【生き方・価値観】様変わりする人間関係 ~立場が変われば、所詮……~
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なんだか台風が接近しているかのような、荒れた気候が続いていますね。
舞い上がる砂埃、唸る風、揺れる木々。
まるで現代を象徴しているように、荒れに荒れている。そう思えてなりません。
はい皆さん、こんにちは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
新型コロナが職場で発生して以来、相変わらず安定しない日々を過ごしております。世間で大騒ぎになっている騒動が、一度身近で起こると、混乱と不安を簡単には拭えない。
身体的にも精神的にも、シンドイ状況が続く毎日です。
これは、人間関係をより悪化させる要因の一つとなっています。そして、自分をシンドくさせるという負の連鎖となって私を苛ませています。
今回はこの、人間関係について改めて思うことが度々あった為、記事として綴って参ります。
立場、状況に変化があれば、それまでの人間関係など簡単に崩れ去ってしまうこと。一度壊れた関係は、修復することはほぼ不可能であること。
最後は、様変わりする人間関係を自らどうにかしようと努力することをやめてしまうことを、経験談を交えながら、書き連ねて参ります。
立場が変わる事による人間関係
これは主に仕事で起こり得ることかと思います。
例えば、平社員だった人が昇格して役職という肩書きを得た時。元々主任や主査という役職持ちだった方が、更に昇格して課長や部長という、より大きな責任を担ぐ立場になった時。
或いは何十年と会社に勤め上げ、定年を迎えて契約社員として新たな社員生活が始まる人。
前者の場合は昇格祝として喜ばれ激励される、後者は感謝と労いの言葉と共に改めてよろしくお願いいたします、というのが多いかと思っています。
でもそれは、飽く迄「表向き」のやり取りだと、私には思えてなりません。
というのも、それから繰り広げられる人間関係の、どうしても昏い部分が見えてしまう為です。
役職を持てば、会社から貰えるお金が増えます。同時に新たな仕事が増え、責任も大きなものとなっていきます。
上層部からはあれやこれやと注文が増え、下々からは「どうすれば良い?」と行動指針や仕事の振り分けを求められます。
こうなると板挟みとなり、その人は身体的にも精神的にも非常に圧力がかかることとなります。
実際私の職場でも、そのような人を何人も見て参りました。
昇格した途端から前任者から引き継ぎされ、右も左もわからない状態で仕事をこなしながらも悲鳴や苛立ちの声を上げていました。
時には衝突するかのように「それはお前が決めてやって良いんだよ、主査なんだから」「いや俺だって、わかんないんですって!」「いやだから、さっき説明しただろ!お前が率先して調整すれば良いんだよ!」といった怒号が応酬したこともありました。
逆に正社員だった人が任期満了で契約社員となった瞬間も、人間関係が崩れた瞬間をつい最近、目の当たりにしてきました。
少なくとも私が務める会社では、契約社員は給料が下がってしまいます。反面、ある意味で責任や周りからの圧力から解放されることで、言いたい放題やりたい放題になります。
3月の終わりまで、仕事のやり方やノウハウをフル稼働させ、「私にはとても、この人のように仕事できない」と畏怖の念を抱く程だった方がいます。
それが4月を迎え役職を失い立場が変わった途端。
冗談交じりとは思いますが、「もう契約社員だから、主査の仰せのままに」と現役の正社員にプレッシャーを与えるかのような言動を振りまいて、それまで見られなかった薄ら笑みを浮かべながら伸び伸びと仕事をこなすようになりました。
当の本人からすれば、様々な葛藤や威圧から解放されたことで、余裕が生まれ活き活きとしているとのだと、個人的には思います。
私から見れば「それってどうなんだろう」と疑問しか生まれませんでした。
良く言われるのが、各社員に向けて上層部が「同じ会社に務める仲間」だとか「社員同士の絆」といった言葉があります。
それって言葉にした途端、どうしようもなく安っぽく聞こえるのは、私だけでしょうか。
理想?かはわかりませんが、現実は形振り構わず動き好き勝手言い放つ人が、あまりにも多い。
それを仲間だとか、絆がだとか、そんな安っぽい言葉を使って洗脳地味たことをされても、私には響きません。
第一、です。
仲間や絆って、言葉に出すものではなく。
言わなくても自然に感じ取ってこそのものだと、私は考えると共に信じています。
だから余計に、人間関係の現実と理想(?)の乖離が目に見えることに、違和感と不快感を覚えているのかもしれません。
非日常が齎す、人間関係の変化
昨今、新型コロナウイルスの感染拡大によって、これまで日本という国が培い守り続けてきたことが崩れ去ろうとしています。
現実では新型コロナウイルスの魔の手に掛かり、療養を余儀なくされる方々がひっきりなしに出ております。
亡くなられた方にご冥福を申し上げ、治療に専念されていらっしゃる方に逸早い回復をお祈りする、その一方で。
個人的には人災と言えるこのウイルスが、身近で感染した際のことは、前回の記事で綴らせていただきました。
陽性反応が出た社員も、今は無事、全員復帰するに至っています。
闘病生活は苦しみと険しさが凄まじかった、というお話しを伺っていますが、後遺症もなく職場に戻ってくださったことは、只々安堵とお祝いを申し上げるところでした。
しかし、です。
その後のやり取りを見ていく内に、不穏とも疑念とも取れるものが見え隠れすることが、私にとって我慢ならないものばかりでした。
最初に思ったのが、陽性反応が出てしまった社員との会話や仕事上でのやり取りに、どこか「ぎこちなさ」を感じたことにあります。
このご時世、新型コロナウイルスに感染してしまうことはある程度仕方がないことなのではないという思いが、私の私見です。
実際に感染しながらも戻ってきてくださった方々との間に、妙な距離感を置く社員がいることが目についてしまったことが始まりでした。
仕方がない、と言われればそれまでではあります。ですが私には、それまでとは違う距離の置き方が気になり、仕舞いには「これってどうなのよ」と疑念を抱くこととなりました。
互いに、どこか遠慮気味に話しをする様子。上層部はと言えば、身体を考慮してという名目での事務所内での庶務を命令。
挙げ句には、事業所の長たる御仁が「療養ご苦労さまでした」という信じられない言葉を投げ付ける始末。
いや、その言葉は幾らなんでもおかしいだろう。他人事にも程があるだろう。
その瞬間、行き場のない怒りと憎しみが込み上げたことを、今でも覚えています。
他人事だし、社交辞令を含んだことだと思う方もいらっしゃるかもしれません。
ですが私には、とてもではありませんが許容することはできませんでした。
どうしてそこまで移入してしたのか、と思慮していく内に、答えはすぐに見つかりました。
これは、「表向きには」体の良い対応だとしても。
中身は新型コロナウイルス感染者を対象にした、人格否定とまでは行かずとも排他的な意思のようなものを感じずにはいられませんでした。
そんな極端な……と思う方もいらっしゃるかもしれません。
ですが私には、既視感を覚えるような経験を経ています。
それは、イジメです。
何気ない日常の中から顕在化し始める、ある特定の人間を排除しようとするヒトの悪意。顕在化から表面化を経て、悪意と憎悪の塊と化していく、悪しきもの。
私にはどうしても、様変わりし人間関係の悪化とイジメを解離して考えることができなくなりました。
そこに、明らかなヒトの負の感情が存在していたことは、多分事実だったから。
そう思った自分を、信じたい。
築き上げられた人間関係も、所詮は……
救いも信じるものもないこの世の中を生き抜くために、人間関係は切りたくても切れないもの。その事実は、私も認識しているつもりです。
でも。
ほんの些細な出来事であったとしても、それが発端となり綻びが生じ始めた瞬間から、人間関係は一気に様変わりしてしまうことを「改めて」実感しました。
信じていたのに。味方だと思ったのに。
そういった思いは、もしかしたら自分を安心させたいだけの感情の動きなのかな、と考えるようにもなりました。
こんなことを言うのも難ですが、自分は自分、他人は他人という言葉が的を得ていると確信したとも言えるのかもしれません。
どれだけ長い年月を経て築き上げてきた関係でも、少しの変化で一瞬にして壊れてしまう。そこに未練やら悔恨は、多分存在しないと私は思っています。
そんなことを言ってのけてしまう自分が、寂しい生き物だなと自嘲して。
心の片隅で、誰かに頼りたい。そんな甘ったれた気持ちを同時に抱いている私が、憎くて、汚らわしくて、無様と自分自身を貶しながら。
音を立て吹き抜ける風の中、雲の中薄っすら見える朧月を、独り眺めています。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
裏切らないのは、車と機械と動物だけなんだと思う、自分が見窄らしい。
それでも、そういった共通点で仲良くなった人と、いつまでも共に過ごしたい。
利己主義の中に救いを求めている私は、いつまでも、どこまでも弱くて醜い存在だ。