと思います。
例えば、平社員だった人が昇格して役職という肩書きを得た時。元々主任や主査という役職持ちだった方が、更に昇格して課長や部長という、より大きな責任を担ぐ立場になった時。
或いは何十年と会社に勤め上げ、定年を迎えて契約社員として新たな社員生活が始まる人。
前者の場合は昇格祝として喜ばれ激励される、後者は感謝と労いの言葉と共に改めてよろしくお願いいたします、というのが多いかと思っています。
でもそれは、飽く迄「表向き」のやり取りだと、私には思えてなりません。
というのも、それから繰り広げられる人間関係の、どうしても昏い部分が見えてしまう為です。
役職を持てば、会社から貰えるお金が増えます。同時に新たな仕事が増え、責任も大きなものとなっていきます。
上層部からはあれやこれやと注文が増え、下々からは「どうすれば良い?」と行動指針や仕事の振り分けを求められます。
こうなると板挟みとなり、その人は身体的にも精神的にも非常に圧力がかかることとなります。
実際私の職場でも、そのような人を何人も見て参りました。
昇格した途端から前任者から引き継ぎされ、右も左もわからない状態で仕事をこなしながらも悲鳴や苛立ちの声を上げていました。
時には衝突するかのように「それはお前が決めてやって良いんだよ、主査なんだから」「いや俺だって、わかんないんですって!」「いやだから、さっき説明しただろ!お前が率先して調整すれば良いんだよ!」といった怒号が応酬したこともありました。
逆に正社員だった人が任期満了で契約社員となった瞬間も、人間関係が崩れた瞬間をつい最近、目の当たりにしてきました。
少なくとも私が務める会社では、契約社員は給料が下がってしまいます。反面、ある意味で責任や周りからの圧力から解放されることで、言いたい放題やりたい放題になります。
3月の終わりまで、仕事のやり方やノウハウをフル稼働させ、「私にはとても、この人のように仕事できない」と畏怖の念を抱く程だった方がいます。
それが4月を迎え役職を失い立場が変わった途端。
冗談交じりとは思いますが、「もう契約社員だから、主査の仰せのままに」と現役の正社員にプレッシャーを与えるかのような言動を振りまいて、それまで見られなかった薄ら笑みを浮かべながら伸び伸びと仕事をこなすようになりました。
当の本人からすれば、様々な葛藤や威圧から解放されたことで、余裕が生まれ活き活きとしているとのだと、個人的には思います。
私から見れば「それってどうなんだろう」と疑問しか生まれませんでした。
良く言われるのが、各社員に向けて上層部が「同じ会社に務める仲間」だとか「社員同士の絆」といった言葉があります。
それって言葉にした途端、どうしようもなく安っぽく聞こえるのは、私だけでしょうか。
理想?かはわかりませんが、現実は形振り構わず動き好き勝手言い放つ人が、あまりにも多い。
それを仲間だとか、絆がだとか、そんな安っぽい言葉を使って洗脳地味たことをされても、私には響きません。
第一、です。
仲間や絆って、言葉に出すものではなく。
言わなくても自然に感じ取ってこそのものだと、私は考えると共に信じています。
だから余計に、人間関係の現実と理想(?)の乖離が目に見えることに、違和感と不快感を覚えているのかもしれません。
非日常が齎す、人間関係の変化
昨今、新型コロナウイルスの感染拡大によって、これまで日本という国が培い守り続けてきたことが崩れ去ろうとしています。
現実では新型コロナウイルスの魔の手に掛かり、療養を余儀なくされる方々がひっきりなしに出ております。
亡くなられた方にご冥福を申し上げ、治療に専念されていらっしゃる方に逸早い回復をお祈りする、その一方で。
個人的には人災と言えるこのウイルスが、身近で感染した際のことは、前回の記事で綴らせていただきました。
陽性反応が出た社員も、今は無事、全員復帰するに至っています。
闘病生活は苦しみと険しさが凄まじかった、というお話しを伺っていますが、後遺症もなく職場に戻ってくださったことは、只々安堵とお祝いを申し上げるところでした。
しかし、です。
その後のやり取りを見ていく内に、不穏とも疑念とも取れるものが見え隠れすることが、私にとって我慢ならないものばかりでした。
最初に思ったのが、陽性反応が出てしまった社員との会話や仕事上でのやり取りに、どこか「ぎこちなさ」を感じたことにあります。
このご時世、新型コロナウイルスに感染してしまうことはある程度仕方がないことなのではないという思いが、私の私見です。
実際に感染しながらも戻ってきてくださった方々との間に、妙な距離感を置く社員がいることが目についてしまったことが始まりでした。
仕方がない、と言われればそれまでではあります。ですが私には、それまでとは違う距離の置き方が気になり、仕舞いには「これってどうなのよ」と疑念を抱くこととなりました。
互いに、どこか遠慮気味に話しをする様子。上層部はと言えば、身体を考慮してという名目での事務所内での庶務を命令。
挙げ句には、事業所の長たる御仁が「療養ご苦労さまでした」という信じられない言葉を投げ付ける始末。
いや、その言葉は幾らなんでもおかしいだろう。他人事にも程があるだろう。
その瞬間、行き場のない怒りと憎しみが込み上げたことを、今でも覚えています。
他人事だし、社交辞令を含んだことだと思う方もいらっしゃるかもしれません。
ですが私には、とてもではありませんが許容することはできませんでした。
どうしてそこまで移入してしたのか、と思慮していく内に、答えはすぐに見つかりました。
これは、「表向きには」体の良い対応だとしても。
中身は新型コロナウイルス感染者を対象にした、人格否定とまでは行かずとも排他的な意思のようなものを感じずにはいられませんでした。
そんな極端な……と思う方もいらっしゃるかもしれません。
ですが私には、既視感を覚えるような経験を経ています。
それは、イジメです。
何気ない日常の中から顕在化し始める、ある特定の人間を排除しようとするヒトの悪意。顕在化から表面化を経て、悪意と憎悪の塊と化していく、悪しきもの。
私にはどうしても、様変わりし人間関係の悪化とイジメを解離して考えることができなくなりました。
そこに、明らかなヒトの負の感情が存在していたことは、多分事実だったから。
そう思った自分を、信じたい。
築き上げられた人間関係も、所詮は……
救いも信じるものもないこの世の中を生き抜くために、人間関係は切りたくても切れないもの。その事実は、私も認識しているつもりです。
でも。
ほんの些細な出来事であったとしても、それが発端となり綻びが生じ始めた瞬間から、人間関係は一気に様変わりしてしまうことを「改めて」実感しました。
信じていたのに。味方だと思ったのに。
そういった思いは、もしかしたら自分を安心させたいだけの感情の動きなのかな、と考えるようにもなりました。
こんなことを言うのも難ですが、自分は自分、他人は他人という言葉が的を得ていると確信したとも言えるのかもしれません。
どれだけ長い年月を経て築き上げてきた関係でも、少しの変化で一瞬にして壊れてしまう。そこに未練やら悔恨は、多分存在しないと私は思っています。
そんなことを言ってのけてしまう自分が、寂しい生き物だなと自嘲して。
心の片隅で、誰かに頼りたい。そんな甘ったれた気持ちを同時に抱いている私が、憎くて、汚らわしくて、無様と自分自身を貶しながら。
音を立て吹き抜ける風の中、雲の中薄っすら見える朧月を、独り眺めています。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
裏切らないのは、車と機械と動物だけなんだと思う、自分が見窄らしい。
それでも、そういった共通点で仲良くなった人と、いつまでも共に過ごしたい。
利己主義の中に救いを求めている私は、いつまでも、どこまでも弱くて醜い存在だ。
【コロナ禍・人生】如何に「普通」に生きるか
東京五輪・パラリンピックまで秒読み段階、といった時期になって参りました。
しかしまあ、世論では歓迎どころか、言い方は失礼ですが「そんなことやっている場合か」と怒りを通り越して呆れの声に溢れ返っています。
マスコミでは「悲観的」とやんわりとした表現を用いていますが、実際はコロナ禍を終息させずに何を戯言を……といったところが本音ではないでしょうか。
首都圏や大都市だけでなく、地方でも新型コロナの感染拡大第四派が到来しているのに、政府の御仁は本当に色々と欠如しているようですね。命やお金の危機感やらが。
そんな方々の、お願いに重なるお願いなんて、もう誰も聞いていませんよ?
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
前回の投稿から、一ヶ月近く経っております。
この間、様々なことが一気に目まぐるしく起こっておりました。
事の始まりは、4月の頭。新年度の開始と同時に組織の新体制の元、業務が始まった矢先。
担当内で、新型コロナの陽性者が出た。
上司からの、唐突の通達でした。
即座に退社命令、翌日は特別消毒の為フロアの全封鎖。この間も陽性者との接触者を洗い出す為に、幹部クラスの人たちは阿鼻叫喚の悲惨な状況だったそうです。
そして、翌週の朝。陽性者と共に出張したか、社用車での移動は一緒だったか、座席位置から半径2m以内だったか。
これらを鑑みて各社員に通達が行われ、私は一週間の在宅勤務を命じられました。
この結果は、ある程度予想がついていました。
私は2週間前、陽性反応が出てしまった方と泊出張で出かけていたからです。
但し、濃厚接触者ではなく、飽く迄「暫定接触者」というよくわからない位置づけをされ、PCR検査の対象外とされました。
でも、実際の私はかなりの不安に苛まれていました。
自分が新型コロナに感染しても、それは仕方がないという思いはありました。これは、一年前から変わっていません。
しかし、身内へ知らぬ間に感染させてしまったら……という見えない恐怖だけは、コロナ禍になって以来最大のものでした。
身内は基礎疾患を持っている者ばかりなので、もし陽性者になってしまえば、最悪の場合は死ぬ。
それが、ウイルスを持ち込んだ私が原因となれば、私自らが殺したも同然になる。
誇大妄想かもしれませんが、そんな不穏と怖さが付き纏い、まともに在宅勤務をこなすことなどできずにいました。
拍車を掛けたのが、先に述べたPCR検査対象外ということにありました。
幾ら保健所の指導と言われても、仮に感染していても無症状だったら、どうすればいいんだ。
症状がなければ、医者にも行けない。その間にも誰かに移してしまう可能性も0ではない。
自分は、本当に在宅勤務止まりで良いのだろうか。
そのような混乱と揺れに揺れる心。しかし、時間はゆっくり、確実に過ぎ去ります。
指定された出社停止期間の終わりが近づき、いよいよ出社前夜となった時。
携帯に、上司から連絡が入ってきました。
新たに感染者が二人出た
その言葉を聞いた途端、短い言葉を返す声さえ震えていたことを覚えています。
これまで全国の新型コロナ感染者のニュースを見ていた時は、「あぁ、また増えたか」「なんだか、もう唯の数字だけだな」と、他人事でしか見ていない自分がいました。
それが、身近で起きたらどうなるか。
醜く、みっともない程の萎縮と不安を暴露する体たらくを晒す様でした。
結局、新たに陽性反応が出た方との座席位置が2m以下だったということで、更に一週間出社停止、引き続き在宅勤務という結果に落ち着きました。
が、これまでの在宅勤務から引き続き、始まりに過ぎなかったのです。
以前、このような記事を投稿いたしました。
この時は新型コロナが流行し始め、会社も政府の要望に応えるべく出社率を下げる目的で在宅勤務を勧めていた時期でした。
当時、私は煩わしい人間関係に長らく辟易していて、ようやく解放されたとぬか喜びしていたと記憶しています。
その思いは、今も変わらずにいることは事実です。不要な人付き合いにはもう飽き飽きしていますし、一人でいられる時間が大切な私には、失礼ながらも有り難いことだからです。
然れど、そんな時間が長く続くと様々な面で不調が生じることとなりました。
私が務める会社は基本現場の業務です。専用の端末や設備の運用保守は現地でしかできませんので、在宅勤務でできることは本当に僅かです。
一日中パソコンとにらめっこしていても、何一つ成果をあげることができません。
普段であれば、一日が終わる度に「今日の仕事、終わったな。明日も何とか乗り切ろう」というモチベーションの維持ができていたのが、それができない。
要するに、やる気もさることながら、気持ちのオンオフができなくなる。結果的に生活が平坦になり過ぎて、感情が死んでしまいます。
結果的に、日頃の疲れやストレスを車やブログといった趣味で溶かすという習慣が消失していました。
生きているのに、行動が制限される。これは生殺しされながら監禁されていることと同じように感じてなりませんでした。
外出禁止という訳ではなかった為、休日は普通に出かけて洗車や外食を楽しめたことは、それでも幸いなことでした。
そしてようやく、迎えた4月の最終週。出社停止が解除され、久方ぶりの出社日。
今まで何気なく通勤を共にしていた人たちと顔を合わせ、会話して。
職場に着いてからも、互いの無事を喜びながらも他愛もない雑談を交えながら、溜まりに溜まった仕事をこなす。
たかが二週間、然れど二週間。
数ヶ月も会社に来ていなかったかのような錯覚を感じる程でした。
しかしながら、感染した3名は出社日未定のまま。逸早い回復を祈りながら、在宅勤務明けの出社を終えるのでした。
人間は、本当に自ら体験しないと学ぶことができない生き物であると、改めて認識することとなりました。
誰に責任があるとか、誰が悪いとか、そういうことは本当にどうでも良くて小さい話なのだなということも、再認識しました。
そして、如何に「普通」で「普段通り」の生活ができることがどれだけ有り難くて大切なことなのかを教えてくれたと、私は胸に深く刻むのでした。
最後に、一つだけ。
五輪強行開催しようと慌てふためく、政府と組織委員会とIOCの御仁方。
お高い給料と満額ボーナスを貰っておきながら、このような凄惨な庶民の生き様を見ていらっしゃいますか。
感染者が増えたか減ったか、人の流れがどうなったか、テストマラソンは成功に終わったか。
そんな目先のことなんかに、目を向けているのは愚行中の愚行ですよ。
伝わるとなんて思っていませんが、いい加減自分たちが何をしようとしているのか、もう一度考えてください。
それが無理なら、庶民が味わっているこの苦境と同じ立ち位置に立ってください。
まずは、新型コロナの猛威を身を以て知ってからだ。
五輪五輪なんて、夢物語を語っている場合ではないだろう。
貴方方の頭は、単なる飾りか本当に腐っているのか?
人として、もう一度やり直せ。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【車・趣味】早春の東北へ ~生に命を賭す、狐の神性~
つい先日、ニンテンドースイッチとモンスタハンターライズを購入いたしました。
モンハンを最後にプレイしたのは、PSPの「P3rd」以来。10年以上のブランク、そして様々な進化に戸惑いながらも、ほぼ毎日遊んでおります。
ブログの更新が進まず、煩悩に悩む日々が続いています。
操虫棍 楽しいです。長柄武器は正義です。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
さて、既に二ヶ月が過ぎようとしている、蔵王キツネ村での狐たちとの出会い。
同じ狐であっても、様々な容姿を持ち生を全うしようと駆け回り、他を威嚇しながらも。
個の威厳と生き様を、私たちヒトに焼き付けてくれました。
今回はその中でも、一際目立ちながらも野生の狐として逸脱した姿を魅せてくれた、プラチナギツネを追いながら。
私がこれまで背負い、抱え続けた思いや考えが、理性を振り切って迸ったことを。
早春の東北の旅の締めとして、綴って参ります。
誇り高さの中に、優しさを秘めた白の狐
白い雪を背景に、それでも陽の光を浴びて輝く姿。
出会った瞬間から、このプラチナギツネから目を離せなくなっていました。
惹き付けられる妖艶さに似た美しい容貌。それを体現するかの様でした。
優しげな瞳が、見る者を虜にしてくれます。
振り向いたかと思えば、こちらの心を見透かしているかの如く見詰めてきました。引き込まれるようにシャッターを切るに切る私を他所に。
「ヒトの子は、滑稽な生き物よ」
冷めた微笑か、嘲笑いか。半弧を描く口元は、不可思議な魅力を秘めておりました。
片脚がなくても、生に命を賭す生き様
さて、このプラチナギツネ、前回少し触れましたが。
このように、左前脚を失っています。
憶測になりますが、ここ蔵王キツネ村はキツネたちが野生の如く自由奔放に暮らす場所です。身を丸めて眠りこける子がいる一方、園内のありとあらゆる場所から威嚇の声が響き、争いが絶えることはありません。
争いは、まさに闘争本能の塊と言って相違ない程の苛烈さ。甘噛みなんて生温い、容赦のない引っ掻きや噛み付きで本気で戦いっています。
そんな戦いの最中、左脚を噛まれたことで壊死してしまい、切除したか。
片脚のないその姿は、痛々しさ悲壮感を覚えさせる程でした。
然れど、野生を生き抜く者は強いということを、この子が教えてくれました。
雪に覆われた大地を、他の子たちと同じように駆け回り。
ほんわかお休みして。
夢現。
どこまで行っても、キツネとしての生に命を賭す生き様を見せていました。
それでいながら、カメラ目線もバッチリ。サービス精神とも取れるところは、まるで人間のよう。野に生きながら、人馴れしているようです。
気付けばこの子を追うように、カメラを向け続けていました。
白銀の身体と黒い耳、真っ直ぐな茶の瞳。脚がなくても懸命に、本能のままに生きる姿は、私を釘付けにしました。
我儘なまでの、しかしキツネの命を全うすべく強く、揺るぎない生き様は。
ヒトとは違う、特に迷ってばかりで生きることにいつまでも向き合えない、私のようなヒトとは。
人生に対し斜に構え続け、自分や他人を欺瞞し騙して生きる私自身が、あまりにも小さ過ぎることを思い知らされました。
そうしている内にも、時間は残酷なまでに過ぎ去っていき。
私たちはキツネたちの楽園を後にし、南に向かい帰路に着くのでした。
狐の神性に魅せられて
確かに初めてこの目で直に見たキツネたちは、獰猛で狡猾といった印象を持ちました。縄張りを守る為には躊躇うことなく相手を威嚇して、攻撃して。餌を貰っても必死の形相で駆け抜けて、目の付かない狭い場所で頬張っていました。
そうでなければ獲物を奪い合い、そこでも爪や牙で手加減無用の争いを繰り広げる、生々しく殺伐とした空気を醸し出していました。
この点については、他国で狡賢さの象徴としているのでは、と思い至りました。
然れど、その姿があまりにも人間に似ているような気がしてならなかったことも事実でした。
一つ違うことがあるのは、揺るぎない本能のまま、全力で生きる姿勢です。
私たち人間は、持ち得た理性によって大きく発展し、文明を築き上げてきました。
同時に理性が仇となり、利権や覇権、損得といった負の思いが文明を幾つも滅ぼしてきたのも、また事実です。
似ているようで、どこか違う。身体は全然違っても、どこか親しいものがある。
そこで人間、特に日本人は生きることに信念を持つキツネを神がかったものとしたのかなと思えてならなくなりました。日本人は精神を重んじる人種だと、私は考えている為です。
そういうことを加味すれば、見知らぬものよりも親しみを覚えるものに惹かれたキツネを崇拝するようになったのではないかと考えるようになりました。
勿論これは私の勝手な考えですので、キツネを神格視し始めた起源はわかりません。
ただ、一つだけ。
私が初めてキツネを見た時、可愛さを感じると同時に凛とした姿が。
何故か、この世のものではない気迫を帯びているように感じました。どう表現すればいいのか、正直今でもわかりません。
ですが多分、キツネがただの獣ではなく神の使徒とされた理由が、この名状できない感情に由来しているような気がしてなりませんでした。
狐の神性。
日本で崇められ、神格化され続ける理由が何となくわかったような気がしています。
最後は上手く纏められませんでしたが、これにて早春東北の旅は終了となります。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【車・趣味】早春の東北へ ~本能のまま生きる狐たちと、煩悩塗れのヒト~
日常の疲れ、ストレスを溶かし発散する旅行。
旅行中は日々を忘れて、時には我を忘れて楽しむことに全力を注ぎ満喫できます。
しかしながら、いざ旅を終えた直後の虚脱感と虚無感は、いつまで経っても耐え難い息苦しさを。
無意識ながら、それでも無意味な溜息ばかりを吐かせます。
車のオフ会等では「オフ会ロス」と呼称されることが多くあります。この記事を書いている瞬間の私は、そんな旅行ロスに見舞われ何のやる気も起きずにいます。
誰かと旅をすることによって、今まで感じることのなかった人恋しさのような感情が溢れ始めているのかもしれません。
あれだけ人が嫌いだったのに。憎かったのに。
胸を締め付け、頭を白く染め上げ、全身を駆け巡る空虚さ。
理解できないのか、はたまた素直に受け入れられないのか。
自分のことなのに、理解が追いつかずにいます。
ただ。
わかるのは、ひたすら息をすることが苦しい。
自分の中でも、この感情が苛み、油断すれば泣き出しそうな思いに打ちひしがれております。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
開幕早々、私が抱える思いを吐露してしまい、申し訳ありませんでした。
さて、気持ちを切り替えて、蔵王キツネ村での狐たちを引き続きお届けして参ります。
本能のまま生きることに向き合い続ける、狐である彼ら彼女らの姿。
時に全身全霊を賭して戦う様を見せつけながら、一方で気品に溢れた気高き美しさを見せ。
または、開店休業と言わんばかりに弛緩し切った様子すら見せてくれる狐たち。
こちらも本能のままカメラを向け続けた、有り体な生き様を、皆さんと共に見ていきたいと思います。
※注記※
本記事は人間に対する、個人的な私情が薄汚い罵りという形で表現しております。
ご覧いただく方によっては、不快感や嫌悪感を抱く可能性があります。
誠に勝手ながら、本注記をお読みになった上で容認しかねる方はブラウザバックをお願いいたします。
その上でご意見等ございましたら、問い合わせフォームから直接お言葉を頂戴できれば幸いです。
また本記事は写真を多く掲載しております。スマートフォンを用いていらっしゃる方は、何卒ご容赦願います。
※注記終了※
緩み切った姿、鋭い眼に思いを見せるホンドギツネ
園内でも一番多く、動き回り静かに休む姿を魅せてくれたのは、金色の毛並みを纏うホンドギツネでした。
雨雲の合間から漏れる陽の光を一杯に浴びて、温まりながらリラックスしています。
その奥の小屋では。
身を丸くし、もしくは脚を放り投げるかのようにお休みモードに突入しています。
そこには、ただひたすらに。
誰から教えられた訳でもない本能の中に、緩急が根付いていました。
それを見る、私たち人間はと言えば。
幼少期から、教育という名目で教えられ。
日本という、古い慣習が今も尚根付く社会に適合するように矯正されることが平然と行われています。
個性や多様性といった、如何にも世間受けしそうな用語をチラつかせながら。
その実は、どうだ。
少しでもはみ出た者は異物扱いされ、排他される。
友達として認め合った中でも、状況が変われば一瞬にして裏切って。
ゴミ扱いされることが、今でも平然と行われている。
何が教育だ
何が友情だ
何が、協調性だ
少なくとも私は、知っています。
汚れ切ったヒトの。ほんの僅かでも疑念を呈しながらも、それでも生きようとする者を消そうとする腐敗した慣習を。
そんな腐りに腐った思想など、私は認めません。
喩え薄汚れようとも、素の笑顔でいられる環境すら作ろうとしない奴らなど。
どんな立場であろうと笑うことも許さない状況に追い込むような連中は。
私は、喩え同じヒトという種族としても認めたくない。仲間だとも思いたくない
ヒトなんて、野生を生きる狐たち、動物たち以下だ
理性だけが成長して現実を見ようともしないヒトなんて。
汚らわしいだけだ、ヒトである私もお前らも
申し訳ありません。
思いのまま、罵るように溢れた言葉を、思いを我慢することができませんでした。
命を繋ぐ。
その為に生きる狐たちを見て癒やされながら。
一方で、未だ募る感情が溢れ出て止まらずにおりました。
カメラのファインダー越しに映る眼差し。外界を許容するような。
いや、違う。
私たちヒトを前にし、見据える瞳の奥。
「生きることに悩むなんて、バカみたいだね」
嘲笑うように見えて、澄んだ視線を受けて、私は何も言い返すことはありませんでした。
だって、その通りだから
鋭いながらも柔和な眼光。
その先に立つ私たちヒトを見据える、縦長の瞳孔。
シャッターを切ることしかできなかった私に、彼ら彼女らの言葉が聞こえてきた気がした瞬間でした。
「ま、どうでも良いんだけどさ」
薄ら笑みとも見える、半開きの瞳、円弧を描く口元。
まるで居合わせる私たち人間の気持ちを見通しているかのようとも思える仕草の数々。
シャッターを切りながら、狐として生まれた彼ら彼女らを見ている内に。
凛とした顔と、汚れなき毛並みのその姿は。
葛藤と欲に塗れたヒトとして生まれた私には、余りにも眩し過ぎました。
何故だろう、大好きな犬科の動物を目の前にして喜んでいる自分がいるのに。
どうしてか、虚しさと悔恨に似た感情が溢れる自分もいました。
野生を生きる狐たちを見て、癒やされている。そのはずなのに。
彼ら彼女らに魅了され、引き込まれるに連れて、強まる思いを無視できなくなっていました。
解決もできない感情や思い、様々な考え欲に飢えた人間なんかに生まれたくなかった
詰まらない保身と利権を追い求め、上っ面の付き合いしかできない生き物なんかに。
狐として生まれ、生を全うする様を見せる彼ら彼女らも、生きるか死ぬかの瀬戸際を進み続けるしかないのかもしれません。
でも。
お休み寸前の大欠伸をかいて。
弛緩し切った狐たちを見ていると。
生きる上でほぼ緊張と理性を保たなければ、たちまち異端扱いされる私たちヒトとは次元が違うことを認識しながら。
それでも。
本能のまま生きる彼らが、彼女たちが見せる姿は、私には羨望を募らせるばかりでした。
しかしそれでも、何とか理性と、人間として生きる辛さを和らげてくれたのは、隣にいてくれる親友という存在が大きかったことにあります。
仲睦まじく、寄り添う狐たちの寝姿を共に見て、カメラに収めて、各々の言葉を交わし合える存在。
孤独でも良い。独りでも構わない。そう思い信じ込んで生きてきた私に。
偶然であっても、今や共に旅をし話が弾む盟友と出会えたことは、幸いを通り越して幸せになることとなりました。
「狐って、こんなにゆったりしながら過ごしているのですね」
そう呟いた私に、頬を緩ませ柔和な笑みを浮かべる友と共に。
私たちは、狐たちの楽園を堪能していくのでした。
漆黒の中に銀の毛並みが美しい、銀狐
狐色と表現される、ホンドギツネが自由奔放に行き交っていきます。
カメラを構える私たちヒトを前に、素知らぬ顔で「ちょっと通りますよ」と駆けていく狐もいました。
蔵王キツネ村でも圧倒的多数を占めるホンドギツネの中。
狐の仲間でありつつ、一際目立つ毛並みを持つ子もいました。
その一つが、こちら。
背景のホンドギツネとは明らかに異なる、黒い毛並みの中に銀色の体毛を輝かせる子が出て参りました。
黒の中に光る銀色、ギンギツネです。
ギンギツネと聞いて、当初私も「全身が銀色なのかな」と勘違いしていましたが。
実際は黒と白(銀)が混ざり合う、陰と陽を携える姿。
同じ狐であっても、見た目だけで随分と印象が変わります。
どこか、物憂げに目を細める様も。
茶の瞳を煌めかせ、雪道を歩きながらも。
最後は他の狐たちのように身体を丸め、寝入っていました。
本能のまま生きているのに、どうしてこんなにも愛おしく思えるのだろう。
キツネ村を訪れてから抱え続ける、負の感情を携えながら、それでも私の頬は緩んでばかりなのでした。
無数の狐たちの中で、思わず魅了されたプラチナギツネ
理想郷。
束縛も 「当たり前」もない自由な世界に魅了されるばかりだった私がいました。
然れど。
ある一匹の狐を見た刹那でした。
毛並みの色も動き方も違う、この狐と巡り合ったことで「可愛い狐たちと戯れる」という意識が変わることとなりました。
ギンギツネとはまた違う、白を基調にしつつ様々な色合いの毛を纏う「プラチナギツネ」と呼称される子でした。
外見だけでも特別目立つ容姿を持つこの子を撮影しながら、活発に動く他の狐と何か違うと直感しました。
全力疾走し、時には威嚇し相手の首元に噛み付く程の野生を剥き出す殺伐としながら、或いは快活な他の子たちとは明らかに違う動きをしていることに直様気付きました。
何故なら。
この子は、左前脚を失っていました。
庇うように、引き摺るように動いていることが目に留まり追い求めていきながら。
プラチナギツネという生を受け、この世に生まれたこの子に、私は惹かれるかのようにその生き様をカメラに収めていくことになりました。
同じ種族に生まれながら、他と違う何かを背負いながらも生を全うしようとする様に感化されたかのように。
同族であるヒトに存在を否定され、同族に幻滅し諦めた私がその強き生き様を追い求めるかのように。
本記事は私情も重なり、申し訳ありませんでした。
今回はここまでとしたいと思います。
それでは、また次回まで。
【車・趣味】早春の東北へ ~狐はコンコン、実際は?~
久方振りに氷点下を観測した長野。愛車のフロントガラスは冷たい氷に覆われ、一歩外に出るとひたすら「寒っ」と意図せず口走る程でした。
衣替えも難しい、難儀な季節です。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
神秘的でありながらどこか懐古的な温泉街を堪能した翌日。
東北の旅の締めとなる、かつて頓挫した目的地へと向かい愛車を走らせる私たち。
そこは動物園とも違う、野生と本能のまま生きる動物たちの楽園でした。
今回は早春東北の旅の最後にして、計画性のない私が我儘半分で訪れた地を。
日本全国でも珍しい放し飼いをしている、初めて対峙したキツネたちの楽園について、綴って参ります。
撮影した写真が多い為、複数回に分けて記事にいたしますこと、どうかご容赦願います。
狐たちが悠々と過ごす、蔵王キツネ村
前日の疲れも癒え、迎えた朝は小雨が降り降りていました。
土とアスファルトが混ざり合う、酸っぱいような泥臭いような、独特の匂い。
大地を湿らせ潤す、小気味よい雨音。
どうやら私は、本当に雨の雰囲気が本当に好きなようです。
紫煙を吐き煙草を吸い終え、朝食を終えるまで少しバタバタするハプニングに見舞われながら、ホテルを後にする私たちは最後の目的地に向かい走り始めました。
以前一人で行くことを断念し(代わりにその時は、Loftとコラボした「BEASTARS POP-UP SHOP」で限定品を買いに行きました)、今度こそ計画し願いを叶える為。
日本各地にある動物園でも多少飼育されながらも、あまり引き立て役として紹介されない、狐たちが自由気ままなに過ごす場所。
数多くの狐たちが放し飼いされていると有名で、ある意味他の場とは異なる形で動物と触れ合うことができる、蔵王キツネ村。
山道を行くこと数十分、我々を迎えたのは。
……何故に、ゴリラ?物凄くフレンドリー、いや無駄に熱い歓迎の言葉を放ちながら。
狐メインなのに、ゴリラなの?どうして?何で?裏側には「制作費○百万」なんてリアルな事情が書かれていましたし。
園長さんの趣味なのか、悪ふざけか。私とたーぼぅさん、二人揃って吹き出すのを堪える衝撃的なお出迎えでした。
そしてこの看板です。
うん、言いたいことはわかる。わかるけどさ。
来園者が苦情でも言ったのでしょうか。
兎にも角にも、何ともキナ臭い場所かもしれないな、という思いを抱かずにはいられませんでした。
しかしその実は。
内園して、全てが払拭されることとなりました。
モフモフ毛並みの狐たちの、自由気ままな姿
日本では神や使い魔として崇拝される一方で、西洋では「狡賢さの象徴」「人を騙すことが好きな生き物」と、若干嫌われ者として見られる、狐。
文化の違いによって真逆の捉え方をされる、イヌ科の動物です。イヌ科でありながら瞳孔は猫のように細く縦長という所も特徴です。
それ以上に、狐と聞いて真っ先に思い浮かぶもの。
狐という生き物を知れば知るほど、結び付いていると言っても過言ではない、エキノコックス症という感染症です。
詳細は省かせていただきますが、万が一人間に感染した場合。
処置を誤れば肝機能障害を引き起こし、死に至るという恐ろしいものです。
この目で、狐に会いたいという思いがありながら、エキノコックスの存在を以前より知っていた私には懸念材料の一つでありました。
しかし蔵王キツネ村は人工繁殖をしており、定期的に動物病院と連携して検査を行うことで、感染症の元凶たる寄生虫であるエキノコックスを駆逐しているとのことでした。
娯楽施設の一つである動物園において、リスクを徹底的に排除する姿勢は園内の看板に数多く示されていました。
ひとまずの安心を得た私は、飼育員の方から諸々の注意を聴き、狐たちが過ごす地へと足を踏み入っていきました。
そこには。
モフモフとした毛並みに身を包み、動き回ったりお昼寝を堪能する数多くの狐たちが伸び伸びする情景が広がっていました。
園内はこんがり狐色、というよりも金色と呼んで差し支えない毛並みのアカギツネが無数に、のんびりと過ごしています。
撫でるを通り越して、思い切り抱き締めたい。
欲望塗れの私とは対称的に、どこか悟ったかのように目を瞑っているかと思えば。
半開きながら、その瞳はどこまでも遠くを見透かしているかのように凛と、鋭さを秘めていました。
ニヒルな笑みを見せるその顔は、野生ならではの強さからか。
睨みを効かせる様は、或いはヒトを殺めることなど容易いと、ヒトなど相手にしない余裕さか。
一瞬一瞬で形相を、行動を変えながら。
自由気ままであり、然れど刹那を懸命に生きる狐たちは。
癒やしを齎しながらに、何にも流されない姿を見せてくれるのでした。
鳴き声は「コンコン」と表現される狐、でも実際は?
閑話休題。
唐突ではありますが、「狐の鳴き声と言えば?」と問われた時。
皆さんはどのような答えを出すでしょうか。
子狐「〇〇」、山の中。
童謡にあるようにもありますね。
恐らく、多くの方が「コンコン」とお答えするかと思います。
犬は「ワンワン」、猫は「ニャーニャー」、狐は「コンコン」。
私も狐を生で拝むことがなく、実家近くの稲荷神社があることも相俟って、狐は「コンコン」と鳴くものだと幼少期から信じていました。
では、その実は?
まずはこちらの写真をご覧いただければと思います。
本能の赴くままに、相手を威嚇し敵意を剥き出している二匹。一触即発です。
別の二頭も、同じように牙を剥き出し声を張り上げていました。どこかのホラーゲームに出てきそうな形相をしていますが……。
さておき、両者とも臨戦状態にある中。共通でありつつ、これまで聞いたことのない声を出していました。
「カッ!カッカッカッカッカッ」
争い直前の狼煙、と呼べば良いのでしょうか。
相手を睨みつつ己の闘争心を掻き立てている。
自身を鼓舞している。そうとも捉えることもできる声。
唯ひたすらに眼前の敵を威圧し制圧しようとする、本能の塊。
そして。
「キューンっ!!キュンキュゥンっ、キュゥゥウンっ!!!」
犬と猫の鳴き声の中間を行くような、高い波長ながらも勇ましい闘争本能をぶつけ合う声が響き渡りました。
生きる為の、本能を戦う力に変えているかの如き咆哮。
放し飼いにされているとは言え、目の前で繰り広げられる命のやり取り。
狐はモフモフで可愛い。
そんな思いは、人間である私が勝手に抱いた思いに過ぎなかったことを思い知らされました。
命を繋ぐ為、生きる為、子孫を残す為。
手段を選ぶことなく、全力で立ち向かう狐たちを目の当たりにした私が思ったこと。
本能のままでありながら、でもしかし決死の覚悟を持って生きる狐たちは。
美しくて、高貴な存在だ
眼前の狐たちの生き様を、姿を、惚れる思いを抱えたまま見据え続けていました。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【車・趣味】早春の東北へ ~雪深き山奥で輝く、秘境の温泉街~
すっかり日暮れも遅くなり、夜の帳が下りるまでの時間が長くなって参りました。
同じ時間を、同じルーティンで、繰り返す毎日。それでいて日が長くなっただけでも、明るい夕焼け空を拝むことでホッとするのは、私だけでしょうか。
春は、もうすぐそこまで来ている。
ありきたりな思いと言葉ながらも、感じるものは、何度歳を取っても新鮮。
そんな予感と喜びに似た感情が私を包む日々が続いています。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
新キャラを、またもや作って参りました。アフレコ内容は相変わらずですが。
刀で全身武装し、髪型や色は現在の私に近いものを選んでみました。煙草も咥えてもらいました。
前座は、この位にして。
松島、瀬見温泉へ趣きながら。
地震や新型コロナの災禍により、その魅力を楽しめぬまま進む道中。
「期待しても、結局報われないのか」という、いつの間にか抱き定着してしまった私の思いが駆け巡り始めていました。
その矢先、圧雪と氷道に苛まれながら辿り着いた最終目的地は。
色々言いながら過去に縛られ続ける私を、厳かでありながら温かく迎えてくれるのでした。
今回は前回に引き続き、早春の東北の旅で邂逅した地で。
それまでのフラストレーションや不満が、余りに小さくて馬鹿馬鹿しく思わせた景色に魅了されたこと。
その満足感のまま宿泊地へ帰る途中、勘違いも思い込みも甚だしいとんでもない勘違い恥を露呈することとなったことを綴って参ります。
山奥に佇む秘境、銀山温泉
瀬見温泉で一息付くこともできなかった我々は、悪天候が続く山形県内を不完全燃焼のまま駆けていきます。
疲れと不満を抱えながら迎えたのは、雪かきもできず塩カルによる除票もままならない、か細く険しい県道。
対向車がすれ違えるかどうかかも怪しい、余りにも余裕なく頼りない道。
地理に疎い私は、車を走らせながら思うことがありました。
険しいを通り越した道の先に、相応の価値があるものがあるのだろうか。
口コミや噂での評価は高いと聞きながらも、実際は、情報に踊らされているだけではないのか。
そんな憶測が、如何に矮小で卑しい考えであったかを、すぐに思い知らされることとなりました。
雪の中、ぼんやりと灯される灯り。アニメの世界か何かに入り込んでしまったかのような幻想的でありながら、一帯を包む温もりに似た柔和な雰囲気。
険しい冬道を抜けた先に佇む、銀山温泉。
口コミを始めとする情報は、飽く迄参考程度に過ぎないこと。
現地入りして初めてわかることは、沢山ある。
それを、この身を、肌を通して理解した瞬間でした。
日本一予約が取れない温泉地
話によると、銀山温泉の宿は日本一予約が取れない高級旅館が立ち並んでいるとのことです。
最低でも一泊2万円、シーズンや食事次第では5万円を軽く超えて参ります。
温泉街の間に流れる川のせせらぎ、生活音や雑音すら雪が吸収しているかのような静寂さ。宿泊客だけでなく観光客も多く歩く周囲は、それでも厳かさの前に心地好ささえ齎していました。
ガス燈を思わせる街灯も、雰囲気を作り出す為に一役買っています。溶けかかりながらも残る雪が印象的でした。
宿の方の遊びココロでしょうか。灯籠の上にアヒルのおもちゃが乗り、訪れる人たちをもてなしています。
昼間帯の暖かさから寒さが緩み、屋根から次々と雪の塊が落ち始めてきました。
万が一直撃すれば大怪我で済まない為、頭上に注意しながらシャッターを切っていきます。
そして、日が落ち。その時間が訪れました。
光が乏しく普通に撮ると真っ暗になってしまう為、即興で橋の欄干を足場としカメラを固定してシャッターを切ると。
日暮れ前の厳かさとは違う、綺羅びやかで見る者を圧倒する夜の街へと姿を変えていました。
江戸時代から続く、生きる摩天楼と表現すれば良いのでしょうか。
感嘆の声すら出せず、ひたすら溜息を零すことしかできませんでした。
かつては銀の採掘地としながら、温泉街となり復活した歴史を刻むそこは。
近代的、デジタル的なものを忘れさせる煌きと華麗さを醸し出していました。
修繕を経ながらも、今尚残り続ける風景。情報に塗れた現代人を、解放してくれる場所。
道中の雪や霰、コロナ禍による弊害を受けながらも辿り着いたその地。
単に美しいや綺麗といった言葉では言い表せない。
ですが、純粋にこの空気にずっと浸っていたい。
そして、またいつか訪れたい。今度は、願わくは泊まる為に。
いつまでも、この空気が、雰囲気が残っていてほしい。
勝手に訪れながら、身勝手な思いを残しつつ。
名残惜しいまでの思いを抱えながら、銀山温泉街を後にするのでした。
蔵王を巡り、とんでもない赤っ恥
生きることは、それだけでストレスと評されることもあります。
実際私もその一人で、人間関係に始まり「お金の為に務めている会社」がいつのまにか「会社の為に生きている」に変わりそうになった時期も相俟って、相当のフラストレーションを抱えていました。
銀山温泉の風景を拝み、すっかり心の葛藤やら苛立ちを溶かすことができた私たちでした。
その気抜けが、拠点であるホテルに近付いた際に珍事を引き起こすこととなりました。
今回取った宿は、白石蔵王のホテルでした。
実は、この「蔵王」の読み方を完全に勘違いしていたことに気付かされることとなりました。
以下、愛車内でのやり取り。(私を「白」、たーぼぅさんを「た」と表記)
白「長かったですね、やっと「くらおう」ですね。ここで(I.Cを)降りていいんですよね?」
た「え?くらおう?「ざおう」ですよ?」
白「は、はい?だって蔵に王だから「くらおう」でしょう……って、あれ。標識、「Zaou」って書いてある……!?」
た「蔵王スキー場とか、蔵王山麓とか有名じゃないですかww「ざおう」ですよ「ざおう」wwく、くらおうwww」
白「蔵王って書いて、どうやって「ざおう」なんて読むんですか!読めないですよこんなのぉ!」
た「(笑い声)」
白「会社の人に「くらおう」に行くんですよって言っちゃったのに……もう何、なんなのこれ死にたい」
た「もしかして、地理弱いですか?」
白「めちゃくちゃ弱いですよ。長野県ってどこの県と繋がってるんでしたっけぇ?(精神崩壊開始)」
た「菅生は読めるのに……ww 昔売っていたスパ王じゃないんだからww」
白「日清!くらおぉ~ぉぉおう(ヤケクソ)」
はい、蔵王を「ざおう」と読めずに生きてきました。スマホやパソコンでの変換も「くらおう」と入力して変換し続けてきました、はい。
地名は難しいんだよ本当に。読めないよバカぁ
宿に着き、遅めの夕食を、ラストオーダーギリギリのホテル内レストランへ滑り込んで摂ります。くらおう騒動で完全におっ壊れた私は、有無を言わずビールを注文して流し込みます。
後日、この話をした身内からは「あんたバカぁ?」と某人気アニメキャラばりになじられ。
旅行のことを話した会社の先輩は、終始苦笑い。
もう、あれです。くらおうがトラウマになっています。マジで本当に。
この日は形容できない景色に魅了され、他方で車内で爆笑しまくった珍事が合わさってか。
追加で購入したお酒を流し入れ、疲れと恥を飲み込みながら寝床に沈むのでした。
絶景と呼ばれる世界を、景色を見ることも。
抑え込んでいるバカさを表に出して、ハメ外して笑いこける時間も。
生きる上で、大切なことなんだと思いながら。
今回も最後までがお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【車・趣味】早春の東北へ ~行く手を阻む雪、続くコロナ禍~
待ってましたとばかりに降り注ぐ大雨。そして吹き荒れる嵐のような風。
3月の天候は、本当に気紛れにして破天荒。
コロナ禍に重なるように各地で起こる災害の数々、果たして高給取りの政治の方々はどういった政策を打ち出してくださるのでしょうか。
期待などもうしていませんが、ね。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
松島を後にした私たちは、次なる目的地を目指して県を越えて愛車を走らせるのでした。
残雪が積もる地で、私たちが見たものは、想像を凌駕する光景が待っているのでした。
残雪に道を阻まれながらも、山を超え、県を越える東北縦断
宮城県から伸びる国道をひた走り、いよいよ県境を迎えることとなりました。
道中では、太平洋沿岸の宮城とは異なる不穏で、冷ややかな空気が流れ始めていました。
道路状況を知らせる案内板には、凍結と降雪による通行注意喚起。道路脇に積み重なった白い壁。捨場もなく積もり積もった -最早、塊とも言える雪- を何とか除去しようと奮戦する除雪車。
山形県に入った私たちの前には、日本海側地域の、雪の地獄に見舞われることとなりました。脇道に積み上がった雪の壁は、優に2m弱。崩れ去れば大惨事という中を、普段以上に速度を落として進んでいきます。
私も雪国生まれではありますが、普段は雪が積もることはあまりありません。小学生位の頃で30cm程が私の記憶の中では多い方で、どちらかと言えば降雪後の路面凍結の方が脅威とされています。
そんな地域特有の常識が破られたのが、今から7年前、2014年。2月14日の夜から翌日に掛けて各地で大雪を齎した平成26年豪雪。この時は私の住む地域でも腰の高さ、90cm程積もった雪により交通網は麻痺し物流も停止。暖を取る為の燃料不足のみならず食料の枯渇という大災害に見舞われました。
子供の頃は、我を忘れて遊び耽ったものです。子供が思いつく遊びは、枠に捕らわれない自由と創造に溢れ、「早く雪が降ってほしいな」などと思っていたのも過去の話。
今では一日でも早く冬が終わることを願う歳になってしまいました。
兎にも角にも、大型重機を動かし生活路を切り開いてくださる方々に感謝しながら、辿り着いたのは。
ふかし湯として有名な、瀬見温泉。岩盤浴を少し緩くし、じっくり時間を掛けて疲れを取り、痛む箇所を吹き出る湯気に当てると効くとされる名所です。
前日の運転だけでなく、日頃からデスクワークに追われ腰の痛みに悩む私は、初めて訪れた温泉地での休息を楽しみにしていました。
未だ見えぬコロナ禍の終焉
が、しかし。
新型コロナウイルス感染防止の為、会員以外の利用を暫く休止します
無慈悲な言葉が、私たちの思いを砕く。
征く途中から降り出した雨が、いつの間にか霰に変わっていました。
あまりの衝撃に、私もたーぼぅさんも悲痛で嘆きに近い声を上げます。
新型コロナウイルス……いつまで蔓延って日常を侵食するんだ
いい加減にしろ、これ以上私たちの生活を邪魔するな
行きどころのない葛藤、怒り。そして無力感。
次に訪れた際には、絶対に満喫してやる。リベンジを誓いながらも、悔恨を残し渋々その地を後にすることになりました。
次の目的地を目指し走り出し、然れどそこには圧雪と化した雪道が立ち塞がります。冬装備の愛車とは言え、硬く凍り付いた轍の前には為す術もなくハンドルを取られ車体も滑るに滑ります。
県跨ぎの旅の疲れも、見え始め。
そろそろ、キツイな。
脳裏を過る負の思い。しかし目的地に着いた私たちを待っていたのは、想像を絶する光景でした。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
ようやく降り立った目的地。見覚えがある方もいるかもしれません。