【旅行・旅路】いつか見た風景 ~見たことのある、落ち着く景色~
スポンサーリンク
新天地での新たなる始まりから、早一ヶ月が経とうとしております。
仕事でもプライベートでも取り組む内容をじっくり吟味し自分の中に落とし込みを行うこと。その中から「自分に不要な要素」を排除しつつ日々の時間を送っていきたいというのが、私の基本的な生き方です。
がしかし、仕事は仕事。妥協という言葉はありますが、それを上回る理不尽さや不自由さを抱えさせるのが仕事というもの。お金という対価を貰っている以上逆らうことはできません、が。
それでも生きる為のお金を得るものが仕事であり、それに柔順することにはどうしても抵抗があります。
お金の為に、生きている訳ではない。
金か命か。皆さんは、その辺りをどうお考えでしょうか。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
都心への勤務が続く毎日ではありますが、駅構内や職場での人の奔流には未だに慣れずにいます。
郷に入れば郷に従え。
環境が変わればそれに順応し、慣習やらやり方に従うのが賢い生き方だと言われています。
私の場合と言えば、自我が強過ぎて「そのやり方って、どうなの?」と率直に思うばかりか。
これまでの運営方針が変わったばかりに、元々所属していた方々までバタついて転入者に手が回らない状況自体に、甚だしく疑念を抱く日々の連続です。
などと言いつつ、20歳代の若手が「もっとバリバリ仕事したい」とった意見を聞き入れ、最悪辞めるかもと相談されながら、正直そこは個人に委ねられるところが大きいと言わんばかりに曖昧な返答を繰り返しています。
そのような日々に疲れ、転勤早々ながらも今の内なら休みが取れることがわかり、この記事を書いている今は仕事を完全に乖離しております。
たーぼぅさんの誘いの元、旅行先である宿泊地でお酒を楽しみながら、後日訪れるイベントの開催に心躍らせています。
ここに至るまで、まさにドライブ日和と言って差し支えのない天候と陽気の中、愛車と共に道中を楽しんで参りました。
今回は、久方振りとなる旅行記を綴って参りたい所存です。
実家から複数の県を跨ぎ、相棒と共に走ってきた景色の数々。
何度も訪れながらも、さっぱり地理や地図を覚えられない私が、それでも風景や景色として覚えていたものを見て、通り過ぎて。
ナビ上では「???」となりながらも、いつの日か見た風景、景色を見た瞬間。
あ、懐かしい。前も、その前も。何回も来たっけ。
懐かしさのみならず、温もりや落ち着くような心境を抱いた、まるで子どものような気持ちを今も抱きしめ続けていることに気が付くのでした
はじめに、本ブログの方針についてお話しさせてください。
これまでは精神的・心理学的な内容については積極的に述べており、時折旅行記という名目で旅の軌跡を投稿しておりました。
最初はそれで良いと思っていました。
好きなことを、好きなように書けば良いと言い聞かせるまでもなく、思ったことや感じたこと。個々人で差が出て表現の仕方もそれぞれ、差があっても別に良いでしょと勢いに任せて投稿しておりました。
私は元々、一つの文章を書き上げるまでに時間が掛かる悪い癖があります。体裁はいいか、似たような表現はないか、友人含む他のブロガーと違う表現を出していきたいといった思いに駆られるようになりました。
それがいつの日か、被るような内容なら投稿しても変化も何もないよなぁ……と思うようになっておりました。
本音を言うと……代わり映えのない投稿に価値なんてないよな、という独り善がりな思いに沈み込んでから、旅行記は独りの思い出で良いやと思うようになっておりました。
結果論と言えど、文章を書く頻度が下がったことで文章力・語彙力が下がったことに留まらずに。
私自身、文章を書くこと=自分と向き合う時間が少なくなったことで、ブログに向き合うことに興味そのものを喪失することとなりました。
思いを言葉にする。
その機会が減り詰まらない現実に向き合う時間が増えてしまたことは、必然と言えば必然のことでした。
意欲の下降も止まらなくなっていた、傀儡同然の中。
とあるイベントへの参加に招待される機会に巡り合うことができました。
相変わらず私は、能動的に企画するのではなく、飽く迄受動的であることを自覚しながらも。
然れどそれでも、意思だけは捨てなかったことが功を奏し、季節や陽気の移ろおうを、もう一度深々と見る機会を得るに至りました。
その行き先は。
これまで何回も訪れたことのある地でありました。
活動拠点となる、伊豆の地。
初めて自分の足で、自分の愛車と共に訪れた所。
何度も訪れている観光地でありますが、私にとっては思い入れが特に強いものです。
休みを利用して訪れたその地は。
初めては訪れた時は感情と情緒を揺るがされならがも、時を経て「通過点」「近い、でも関係ない風景」に変わり果てていました。
しかし、でも。
たーぼぅさんに教えていただいたことで初めて読み方がわかった「函南」の道の駅から見た景色は。
澄み渡る空気の先に見える、雪を被った富士山でした。
愛車の屋根をチラ見せしながら、再度富士山を撮影。
撮影場所は函南という地域に広がる道の駅ですが、この日は雲ひとつ無いドライブ日和にして旅行に最適と呼ぶのに相応しい暖かさと陽気に恵まれました。10月末ながら半袖や短パンと言った薄着の方々も多く見られ、長野の秋仕様の厚着姿の私の方が浮いてしまう程でした。
そこから一息入れた後、目的地のホテルに向かって車を走らせます。
私は地理に疎いだけでなく、地図が全く読めないという致命傷を抱えています。ナビを使ってもすぐに迷子になるという体たらくを、これまで何度も晒して参りました。
東西南北、どの方角に進んでいるのかさえわからなくなる、そんな程度に酷い方向音痴です。
この性質は、様々な方から弄られることとなっています。「まだ道覚えられないの?」と言われるのは日常茶飯事でしたが……その、頭に入らないものは入らない訳で。割と苦悩した時期もありました。
一昔前に話題となった男脳・女脳というものでしょうか。
道路名や地理的なものは壊滅的な私ではありますが、アプローチの違いはあれど別の方法で補完しています。
簡単に言えば、「風景の一部」として目立つものを覚える、という方法です。
効率は物凄く悪いですが、例えば「何の施設かはわからないが、道路の上を通るロープウェイ」や、「色褪せた塗装の、パチンコとゴルフ練習場を併設した珍しいお店」といったあまり見かけないものが強烈な印象として残ります。
それを目印代わりにして、「あっ、前にも見たことある」という記憶の引き出しから情景を引っ張り出して、ナビに案内されながらも「この道なら通ったことがある、大丈夫だ」と自分を安心させながら進むことができるのです。
私は、生物学的には男です。そういった観点から見ると、このような道の覚え方をするのは珍しいとされるそうなのですが、同じような経験をお持ちの方はどの程度いらっしゃるのでしょうか。
さておき、今の愛車と出会ってから訪れ、通った道に懐かしさを馳せながら通り抜けていき。
この日の休息地である、伊豆高原に無事到着しました。
目の前に広がる大室山、反対側には波が陽光を反射する海が広がる、何度も赴きすっかり見慣れた情景。
なのに私は、何年も前に訪れた故郷に降り立ったかのような、落ち着きあと安堵の気持ちに溢れていました。
いつか来た道。いつか見た風景。どこかで、見たことのある景色。
外部的な情報よりも、主観的な感覚から得る情景、音。私のような人間には、懐かしさを齎してくれるものばかりです。
かつてこのような、主観に基づくものは役に立たないと言われた時期もありました。現代社会でも不要と考える方もいらっしゃるのも、また事実です。
ですが、私にとって、それらは掛け替えのない大切な情報源となるだけでなく。
記憶と思い出を繋ぎ止めてくれる、なくてはならないものと、今は認識できるようになっています。
このご時世、効率的なものを求め求められる時代となっていると感じています。
そんな中でも、生まれ持った特性を、感性を。
誰に何を言われても、私は大切にしていきたいと思います。
少なくとも、同じような経験や感覚を持つ方がいる限り。
私は、私なりの伝え方で、このブログで書き伝えていきたいと 思っています。
次回は、慣らし運転も兼ねてこの数日で歩んだ旅路を綴って参りたい所存です。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。