コロナワクチン、ようやく一回目の接種を終えました。接種して2日程経ちますが、未だに非利き腕、未だに筋肉痛のような痛みが引かずにおります。
加えて今年は新型コロナだけでなく、気候変動があまりにも著しく体調管理を難しくしている気もしています。
早く、涼しく穏やかな季節が待ち遠しく思う、今日此頃です。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
昨月は一回しか記事を書けない程、6月辺りからバタバタしておりました。
周囲の喧騒と状況変化、心身の摩耗と散々な状態が続き、自分の気持ちと向き合ったり顧みたりすることも叶わずにいました。
正直、生きることに疲れたと思いを引き摺りながら時間だけが流れていくと感じたのは、何時振りのことだっただろうかと思うばかりです。
無味無臭な時間と空気だけが漂う日々。
人間はそんな時、元気も活力も失ってしまいます。
私も例に漏れず、本当に何もしたくないという思いに支配され、ひたすら身体と心を休めることに専念するばかりでした。
そういう時、お気に入りの動画をラジオ感覚で流しながら横になることを日課代わりにします。以前はゆっくり系のものが中心でしたが、最近はゲーム実況や雑談系のものを聞いています。
以前からお話ししていることではありますが、どうも私は四六時中、休むことなく脳内で様々なことを考え続けるという癖があるようです。
それこそ、答えのないことに答えを求め続けたり。考えても仕方がないことを捨てもせず頭の中を巡らせたり。
日頃から休まらないようなことを無意識でやってしまうことで、私の内面はいつもぐちゃぐちゃです。自分でも理解できない程の混沌に塗れています。
唯でさえ弱いのに、外界から大きな刺激ですっかり参っておりました。我ながら
、いつまでも情けなさと惨めさで一杯です。
自分の変わらない弱さ、いつまで引き摺れば終わるのだろうと打ちひしがれていた折。
とある動画と出会い、気持ちが上方向に向かう切っ掛けが生まれることとなりました。
その方は半年程前から配信を始めた方で、実況や雑談では落ち着きがありながら温かみのある声色の持ち主です。しかしながら恐怖や驚きがあるようなゲームを実況する際は声が裏返ったり含み泣きのような声を上げるというギャップが物凄く激しいお方です。
話術や声のトーンや話し方も絶妙で、話し言葉が大の苦手な私から見れば羨望の塊を備えているとも言える、皆のお兄さんのような配信者。
動画を配信を行っている方々は、本当に凄いとしみじみ思うと共に。
思いを文章で、しかも回りくどい形でしか出せない自分が、どこまでも不器用だと知らされるのでした。
閑話休題。
それは偶然だったのかもしれません。
数年前に話題となりゲーム大賞を取ったアプリを、先述した実況者さんがプレイ実況として上げていたものでした。
内容は可愛いドット絵ながら生と死を主題に取り込んだもので、多くの方が泣いた作品として有名になりました。
私も実際にプレイし完結していたのですが、当時は「良い話、心が洗われるなぁ」程度の感想しか持ちませんでした。
然れど、実況者さんは違いました。
ゲーム内のセリフを読み上げながらライブ中継していくという形で配信していらっしゃいました。
内容に合うよう、温もりのある声色で読み上げていく配信。
そして物語の盛り上がりの場面。
実況者さんは、生配信中など構うことなく。
感極まったかのように「あぁダメだ、ごめんっ……!」と湿った声を上げました。鼻を啜り上げ、嗚咽を堪えながらも実況を続けていくのでした。
その姿を見、声を聴いた私は。
目から涙が零れていました。涙は止まることなく視界を遮り、肩を震わせながら落涙しておりました。
続く実況者さんの声、そしてゲーム内容で、すっかり涙は止まらなくなってしまいました。
その時まで、息苦しくて眠るのも辛い時が何度もありました。
その度に、泣きたい。泣ければ、楽になれるんだ。
泣けよ。泣けよ私。泣きたいんだったら、泣けって言っているだろ私。
思えば思う程涙腺は固く締まるように、涙が出てくることはありませんでした。
しかし実況者さんの声色は。いとも簡単に、泣くということを私に齎すのでした。
思えば、泣くなんて本当に久し振りのことでした。最後に涙を流したのは、いつだっただろうと思い返させた程です。
元々泣くことがほとんどないと思いながらも、感情が溢れ出た時は涙が止まらなくなる……泣くということが自分でもよくわからない人間だと思い詰めていました。
泣くことは女々しいだとか、泣かないことは冷酷なのかだとか、根拠のない思い込みと決め付けが、胸裏を錯綜してばかりでした。
ですが実際は、無理に泣こうとすれば程、涙は出てこないものであるということを。
逆に、譬え何気ない切っ掛けであっても、自然と涙は止めどなく溢れてくることを、改めて実感しながら考えさせられました。
そして、心身ともに……本当にボロボロになって動かなくなってしまうと、感情でさえ跡形もなく霧散する可能性さえあり得るのだと思い至りました。
そう考えると、溢れる感情は自分を傷つけることもあれば、潤すこともある。
悲しいという感情も、時には涙を流すことで心に栄養を注ぐのかもしれない、そう思ったのです。
どこかで、人は自分自身の為にしか涙を流さないという話を聞いたことがあります。
自分が哀しい。不甲斐ない。自分に腹が立つ、許せない。
場合によっては自身を慰める為に。譬え、大切な誰かを失った時でも。
道理としては、私も同意する所があります。私は特に、過去や今の自分と眼の前の事象を重ね合わせた結果、感情が昂ぶって思わず泣いてしまうことがあります。
でも。それでも。
そうやってでも、出そうと思わなくても出た涙で、傷ついた心に栄養を注いでいるのかもしれないな、と思うに至りました。
乾き切った心では、表情を変えることも感情を表面化させることも、恐らくできないのだろうから。
かつて心を擦り切るまで擦り切らせて、泣くことどころか泣くことは恥だと戒め泣かないと決意した。
部屋で一人とは言え、お構いなしに思い切りボロ泣きした。
そんな、別の意味で情けないなと思った私の、久方ぶりの記事として仕舞とさせていただきます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。