白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【生き方・価値観】共感 ~私が、目指したいもの~

 小寒を迎えたのに、雨が降って。春一番を思わせる、唸るような風が吹き荒れて。

 不穏さを感じずにはいられずにいる、白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 開設からの投稿記事が、20をようやく超えることができました。

 最初は「始めてのは良いけど……どうしよう」と不安しかありませんでしたが、ご覧くださる皆様のおかげもあり、ここまで自分の思いや考え、趣味趣向を伸び伸びと書かせていただいてくることができました。

 

 私は「書きたいから書いている」と以前、申し上げました。

 一方で。

 ここまで来て、不図思うことがあるのです。

 

 

 私が書いた記事を、見てくださった人たちは、どう感じているのか。

 

 書くことでご飯を食べている、そんな人間でもないただのブロガーの一人。曖昧な世界観や精神的、心理的なこと、答えという答えのないものを追い続けている私が考え、思い続けていることです。

 

 

 興味や関心。物珍しさ。

 共感や同情、或いは反感や否定。それ以外の感情や思い。

 もしくは、どこまでも無関心。

 

 

 杓子定規では決して計れない、見えないもの。見えているようでも、朧気で。

 姿形を持たない水を、この手に掴もうという傲慢にも似た感覚。

 そんな、求める意味さえ不明瞭なものを求め続けるのには、私の持つ矜持といっても過言ではないものがあります。

 

 

 今回は、私がブログを書く目的。

 そんなことについて、綴っていきます。

 

 

 

 

 

 

 自己満足?

 

 

 文字や文章という手段を用いて伝えたいこと。

 それは、書く人それぞれの思いが籠もっていると、私は思っています。

 

 私の場合はクルマの紹介であったり、経験してきた過去であったり、今抱いている思いや考えを綴っています。

 

 表現の仕方、言葉遣いに気を付けているつもり、ではありますが。

 突き詰めれば、それは自己満足に過ぎないのではないか。

 

 あれだけ「書きたいから書く」と堂々と宣言の如く書いておきながら。

 他のブロガーさんの記事を拝見し、「あぁ、成程」とか、「そういう考えも、あるのか」とか。

 自分が興味を持った記事を深々と読む一方で。

 私自身が、毎日のようにPV数を見て、その数値だけで喜んだり、憂えたり。

 

 そう。

 私が志した思いは、目で見えるものを求めているだけなのか。

 

 一方で。

 

 私が、唯一といっていい程自分の思いを伝えられる手段である、文章。

 そこで訴えたい、伝えたいものが、ある。

 

 真逆に位置し、相見えるには困難な感情。

 葛藤、といいても差し支えありません。

 

 

 文章を書いて、自分という存在を誇示したいという自己満足。

 それは否定したいと書いたところで、叶わないことです。

 

 それでも、譲れない願いや思いが、私の中に確かに存在する。

 

 言葉にするには、私には難しすぎる内容です。でもしかし、これだけははっきりさせてください。

 

 私の記事を読んでくださった方が、そこから何か思うことが一つでもあってくれれば。

 同情でも、不快でも、厭わない。

 しかし願わくは、少しでも共感してくだされば、これ以上のことはない。

 

 過去を語ったり、自分の抱える問題を書くことで、自分が満たされたいということは、飽く迄二の次。

 私の文章を見て、誰かが、何かしら得られる切っ掛けとなりたいというもの他なりません。

 

 慢心の塊だ、とお思いなった方は、それはそれで構いません。否、仕方がないと思います。

 それでも、私が文を書くことをやめない。否、やめられない理由は。

 恐らく、多分、私なりにではありますが。

 確固たるものがあります。そう、思いたい。そう、信じたいです。

 

 

 

 

 共感と同情は違うのか?

 

 

 

 間違いも正解もない、自分の気持ちを伝える手段。声に出して言葉にするという手段などはありますが、私の中では殊更、文章というもの。

 それを通して伝えたいと思うもの。

 

 共感というもの

 

 似たような言葉で、同情というものがあります。

 

 両者は非常に近いながらも、差異があります。定義もあるそうです。

 その中で私が考える、その違いは。

 

 同情は、主に「不幸な状況」にある相手の感情に寄り添う。飽く迄主観的であり、痛みを分かち合う、と言えば良いのでしょうか。

 対して共感は、相手の立場や感情を理解する。こちらは客観的で、相手と同じ立ち位置に立つ、といった感覚である印象です。

 

 似て非なるもの。判別も難しいながら、私が共感というものに拘るのには、理由があります。

 

 

 

 同情=弱みを見せた者に対する感情

 

 

 これは私の経験上での定義故、正否があるとは思ってはおりません。

 しかし、曲げることができない以上、反論承知で申し上げます。

 

 私が、イジメを受けて、人格否定されて。

 人という存在を失いかけた時に、形振り構わず求めたもの、それが同情でした。

 

 「イジメを受けて、人間を信用できなくなった!わかってくれる人、いるよね!?」

 「私がこれだけ辛い思いしてきたんだ、誰でもいいから理解してよ!!」

 

 大げさかもしれませんが、本気でこんな思いで周りに求めていました。

 ……自分が何かをする訳でもないのに、愚直過ぎる程に、馬鹿が付く程に。

 同級生のみならず、担任という大人にすら「裏切られた」と思い込んで信じ込んでいた私は、そんな身勝手な思いしかありませんでした。

 

 

 そこに待っていたもの。

 

 「俺もイジメられたこと、あったよ」

 「白兎(実名)も辛かったかもしれないけど、俺も同じ感じだったよ」

 

 私が、本当に欲しかったもの……心のどこかで、絶叫するように求めていたもの……とは違うものでした。

 

 当たり前と言えば、そうですよね。

 勝手に糾弾した、私の言葉。そんなものに、寄り添おうという人なんて、いるはずがない。

 ましてや、同じとは言えなくても、似た境遇を経験した人は……。

 自分だって、寄り添ってほしい……そう、思っていたのではないか。

 憶測の域を出ず、私の考えという狭すぎる範囲を遥かに超えた思いがあったはず。

 

 それなのに。

 私は只管、自分の不幸を、不運を誰かに共有したかった。

 

 

 わからなくはない、でも。

 それって、「自分だけが満たされたいだけ」だよね?

 今は、そう思えてなりません。

 

 

 それとはまた別に、寄り添ってくれた人がいました。

 そこでも、私は疑念を抱いてしまいました。

 

 同情って。

 自分が、弱音や愚痴を吐いたところに、寄り添ってくれること。

 その前提条件が、「弱みを曝け出す」こと。

 弱みを見せるということ、って。

 自分が情けなくて、弱くて、助けを求めていることを誇示することではないのか?

 

 イジメの件以来、「弱みを見せる=情けない」「悔しさや切なさから出る涙に寄り添ってくれること=自分が弱いと自ら誇示している」

 

 自分の境遇を絶叫しながらも、心の奥底では、そんな「弱みを見せる」ことに対し恐怖を抱いていたのだと思います。

 私は、弱みなんて見せたくない。イジメを受けた経験という弱みなんてものは、人生の汚点だ。

 そう信じて疑うことはありませんでした。

 しかし、一度見せて弱みを。晒した途端、次はどう弄ばれるか。

 そう考えると、恐怖と警戒心、敵対心。

 負の感情しか、浮かぶことはありませんでした。

 

 今思えば、単に強がっていたんだろうなぁ、と思いますが。

 それだけ、生きるということに必死だったんだと。

 そうでもしなければ、死という選択肢しかなかったんだって。

 

 

 私が必死で求めていたものは。

 本当に求めていたものとは、異なっていました。

 

 

 

 

 共感という言葉を実感した瞬間

 

 

 以来、人を疑うことそのもに疑念すら抱かないまま。

 自分を勝手に追い込んだ結果。

 自ら、死に至る病。精神疾患を患うという皮肉な結末を迎えました。

 

 それにより進んで精神科に受診し、辛うじて生を繋ぎ止めることはできたものの。

 

 自分というものを。矜持と言えるものを創れないまま。

 傀儡のように生きる日々を、数年続けてきました。

 

 

 それでも、転機というものがあるということを。

 身を以て知ることができました。

 望んでいても、そうでなくても。訪れるものは訪れるものなんだ、と今は思うことができます。

 

 

 ある時、自分の生い立ち。経験。人生に対する向かい方。

 それを、言葉というにはあまりに不器用過ぎて。小さな子どもが、何が何でも意志を伝えたいような、そんな感覚で。

 私は破裂寸前の感情をむき出しに、両手が潰れる位握り締めて。

 奥歯を、音が出る程噛み締めて。歯が砕ける程、行き場の無い思いを、無意識的に身体を使って表現した時でした。

 

 

 その時。決して心地好い言葉でも、雰囲気でもない私の思いを聞いてその人は言ってくれました。

 

 「大丈夫?」

 

 立っていることすらやっとだった私に。

 「無理しなくて、良いんだよ」

 

 今にも泣き出しそうな私に。

 「とりあえず、座って。大丈夫だから」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 十数年抱え続けていた思いの全てが、止めどなく溢れてしまいました。

 情けなく、項垂れて嗚咽を漏らす私に。

 その人は。

 

 「我慢しなくて、良いんだよ」

 

 私という人間には、あまりにも優しくて、温かすぎる声色でした。

 

 私は、イジメの件以来人に触れたり、触れられたりすることが苦手になっていました。

 

 違う。また、自分に嘘ついてる。

 

 嫌悪感、という嘘に塗り固められた……恐怖。

 それを、強引でなく。

 鎖でこれでもか、という程封じてきた感情が。

 

 一気に溶け出して、理性を突き破って。私が本当に求めていたものに、縋り付くように。

 「こんな私が、穢れきった私が……」

 ヒトという温かさに触れたい。でも、まだ過去の因縁が私を縛り付けていました。

 「ごめんなさい、私、自分から人に触ることが、怖くて……手が、震えて」

 

 情けない位に動揺する私に。

 

 その人は、そっと、私に触れてくれました。

 

 「大丈夫だから」

 

 その瞬間、「触れても、良いですか?」と理性には程遠い言葉を付けながらも。

 

 私は、初めて「人の温もり」というものを知りました。

 温かくて、心地好くて。私という人間には、あまりにも温かすぎて。

 知らぬ間に、私は嗚咽とも静かな絶叫にも似た唸り声を上げることしかできませんでした。

 

 それでもその人は、何も言うことなく。

 私の背を、肩を、頭を。静かに撫でてくれました。

 

 他人はもとより、両親にさえされなかったこと。

 

 時間で言えば、短ったかもしれない。でも私には、これまでの人生を埋めるには十分過ぎる温もりを、その人はくれました。

 

 

 そこで初めて、気付くことができました。

 

 同情とは、違う。

 感情移入などない、純粋に、私という人間と「同じ立ち位置に立ってくれた」という感覚。

 

 それが、共感というもの。

 そう確信することができました。

 そして、それまで共感というものを言葉でしか示すことができなかった私が。

 やっと、その意味を、温もりを、感じることができました。

 

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 とある夏の夕暮れ。自然が偶然生み出した、神々しさに震えた煌めきと影の空。

 

 

 共感するという難しさ

 

 

 

 私の中では、同情と共感という違い。それははっきりしていると自負しています。

 

 失礼ながら、同情は飽く迄表面上だけであっても、寄り添うこと。

 

 共感は、立場の違いがあったとしても、同じ立ち位置にたって、相手を理解すること。

 

 そうやって改めて、定義しています。

 

 どちらが良くて、どちらが悪い。そんな話ではないと私は思っています。

 

 相手の立場と、同じ位置に立てるか否か。

 感情移入の有無はともかく、それが決定的な差なのだろうと、私は思います。

 

 そして、そんな経験をした私は。

 

 文章というものを通じ、喩え少しであったとしても、共感を生み出せるような文章を綴りたい。

 

 あやふやだった、私の考え。それが今、矜持という確固たるものに昇華させました。

 

 

 もっと言えば。

 私の文章だけでなくとも、誰かの文章が、共感という感情を生み出せるのであれば。

 

 それは、この上ない幸せなことなのだろう、と思っています。

 

 私は、そんな共感を得られる。

 否、共感という感情を呼び起こせるような文章を綴れるようになりたい。

 そう、切に願っています。

 

 

 

 終わりに

 

 

 こうして書いている文章も、私という主観を超えることは叶いません。

 それを、受け取る側がどう捉えるか。

 伝えたいものと、受け取るもの。そこには、絶対的な乖離が生まれてしまうことは、避けようがないと思っています。

 

 人間はその人それぞれが違う考え、思い、思想を持っていると思います。

 そこに、間違いだとか、正しいだとか、そういったものはない。

 そんなもの、誰が決められるものか、と考えている為です。

 

 それでも、少なくとも、私は。

 価値観も、思いも、あまりに違いすぎて。

 一見相見えることができないヒトという存在が。

 

 

 文章、声という言葉を通して、わかりあえ、共感できる。

 

 そうなることを、心から、切に願っています。

 

 

 

 本日も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

【セクシャルマイノリティ・Aセクシャル】性自認というもの ~今も、自分を探し求めています。~

 唐突ではありますが、そろそろWindows7のサポートが終了間際になってきていますね。

 お勤め先の会社や、個人用PCのWindowsを10へのアップデート、お済みでしょうか。

 個人的には7の方がまだマシという認識で、正直、10はイマイチ使い勝手が悪く感じます。(私としては、98が一番作りが単純で使い勝手も良好でした)

 

 私の務める会社も、Windows10アップデート対応に追われています。

 支所のシステム・LAN管理を任されている身としては、これから一ヶ月弱は修羅場になりそうだ……と、不穏さしか感じられない白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 本日は、私が何となくではありながら、にも拘らず考え続けていることについて、綴っていきたいと思います。

 

 それは、性自認というものです。

 

 以前記事にした、私が自認しているセクシャルマイノリティ。私の場合ではAセクシャルですが、それをどの程度自認しているかどうかは、本当に人の数だけあることです。

 

 Aセクシャルについては、こちらをから。御閲覧くださいましたら、幸いです。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 セクシャルマイノリティが現代、社会的にも話題となり、取り上げられている内容である、その他方で。

 

 性自認というものは、未だに圧倒的に認知度が低いと、私は思っています。

 

 

 ※注記※

 

 本内容は、性別という概要、概念について強く取り扱います。

 飽く迄素人である私が得た知識や経験に基づくものであるため、一人の人間として不快感、反論、異なる意見や思いを抱く方もいらっしゃると思います。

 度合いの程度によっては、本内容を削除いたしますが、ご理解くださる方は、このまま御閲覧くだされば幸いと存じます。

 

 ※注記終了※

 

 

 

 

 性自認

 

 

 私なりに理解している性自認。

 端的に言うと、「自分の身体的な性別とは別に、『自分がどんな性(性別)であると思っているか』」ということです。

 差別や偏見になりかねない言葉で申し訳ありませんが、言い方を変えれば、「男らしさ」や「女らしさ」という言葉でも、ある程度説明が可能です。

  

 ヒトという生物は、生物学的に、身体的特徴から見れば、男性であるか、女性であるか。この二つしかありません。

 

 ですが、そこに「身体的特徴たる性別に、自分の性別という認識がどう向いているか」という点は、見逃されがちです。

 「LGBTQ+」というセクシャルマイノリティと同等に、性自認はとても重要なことであると私は考えています。

 

 性自認の強さや方向性、恒常的か浮動的か。それこそ、星の数ほどあると思います。

 

 

 

 

 性自認の種類は?セクシャルマイノリティとは別物?

 

 

 さて、では性自認に明確な種類があるのかどうか、という話になりますと。

 ここが、かなり難しい。

 前述した通り、性自認は「その人が自認する性別」というものであり、外見や客観的視点で判断ができない為です。

 一応の種別を申し上げるとするなら、以下のようなものがあります。

 

 一つが、「中性」。男性と女性との中間に自分がいると認識していること。

 次に、「両性」。男性でもあり、女性でもある自分が認識していることです。ここには、男性が◯割、女性が◯割といった認識も含まれます。

 三つ目、「無性」。男性でも女性でも、どちらの要素も持たない。

 最後に、「不定性」。男性や女性であると認識する割合が変動し、場合によっては日によって変わることもある。

 

 これだけでも、定義というにはあまりにも曖昧で難しいと私は思います。

 

 

 もう一つあります。

 性自認とセクシャルマイノリティは、別物であるということです。

 

 性自認が「自分がどんな性を自覚しているか」に対し、セクシャルマイノリティは「自分の性的指向がどういうものか」を示すからです。

 自分が「自分の意識として」男であるか、女であるか、それ以外であるかという、性自認。

 恋愛感情や性的欲求の有無、それだけでなく、どのようなものにそういった感情や欲求が向くかという、セクシャルマイノリティ。

 

 私もつい最近まで勘違いしておりましたが、後述しますが、性自認の中で生まれる可能性があるX(エックス)ジェンダー。

 セクシャルマイノリティの中に含まれるトランスジェンダー。

 これを混同しておりました。

 

 自分の認識の甘さにお詫びすると共に、それだけ深い……一人の人間がブログに綴るには、あまりにも深くて、難しいこと。

 それが性自認や、セクシャルマイノリティであることを、改めて実感しています。

 

 

 

 Xジェンダーとトランスジェンダー

 

 

 もう少しだけ、補足にお付き合いくだされば幸いです。

 Xジェンダーは、「生まれ持った身体的性別の『いづれでもない』」という概念です。簡単に申し上げるとするならば、「自分を男や女という概念だけでは説明し切れない」というものであると私は思っています。

 

 では、トランスジェンダーとは。

 こちらは「生まれ持った身体的性別が、自意識上『明らかに一致していない』、或いは男女という世間的認識が、自分の持つそれが「間違っている」と認識している」ものです。

 

 もう少し簡潔に言うとするならば、自分が認知する性、性別が「中間に位置する、或いは曖昧であるか」。もしくは「明らかに違うと認知しているか」。その違いと私なりに理解しています。

 

 更に踏み込むと切りがなくなってしまいますので、世間的にも誤認されがちなことについて、ご説明いたしました。

 

 

 

 白兎の性自認

 

 概略が長くなりましたが、私の性自認についてお話しさせていただければと思います。

 私の性自認は「無性」が一番近いのかな、と自認しています。次点で、「中性」と思っています。

 

 身体的な性別は兎も角として、私は、自分の性をこのように自覚しています。

 男だろうが、女だろうが。私は私という、唯の一人のヒトでしかない。

 そこに、性別という考えは存在しない。

 

 といった感じです。

 

 そう思う理由は、これまでの経験が裏付けています。

 

 

 

 男の子や女の子らしい遊び

 

 

 幼少期故、自覚などありません。

 ですが少なくとも、世間的概念といっては失礼ですが、私は性別に起因する遊びを区別したことはありませんでした。

 戦隊モノのマネをして遊んだり、外で遊んだり。一方で泥団子作りや工作好きに耽ったり。

 兎に角、自分が好きなことに集中していた記憶があります。

 そこに、男の子や女の子らしい遊びという思いは存在していませんでした。

 今言葉として、当時の自分を言い表すとするなら。

 「自分が好きなことを楽しめば、それでいいじゃん」

 そういう思いであったと、思っています。

 

 

 

 身体的性徴が顕著になっていっても

 

 

 俗に言う思春期ですね。ここに至っても、私の性に対する考えは変わりませんでした。

 男らしさだとか、女らしさだとか、言及されたり追求されることも多々ありました。

 ですが、私の思いは一つでした。

 

 そういうの、どっちでも良いんじゃない?

 その人が好きなようにすれば、何も問題なんてないでしょ?

 

 逆に、それを無理やり定義付けられそうになること自体が、苦痛でしかなかった。

 自分の認める性を、全うすればいいだけなのに、なんで他人に強要しなければいけないのか。

 私には、最後までわかりませんでした。

 そして、今でも理解できずにいます。

 

 

 

 男でも、女でもない、私という存在

 

 

 結局は、自認する以前の問題で。

 言い方は物凄く悪くなりますが。

 私は、性別というものに対して、興味がない。

 身体的にも、精神的にも、どちらでも関係なしに、関心はおろか、誇りさえ抱かない。

 

 

 イジメを通して様々なものが変わった、ということもあるかもしれませんが。

 私は、ある意味矜持と言えるものがあります。

 

 男でも、女でも。性別に囚われることなく、好きなようにすれば良い

 

 誤解されることを覚悟の上ではありますが、私はその思いを強く抱いています。

 どう生きようが、どう振る舞おうが、それは人それぞれ。

 ヒトが考え出した定義に、無理やりあてはめなくても……良いのではないか。

 

 それだけは、どうか言わせていただきたい、と強く願っています。

 

 

 

 とは言いつつ、日常は?

 

 

 しかしその実は、結構偏っていたりします。特に行動や思考という側面では。

 これは性自認とは全く異なるとは思います。寧ろ、脳の使い方が関係してくるとは思いますが、その一例を。

 

 私は、地図が読めません。

 仕事柄外出することもありますが、先輩に地図を見せられて、ここを行けば良いと言われても。

 どこを示しているのか、全くわかりません。

 国道◯号線にぶつかったら、と言われることも多いですが。

 すみません、国道◯号線って、どこですか?

 

 といった感じで、ナビを使っても尚、道に迷う程方向音痴です。

 一度走ればわかるだろう、と言われても、本当に道を覚えられません。

 「この前行ったじゃん」と先輩に笑われながら言われても、私は本当に必死です。

 どこを通れば良いんですか、と懇願するように毎回聞いてしまいます。

 それが災いし、相棒とともにドライブに出かけた時は本当に苦戦します。予約したホテルに着くの涙ながらやっとの思いで、という程です。

 逆に何かの建物や看板を目印に、と言われると、存外すっと頭の中に入ってきます。

 

 それと、もう一つが。

 私は一つの事柄に集中し、没頭するきらいがあります。周りから話しかけられても「ちょっと待ってください、すぐ行きます!」と言うほどです。

 こうしてブログを書いている時も、音楽やラジオ、テレビは全部消しています。集中できなくなってしまうのです。

 そんな中で、例えば仕事中。

 自分が行っていた仕事や作業に割って入られると、どこまでやっていたのかがわからなくなってしまいがちです。勘弁してください、と本気で思うほどに。

 

 そういった意味で、私は複数の作業を同時に、平行に行うことができません。

 料理をしながら、食器を洗って、風呂場を洗って……といったマルチコアな動きは私には無理です。パンクします。

 

 そういった側面を鑑みて、性自認が「中性」であるかもしれないと書き記した次第です。厳密には性自認とは無関係なのでしょうが……。

 

 

 

 

 今も、自分を探し、求めています

 

 

 幼少期より違和感を覚え、思春期から顕在化し、今でも尚、私は自分というものを探し続けています。

 それがセクシャルマイノリティであったり、性自認であるのかもしれないと、私なりに思っています。

 

 他者が的確に判断できないこと。

 診断もほとんど不可能。

 

 だからこそ私は、ヒトという存在そのものに興味が湧くのかもしれません。

 考えても仕方がないことであったとしても。

 人の数だけ、考えや価値観が違うこと。

 定義し切れないそれが、私には普遍的なニュースや流行よりも興味深い。

 だから、こういったマイナーな記事を書く原動力になっているのかな。

 なんて思っています。

 

 みんな違って、みんな良い。

 そんな言葉が、相応しいのかもしれません。

 

 

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 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

【生き方・価値観】食 ~本能によるものでも、価値観は様々~

 年末年始という言葉も、そろそろ終わりを迎えてくる時期となりました。

 2020年新たな年の始まりと共に、これまでとまた違う一年になる。

 

 未来。或いは将来。

 それは結局、その瞬間を経た途端に、過去のものになってしまう。

 今という瞬間も、こうして文字を起こしている合間に、次々と過去のものになっています。

 今日という日に経験したことも。あの頃に感じた様々な感情も。

 全て、思い出となります。

 

 だからという訳ではありませんが、私はそれを写真という形で残すようにしています。

 文章だと、どれだけ記憶が鮮明であったとしても。

 どうしても「自分の都合の良いように」勝手に改変されてしまう可能性を秘めている為です。

 然れど、写真というものは、嘘はつきません。

 喩えそこに、その時の思いや感情が残っていなかったとしても。

 その瞬間を、確実に残すことができる、唯一の手段。

 

 端から見れば大したものでないものであったとしても、私が「この空が訴えていることは、なんだろう」。

 そう思った途端に、カメラやスマホを取り出して写真として記録します。

 

 それを見ることで、多少のズレはあっても。何かしら思い出せることができる。

 私はそう信じています。

 

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 今日もそんな、精神的であるのか、心理的であるのか、自分でもよくわからない哲学(?)について耽っている白兎です。

 

 皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 

 

 


 前書きが長くなりましたが、興味深い話題をネットで見つけました。

 

 それは、というものについて。

 

 皆様のブログでも、食事や料理について記事をお書きになっている方が沢山いらっしゃいます。

 私のようなクルマ好きには、愛車と共に様々な場所へ趣き、その地特有の美味しいものを堪能するというのも、ドライブを楽しむの中でも大きな要素になるっていると思っています。

 

 

 ですが、私がこれまで抱き続けてきた疑問があります。

 食というものに、興味や関心がない人。

 生きる為、本能的に欲する欲求の一つである、食べるということ。

 それに反する人間は、どういうものなのか。

 今回は、そんな内容について綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 食べることとは

 

 

 まずは、当たり前のことのようにしている、食べるということの定義を、私なりに考えてみました。

 当たり前過ぎることを考えること自体変だ、と言われても。私はどうしてもその本質を調べ、自分なりに解釈して、理解したい。こればかりは、ご容赦くだされば幸いです。

 

 

 さて、食べることという行動は。

 食べ物や料理を見て。美味しそうと、或いは珍しい、興味が湧いて。

 実際に口に運んで。咀嚼して、飲み込む。

 動作としてはこんな感じになるかと思いますが、人間が感じることは、それだけに留まらないと、私は思っています。

 

 食べ物や飲み物から栄養を摂取する。それだけでは済まないと思います。

 

 美味しいものを食べたことによる、精神的な満足感や充足感。

 家族や関係の深い人々と食事を共にすることで、結束感や繋がりをさらに強固なものとし。

 それにより、「幸せ」という感情を抱き、そんな自分を大切にしたいという自尊心を高めていく。

 

 私なりに考えただけでも、食べるという行為そのものが、人間が生きる定義そのものであるとさえ思ってしまいます。

 それだけ、食は人生の質を高める重要な役割を持っているのではないかと、私は考えるに至りました。

 

 

 

 始めに

 

  

 そこで、今回のお題。

 「食事に興味がない人」という存在が、少なからずいるということです。

 

 最初にお断りさせていただきますが、私は決して、食べるということそのものを否定したり、料理や食事の様子を書き綴ったり写真に収めたりすることを非難するつもり全くないことだけは、ご承知賜りたく思います。

 

 食事ということを、料理を楽しむことは、本能的な欲求だけでなく、人それぞれ趣味であったり、共有できることであったり。

 私にはできない、とても素敵で素晴らしいことであると思っています。

 

 そういったことを真っ向から否定したりすることは、他の誰でもない、私自身が許せないし、絶対したくありません。

 それは即ち、私がこれまで綴ってきた記事、そこに込めた思いを拒絶されることと同義だからです。

 

 拒否したり、されたり。そういったことで自分を保とうとしなくても。

 それぞれが持つ価値観や考えの違いを……全てとはいかなくても……理解し、受け入れて。「そういう考えもあるんだ!」って思えることに巡り合う機会がある方が、私は幸せで、有意義であると思っています。

 押し付けも、強要も、そこにはない。私はそう思い、願うばかりです。

 

 長くなりましたが、本題に入って参ります。

 

 

 

 

 

 食に興味、関心を抱けない人もいる

 

 

 本題に戻ります。

 まずは、私の場合についてからお話しさせていただきます。

 私はかなり少食で、超が付くほど偏食家です。

 

 具体的には、普通盛りのラーメン一杯で十分。

 定食は「ご飯を半分で」と頼まないと、食べ切れない程。

 

 

 食べられるものも、結構限られてきます。

 まず、魚介料理は全般的にダメです。磯の香り、と表現すれば良いのでしょうか。どんな調理方法を介して出されたものでも、磯臭さを感じた瞬間、吐き気を催してしまいます。

 肉に関しても、顎の力。つまり噛む力が弱いけでなく、歯並びが悪いので、噛み切るということが私にはできません。

 よって、脂身や筋が多い部位。ホルモン系特有の食感のものは食べられません。

 

 好きなもの、を挙げた方が早い位、私には苦手な食べ物や食事がとにかく多いです。

 

 

 

 小さい頃から刷り込まれた思い

 

 

 そんな私に、幼少期、よく祖母が掛けた言葉があります。

「もっと食べないと」「背ばかり大きくなって、ウドの大木になるよ」

「出されたものを残すなんて、勿体ない」「米粒を残すと目が潰れる」

 

 良い意味でも悪い意味でも、食べることに対して大きな影響を齎す言葉ばかりでした。

 本人から直接聞くことはありませんでしたが、祖母は戦争時代を生き、食べることにさえ事を欠いていた、とのことです。

 それ故、食べることが遅くて苦手なものが多かった、孫である私に祖母なりの優しさと厳しさを教えてくれたのだと、今は思います。

 

 このこと自体に反論することも、反抗したこともありませんでした。

 

 しかし、今の私が考える食ということに、少なからず影響を与えていることもまた、確かな事実です。

 

 私は少食、先ほど申し上げました。

 少食ということに間違いはないのですが、それ以上に、満腹を超える苦痛を覚える程食べたいと思わない。

 所謂腹八分目、というものです。それ以上の量を食べることに、苦しさしか得られません。

 もう一つ。食事、特に外食に赴いた際。

 食べ切れなかったものを、残して去る。これを無碍にできない。

 HSP由来のことなのかもしれませんが、残された料理の材料となった食材が、ゴミとなって捨てられていってしまう。

 そう思うと、得体のしれない寂しさや悲哀感を覚えてしまう。

 食べ物自体に、感情はない。

 でも、私にはとても無視できなかった。

 だったら、自分が食べられる限界をちゃんと理解して、残さない食べ方をしよう。

 

 ですが、それだけではありませんでした。

 

 

 

 食べるという行為自体が、作業にさえなり得る

 

 

 

 食べ物に対する、ある種の縛りとも言える思い。

 最早脅迫概念に近かった、その考えと思いが齎したものは。

 

 食事というものが、単なる「作業」になり得るものとなった

 

 ということでした。

 

 それを自覚したのは、気分障害を患った時からでした。

 

 身体も満足に動かせず、動きたくもない。何もしたくない。

 そんな中でも、食べることはしないといけない。

 

 ……本当に、必要なことなのか?

 食べるということが。

 

 空腹を知らせる脳の信号も、その時は完全に壊れて、機能しなくなっていました。

 食べたいと、思わない。食べたくない。

 食べる為のものを、調達することさえ面倒で。

 仮に食べ物があったとしても、それを食べる時間が無駄にさえ感じるようになりました。

 

 以来、私がストレスを強く感じた際にまず現れる症状が、食欲が大きく減衰することです。

 そうなったら最後、極論を申し上げれば「薬を飲む為だけに、仕方なく、何か胃に入れる」という思いに至ります。

 料理の美味しさや香りは、そこにはありません。

 それ以上に、ただでさえ気が滅入っているのに、食事に無駄な時間を割きたくない。

 

 会社でも平気で、昼食を抜いたりします。

 

 

 

 

 掛けられる言葉の有り難さの、その反面

 


 そんな私は、会社で「何食べて生きてんの?」と聞かれることが多々あります。

 また、少食な私に「それだけで良いの?」と言われることもあります。

 その時は、「超低燃費仕様ですので」と愛想笑いを返します。

 

 時には、相棒「Lupus」と共に出かける際に、その出先の名産物の話をされることが多いです。

 「そこは魚介が美味いよ」「美味しいものくらい食べてこなきゃ、勿体ないじゃない」「(魚介なら)新鮮なものを食べたことないから、食わず嫌いなんだよ。本物食べてみな、美味いから」

 

 声を掛けてくれる先輩や上司が、私にアドバイスや優しさの籠もった言葉をかけてくれている。

 

 そのことには、素直に感謝しています。

 

 わかります。わかるんです。

 でも、ですね。

 

 食べることって、人からとやかく言わることなの?


 幸せの定義は人それぞれ、という思いを自負している私には、素直過ぎて、相手を蔑ろにしかねない言葉が浮かんでならないのです。

 

 
 こればかりは、食に対する冒涜と言われても仕方がないと思っています。

 それでも、これ程までに言うのには、私が持つ矜持がある為です。

 

 食べることを楽しむよりも。

 知らない場に赴いた時の、そこから受ける五感からの情報。

 それを自分なりに受け取って、どう思ったか、どう感じたかを吟味したい。

 そういった思いの方が、強く出てくるのです。

 

 

 

 

 本能であっても、どう考えるかは価値観が大きいのではないか

 

 

 

 私の場合の食というものに対する思い。

 それは「私の食事事情で、相手を困らせたくない」と「会食が苦手」というものがあります。

 勿論、「美味しい」とか「うーん?」と感じることはあります。味覚がどうこうではなく、私なりの好みの基準というものはある、つもりです。
 ですが、それ自体が「幸せ」という感覚に結びついたことは然程ありません。

 

 
 更に掘り下げると、以前の記事で述べた通り、私は家族で食事を摂るとい機会が幼い頃からありません。

 家族バラバラで食べて参りました。故に、食卓を囲んで食事をするという行為自体、今でも抵抗感といいますか、苦手意識があります。

 誘われることがあっても、嬉しいと思う以上に、「どうしよう……」と困惑してしまいます。

 

 

 

 みんなで食べれば美味しい?

 

 

 皆様も耳にしたことは少なからずあるかもしれません。

 幼い頃、特に幼稚園や小学校。

 

 「みんなで食べれば、もっと美味しい」

 

 

 ……それって、本当なのでしょうか。

 

 私もそうでしたが、食べるのが遅く、食事中に会話を振られると更に遅くなってしまい、当時の先生に「まだ終わらないの?」と言われた記憶があります。

 

 みんなで食べれば美味しい。みんなと遊べば楽しい。みんなと一緒なら……。

 

 私から言わせれば、それって洗脳に近い言葉では?

 

 そう思えてなりません。

 

 中には、一人で静かに食べたい人もいるでしょうし。

 中には、流行よりも自分が美味いと感じ続けているものを、毎日食べたい人もいるでしょうし。

 中には、食べることそのものがストレス、という人もいるでしょう。

 

 

 生きていく上で絶対的に必要な、食べるということ。

 

 その形がどうあっても。

 他人から見て、「可愛そう」だとか「変な人」と思われても。

 

 本能由来の食欲。それを満たす為の食事も、人それぞれで良いのではないでしょうか。

 決めつける必要が、定義しなければならない理由が、あるのでしょうか。

 

 

 その人が、その人なりに食べるという行為を楽しみ、満たせるのなら。

 それで良いのではないのかと、私は思っています。

 

 何を食べたって、別に良いじゃない。

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 あ、今日食べたぜんざい。甘くて美味しかったです。

【イジメ・トラウマ】いじめ後遺症 ~癒えない傷との闘い~

 今宵より雪の予報となっておりますが、その前になんとか初詣に行って参りました、白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 

 昨日、基本日深夜に記事とさせていただきました、イジメ。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 自ら読み返してみて思った感想ですが。

 

 長いな、おい。

 6500文字を軽く超えて、これまで抱え続けてきた思いを感情任せに書いていたことを、少々反省いております。

 

 好きに書いても、どう表現しても良いと私は思いますが。

 

 もっと、大切なことを忘れていました。

 

 読んでくださる人たちが、読みやすいかどうか。

 記事を通して、最終的に伝えたいことは、何なのか。

 

 そこで、今回は前回の記事で中途半端になっていた内容と別に書き起こし、同時に、閲覧してくださる方たちのことを考えながら、ブログというものと向き合っていきたいと思っています。

 

 本日は、イジメという傷が人生に与える影響。

 社会生活のみならず、生きることそのものに苦痛を齎すもの。

 イジメ後遺症というものについて綴っていきたいと思います。

 

 

 ※注記※

 本内容は、私が個人的に得た知識や経験を元にしております。

 専門家ではありませんので、お読みになった上で仮に思い当たることがございましたら、精神科やカウンセリングを受診することを強く推奨いたします。

 ※注記終了※

 

 

 

 

 

 

 

 

 新たな始まり

 

 

 地獄の中学時代を終えた私は、自分というものを完全に失っていました。

 高校に進学しましたが、地元から離れた高校だったことは、私にとって救いとなりました。

 教室に、知る顔はほとんどいない。

 ある意味、孤独でした。それでも私からすれば、その方が良かったのです。

 中学まで付き合いがあった人間たちとは、全て縁切りを終えていました。

 携帯電話の電話帳を全て削除。メールアドレスや番号も変えて、晴れて絶縁完了。

 悪夢とも言えるイジメは、終わったんだ。

 そう信じていました。

 

 始めこそ、初対面の人間との交流は元来持つ人見知り癖で苦戦しましたが。

 一人のクラスメイト、としての立ち位置を、何とか取り戻すことができました。

 同級生からは、距離を保ちながらも冷静、でもツボに入った時は大笑いする、変わり者。

 クールビューティ、なんて言われたことさえありました。

 そう、これが私なんだ。

 そう、信じてきました。

 

 

 

 終わったはずなのに、残り続けた違和感

 

 特別目立つようなことはなく、寧ろ避けていた私でしたが、高校生活は比較的良好に過ごすことができました。

 静かながらも熱い気持ちを持った、理知的で生徒からも好かれる担任に恵まれ。

 最初こそ知らなかったものの、私を一人の「ヒト」として扱ってくれた同級生たち。

 

 

 しかし。

 自覚とまではいきませんが、違和感のような妙な感覚を抱き続けていました。

 

 顕著だったのが、人と目を合わせて会話ができなくなっていたことでした。

 面向かって話しているのに、私はどうしても、相手の目を見て話すことがどうしてもできませんでした。

 見ているのは、いつも喉元から胸元の辺り。

 偶然目が合ってしまうと、条件反射のように慌てて目を背けてしまう。

 それは、人見知りや気恥ずかしさでは、どうやらなさそうでした。

 

 また、思ってもいないのにも拘らず、嫉妬や劣等感のようなものを覚える癖が見についてしまったことです。

 勉強ができる、できない。

 運動ができる、できない。

 友人が、多いか少ないか。

 

 その思いを体現した言葉は、「私なんて」とか、「私には無理」だとか。

 自分を否定する言葉でした。

 

 その時こそあまり深く考えずにおりましたが。

 これが、後々大きな障害となってくることになりました。

 

 

 

 

 時を経るごとに

 

 

 高校を無事卒業し、専門学校に進学して。

 いよいよ社会人になる為の、専門知識を学ぶべく、上京しました。

 専門学校でも、立ち位置は然程それまでと変わらず。

 つるむような友人は少なくても、深く付き合える人たちとも出会えました。

 

 国家資格にも合格し、運転免許も取得して、内定を得るまで。

 この時期が、学生時代という中でも私が一番「黄金時代」と呼べる時間でした。

 それまで音楽というものに恐怖すら覚えて、カラオケに誘われても拒否し続けた私が。

 お恥ずかしながら、その歳になって初めて、カラオケというものに挑戦しました。

 幸いなことに、それなりの評判を受ける程度には歌えることに自信を持ることができ、今では友人が来ればとりあえずカラオケ、と言える程になりました。

 

 

 然れど、そこでも。

 自分自身に違和感を覚え続けていたことに変わりありませんでした。

 

 

 それまで使っていた一人称を、全て「私」と言うようになりました。

 公私拘らず使える、万能な一人称。相手が目上でも、目下でも。年上でも年下でも、同い年でも使える「私」という言葉。

 それと、無駄に敬語口調を使うようになったことでした。

 例えば、「わかった」という言葉を。

 「了解しました」「承知しました」「御意」。

 厨二病をこじらせたような、この二つの事柄。

 

 今なら言えることですが、中学までの苦いにも程がある経験を払拭したかった。

 否定された人格をなかったことにして、新しい「私」という人格を作りたかった。

 

 偽りという言葉に塗り固められた人格、自分。

 これも、社会に出てから、自分を追い込む要因になることとなりました。

 

 

 

 無理に無理を重ねた、軋み

 

 

 

 社会人として世間に出てからは、学生時代程苦戦はしなかったと記憶しています。

 歳が離れた先輩や上司。歳の差が多少ある同期。

 高校、専門学生時代に無理やり……それが無意識であったとしても……獲得し、自分のものにしてきたことが、功を奏しました。

 幸いにも先輩方に(半ば粗暴ながらも)可愛がられ、順風満帆とは言えないながらも、悪くないスタートを切ることができました。

 

 数少ない若手ということもあり、プレゼンを任されたり、少し特殊な仕事を任されたり。

 困難や戸惑いは勿論ありましたが、それでも、自分なりに納得のいく社会生活を送ることができていました。

 

 

 社会人になって、数年が経った時。

 ここで、それまで無理を重ねてきたものが、軋みを上げながら具現化し始めました。

 

 本当にたまたまでした。

 後輩が行ったプレゼンテーションに居合わせた時でした。

 その子の発表するプレゼンは、内容、話し方、度胸、声色。

 全てが素晴らしく、それを聞いていた上司たちが、祝賀会で大きく評価していました。

 

 それを見た、私は。

 

 本当に、何がなんだかわからない状態になって。

 これまで「創ってきた」自分など論外という気持ちに陥って。

 もう、パニックに近い状態になってしまいました。

 

 何も考えられなくなって、過呼吸気味になって。

 私は、その場を足早に、逃げるように去っていました。

 社会人失格と言われても仕方がない、上司への帰宅する旨すら伝えられないまま。

 

 

 そこから、私は再び崩れ始めました。

 あの時のように。

 

 

 

 

 待っていたのは

 

 

 それでも騙し騙し、自分というものを失わないように仕事に励んでいました。私という存在を、滑稽な程、見せたいが為に。

 裏に潜む、どうか私を見捨てないで。

 そんな思いを抱えながら。

 

 

 しかし、そこで待っていたものは。

 

 会社に行こうとしても、身体が起き上がらなくなり。

 仕事もミスばかりが増えて、担当内に迷惑ばかりかけて。

 食べ物も、身体が受け付けなくなって。

 生きている、理由がわからなくなって。

 死にたいという思いが、心を、全身を支配する。

 

 精神疾患、気分障害を患いました。

 

 どれだけ騙してきても。

 身体も、精神も。

 嘘は受け付けないものなのですね。

 

 自覚したら最後、私は本気で、無意識的に。

 包丁を、腹に半ば突き立てていました。

 

 

 

 死んでも良かった。消えたかった。でも……

 

 

 不思議なことと私は思います。

 人間って、「死」というものを意識して、支配された途端に。

 ありえない行動を、平気に取ってしまうんですよね。

 

 刃を、そのまま思い切り突き入れれば、どれだけ楽になれただろうか。

 痛みはあって然りでも、この気持ちから解放されるなら。

 死を。いえ、死ぬことより、私という存在が、この世の記憶という記憶から全て抹消されて、なかったことにできることを、望んでいました。

 無意識が、私という全てが。

 

 

 でも、何とか思い留まれました。

 

 自分の為では、決してありませんでした。

 私が死んだ後の、母や兄のこと。

 遺体の処理だとか、葬儀だとか。

 そして、一番は。

 「これ刺したら、痛いよなぁ……」

 

 という、最後の理性が、私を死の淵から無理やり引っ張り上げてくれました。

 

 それからすぐ、これ以上、馬鹿な真似をしたくないという思いから。

 精神科に受診しました。

 そして今も、治療が続いています。

 

 

 

 

 イジメ後遺症

 

 

 治療を続けながら、なんとか仕事をこなせる程度に戻ることはできました。

 しかしながら、この時になって初めて。

 高校時代から抱き続けていた、違和感の正体を突き止めたいと思うようになりました。

 

 幾ら投薬治療しても、恐らく、治ることはない

 違和感の要因を突き止めて。

 どれだけ苦しくても、正面から向き合わない限り、本当の自分を取り戻せない。

 そんな思いが募っていました。

 

 

 その矢先。まさに、青天の霹靂と言っても過言ではありませんでした。

 

 たまたま、朝の番組で取り上げられていた内容を、呆然とみていました。

 

 その内容が、いじめ後遺症というものでした。

 

 

 まさに、私が求めていたこと、そのものでした。

 番組ではイジメを経験したヒトが、その後の人生で何らかの症状を発症したことや、その経緯、経験談。

 いじめ後遺症かも?というチェックシートの紹介がされていました。

 

 これだ。

 すぐに私はネットで調べ尽くし、それがどのようなものかを知り、理解し、知識を得ました。

 

 いじめ後遺症。

 それは、読んで字の如く、イジメを受けても尚残る後遺症のことです。

 具体的には、自己肯定感が低くなったり、他人を信用できなくなったり、色んなことに自信を持てなくなってしまったり。

 他人が怖いが為に、コミュニケーション不全となって。低すぎる自己肯定感を補うように、他人に縋り付くように肯定を求める、他者肯定を得ることに躍起になる。

 そして、イジメを受けた場面を彷彿させる場面に出くわすと、フラッシュバックするように記憶が蘇り、パニックを引き起こす。

 最悪の場合、それらの症状により精神を蝕まれていき。

 果てには、精神を病んでしまうことになります。

 

 過去のイジメの経験を、どれだけ鎖で雁字搦めにして封印していたつもりでも。

 不図したきっかけで、いとも簡単に蘇って、現実のもととなって、いつまでも苦しみ続ける。

 

 人によっては、イジメから何十年経ってから発症し、退職や休職に追い込まれることという実例もあるそうです。

 

 私が抱えてきた違和感。

 それは、単なる仕事やプライベートのストレスだけではなく。

 イジメという、十数年も前に経験した地獄の日々。

 それが、いつまでも付き纏っていたということを知り、実感するに至りました。

 

 

 

 

 過去の出来事、という一言では済まされないこと

 

 

 それから私は、投薬のことばかりで話を聞こうとしなかったメンタルクリニックを改めて。

 親身になってくれる主治医を見つけ。

 カウンセラーという、普段吐き出せない思いを、言葉に出せる場を見つけて。

 

 そして、車のSNSやブログという場所に巡り合って。

 やっと今、自分という存在を肯定し、「私はこういう人間だ」と認めることが出来始めています。

 

 できました、と書けないのは。

 今尚悩みながら、自分というものを探し続けている為です。

 それだけ、イジメという害悪が齎すものは大きく、計り知れないものだと、私は思っています。

 

 私がこれまで悩み、苦しみ続けてきたこと全てを、イジメに当てはめるつもりはありません。

 

 でも。それでも。

 人格が否定され、一人のヒトとして蔑ろにされることが、どれだけ辛いことか。

 解決の糸口を見つけられても、どれだけ、終わりが見えない程遠いか。

 

 本当に幸いなことに、今の私は、誰にも言えずにいた昏い過去を言える親友がいます。

 主治医やカウンセラーという、味方を見つけることができました。

 

 

 もし、私のような……いえ、自分という存在に、少なからず違和感を抱き続けている方がいらっしゃるのなら。

 誰でも良い。打ち明けられることができる人を、一人でも多く見つけてください。

 

 私は相談するということに愚かさを覚えたが故に、愚直な程、一人で彷徨い続けました。

 ですので、これだけははっきり言えると自負しています。

 

 独りでは、解決するには限界がある過ぎる。続ければ、自分を壊してしまう。

 

 私は、回り道こそしましたが、それでも答えを見つけられたと思っています。

 

 

 イジメというものを、決して看過できない思いと共に。

 被害を受けた人が、少しでも救われることを、心の底から願っています。

 

 

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 風邪気味で会社を休んだ時、偶然、自室の窓から撮った雲。

 大きな鳥が、力強く飛んでいるように、私は感じる一枚です。

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

【イジメ・トラウマ】イジメ ~イジメは、重罪だ~

 唐突ではありますが、開設して一ヶ月も経たない本日。

 

 お陰様で、1000を超えるPV、一週間で400ものPVをちょうだいすることができました。

 

 深い感謝、という言葉では表しきれない、感涙にむせぶ程です。

 皆様、御礼申し上げます。

 そして、これに甘んじることなく、ブロガーの一人として、更に精進してまいります。

 

 

 

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 さて、今回は私の人生というものが一変し、今も尚私の中に強く根いること。

 

 イジメ

 

 今この瞬間も心が血を流し続けていることについて、お話しできればと思います。

 

 このことについては非常に長くなると思う為、二記事にわけて綴っていければと思っています。

 

 

 ※注記※

 本内容は、私の経験、それから感じ続けていることについて綴っていきます。

 ナーバスな表現にならないよう努めるつもりではありますが、非常にデリケート、かつ同じような経験をされた方には、不快感やフラッシュバックに繋がる可能性があると、私は考えています。

 上記にあてはまる方は、閲覧をお控えくださるとともに、その上でご理解、ご納得された方は、引き続きご閲覧くだされば、幸いです。

 ※注記終了※

 

 

 

 

 

 

 イジメの現状

 

 

 現在こそ、イジメということは世間的にも大きく注目され、報道されたり事件沙汰になったりするようになりました。

 しかし、イジメの手段は変わっても、イジメという行為そのものは、なくなっていません。日々、どこかで行われています。

 何も変わっていない。

 私が経験した、あの時から。

 

 

 

 

 

 周りとは少しズレていた。それでも良かった

 

 

 中学生。部活に勤しみ、学生生活を楽しんで、交流をより深めていく期間。

 同時に思春期を迎え、人間関係が拗れやすい時期でもあります。

 

 当時の私は、周りに溶け込むとまではいかないまでも、ある意味変わり者という分類に位置する学生でした。

 ある意味一番やりたい放題できる時期で、周りは思うがままにバカをやったり、ふざけあったり。

 他方で、身だしなみや「自分」という存在を確固たるものとする為に、自意識や自我が強く芽生え、個性が生まれ始めていました。

 大人の階段を、少しずつ登り始める、難しい時期。そう、私は捉えています。

 

 そんな中で私は、周囲と共にそういったノリに付いていけずにいました。

 今思えば、付いていこうとしなかった、といった方が正しいのかもしれません。

 一言で言えば、傍観者。

 同級生の行動や仕草を、距離を取って見詰めている。そんな学生。

 クラス祭があった時も、少し離れて腕組みしていた私に「一緒に楽しまないの?」と声を掛けられても。

 「こうやって皆を見ている方が、楽しいんだよ」と私は返しました。

 

 私の経緯については、下記記事もご覧くだされば、幸いです。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 

 

 転機

 

 

 それが一変したのは、中学二年の夏。とある女子学生が、他校から転校してきたことでした。

 幸か不幸か、その生徒は、たまたま私の隣の席に座ることとなりました。

 

 この時に、私の持つHSPが無意識に働きました。

 

 転校したてで、不安だらけなのだろうか。友達は、できるのだろうか。馴染んでいけるだろうか。困っていることばかりなのではないか。

 

 誰も必要としない、簡単に言えばお節介癖。

 

 私なりに、ではありましたが。不安を煽ったり困惑させたりしないように。

 目線を合わせながら、声を掛けたことを覚えています。

 

 その生徒は、最初こそ照れ隠しなのか、うざったいと感じたのか。そればかりは、私にはわかりません。

 とにかく、なんだかよそよそしい声を返してきました。

 

 

 

 

 最初こそ、イジメと思わなかった

 

 

 

 とある日でした。

 休み時間中、ノートを添削する為に消しゴムのカスを机から払った時でした。

 

「あのさ、消しカス散らばすなんて何考えてんの?」

 

 ん?

 何?

 

 何を言いたいのか、最初はわかりませんでした。

 特段おかしいことをしたつもりは、私はありません。

 何がその生徒の気に障ったのか。全くわからないまま、私はただ、はぐらかすしかできませんでした。

 

 別の時には。

 私は元々鼻が悪く、当時は特に鼻水が詰まり続けていました。

 同時に耳の調子も良くはなく、鼻水をティッシュでかもうとすると、下手すると中耳炎になってしまう程弱かったです。

 それ故、耳に影響がでないよう、鼻水をすすることが癖になっていました。

 そこに、例の生徒が。

 

「鼻詰まってるならかむこともできないの?鼻すすってばかりで汚いんだけど」

 

 いや、え?

 流石に身体の事情もあったので私なりの説明をしましたが、聞く耳持たず。

 寧ろ、あからさまに「汚いものを見る目」で私を見下していました。

 

 そこから、いちいち私が行う行為、行動に、根拠があるようなないような、兎にも角にも嫌味や皮肉を言われ続けるようになりました。

 

 最初こそ、私のこと嫌いなのかな、なんて軽く考えていました。

 でも、気付いてしまいました。

 

 これって、まさか。

 イジメ?

 

 いや、そんなことあるはずがない。

 イジメが、こんな身近過ぎるところで起きているわけがない、と勝手に思い込んでいたのです。

 

 

 

 

 止まらない精神攻撃、汚染されていく同級生

 

 

 不思議なものです。

 ヒトというものは、強い権威や影響力がある人物が一度現れると、皆感化されて付いていくんですよね。

 何故でしょうね。

 

 

 一度始まった嫌がらせは、止まるということを知らぬまま、反対にエスカレートしていきました。

 私の仕草や行動への、偏見とも取れる罵声、罵倒。

 抵抗する私に、「まず自分が変わりなさいよ、意味分かんないんだけど」と罵られて。

 

 そこに追い打ちを掛けたのが、それまで仲良くしてくれていた同級生も、気付かないほうがおかしいと思える程の変貌ぶりでした。

 

 私の言葉に対する、冷やかしや嘲り。

 明らか過ぎる程の、無視。

 配色当番になった時に、私の手から渡される食器を、汚いものを受け取るように見せる表情。

 

 次第に私は、ヒトに接触するということが怖くなり、避けるようになっていました。

 

 文化祭の準備でも。同級生にすら話しかけたり、何か手伝うことさえ躊躇い、おどおどする私に。

「突っ立てないで何かしてよ、役立たず」

「誰かに言われないと何もできないの?馬鹿」

 

 私の場合は身体的な嫌がらせや、物理的にものを隠すといった、証拠が残るようなイジメではありませんでした。

 その分、端から見ればイジメか否かを判断できない。

 精神攻撃という、最低で汚いやり方。

 

 

 

 学校という閉鎖された空間に、逃げ場はなかった

 

 

 

 日を追うごとに、私は授業中でも個室に勝手に移動したり。

 給食の時間も、誰もいないところで一人膝を抱えて一日が終わることを願ったり。

 最早、異常行動。

 そうでもしなければ、私は私という存在を保つことができなくなっていました。

 誰にも話しかけることもできなくなり、話しかけられたら、「今度は何を言われるんだ」と恐れながら答えることしか、私にはできませんでした。

 

 学校という、閉鎖された空間。

 そこに、逃げ場というものはありませんでした。

 

 

 

 

 大人もまた、信用できなくなった

 

 

 担任には、私がそういった被害を受けていると、何度も訴えました。

 中学生といっても、所詮は子供。大人なら、なんとかしてくれる。

 

 その一途の希望さえ。

 

「気にしすぎなんだよ」

 

 温もりも何もない、一言で毎回逃げられました。

 何度話しても。何回相談しても。

 返ってくる言葉は、同じだった。

 

 私が思っていた、教師。大人というものは。

 何もしてくれなかった。

 

 

 

 

 イジメに判断基準でもあるのか?

 

 

 それなのに、中学三年生になったある日。

 別の生徒の机から、画鋲が多数入れ込まれている事態が起こりました。

 

 それまで、私の訴えを無きものにしてきた、担任は。

 鬼の形相と馬鹿でかい声で。

 「こんなことした馬鹿は誰だ!!」

 と、教室で叫んでいました。

 当然、皆知らん顔。私も知らないことだったので、無言のまま。

 それでも尚、怒り狂ったかのように生徒を叱る……否、感情剥き出しに怒ることをやめませんでした。

 

 

 私は、別の感情に支配され始めていました。

  

 私があれだけ相談し続けていたことは、一切触れないままなんだね

 

 証拠が残るイジメなら、説教ではなく単なる怒声しか張れない担任。

 大人というものを、両親始め身内以外でしか知る手段のない当時の私は。

 

 大人なんて、ダメだな

 

 歪んだ意識が、刷り込まれるように私を支配しました。

 

 

 

 一方で唯一、母にはこのことをずっと話していました。 

 今でこそ考え方や価値観が変わった母でしたが、当時は忙しく介護にも追われていた母は。

 「辛いのは、皆一緒」

 とある意味慰めに似た言葉を掛けられました。中退ということが後々響くことを十分知っていたからこそ、負けるな、と言いたかったのだろうと今は思っています。

 

 それはわかる。

 でもね。

 私が苦しんでいるこの思いは、皆一緒なの?

 我慢しなきゃ、いけないものなの?

 

 結局、私は独りなの?

 

 

 

 我慢の限界だった

 

 

 季節が変わっても、変わらないのは精神攻撃。

 その中で、殊更大きな出来事がありました。

 クラス祭に向けて、合唱練習していた時でした。

 当時は音楽というものに興味がなく、私は周りの音に合わせて歌うことしかできませんでした。

 しかも一般的な合唱曲ではなく、アーティストが歌う楽曲。音取りにさえ苦戦したのに、リズムがとにかく掴めませんでした。

 

 そこでも、罵声と罵倒。

「ちゃんと歌ってよ、声小さすぎ」

「あんた、音ズレてるんだけど」

「やる気あんの?」

 

 その瞬間。私は積もりに積もった思いが、遂に決壊しました。

「私ばかり責めて、他の奴らも同じようなもんでしょ!?何で皆に注意しないんだ!?全部私に押し付けて!!」

 それまで見せなかった私の怒りの感情に、黙り込むクラスメイト。でも、私の言葉は止まらない。

「……いい加減にしろ。そうやって好きにやりたいなら、勝手にやってろ。私は帰るからな」

 

 吐き捨てるようにし、私は体育館を後にしました。思い切りドアを締めたその背後から、聞こえてくる言葉はありませんでした。

 

 以来、ますます私は孤独というものを味わい続けました。

 休み時間でも誰とも話すことなく、勝手に持ち込んだ本を廊下に座り込んで独り読み耽って。

 学校に行きたくないあまりに、母に電話してもらって休むことも増え。

 行けたとしても、すぐに早退する癖がついて。

 

 

 もう、どれだけ蔑まれても、どうでも良かった。

 私という存在が、まるで二人に分かれてしまったかのように。

 学校では何も感じず返答もしない私。

 家では、勉強すらせずひたすらゲームに耽る私。

 私は最早、壊れかけた人形と化していました。

 

 

 

 私が壊れた瞬間

 

 

 

 そして。

 私がヒトという存在に絶望し、諦めてしまった決定的出来事。

 

 中学最後となる文化祭。周りは最上級生という主役であり、最後という思いからか。

 盛り上がるに盛り上がっていました。

 

 恐らく、私だけでした。

 

 くだらない時間。

 無駄な時間。

 

 そう思いながら、嫌々ながら、耐えるように過ごしていました。

 

 時間は無意味に過ぎ、文化祭の最後を飾る、全校生徒でのダンス。ペアを作って、上がりに上がったテンションに任せて踊るその場で。

 

 

 皮肉もいいところ。

 

 

 相手は、イジメの要因となる、女子生徒でした。

 

 手を握ることを、どう見ても嫌そうを通り越して、毛嫌いするその仕草。

 いざ手を握って、ダンス中も、私のことを見向くことなどなく。

 私も私で、最低な時間だ、と誰かに吐き捨てるように。

 その時間は終わりました。

 

 

 そこまでなら、百歩譲って、今まで通りでした。

 

 ですが。

 

 大勢の生徒が、クラスメイトが沢山いる中。

 その生徒に、泣かれました。

 私の眼前で。

 私と手を握ったことを、「どうしよう」などと喚きながら。

 

 

 私は、この時、全てが壊れました。

 

 後夜祭など無視して、家へ一直線に、逃げるように帰って。

 部屋に閉じこもって、家族とも話すことなく。

 ご飯も食べずに。

 朝まで泣き通しました。

 

 

 

 

  

 イジメは、罪以外の何ものでもない

 

 

 加害者がどう思っていたのか。それを見ていた周りの人間が、どう思ったのか。

 単なる冷やかし。からかい。弄ると面白い。

 それよりも根強い、恨みや憎しみ、嫉妬。

 

 私は、はっきり申し上げます。

 

 加害者や傍観者の考えや思いなんて、どうでも良い。

 

 人生を一変させ、人格さえ変えかねない傷を負うのは、被害者だ

 

 イジメに関しては、被害者にも非があるだとか、相談しないからだとか、そういった意見も散見されます。

 

 そんなことは、決してない。

 心だけでなく、身体を自傷し、最悪自殺に追い込むイジメは。

 学校という中だけでは決して済まされない、罪。重罪中の重罪だ

 

 幸い私は自決に追い込まれることはありませんでしたが、今この瞬間にも、イジメという最悪の害悪に潰されそうになっているヒトがいるはずです。

 

 その人たちに、私が掛けられるような言葉は、ありません。安易な同情や共感は、無慈悲に傷付けてしまうと考えているからです。

 

 問題は、日本という社会が、何故もっと真剣に向き合わないのか。

 これだけのイジメが世間に露呈しても尚、誰も動こうとしない。

 動く時は、全てが手遅れ過ぎてからです。

   

 

 私が言いたいことは、一つだけです。

 

 私のようなイジメ被害者が、これ以上出てほしくない。

 

 イジメは、内容や経緯、軽さや重さを比べるものではありません。

 イジメが起こった瞬間、それは犯罪が起こっていることに他ならない。

 

 少しでも良い。

 何年経っても消えないイジメというものが、なくなることを、切に願っています。

 

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 今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

【趣味・車】掛け替えのない相棒 ~私と共に歩んできた、成長記~

 三賀日の中日。皆様は初詣に行ってらっしゃいましたか。

 人混みや雑踏が苦手な私は、敢えて三賀日を外して初詣に赴こうと思っています。

 などと言いつつ昨日はほとんど寝正月となってしまいました、白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 本日はお日柄も良く、綺麗に晴れ渡りました。

 そこで天候が不安定だった12月下旬以来メンテナンスできなかった相棒「Lupus」を洗車して参りました。

 

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 相棒と初めて出会ってから、早くも三年以上の月日が経とうとしています。

 今日に至るまで、クルマのクの字すら知らなかった私と共に、ここまで走り続けてまいりました。

 

 相棒に関する記事は、こちらにもございます。よろしければご覧いただければ幸いです。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 本格的にクルマについて調べて、知識を得て。私という考えや思いを、相棒を通してどのように表現したいか。

 自分が考える「クルマ」の走り方を、どう体現していくか。

 その為には、何をすればいいのか。

 

 

 今回は、そんな相棒という名の「愛車」と、私が共に歩んできた道についてお話しできればと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 出会いは、唐突だった

 

 

 

 相棒。後々「Lupus」と名付けることとなったそのクルマとの出会いは、本当に唐突でした。

 それまで乗っていた「アクセラ」に、ダウンサイジングターボエンジンのディーゼルモデルが出るという話を、たまたまネットで見つけた所から始まりました。

 クルマのSNSでも度々記事を拝見することはありましたが、この時はまだ、クルマという存在に疎い私でした。

 

 当時は愚直過ぎる程に、ネットで得た情報を鵜呑みにするばかりでした。

 ディーゼルエンジンがどういったもので、どのような特性があるのか。

 ターボが付く初めてのモデルなのに、ターボがどういった原理で動いているのか。搭載される可変ジオメトリターボというものは、何なのか。

 

 わかった情報は、ほんの僅かでした。

 トラックやバスに乗せられることの多いディーゼルエンジンは、トルクが強く、ターボとの相性が良いということでした。

 

 アクセラというクルマは普通車の中でも割と大きめな部類に入り、それまで乗っていたアクセラは1500ccのガソリンエンジン、CVTという動力伝達機構でした。

 そんな前の相棒は乗り心地やデザインこそ素晴らしいものでしたが、兎に角初速(走り出してからのスピードの乗り具合)がすこぶる悪く、軽自動車に簡単に抜かれてしまう程でした。

 

 そんな不満を持っていた私は、試乗車すら来る前に、ディーラーに駆け込んで。

 誰にも相談することもなく。

 今の相棒を手に入れる契約を結んでいました。無計画にも程がありますが、ある意味、私が持つ「興味を持ったものに対しては、悩むよりも行動に出る(購入する)」という元来持つ性格が思い切り出た瞬間でした。

 何よりも、その時は自分が迎える年齢の節目に対する、自分へのお祝いと考えていました。

 

 

 

 ノーマル時代の相棒

 

 

 納車になる直前に、試乗車が来たとディーラーからの連絡を受け、初めてディーゼルエンジン搭載のアクセラを試乗しました。

 逆にも程があるよなぁ、と今では思いますが。

 

 乗って動かしたその瞬間、その凄まじさを目の当たりにしました。

 私の住む地域は標高の落差が大きく、坂道も軽く10°を超えるところも多いです。

 今までアクセルを思い切り踏み込んでも、坂道に負けてしまっていたのに。

 ディーゼルを搭載したアクセラは、苦もなく上り切ってくれました。

 エンジンの唸り声を上げることもなく。

 ターボの心地好い咆哮を響かせながら。

 安定しながらも、力強さも兼ね備えている。

 

 契約後ではありましたが、直感的に。

 このクルマなら、私と共にさらなる一歩を。

 否、もっと先へ駆け抜けることができる。

 そう確信しました。

 

 

 そして、対面した相棒は。

 

 

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 現在でも、MAZDAと言えば、赤やグレー、白を推しています。

 が、私は当初より「人が選ばなそうなボディカラーにしたい」という思いがありました。

 前相棒がグラファイトマイカという灰色に近い色合いでしたが、比較的近い、チタニウムフラッシュマイカというカラーを選びました。

 この色。本当に一言では言い表せない色合いなんですよ。

 焦げ茶と言えばそうかもしれませんが、天候次第では全く別の色に変化するのです。

 この写真は、比較的パンフレットに近いチタニウムフラッシュマイカという色です。

 

 この時は、本当に何も弄っていない、純粋なアクセラでした。懐かしさすら覚えます。

 

 

 

 

 欲望が、少しずつ滲み始めて

 

 

 最初こそ、動力の素晴らしさや足回りの良さ、ルックスに惚れ惚れするばかりでした。

 しかし、哀しいかな。

 人間は、一度手に入れたものよりも、更に良いものを手に入れたい。そんな欲望

が、私を一気に染め始めました。

 

 乗り始め、ようやく自分のものになったという意識が芽生え始めてからのことでした。

 なんだか、走り出しがノロイ……?トルクは十分あるはずなのに、重い。

 何故だ?

 

 ディーゼルエンジンは、馬力は低くてもトルクは十分という特性があります。

 

 ここで、馬力とトルクの違いについて、私なりに簡単な例を上げて説明させていただくとするならば。

 馬力は、陸上選手。相手を押し倒したりする力はなくても、瞬発力や速力の乗り、伸びが優れている。

 トルクは、力士。俊敏性や速さはないものの、相対する者を力で押し切るだけのものを有し、自分の体重をも凌駕するパワーと備えている。

 

 

 これをクルマに当てはめると、こうなります。

 馬力に優れるスポーツカーはガソリンやハイオクを燃料とし、瞬発力の高さと速度の伸びの良さを齎す。

 一方でトラックやバスは軽油を燃料に、重い荷物をどのような傾斜であっても、力強さで走り、ものや人を目的地まで運ぶ。

 

 相対的な位置にあり、長短はっきりした特徴を持っています。

 

 さて、その実は。

 ディーゼルエンジンは一定のエンジン回転数内であれば相応の力強さを発揮してくれますが、それ以下やそれ以上の回転数では、能力を発揮できない。

 簡単に言えば、走り始めという低回転域では、ディーゼルエンジンが持つ特性を発揮できない。

 

 私が覚えた違和感は、その定義に見事に当てはまりました。

 

 欲望は、それだけに留まりませんでした。

 

 試乗時は満足だった足回り。

 実際に自分のクルマとして走り回ると、思っていた以上に踏ん張りが効かない。

 特に山道でのヘヤピンで、速度を十分に落とさないと横に吹っ飛んでしまう。

 こればかりは、スピードを十分落とせば済むことであることは確かなのでしょう。

 が、私には何か物足りなさを感じていました。

 せっかく手に入れた、念願の相棒であっても。

 一度覚えてしまった不満は、自分でなんとかするしかありませんでした。

 

 

 

 クルマを弄る

 

 

 私は、幼少期より不器用さを只管感じ続けてきました。

 定規を使っても、直線さえ真っ直ぐに引くことができない。

 運動でも、これでもかと言うほど、こなせるスポーツはありませんでした。

 

 一方で、相棒であるクルマを、自分の思い描く姿に仕上げたい。

 

 葛藤以外の、何ものでもありませんでした。

 

 ですが、最後に勝ったものは。

 

 下手でも、見栄えが悪くても、批判されても。

 相棒を、自分なりの形にしていきたい。

 

 その思いから、クルマ弄りという世界に飛び込みました。

 

 まずは、出だしの悪さを良くする為に、給排気系を換装。

 

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 エアフィルター(吸気時のゴミを取り除くもの)やエアインテークパイプを純正品と交換。

 

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 排気系も、マフラーを純正の一本出しだったものから二本出しにして、吸気から排気までの流れを適正化。

 このバランスは、非常に重要です。片方を良くしても、「空気は沢山吸えても、糞詰まり」になったり「空気が吸えないのに、下痢気味」な状態になりかねない為です。(お食事中の方、汚い表現方法で申し訳ありません)

 ただ、正直な話ではありますが……純正がシングル出し(マフラーが一本しかない)だったので、より見た目を良くしたいが為に二本出しにしたかった、という思いが強いですが。

 

 兎にも角にも、給排気系は手が出しやすい分、バランスが非常に重要なことを知って、両方を一括交換しました。

 

 更に、「ECU」と呼ばれる部分にも専門的な知識の元、チューニングを施していただきました。

 ここは、パソコンでいう「CPU」に相当するもの。

 下手な弄り方をすれば、エンジンの不調を招くだけでなく、最悪の場合、エンジンを壊しかねない、非常にデリケートなものです。

 

 これは、給排気系を交換した場合にはかなり重要になってくる部分であると私は考えます。

 パーツ交換により、純正設定の空気の流動量とは異なった値になっても、ECUは純正基準でクルマの動力等を制御します。

 ここを変えない限り、幾ら給排気系を弄ったとしても、効果は薄い。そう思っている為です。

 こればかりは自分ではどうしようもない部分でしたので、専門店に依頼しました。幸いにもそういった界隈ではとても有名で実績も確かであるショップにお願いしたので、十分を過ぎる確たるものを得ることができました。

 

 そして、私なりに拘っていた足回り。

 クルマ販売メーカーによって、この部分は各社なりの味付けがなされているところです。

 MAZDAは国産ながらも、割と硬い足回りとハンドリングの重さを感じさせてくれます。

 が、会社保有の社用車は多種多様で、本当にメーカーごととに方向性が異なる特性を私に教えてくれました。

 

 そこで至った、私の結論は。

 

 

 道路状況を的確に伝えながら、人によっては不快に思うかもしれない程の硬さ。

 コーナリング時に、車重や速度に負けない踏ん張りの強さ。

 

 これを求め、足回りを強化して参りました。

 

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 ボディ強化。簡単に言えば、「カーブなどで変形しやすいクルマの状態を、より強固にして安定性や道路状況に負けない強さを得る」パーツを取り付け。

 

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 現代では主流となっているSUV。それと区別したいという思いと共に、低重心化により安定性を確保するために車高を軽めに落として。

 

 今やOBとなってしまったかつての先輩から、ドレスアップの一つとして教えられ続けた、タイヤ・ホイールのインチアップ。

 

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 挙げれば切りが無いほどのことに手を出して参りました。

 

 

 

 

 人とは違う、「相棒」を目指して

 

 そういった大体的なパーツ交換に留まらず。

 クドくならない程度に、ガーニッシュを加えて。

 

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 ただ只管に。

 アクセラというクルマに。ましてや、希少種と呼べれているチタニウムフラッシュという相棒に。

 私なりの、個性を出していきたい。

 その一心で、ここまで数多くのパーツを導入してきました。

 そして、不器用自認ながらも、「できることなら、挑戦したい」という思いも同時に芽生えて。

 

 

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 ブレーキキャリパーを塗装したり。

 

 一度事故を被って以来、疑心暗鬼と言われる程の。

 

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 フロントの左右に、メインとサブを。

 リアにもドライブレコーダーを自分で設置しました。

 ……もう、あれですね。

 端から見れば、キモチワル程。

 

 それ位弄って参りました。

 

 

 

 

 相棒「Lupus」

 

 

 

 多くのお金を費やして、共に駆け抜けていく中で見出すことができた、「私なりの、クルマというもの」。

 それをようやく実現できたのが、今の相棒「Lupus」です。

 

 

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 足回りは国産車としては硬め、踏み込んだアクセルに対する反応は若干ピーキーで、ハンドルも重い仕様となりました。

 万人受けは決してしない、そういう思いはあっても。

 

 Lupusは、私の追求に追求を重ねた最高の相棒。

 

 これ以外の言葉は、見つけられません。

 

 

 

 人によっては、車なんかにそんな金を費やして、だとか。

 車なんて、移動手段であればいいんでしょ?

 と思う方がいらっしゃることは、重々承知しております。

 

 それでも、私はそうではないと叫びたい。

 

 たかが車であったとしても、同じ時を、同じ場所を過ごす存在であるならば。

 クルマというものは、ただの道具ではない、パートナーになり得る存在である。

 

 押し付けたくはありませんが、それ位、私のクルマに対する矜持は強いものがあります。

 

 

 そもそも、と言いてはならないのかもしれませんが。

 

 人それぞれ、思い入れの強いものは異なる。

 私の場合は、クルマというものが大きかった。

 

 ただ、それだけのことです。

 どうお金を使おうが、どう弄ろうが、それは個人個人違うもの。

 ましてや、思い入れるものの違いというものは、それこそ千差万別。

 意見はあれども、真っ向からの否定や非難は、そこには存在しないのではないのだろうか、と私は思うと同時に、そう信じています。

 

 

 

 末永く、いつまでも

 

 

 長々と、5000を超えてしまう記事となってしまいましたが。

 それ位、私のクルマという存在に対する思いは、強いものであると自覚しています。

 

 

 

 最期の最期まで。それこそ、もう動かなくなってしまう時まで。

 出来うることなら、永劫、共に過ごしたい。

 そんな相棒を、長々とご紹介させていただきました。

 

 

 うーん、私は本当に、要点や纏めることが絶望的に下手くそです……。

 

 

 

 今回も最後までご覧くだいまして、ありがとうございました。

 

 それでは、また次回まで。

 

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【生き方・人間関係】2020年。 ~言の葉、言霊~

 つい十数時間前までだった、2019年

 普段どおりに、寝て、起きて。

 いつの間にか、2020年という新たな年が始まっております。

 

 改めまして。

 昨年は、大変お世話になりました。

 本年もまた、何卒よろしくお願い申し上げます。

 また、この度Pro版にアップグレードいたしました。

 

 うーむ、HTML言語というものは難しいですね。

 パソコンのエンドユーザーに関する知識は学生時代より学んで参りましたが、プログラム言語やデバックといった開発系は、私のような文系人間には難解なものです。

 精進せねば。

 

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 さて、今回は年末年始のご挨拶というところから。

 言葉

 このことについて綴っれいければと思います。

 

 

 ※注記※

 本記事は、私なりに感じ、考えた事柄について述べる内容となります。

 決して押し付けるようなつもりはありませんが、不快感、反論を抱くようなことがございましたら、遠慮なくお伝え下さい。

 最終手段として記事を削除いたしますが、すべて、私の思いである他ありません。

 この注記にご賛同くださる方は、引き続きお読みくだされば、幸いです。

 ※注記終了※

 

 

 

 

 

 

 言葉とは

 

 言葉。普段より意識するようなものではないかと思いますが、それがどういったものなのか。

 

 「口で言ったり、字として書いたりして意味を表すもの」

 

 調べてみて改めて知ったことがありました。

 私は言葉というものが、「口で言ったこと」だけだと勝手に信じ込んでいました。

 つまりは、母音と子音の組み合わせた、言語という「声」や「音」。それが、言葉というものである、と。

 しかし、こうして書き起こしている文章もまた、言葉という定義の一つになることは、かなり意外でした。

 文字の羅列であったとしても、それによって「意味を示す」こと。

 そう、文字をただ書くだけではなり得ないが、そこに「自分の意志や思い」が書く者により込められたのであれば、それは言葉になる。

 

 確かにそうなのでしょう。

 飽く迄、手段の違い。声に出すのか、文字として綴るのか。

 過程は違えど、最後に行き着くのは、思いや意志、意見や考えが含まれていること。

 それが、言葉というもの。

 

 当たり前を通り過ぎて、無意識に使っている概念。

 きちんと定義付けられていることを知るというのは、私は興味を唆られ、関心を持ちます。

 

 

 

 当たり前過ぎるのに、深さをもつもの

 

 

 こうして言葉の定義を知ると、奥深さに果てというものは存在しないのだろうな、と私は思っています。

 ヒトという種族が種の存続を賭して、他の動物が持ち得なかった「言語」を操り、意思疎通する為に用いられてきた、言葉。

 その時代に生きた人々の生活や状況、言い伝えを残すために、石の壁や石版に彫り込まれた文字や文章という、言葉。

 時を経るに連れ、その手段は変化をしてきました。

 手紙、書面。

 国家や軍が生き残る為に飛び交った、言葉。

 さらには、自分と相手がリアルタイムで話すことができるようになってきました。

 黒電話や公衆電話を通じて直接声を交わす、言葉。

 通信は、飛躍し続けてまいりました。

 暗号文、ポケベル。

 遠く離れた人同士が、機密的内容を非諾して送ったり、傍受したり。

 固定電話がない場所でも、簡単な文字列を送ることで意思疎通を可能にした、言葉。

 

 そして、今では。

 スマホやパソコンというものを介して、誰でも、どこでも言葉のやり取りができる時代となっています。

 

 黎明期の「World Wide Web」。元々は軍事的通信を目的に開発されたものでしたが。

 次第にチャットや掲示場、個人運営のホームページ。

 それから二十年も経たぬ間に、SNSやLine、ブログ、ツイッター、インスタグラムにFacebook。

 上げ始めたら切りがない程、ヒトは「自分の思いや意志」を伝える手段を発見し、発明し、展開させ、現在ではあって当然というものとなりました。

 

 ですが、手段の違いはあっても。

 それらには、必ずといっていい程「思いや考え」という、最終的に伝えたいことが根付いていることに変わりはないと私は考えています。

 それら全てが、言葉。

 

 当たり前になりつつも、そこには、計り知れない深さがあると、私は思えてならないのです。

 

 

 

 

 深さを知ることができるか、否か

 

 例えば、本日のような年末年始に飛び交う言葉。

 「新年 あけましておめでとうございます」

 実はこの一文は、誤りがあります。

 「新年」という言葉と「あけまして」という言葉が、同じ意味を含んでいる為です。

 意味の重複、となってしまいます。

 

 それ以外にも、相手が目上か目下であるかによって、表現が異なってきます。

 

 そして、ここが私が最も申し上げたいところになります。

 年末の「良いお年を」という言葉。年始の「あけましておめでとうございます」という言葉。

 文面や声として出す言葉の羅列自体は、決り文句と言っても過言ではないかと思います。

 

 ですが。

 

 相手がもし、喪中であったとしたら?

 

 喪中という、年を越すことにおめでたさなど感じられない人も、少なくないと私は思います。

 そこに、掛けられる言葉は。

 果たして、どういったものなのか。

 私も祖父母を亡くした時、会社の先輩方が喪中に服していることがわかっていた時は、かなり悩みました。

 今まで当たり前のように使ってきた言葉。それを使ってもいいのだろうか。

 

 最終的に有耶無耶になってしまってすみません。ですがこればかりは、人それぞれになってしまう部分が大半を締めてしまうと思っています。

 身内や普段から顔を見せている会社の人間ならまだしも。

 SNSというものが当たり前となった現代では、そういった深すぎることを知る機会は、あまりにも少ない。他人に言えるようなことでないのだから、尚更のこと。

 言葉というものが与えるものは、計り知れない。

 

 そこで、私は敢えて意識していることがあります。

 年末の挨拶は、「今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします」。

 年始では「今年もよろしくお願いいたします」。

 相手がどのような状況かであるかわからない。そうであるならば。

 無難な言葉に留めよう。

 

 一つだけ、申し上げたいことがあるとするなら。

 不用意に相手を気遣ったり、慰めのような意志が伝わらないようにしたい。

 言葉は自由な分だけ、相手がどう捉えるかは、自分ではわかるはずがないのだから。

 その意志があることだけは、どうしても伝えたいと心より思っています。

 

 

 

 言霊

 

 

 言葉という内容について、ここまで述べて参りました。

 言葉とは、「言霊」とも呼べるものです。言魂とも表記することもあります。

 

 日本独自の考え方の一つであると言われていますが、それは。

 「声に出した言葉が、現実世界に何らかの影響を及ぼし、良い言葉を発すれば良いことが、不吉な言葉を発すれば凶事が起こる」

 とされています。

 

 私なりに言い方を変えれば、言葉というものは。

 本人が何気なく発した言葉であったとしても、それを受け取った相手や世間が、どう捉えるかはわからない。

 特別な言葉でなくても、誰かを嬉しさや喜びを齎し、救いとなり得る一方で。

 正反対に、誰かを傷付けてしまったり、恨みを覚えさせ、争いの元にさえなり得る。

 

 言魂、という表記通り。

 言葉には、知らぬ間に発した人の思いが入り込んでいるのではないかと、私は考えています。

 たった一言であったとしても、そこには「魂」という、目には見えないながらも強い何かが詰まっている。

 

 私もそれに気付くことができずに、いつの間にか、身勝手な「思いやり」と信じて発信した言葉が、相手を傷付け、恨まれ、疎まれて。

 逆に相手からの何気ない誘いに対しても、「私の事情も知らないで、よくそんなことを……」と怒りや憎しみを覚えてきたこともあります。

 

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 SNSが齎した利便性と、裏に見え隠れする感情の渦

 

 

 昨今、発展し続けるSNSで度々問題や事件に至る騒動さえあります。

 

 手軽に「自分という存在を示すことができる場であり、手段の一つ」となった、SNS。

 

 しかし一方で、投稿した本人が意図したものとは正反対に世の中や相手が反応し、俗に言う炎上沙汰になることも少なくありません。

 

 あからさまに自己顕示や自己承認欲求を満たす為の非社会的行動は論外としても。

 

 今や、どんな小さな言葉でも、一度発したら訂正や取り消すことはできないものになっていると、私は思えてなりません。

 

 ネットワークという、無限大に広がる世界に投じた言葉は、一度誰かに認識され、感情を動かされた段階で、最早どうすることもできない。

 喩え弁明したとしても、一対多という状況では、覆すことなどできはしない。

 

 

 今こうして文章を綴っている私の記事も。

 人によっては嫌悪や反論を呼びかねません。

 

 

 最後は、考え始めたら切りがないというのが、私なりの見解です。

 どれだけ自分が正しいと思っても、表面上は適切であったとしても。

 ご覧くださる人々の思いは、私が考えることなど矮小過ぎるほど、広くて様々。

 

 

 でも。私はそれでも。

 一人のヒトとして、私なりの思いを、言葉にしていきたい。

 どう解釈されるか考えて、悩んで、やめてしまう方が、私には辛くて切ないことだから。

 その思いを抱く以上、覚悟は当然必要です。蔑まされたり苦情を受けることがあったり、意図は図れずとも「拡散」されるようなことがあっても。

 

 私は、私の思いや意志を文章という「言葉」で綴り続けるのを、やめたくない。

 社会的制裁が、ない限りは。

 

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 文章を扱う一人として、ある意味では、今年の抱負と言えば良いのでしょうか……。

 このブログを続けていく為の矜持の一つ。

 そんなものを示すことができたら幸い、と考えています。

 

 

 

 今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。

 

 それでは、また次回まで。

【生き方・人間関係】2019年、お世話になりました。 ~2020年も、また~

 いざ大晦日という日を迎えても、2019年も終わりなのか、という思いをイマイチ実感できずにいます。

 自然というものは、季節が移り変わっていくもの。花が咲いたり、風が吹いたり、雨が降ったり、晴れたり曇ったり。

 それを繰り返し続けているだけ。

 年が変わる、時間が過ぎ去るといった概念。

 それは飽く迄人間が創り出したものに過ぎないのかもしれない。

 と個人的な思いを抱いています。

 

 一方で欲望塗れの私はというと。

 部屋が日増しにウイスキーとオオカミ(のグッズ)が増え続けている、白兎です。

 

 年の瀬、皆様如何お過ごしでしょうか。

 

 

 2019年最後となる今回は、今年一年を、私なりに振り返っていければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 仕事に追われて

 

 今年を一言で表すとすれば、「仕事」。それ位、これまでと違う仕事や人間関係に追われ続けて参りました。

 

 自分一人だけではとてもこなしきれない仕事量。それを別の社員に依頼しつつ、一つずつ仕事を潰していく。

 

 私は元々人に何かを頼む、ということが非常に苦手な人間です。

 

 他の社員の予定を調べ、直談判。それから仕事の内容を説明して、相手の疑問を解決。遂行していく中でトラブルが発生したら確実にシューティングし、遂行してもらい次第、進捗管理。

 

 自分で全てやれるのであれば、自分でやり終えたい。それ位の本音を抱いています。

 が、それでは社会人として、会社に所属する一人の社員として、問題のある考えです。

 

 自分の考え方や矜持よりも、仕事をやり遂げなければ話にならないから。

 

 今まで経験のなかった、そういった仕事のやり方。そうしないと、本当に仕事を捌くことができませんでした。

 

 とは言え、それが当たり前のことであっても、初めてに変わりはありませんでした。

 どう話を付けに行けばいいのか。

 口下手な私が、効率よく説明するにはどうしたらいいか。

 トラブルに対してきちんと対応できるかどうか。

 

 

 ここで問題となったのが、私の持つHSPという性質でした。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

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 何がどうなるかわかりもしないのに、考えが、思いが、頭の中を駆け回って、掻き回して。

 挙げ句の果てには勝手に脳がキャパシティオーバーして、フリーズしてしまってばかりでした。

 

 自分に対して嫌気が差し。相談もせずに。仕事もはかどらず。

 負のループに完全に入り込んでしまいました。

 

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 自分ができることを、少しずつ

 

 それでも、時間は容赦なく過ぎ去っていく。

 先輩や上司から指摘や叱責を喰らったりもしましたが、私ができることを、少しずつこなしてきました。

 非効率と思われても、やれることを、少しずつ。

 

 

 一方で私は、話の筋が通っていなかったり、理不尽な要求に対しては、物凄い抵抗感を覚えます。

 加えて、自分の矜持を曲げると……いわゆる妥協することができない性格です。

 

 

 日を経ることで慣れてはいきました。

 人間の持つ、順応性と適応力がいかに凄いものかを実感しました。

 

 ですが上記の性格と忙しさのあまり。

 唯でさえ脆弱な精神は削れていき。

  いつの間にか、食物を身体が受け付けなくなっていました。

 興味を持っていたことに対しても心が動かなくなって。

 精神疾患を、悪化させていました。

 

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 ブログというものに出会って

 

 

 自分の思いや鬱憤を溜め込み続けていた時。

 改めて、それを上手く処理しなければ、このままでは自分が壊れる。

 そんな危機感にも似た感情が溢れ出そうとしていた時。

 

 思いや考えを、一番上手く伝えられる、私なりの手段。

 そう、それは私が好きなことの一つ。

 文章を書いて、綴って、伝えることだ。

 

 そこで出会ったものが、ブログ。この場所でした。

 

 始めは「何を書いたらいいのだろう」や「どこまでだったら書いても許されるのか」。「毎日書かないといけないものなのか」。勇気を振り絞って開設してみたものの、実際に書き始めるまで悩みに悩みました。

 

 然れど、せめてプライベートなこと位は、自分で決めたい。

 

 自分の書きたいと思ったことを、自分なりの表現の仕方で。

 愚痴や批判は極力書きたくない。

 でも、せめて文章だけは、自分に嘘を付きたくない。

 

 そんな矜持を持ち、ブログを初めて早くも三週間弱が過ぎました。

 

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 ブログ初心者の私。でも。

 

 

 まだまだ始めたてで、ブログ初心者の私ですが。

 お陰様で、多くの皆様がご覧くださり、嬉しさと喜び、そしてそれ以上の感謝の思いを抱いております。

 

 その上、他のブロガーさんの記事を拝読し、自分にはない考え方や表現方法、内容を沢山知ることができました。

 

 私は、まだまだ狭い世界しか知らない。

 世界は、広い。どこまでも、果てしなく。

 

 これからもブログを通じて、様々なものと出会い、共有し、さらなる高みを目指していきたいという思いをしっかりと抱いて。

 

 今年最後の記事の締めとさせていただきたく思います。

 

 

 今回もご閲覧くださいまして、ありがとうございました。

 

 本年も、大変お世話になりました。短い期間ながらも続けられてこれたのも、皆様の御愛顧の賜物でございます。

 来年以降もまた、何卒よろしくお願い申し上げます。

 

 それでは、また次回まで。

 

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【人生・機能不全家族】機能不全家族 ~結婚に関心を持たない、理由~

 昨日より、母と兄とともに十数年ぶりになる旅行に行って参りました。

 旅行と言っても県内ではありましたが、私の記憶にある限り、学生時代以来となる時間となりました。

 なんといいますか、身内と過ごす家の外での時間というもの。日常とは少し違った時を過ごすことができました。

 ある意味で、新鮮。

 決して家の中では見られない、自分が知らない身内の別の姿。

 食事を共にし、酒盃を交わし、同じ部屋で眠る。

 クルマでの遠征において、或いは会社での研修や出張にて一人でビジネスホテルに泊まることは多々ありましたが、そういったものとはまた別の……全く別の時間を過ごすことができた。

 

 相変わらずにはなりますが、父親は無関係です。

 そもそも、家族とすら思えないような人と、そんな時間を過ごすことは、私にはできません。

 

 

 そんな年末に、また別のウイスキーに手を出している白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 

 私が幼少期より感じていた、違和感。

 

 家族。

 

 一つ屋根の下で生活を共にする、多少の違いはあれど、血の繋がった者同士の一つの括り。一つの団体を表す単位。

 

 それは、掛け替えのないもの。

 果たして、そうなのか?

 

 本日は、そういった内容について綴っていければと思っています。

 

 ※注記※

 本記事は私の生まれ育った環境や境遇についてお話しする。その域を超えません。

 それ以上に様々な思いや感情、ご経験をされていらっしゃる方が大勢いらっしゃること。それを承知の上で、私なりの本音を書いていきます。

 不快感、反論を覚えることがございましたら、ご意見くだされば幸いです。同情や弁明はできませんが、最低限、不快感を覚えさせてしまう原因となった本記事は削除いたします。

 上記についてご承知おきくださる方は、最後までご覧くだされば、幸いです。

 ※注記終了※

 

 

 前書きが相変わらず長くなってしまいましたが、始めていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 機能不全家族

 

 

 この言葉については、最近になりながらようやく知ることができた言葉であり、概念です。

 小さい頃から、自分なりに感じ続けてきた違和感や疑問。

 

 それが解決の糸口となったものでもあります。

 

 それについて言及する前に、私が抱いていた「家族」というものを、知人友人を通し聞き、幼いながらも自分なりに解釈してきたこと。それは。

 

 先述した通り、ひとつ屋根の下で時間を共にするもの。

 職業や環境に差異はあれど、イベント(例えば、誕生日祝だったり年末年始だっったり)というものを大切に、食卓を囲み、食べながら、飲みながら、和気あいあいと過ごす。

 血の繋がりは兎も角としても。

 それ以上の、確固たる繋がりがある絶対的なもの。

 

 

 今思えば、私の勝手な理想だった。

 しかしながら、私の家族というものは、決してそういうものではありませんでした。

 

 ここで、「機能不全家族」というものを簡単に説明できればと思います。

 

 簡単に申し上げますと、一般的な家庭として存在すべき「団らん」や「子育て」、「(子供から見て)両親同士の関係」が機能していない家族の事を指すと言われています。

 

 こう書くと難しくて厄介そうに感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、私なりに一言で表すとするなら。

 

 血が繋がっていようがいまいが、家族として成っていない、人間同士の集団。

 

 家族、という言葉に対し抱く思いは人の数だけ存在すると思っています、

 然れど、逆に申し上げるとするなら。

 家族というものに抱く考えや羨望は、人それぞれと言えるような気がしてならないのです。

 

 

 

 

 私の家族

 

 

 私が物心ついた頃より、まず、両親が全く会話している光景を見たことがありませんでした。

 極端かもしれませんが、今日に至るまで。

 本当に、一度たりとも見た記憶がありません。

 

 喩え意見が合わなくて怒鳴り合ったり、喧嘩したり。

 その後の謝罪を通して関係を取り戻したり。

 

 一切合切、その光景や声を聞いたことがありません。

 

「夫婦というものは、そういうことはしないものなんだ」

 そういった思い、考えを幼少期より覚え、信じてきました。

 

 

 

 

 祖父母の代から……?

 

 

 

 しかし、それは。祖父母の代から続いていたのかもしれません。

 今は亡き祖父母は、当時としてもかなり珍しい恋愛結婚だったそうです。

 デートや告白の際、思わずそれまで付き合っていた人の名前を間違えて口走ってしまった、ということもあったそうです。

 これだけ聞けば、「ラブラブ?じゃないの」と思っています。

 

 ですが、その実は。

 私の両親と、然程変わりませんでした。夫婦のやり取りの方向性としては、ほぼ真逆でしたが。

 あまりのも違いすぎる考えや思いの違いから、しょっちゅう喧嘩して。

 祖父が怒りに怒って出ていった時は、祖母が日本酒一升瓶を抱えて飲み耽って。

 今ではあまり聞かないかもしれませんが、ちゃぶ台返しを目の前でやらかしたり。

 

 母曰く、「なんで結婚したのかねぇ」なんて言うほどです。

 私からすれば、まだ「夫婦」というものをなんとなく。

 辛うじてながらもですが、理解できる。

 そんな祖父母でした。

 

 

 

 では、両親は?

 

 

 

 一方で、私の両親はというと。

 

 食事を共にした光景すら、一度も見たことがありません。

 夫と妻、その子供たちたる私たちが面向かって会話したり、喧嘩したり、和気あいあいと過ごした光景。

 一度も見たことがありません。

 

 夫婦が子供に留守を任せ、二人で外食や買い物に出かけたこと。

 一度も見たことがありません。

 

 私たち子供が進学する時。

 私には兄がいますが、それぞれが進学することについて話したり、激励したり、「頑張ってこいよ!」と押し出してくれたこと。

 

 一度もありません。

 

 最早、あるという事柄を上げることが本当にありません。

 

 

 

 母親

 

 

 両親双方がそうであるかと言うと、そういう訳ではありません。

 母は親身に、私や兄の声を聞き、受け入れ。それに対して自分なりの言葉を掛けてくれました。

 

 母は自分の意見を曲げることはないものの、とても強さを感じさせる女性です。

 意見がぶつかることは、少なくなかった。でもその中でも自分の訴えだけでなく、私や兄の声に懸命に応えてくれます。

 ひねくれた私は、「それは貴女の意見であって」なんて、冷たい言葉を掛ける言葉も多くありましたが。

 忙しいながらも、大変ながらも、寄り添ってくれた。

 決して「勉強しなさい」や「そんなんじゃ進学できない」という押し付けのない人。

 比べるようなものでは、決してないと思いながらも。

 私を、兄を産んでくれてありがとう。

 愚直過ぎるながらも、その言葉だけでは足りないほど、誇りさえ持てる母です。

 

 

 

 父親?そんなもの、私にはないよ。

 

 

 これまで書いてきた記事の中で、少しながらも私が書いて参りました、父親という存在。

 正直に申し上げます。

 

 

 父親というものや、男性というものを最初に学ぶ存在以前の、ヒトとして最低で糞がつく程大嫌いな人間。

 

 そういった思いしか持っていません。

 この世に生を享けて以来、それ以外のものを感じたことがありません。

 

 

 妻である母はおろか。

 私の祖父母にさえ、まともに話しをする姿も見たことがない。

 

 そのくせ、月一で飲みに行って帰ってきた時には。

 皆寝静まっている時間なのに。

 馬鹿が付くほどでかい声を出しながら、口汚い罵りや不満?を漏らして。

 仕舞には「畜生……馬鹿にしやがって」と吐き捨てる。

  法事の際でも飲んだくれて、調子に乗って無意味に饒舌になる。本当に気持ちが悪くなる程明るく、朗らか?になって、浮かれて。

 

 

 ……。

 それ、誰に向けた言葉?

 酔わないと本音すら言えないって、どれだけ器が小さいんだ?

 身内に見せないで、外面の良さだけ気にしてるのですね、貴方というヒトは。

 

 

 進路相談にだって答えらしい答えを出さなかったのに。

 

 

 どの口がほぞくか、馬鹿馬鹿しい。

 

 

 

 口汚すぎる罵りとなり、お目汚しとなってしまったかもしれません。ですが、私はどこかで期待していた。

 身勝手な期待を。

 子供が進学するという、ある意味世間という未知なる世界への旅立ちに対して。

 

 何も言わなかった男に。

 私はただただ失望し、幻滅し。

 血が繋がっている事実が、果てしなく穢らわしいと思う程に。

 

 

 

 

 家族が欲しいか?と聞かれれば

 

 断じて、「No」。

 私もいい歳になりながら、未だ結婚願望すらなく、生涯を共に歩めるような人もおりません。

 

 自分の両親が見せてきた、夫婦という姿。

 そんなものを見て。

 

 それを乗り越えて、幸せな家族を作ろうとも。

 「これが、家族というものだ」と見せつけたい。

 そういった思いは、私にはありません。

 

 小さい頃から見てきた、歪んだ夫婦の姿。家族という仮面を被った人たちの姿。

 

 私には。

 

「そんなもの、不要」

 

 それしかありません。

 

 

 

 言われて苦痛なこと

 

 

 散々身勝手な思いを綴って参りましたが。

 私には、「家族」や「夫婦」という言葉が苦手を通り越して、嫌いで嫌悪すら覚える言葉です。

 

 特に会社の先輩から言われがちな言葉です。そこに嫌味や心配といった気持ちはないのでしょうが。

 

 「白兎(私の実名)は結婚とかどう考えてるんだ?」

 「お前もそろそろいい歳だからなぁ」

 「今のうちじゃないと、後々大変だぞ」

 

 

 私のことを案じてくださっている、となんとなく思えることには思えます。

  人生の先輩としての心配や助言。

 

……そう、思いたい。

 

 わかってはいる、つもりです。わかるけれども。

 失礼承知で申し上げます。

 

 

 私がどう生きようが、貴方たちには関係ないことだ。

 

 

 

 私が思わず言葉としてに出てきそうになるのは、曖昧に濁す言葉ではなく。愛想笑いでもなく。

 「それ、セクハラです」

 

 世の中の背景を盾にした言葉しか出てこない、私は弱く、軟弱に過ぎる人間です。

 

 

 それでも、家族を持つ人たちが掛けてくれる言葉は、私には苦痛や悲哀しか齎さない。

 

 それだけは確かです。

 

 

 

 

 家族って、何?

 

 

 会社の同期も皆結婚し、それぞれ幸せな家族を築いていると思っています。

 

 ですが、私には。

 

 家族というものを理解するには。

 あまりにも、遠すぎるもの。

 

 この言葉に尽きます。

 

 私からすれば、そういった人たちに私情を介して付き合えないし、無理やり付き合いたいという思いはない。

 逆に、その手の話を向けられるには、辛すぎるし、答えられない。

 

 理解してほしいとは思えませんし、そうして欲しいと思いは傲慢に過ぎる。

 放っていてほしいという思いも、哀しいかな、届かない。

 

 私が願うことは。

 

 その人が思う、「幸せ」という定義を、それぞれが全うすれば、それで良いのではないか。

 

 私のような人間には、それ以上の言葉が見つかりません。

 

 世間体という観点から、どう見られても厭わない。何故なら。

 

 世間体、という価値観の押し付けは、私には苦痛以外でも何ものでもないから。

 

 

 その一言を絶叫したい。 

 

 

 

 

 どう感じるかは、人それぞれ……なはず

 

 

 思うことは、人それぞれ。

 その領域を侵さない程度に。

 皆様が、それぞれの思いに従って、過ごせることを願い。

 

 

 今回はここまでとさせていただきたく思います。

 

 年越しまで、後一日。どうか皆様が、平穏で幸いで。

 2019年を過ごせますこと切に願いながら、

 

 今回も御閲覧くださいまして、ありがとうございました。

 それではまた、次回まで。

【趣味・ケモノ】ケモノという存在 ~人間嫌いな私が、光とさえ思えるもの~

 2019年も、年越しまでいよいよ指折り数える段階までやって参りました。

 こんばんは、白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 この度、まさかのまさか。

 一日で150を超える閲覧数を記録し、ブログを初めて二週間という短さで、総計500以上のPVをちょうだいすることができました。

 

 纏め下手な私ではありますが、本当に沢山のご閲覧、感謝以外の言葉が見つかりません。

 

 恐縮する以上に、皆様に対する有難き幸せを感じております。

 本当にありがとうございます。今後とも、本ブログをよろしくお願い申し上げます。

 

 

 さて、今回は共感を得にくい内容でありながら、私という自分を構成するもの。

 「ケモノ」という概念についてお話しできればと思います。

 

 

 ※注記※

 

 本内容は、マイナーかつ個人的趣向が大きいものとなります。

 ご覧くださる方の中では、嫌悪感や拒否反応が出る可能性があります。

 この注記をご承知おきくださる方は、お付き合い願えれば幸いです。

 

 ※注記終了※

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間という存在が好きになれない

 

 

 唐突ではありますが、私は人間という存在がどうしても好きになれないという感情が根付いています。

 自我というものを覚え、記憶がある限り。

 ヒトという種族が、他人というものが苦手で、嫌いと言っても相違ない程です。

 この時既に、「それ言った時点でどうなのよ?」と思われる方も少なくないかと思います。

 ですが、批判承知で、正直に申し上げます。嘘を付いて、取り繕うことで、自分を誤魔化したくない。

 自分に正直にいたいという思いで、この記事を書いております。

 

 Aセクシャルというものを自認してからは尚のことですが、以前から私は、他人という存在を受け入れることを拒否し、時には拒絶してきました。

 ヒトと存在に興味や関心を元々得られなかったこともさることながら、そのような思いを抱くようになったのは。

 

 人格を丸ごと否定され、拒絶された経験が大きいのかな、と私なりに解釈しています。

 そこまで否定するなら。

 私も、お前ら人間という存在など認めない。

 

 ある意味、拒絶という邪念に対する反抗心、といっても強ち間違いない思いなのかもしれません。

 

 

 

 ケモノというもの

 

 

 

 私はヒトというものに関心を失いました。

 その人が何を考えていようが、どう思っていようが。

 私には関係ないこと。

 ふてくされるように、やさぐれるように生きてきました。

 その中で出会ったものが、本記事のタイトルでもある、「ケモノ」という存在でした。

 

 これについては簡単ながらも紹介した記事がありますので、よろしければご覧いただければ幸いです。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 恋愛感情もわからず、性的欲求というものさえ皆無の私にとって。

 ケモノというものは、私を惹きつけて離さない存在となりました。

 

 ケモノというものは、人それぞれで定義が異なります。

 予め、私の「ケモノという存在の定義」を示させていただきます。

 

 私の場合は、例外からお話しした方が早いかと思います。

 それは、「動物の耳が生え、尻尾が生えただけの、外見上は人間」といったもの。

 所謂ケモ耳、というものです。

 これだけは、私はケモノとして容認できません。

 何故なら、「人間が動物の尻尾と耳を飾りに付けただけの、コスプレ」のように思えてならないからです。

 そういったものがお好きな方も、当然ながら多いのも事実ではありますが。

 少なからず、私が思うケモノというものとは程遠いものです。

 

 

 

 では、私が考えるケモノというものは。

 

 「動物が二足歩行し、言語を自在に操る存在。或いは言葉は話せなくても、ヒトという存在に何かしらの意志を伝える手段を持っている存在」

 「四足歩行でも、言葉を話すことができる。或いは、人間でもわかる何かしらの感情表現を持っている」

 この二つだけは、譲ることはできません。

 

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 私が描いたケモノ。種族はホッキョクオオカミです。

 

 私は人間の骨格を基本としながら、頭部や耳の違い、尻尾の有無や身体の毛並みで人間というものとの違いを出すようにしています。

 

 それ以外にも、ケモノというものはそれだけでなく、脚(動物の後ろ脚に相当する部位)は実在する動物に準じて逆関節だったり、人間の髪の毛に相当するものはなく、飽く迄毛並みだけというものも存在します。

 

 こればかりは、本当に好みに依るところが大きいと思います。

 

 

 

 ケモナーとは

 

 

 

 定義は人それぞれだとしても、極端に言えば「動物が擬人化した存在」を好み、惹かれるヒトのこと。それをケモナーであると私は考えます。

 私の推しはオオカミ。次点でイヌ。それ以外は猿や海洋生物でなければ、基本的にどんな種族でもOKです。

 そこに恋愛感情や性的欲求があるかどうかは別の話です。

 兎にも角にも、上記したケモノという存在が好きであること。

 これが全てである、と私は考えています。

 

 

 逆に論点になりかねないことは、一つ。

 このような思いに、「気持ち悪い」だとか「おかしい」だとか「マイナー過ぎるでしょ」だとか、そういった思いや感情が出てくること。

 最早、変態と言われても弁解できないことなのかもしれません。

 

 

 ですが、少しでも良い。考えていただきたいことがあります。

 

 人間はそれぞれ、好きなものや趣向、性的欲求をそそられるものが少なくともあると私は考えています。

 〇〇フェチ、といえばわかりやすいかもしれません、

 そういった、個人的趣向や性的欲求は、声を大にして言えるものではないのではないでしょうか。

 

 「私は〇〇フェチなんです!」なんていうヒトは、そうそういないはず。

 

 ケモナーというものも、人間が持ち得るそういう類の一つなのではないか。少なくとも私はそう思っています。

 

 私は特段、声を大にして言ったりカミングアウトすることはないにせよ、ケモナーであることを隠そうという気はありません。

 だって、それが自分の一部なんだから。

 「一般的に見て異常だから」と思って変えようとしても、変えられるものではない。そもそも変えようという気持ちなど浮かんできません。

 故に、私は他人の趣向や性的欲求について否定することはありません。

 

 様々なジャンルに対して趣向を暴露されても「そっか、そうなんだね」と返し、逆に興味を唆られる程です。

 

 それ位、人間という存在の趣味趣向は、多種多様であることは、自分なりに自負しているつもりです。

 尤も、変わり者と自認するだけでなくクルマ仲間にさえ他認されている私には、変態という言葉は褒め言葉にさえ聞こえる程です。

 普通の人間でありたくない、という思いが滲み出ているせいかもしれませんが。

 

 

 

 

 ケモナー界

 

 

 

 私が初めてケモノという存在を知った時は、今のようにSNSも黎明期であり、個人が経営するホームページが点在する程度でした。

 それが今では、スマホのゲームアプリに登場する一つの種族であったり、アニメや漫画でも主人公を取るポジションになるほど。

 私が知り始めたころよりもメジャーになりつつあるとは言えど、まだまだマイナーの域を出ているとは言い難い。

 

 そんな中で、もし、同じケモノを好む方がいらっしゃれば。

 

 私が知る限りで、ケモノが登場するものをご紹介できればと思います。

 

 一つは、以前お話しした「BEASTARS」という作品。

 

 

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 漫画原作でありながら、10月よりアニメ放映が開始された作品です。

 真ん中に立つハイイロオオカミ、レゴシが主人公。

 イヌ科の中でも大型で力も強く、戦闘能力も高い種族に産まれた彼は、身体とは反対に繊細で内向的。そして自分がオオカミに生まれたことを悩んでいる。

 そんなレゴシに、本能と理性を揺さぶられる転機が訪れる。

 

 レゴシの性格は、どこか、私も近いものを感じます。

 彼のような身体的強さは、私にはない。

 でも生きる意義、種族に対する抱える疑問、そして自分という存在を無意識的に否定している。

 そんな考えに抗いながら、本当の自分というものを探していく。

 

 勝手な思いではありますが、十年以上前に流れた曲のタイトル。

 「君は僕に似ている」

 親近感のような、「寄り添いたい」という思いに刈られてならない。

 

 と言いつつ、この展覧会で。

 

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 まさかの気ぐるみレゴシ!

 

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 モッフモフ!!

 

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 レゴシぃ~!!!

 

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 ハイタッチしてくれただけでなく、ツーショット写真まで。

 もうあれです。完全に脳みそが機能停止して色々おかしくなっていました。

 それくらい、私を魅了し、この世界を生きていく糧にすらなってくれている存在です。

 

 

 

 他にも、スマホアプリの「 Sdorica 」というゲーム内にも、ケモノという種族がでてきます。

 

 

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 渋いオオカミ獣人や。

 

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 殺意の何かに目覚めたトラが出てきます。

 

 他にも多くはないにせよ、ケモノという存在が登場します。

 

 

 

 

 ケモノという存在が、人生の分岐点になった

 

 

 私は人間という種族が嫌い、と最初に申し上げました。

 正確に言うと、「あまり関わりたくない」といった方が正しいのかもしれません。

 

 というのも、私は不特定多数相手だったり、それほど親しみのないヒトが絡んでくるのが嫌いな訳で、実際に会ってお話しした人や、ブログを通して同じ何かを感じた人とは普通に話ができ、相手の話すことにも興味を持つことができます。

 

 あまりにも限定的すぎる、ヒトという存在に対する私の態度。

 そんな私を変えてくれたのが、ケモノです。

 

 しかし哀しいかな、彼ら彼女らは、飽く迄想像上の存在。実在はしない。

 それは結局、人間が考え出した概念の域を出ていないと言って差し支えないのかもしれません。

 

 

 それでも、私は。

 

 純粋に、生きることに懸命なケモノを。

 これからも自分を構成する一部と信じて、付き合っていきたいと思っています。

 

 

 マイナーなお話しとなりましたが、今回はここまでとしたいと思います。

 

 後閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

【生き方・価値観】生きること、死ぬこと ~そこに、平等はあるのか~

 今年はなんだか、年末年始という間隔が掴めずにいます。

 師走の終わり、年末間際というのに、妙に暖かく、みぞれのみならず雨すら降っている。

 環境だけでなく、仕事も「御用納め」というには程遠い位、最後の最後まで仕事に追われていたせいでしょうか。

 「やっと休みか」という例年とは何かが異なる。

 そんな雰囲気に違和感を覚えながら、得体のしれない不安のようなものを感じている白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 この度、私の思考や価値観に近い考えを持っていらっしゃる方のブログを拝見しました。

 そして、それについてもう少し深堀りしてみようと次第です。

 

 

 生きること、そして、死ぬこと。

 ヒトという生物が運命づけられた、どうやっても避けられないもの。

 

 以前記事で上げさせていただきましたが、私は物心覚え始めて以来、隙あらばなんとなく考え続け、未だ求め続けている事柄です。

 そんなことを考えるだけ時間の無駄、という意見もご尤もかもしれませんが。

 誰もが辿り着けない、生死の先にある「真理」を見出そうとしているのかもしれない、と自己分析しています。

 

 今回はそんな、この世の中を生きるというだけに留まらない、重い内容についてお話しできればと思っています。

 

 

 その前に、今回自分の記事を見直してみました。

 私は文章を書くこと自体は大好きで、幾らでも書こうと思えば書ける性質ですが、

 兎に角、纏めるのが絶望的に下手くそです。

 その為、一つの記事が軽く3000字を超え、時には4000にすら達してしまう私の記事は、客観的に見て「結局、何が言いたいの?」と自問自答することになりました。

 

 そこで、全ての記事に対し目次や見出しを追加し、私が一番伝えたい言葉を赤字にし、その次に言及したいことを太字に編集しました。更に内容修正や誤字脱字(こればかりは、申し訳ありませんとしか言いようがありません)を直しましたので、もしよろしければ、ご閲覧いただければ幸いと思います。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 前書きが長くなりましたが、本題に入っていきます。

 

 

 

 

 

 

 この世に生を享けたこと

 

 この世界に、親という人生の先輩に名前をつけられて産まれたもの。

 そこには明確な自我や意志はなく、外部からの刺激や言葉、仕草から吸収し、結果として「他の誰でもない、一人のヒト」として育っていくものであると私は考えています。

 

 そもそも自我とは、どういうものなのか。

 

 専門家ではないのでWebからの知識になりますが、可能な限り私なりの見解で説明できればと思います。

 

 自我。別名「エゴ」と呼ばれるもの。ここでいうエゴは、利己主義者のエゴイストとは別物です。

 

 ヒトが無意識的に持つ感情や欲求・衝動、過去の経験が詰まっている「イド(別名:エス)」と呼ばれる、言わば本能の塊。

 社会的ルールや道徳、倫理、良心、理想といった外部的なイメージや意識を司る「超自我(別名:スーパーエゴ)」。

 

 イドと超自我という正反対に近いものからの欲求を受け取りつつ、外部から入る情報や刺激を調整するもの、それが自我です。

 

 何が言いたかと言うと。

 

 私たちヒトが持つ、「自分いうもの」と認識しているものは、無意識的欲求(イド)と外部的範例(超自我)との競合、そして外部からの情報や刺激を加えて生み出されたものであると、素人ながらも私は考えたいます。

 

 このことから導き出されるもの。

 

 ヒトという同じ種族でありながら、全く異なる価値観や考え方、理想や信念を持つことに至っている、と私は思っています。

 

 当然と言えば当然かもしれません。両親から受け取った遺伝子だけでなく、ヒト本来が持つ本能、生まれ育った環境。

 喩え些細な違いであっても、全く異なる考え方や価値観を持つ結果となる。

 

 これはある意味、ヒトという種族でありながら、人間同士で些細なことから争ったり共存を図ったりという、他の動物とは異なる存在となっているのではないか。

 

 他の動物は、本能に従って自らの遺伝子を後世に残す為に、殺したり、殺されたり。その頂点に立ったものがその権利を得ているのに。

 

 ヒトという生き物は、それを凌駕する意識や思惑・考えが、生存本能と並んでいる。

 

 このことについて、私はずっと考えを巡らせてきました。

 

 何故、同じヒトという種族なのに、争わなければならないのか。どうして、(私から見て)つまらない地位や名誉に、縋るように拘るのか。

 その為に、同じヒトという存在を蹴落としたり、騙したり、利用するのか。

 

 私が物心ついた頃から決して離れることのなかった疑問。

 それはもしかしたら、ヒトが持つ「理性」というものが、元を辿れば生存本能なのではないのか。

 

 答えがあるとは、私は思っていません。

 ですが、それを求めるという無意識は、今の中でも根付いて離れないのです。

 答えのない答えを探し求める。最早私の潜在的な探究心、興味や関心を得られることなのかもしれません。

 

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 生きること

 

 生きること、即ち「生」というものは、それぞれ異なった環境や境遇によって大きく変わってくるものであると考えています。

 裕福なのか、貧相なのか。先祖代々から伝わる、歴史的地位なのか否か。各界で頭角を現したとある人物の、単なる子孫なのか。

 

 こればかりは、本当に憶測の域を出ません。

 ですが、決定的に言えることは、一つ。

 

 生きることは、平等では決してないこと。

 

 これに尽きると私は思っています。

 

 憲法だけでなく、見る訳でもないメディアから入ってくることは、「全てのヒトが平等」「ヒトは皆平等で『最低限』の生活を営める権利」といったことが謳われています。

 

 これは個人的見解であることを承知の上ではありますが。

 

 そんなことは、絶対的にあり得ない。

 

 幾ら表面上で平等と言ったところで、その先に待ち構えている、ヒトそれぞれの環境。

 そんなことなど、世間的に認知されるはずがない。

 何故なら、手段が存在しない。

 その判断の主たるものは飽く迄主観的であり、決して客観的判断を付けられる決定的な、判断基準がないから。

 

 

 事実、一昔前に話題となったワーキングプアという言葉。働いても働いても、一人のヒトして生活していくことさえままならない。

 

 一方で、金と地位さえあれば、喩え殺傷事件を起こしても、逮捕されずに書類送検だけで済んでしまう者さえいる。

 

 こんなもの、どこが平等か。

 平等という言葉を盾に、結局は金や地位の有無で判断され、有耶無耶になっている。

 何が平等だ、馬鹿馬鹿しい。

 

 私はそういった表面的なステータスだけで平等という言葉が簡単に覆ってしまう世の中に、反吐が出る思いでいます。

 それが、生きるということに対する平等という言葉に対する、私の疑問です。

 

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 死ぬこと

 

 

 生きることが平等とは程遠い、世の中。私からすれば、腐り切っています。

 

 一方で、「死」というもの。

 

 私なりの見解ですが、

 死ぬことということは誰もが望んで受け入れられるものではないもの。

 しかし、それが皮肉なことに、平等なのではないか。

 私はそう考えています。

 

 生前、どれだけの地位や名声、活躍を築き上げてきたとしても。

 

 死ぬ時は、結局は一人。

 身内が見守ろうとも、そうでなくても。「死ぬ」という経験は、その当事者にしかわからない。

 

 

 私も祖父母が亡くなる際、双方ともに前夜に立ち会うことが幸いながらもできました。

 

 呼吸も荒く、こちらの声も届かない状況。もう限界なんだ、というのは嫌でもわかっていました。

 それでも私は、祖父にも、祖母にも。

 「帰って来たよ」と、短い言葉を掛けた覚えがあります。

 当時は言葉にはできませんでしたが。

 心のどこかで。

 「今まで、ありがとう」

 と呟いていたことだけは、はっきり覚えています。

 

 祖父母は年さえ違えど。 

 私が最後に会いに行った明け方、共に亡くなりました。

 

 祖父母は性格も考え方も、全く正反対。

 生き様も、本当に正反対でした。

 

 でも。

 最期は、同じように。

 苦しそうに、息をするのもやっとだったはずなのに。

 逝ってしまった後は、本当に安らかな顔でした。

 握りしめた手が、あまりにも冷たく、硬くなってしまったけれども。

 死ぬ間際の苦しさは、遺された私たちが感じられないほど穏やかでした。

 

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 生死の平等さ

 

 

 幼少期に我儘だった私に、本当に最期の最期まで優しかった祖父も。

 自他ともに厳しく、認知症とうつ病を患いながらも、最期まで自分を貫き通した祖母も。

 最期は、虚しさすら覚える程、平等にその生涯に幕を降ろしました。

 

 祖父は亡くなって十数年、祖母は五年程経ちます。

 

 生きていた時は不平等でも、死ぬ時は、皆平等なのかなかもしれない。

 今は思うに至りました。

 

 地位や名声を幾ら築き上げても、最期は一緒。

 そこに至る過程は違うとしても。

 長生きしたいと願っても、そうでなくても。

 死ぬ時だけは、ヒトの願いなど問答無用に、平等に齎すものなのだろう

 私なりの結論に至りました。

 

 

 私は、長生きしたいと思ったことはありません。

 歩けなくなり、流動食になって、寝たきりになって。

 最終的には 胃のうで生かされるようになる位なら。

 

 そうなる前に、死に至りたい。

 叶うかどうかは別として、私はそう願っています。

 

 然れど、恐らくそればかりは、許してくれないでしょう。

 

 死。

 

 それだけは皮肉過ぎる位、容赦ない程に。

 

 きっと、初めて「平等」なのだろうから。

 

 

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 重い内容になってしまいましたが、最後までご閲覧くださり、ありがとうございました。

 

 それでは、また次回まで。

【人生・価値観】承認欲求 ~欲望の先に待つもの~

 クリスマス~が今年もや~ってくる~

 

 帰路途中にあるショッピングモールへと向かう道。普段以上の、私からうれば異常とも言える程の渋滞ができていました。

 会社帰りの多い時間帯の混雑。

 家で家族と盛り上がる為のご馳走やお酒、プレゼントを求めてなのでしょうか。

 それが、普通の家庭なのか。

 

 普通の家族ではない家に生まれ育った私には、そういった「普通」というものはわかりません。

 いつも通り、部屋でウイスキーを静かに楽しんでいる白兎です。

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 お陰様で本ブログも読者の皆様やPV数も右肩上がりで、本当に感謝するばかりです。

 

 その一方で、これまで私が何度か遭遇し、挙げ句挫折してきたことを感じ始めています。

 

 それが、今回のお題に値するであろう「承認欲求」というもの。それについてお話しできればと思います。

 

 

 

 

 

 承認欲求

 

 

 幼い頃は誰もが多少の差はあれど、基本的に同じクラスの子や同学年の子と仲良く、楽しくやっていこうと、考える前に教師から教わるものであると私は思っています。

 しかしそんな言葉も、歳を重ねるに連れて。

 部活に入ったことをきっかけに、才能が開花したり。勉学で才を見せ始め、他人とは「違う」ものを得始める人もいる。

 それにより優越感を覚え、人よりも優れている自分というものを、ある種の確信のようなものを抱き始めることさえあるかもしれません。

 そこにカテゴリーや種別はないと私は思います。運動神経や頭脳、美術的才能……挙げれば切りはないと思います。

 ですが、共通することがあると私は考えます。それは。

 自分は、人より優れたものを持っている、という自己顕示。それを糧に、邁進し続ける力。

 それと同時に、傲慢の材料になりかねない「人を見下す」という快楽に溺れてしまう可能性も秘めている、自己顕示するという欲求、欲望。

 

 

 そういった才能や天性のようなものを持っている人は、極僅かです。

 それ以外の人間は、多少他の人よりも得意があったとしても、自慢できるものがあったとしても、世間的には認められないことは少ない。

 それ故、この世界に人間として生まれたが為に。

 どんなことでも構わない、誰かに認められたい。

 自分という存在を。

 それが、承認欲求というものであると、私は考えています。

 

 仙人のような、浮世離れした生き方をすると自ら自負しているのならともかく、そういう人は多くはない。

 

 学校という限りなく狭い世界ならまだしも。

 社会というあまりにも広大で、限界というものを知らない世界に立てば、誰かに認められなければ、生きていくとさえ叶わない厳しすぎる。

 そんな世の中で生きるための本能の一つ、それが承認欲求ではないのでは、と思えてならないのです。

 

 

 私の場合

 

 

 全員が全員に当てはまることはないと思いますが、少なからず私は、そんな無意識に湧き上がる欲求に翻弄されてきました。

 憶測の域を出ませんが、私はその欲求に殊更貪欲で、何がなんでも認められないといけないという、一種の脅迫概念のように求め続けてきました。

 

 その根底には。

 人格を全面否定され、一人の「ヒト」としての存在を完全に拒否された。

 その経験が要因であると、勝手ながら分析しています。

 

 具体的な例を並べるとすると、こんな感じになります。

 「パソコンのことについては学校で習ってきたから、困ったら私に聞いてください」。

 「貴方の意見には決して反対しないから、私を信じてください」。

 「お酒も多少飲めます。飲み会も参加する誠実さを持っています」。

 「話を聞いて、興味を持つので、沢山のことを聞かせてください。とにかく、私に色んな話をしてください」

 

 昔は本当にこんな思いばかりを抱いて生きてきました。

 承認欲求というものを通り越して、これはもう、「見捨てないでください!」という心の叫び。

 見え透いた虚構であったとしても、自分なりに、誰かに認められようと必死だった。

 当時は、認めてくれさえすれば、どんなことでも我慢できました。

 自分というものを削っても、時間や体力を削っても、それ以上に承認というものをとにかく求め続けていました。

 

 

 

 その末路

 

 

 こんなことをして得られるものは、何もありませんでした。

 先輩に可愛がってもらったり、飲み会の席で唯一の若手という意味では、目立っていたということは確かでした。

 ですが。

 私の求める欲求は、結局止まりませんでした。

 「私という存在を認めてほしい」という心からの絶叫は、止まることはありませんでした。

 

 

 その末路は。

 自分というものを犠牲にし、自分という「本当の姿」を失い。

 待っていたものは、精神が崩壊する心の病でした。

 

 

 好かれたいというあまりに。認められたいというあまりに。

 私が選んできた道は、間違いだらけだったことを、病を患ってから気づきました。

 気付くには、あまりにも遅すぎる程でしたが……。

 

 

 もう一度、自分と向き合って

 

 

 精神を病んでしまった私は、それまで行ってきたことさえできなくなり、自分の存在価値すら疑うようになっていました。

 いっそのこと、私が消えてなくなり、世の中の全員の記憶から、私という存在が抹消してほしい、と思っていた程です。

 

 

 そんな中で、改めて自分と向き合う時間が増えたこともまた、確かでした。

 

 本当に求めるものは、何?自分がほしいものって、何?

 立場?会社での評価?評判?

 

 ……それって、自分を削りきってまで手にするようなものなのか?

 

 そう思ってから、沢山悩む時間がありました。

 

 私が求めるもの……認められたいって、どういうことなのか。

 

 

 

 クルマのSNSと出会って

 

 

 それから数年経ち、私はクルマのSNSに出会いました。

 最初はパーツのレビューを参考にする程度の、単なるROM専でしたが、いつの間にか、「自分の愛車を紹介して、情報共有したい」という思いに刈られ、本格的に活動を始めました。

 

 ブログも書けるSNSとだったので、始めこそ、能書きを垂れるように……そこでも、誰でもいいから認めて欲しい。

 そういう歪んだ欲求の為にブログを書いたり、パーツレビューをひたすら書いていました。

 

 ですが、ある時気づきました。

 

 それって、本当に自分が求めるものなの?

 

 

 

 違う。

 そうではない。

 

 そこから、実際にSNSと上で知り合った人たちと会ってみたい、という別の感情が生まれ始めました。

 同時に、人に実際に会う恐怖との、葛藤を通り越した、自分の中で渦巻く感情同士の戦いでした。

 

 

 その恐怖を振り切って、その先にあったものは。

 私にはあまりにも温かく。私が抱き続けてきた「承認欲求」などという概念すら存在しない、朗らかで賑やかで、楽しい人々との出会いでした。

 

 そこから、私は変われたのだと自負しています。

 

 自分を承認して欲しい、認めて欲しいなんて思わなくても。

 ありのままの自分をさらけ出せる、場所があるということを。

 

 

 

 ブログを始めてから

 

 

 

 今でもクルマのSNSを続けながら、このような記事を書くに至っています。

 今は純粋に、ブックマークや読者数、PV数目的に、記事を書くことはありません。

 これまでほぼ毎日書いているのは、本当に単純な理由です。

 「書きたいものがあるから、書く」。

 ただ、それだけです。

 一番は「書かなければ」という脅迫概念を抱きかねない。

 それだけは、私はしたくありません。

 

 

 容認欲求を制御できなくなった者の成り果て

 

 

 ここ数年、バイトテロやバカッターと呼ばれる人たちが報道されています。

 これは私なりの憶測ですが、その人たちも「世間ではとても考えられない」行動を投稿することで、一時的に注目を集め、自分というものを知ってもらいたいのではないのだろうか、という欲求が齎した行動の果てなのではないかと私なりに考えてます。

 同じ学生でも、才能を見いだされて活躍する子がいる一方で、そうでない子たちが認めて欲しいと単純に考えれば、ある意味自然な行動なのではないのかな、と。

 

 後先のことを考えない、それこそ、若気の至りで、「こんなことしてるんだぜ俺!」って注目を集めたい。

 裏を返せば、それは「承認欲求」の強さから生まれる行動なのではないかと、私は思います。

 

 とは言え、同情などできません。

 事実、その後の彼らの末路は見えきっていました。

 少年法という、ある意味都合のいい法律に守られて、報道では実名だけでなく、身内や住所、経歴。そういった情報は非諾されました。

 それはそれでおかしいと思う私ではありますが。

 そんな法律を無視するかのように、実際には報道された彼らの情報は無慈悲なまでに晒される結末となりました。

 当然の報い。

 そう言われても仕方がないでしょうし、私もそう思っています。

 

 でもそれは、社会的にみた視点であって、その子たちからすれば、ある意味必死な「承認欲求」を満たす為の行動だったのかもしれない。

 社会的に許されることではないことは明確でも、底の見えない非難の嵐を受けても、そうすることでしか満たせなかった欲求。それが承認欲求なのかな、などと考えています。

 

 

 こういった事柄を、私なりの結論を一言で表すとすれば。

 人に迷惑をかけなければ、自己満でも良いんじゃないかな。

 

 ブログでも、ツイッターでも。書きたいことがあれば書けば良いのではないのではないかな、と。迷惑行為や事件沙汰にならない程度なら。

 

 

 自分に嘘をついても、社会的に迫害されるようなことをしなくても。

 少なくても、賛同し、共に進んでくださる方がいる。

 そのことに感謝する一方で、自分や他人、社会を裏切るようなことは、単なる害悪でしかないと私は思います。

 超えてはいけないラインは、年齢関係なく、存在しているはずです。

 

 喩えそれが、承認欲求という、自分自身を保つ為の本能であったとしても。

 

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 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

【価値観・HSP】深く考えることの善悪 ~寄り添うことも、傷つけることも~

 今シーズン、ほぼ初となる雪が積もりました。

 積雪量は10センチと少ないながらも、水分を含んだそれは重く、雪かきやクルマの雪下ろしにも苦戦した白兎です。

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 今回は、以前ご紹介したHSP

 

 それを構成する一つである「深く処理する」という内容についてお話ししていければと思っています。

 

 望んで欲しかったものではないのに、無意識にそうしてしまうこと。

 私がこれまで経験したことにを交えながら、興味を示してくださったり、共感してくださる方がいらっしゃれば幸いかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 深く処理する

 

 HSPについて、私の経験談を用いてご紹介した記事。

 

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 HSPというと、刺激に敏感で些細なことにも反応する、感情が鋭く反応して共感力が強いというものが大きなものがあるかと思います。

 その中でも、私なりに一番理解されにくいものが、「深く処理する」という概念です。

 「深く処理する」って……どういうこと?

 どんな感じなの?

 聞かれることはまずあり得ないことですが、私の頭の中では、それこそ憶測に憶測を重ねる程の考えで一杯になることが多々あります。

 

 

 

 例えば。

 「俺は今の仕事、もっといいやり方があると思うんだけど、どう思う?」

 と聞かれた時。

 

 皆様は、どのような回答をするでしょうか。

 

 私なりに単純に考えるとするならば、「どういうやり方ですか?」「聞かせてもらってもいいですか?」といった返し方が、率直なものであるかと思います。

 

 

 一方で、私のような人間の頭の中では、こんな思いが錯綜します。

「今のやり方に不満があるのか?」「どこが不満なんだろう?」「そもそもその仕事に対して、やりたくない理由が本当はあるのかも?」「意見を聞きたいのか、それとも同情が欲しいのだろうか?」「それに対して答えた私を、試そうとしている??」「もしかして、私の意見を聞いて自分のものにするつもりなの?」「失敗した時に、私を道連れにする為の布石?」

 ぱっと浮かんだだけでも、このような考えが一気に頭を駆け回ります。

 

 答えのない答えすら求めようと、無意識に考え込んでしまう私には。

 単なる答えが欲しい相手の言葉にさえ。

 頭の中を掻きます程の思考の渦が、私を惑わせ、迷わせ、簡単な回答さえできないのです。

 

 

 

 深く処理することの悪

 

 

 このような気質故、私は即答やアドリブというものが物凄く苦手です。

 答えたくても、言葉が簡単に見つからない。見つけられない。

 もっと言ってしまえば、その人がどのような思惑で聞いてきているのか。

 それが喩え、単なる天気の話であったり話題のニュースに関することであっても。

 深く追求し過ぎてしまう。

 

 これが災いし、これまで苦い思いを幾度も体験してきました。

 

 考えを深く巡らせる=即答できない私に、「なんで黙ってるの?」「いいから早く答えてよ」と非難されたことも少なくありません。

 私の考えや思い、至っては探りと言って差し支えなく、必ずしも真実や相手の答えに即したものではないからです。

 考えに考えて出した答えに対しても。

 「は?」「そんなこと聞いてるんじゃないんだけど」

 と、的はずれな回答になってしまうことも多いです。

 当たり前ですよね。

 幾ら自分勝手な憶測に更に憶測を重ねたところで、相手の意図や気持ちなんてわかるはずがないのですから。

 加えて私は、事を大きくしたり空気が悪くなることを避けようとする傾向があります。

 険悪な空気……その場にいるだけで、自分というものが侵食され、侵され、壊されそうになってしまうから。

 そんな曖昧で中間的な立場を保とうとする私に、批判が集中することは多かった。

 小学校の教師にすら、「自分の意志をきちんと出せ、バカ」とすら言われた程です。(今でも軽く恨んでいます)

 

 そんなこと、私は「賛同する人は賛同すれば良いし、そうでなければやめればいいのに」と幼い頃から思っていた私には、精神的に大きな傷を負う言葉でした。

 深く考え、処理し、アウトプットする。

 そんな自分に、嫌気が差さない日の方が少なかった。

 

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 深く処理することの善

 

 一方で善とは決して言える訳ではありませんが、その性質が役立ったこともあります。

 それは、相談を受けること。

 以前書いた記事にも記しましたが、どういう訳か、様々な相談を受けることがあります。

 総合的にみて、それらは決して明確な答えやアドバイスを求めるものではありませんでした。

 単なる愚痴から始まり、とても他人に言えることではないような、重い話だったり。

 簡単にアドバイスしたり「こうしてみたら?」という提案をしては、逆に傷付けてしまうかもしれないようなものばかりでした。

 

 教師がクラスの険悪な空気について相談してきたことも。

 医者が、経営状況やご自身のことを話してきたことも。

 友人が、仕事で悩み苦しんでいる近況を話してくれたことも。

 明確な答えを求めていないことは、なんとなく……それこそ第六感的な「直感」に近いもので感じ取ることができました。

 

 そんな時、深く考え処理するという特質が役立ってきたと思っています。

 

 聞き流そうと思えばそうできた。

 私に話すことじゃないと、突き放すこともできた。

 

 でも、私は私の思いに従って答えを出してきました。

 同情するには程遠くても、話をただ「聞く」のではなく、まずは相槌を打ちながら「聴く」。この傾聴というものは、実際に実践することは難しいことです。

 幸いにも私は一対一の会話は好きで、特に聴くことに対して大して苦を感じたことは然程ありません。

 相手が一段落するまで、とにかく聴くことに徹する。

「それはちょっと違うんじゃない?」「気持ちはわかるけど……」と言った言葉は、タブー中のタブー。否定だけは絶対にしないようにと、ずっと自分に言い聞かせてきました。

 そのあとに、必ず「私は〇〇だと思う」と、私の考えを出す。

 考えを出すには時間は必要ですが、それでも、自分の本音と相手にかける言葉を慎重に吟味し、じっくり考え込みます。即答だけは、しないように。

 

 

 そして、「私は」という切り出しに使う言葉は、今でも使っています。

 私の考えは私が考えた一つの意見や意志であるに過ぎない。人には人の、考えや価値観がある。

 それを、侵してはならない。

 何よりも、人に押し付けることは、他の誰でもない私が許さなかった。

 偽善者と言われても構いません。

 それでも、「(聞いてくれて)ありがとう」と感謝されました。

 

 何故、「私に近付くな」というオーラを出しているつもりでいた私に、相談するのか、ずっと悩んでいました。

 他にもっと、いい考えやアドバイスができる人が沢山いるのに、と。

 

 今では、なんとなくではありますが、その答えが見えつつあります。

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 最終的には、自分の意見を

 

 そのような感じで、私はこれまで苦渋を舐めることの方が圧倒的に多かった。

 「こんな自分、なくなればいいのに」「もっと単純に生きられれば」なんて、失礼を承知で、本気でそう思うこともありました。

 

 ですが、今は。

 偶然生まれ持って得てしまったこの性質。

 「悪いことだけでは、ないのかも」と思えるようになりました。

 

 私のような人間が、少しでも誰かの助けになれれば。

 奢っては駄目でも、せめて私の考えを絞りに絞って出すことで、何かが変わってくれるのなら。

 お節介になるかもしれないけれど。

 

 勇気……否、嫌われるかもしれないという、いつの間にか根付いてしまった脅迫概念に近い思いを、たとえちょっとずつでも、振り払いながら。

 私は、自分が考え出した言葉を、意見を、怯えることなく出していきたい。

 怖いけど。無意識が止めようとしても。

 少しだけでも、そのようになっていきたい。

 

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 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

【セクシャルマイノリティ・Aセクシャル】人を好きになること、愛すること ~わからないことの辛さ~

 今宵、私の済む地域では雪が降っています。

 しんしんと、無音のまま、ただひたすらに積もっていく。

 街の明かりを照り返し、誰に要求された訳でもなく、夜を薄っすら明るく染め上げる。

 雨も雪も好きですが、路面凍結だけは勘弁して欲しいと切に願う白兎です。

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 相棒Lupusのショックアブソーバー(サスペンションを構成する部品の一つ。衝撃を吸収、減衰する役割を持つ)がいよいよへたってしまい、本日ディーラーに交換依頼を出して参りました。

 が、雪国(氷国?)でバラ撒かれる塩カル(水分に反応して熱を生み出し、雪や氷を溶かす、正式名称「塩化カルシウム」)が大きな災いを齎しました。

 塩分を含んでいる為金属に対する影響が大きく、クルマにとって重大な影響を及ぼす(サビを生む)が原因のせいか、ディーラーでも取替が困難なようで、明日までお預けとなっています。

 

 前書きはこの位にして、本日はこれまで曖昧だった「私」という存在をある程度定義付けた内容について書いていければと思っております。

 

 

 

※注記※

 今回の内容は、性的な表現、それらに付随する書き込みをして参ります。

 お読みになる方によっては不快感、嫌悪感を覚える内容になる可能性があります。

 この注記にあてはまる、とお思いになる方は、閲覧を控えてくださいますよう、お願い申し上げます。

※注記終了※

 

 

 

 

 

 

 

 LGBTQ+

 

 

 今回は、「性的指向」についてです。

 SNSだけでなく、会社でも取り上げられることが多いことかと思います。

 「LGBT」。聞き覚えのある方も多い単語かもしれません。セクシャルマイノリティとも言われることも多いかと思います。

 詳細は多くの皆さんが言及していることと存じますので、割愛します。

 簡単に言えば、「自分の恋愛や性的な魅力の対象は何か」ということです。

 異性、同性、両性……人の数だけ、その種類はただの分類だけでは済まない程きめ細かく、かつデリケートな内容かと私は思っています。

 自分が「人を好きに、愛を抱く対象」というものは、言葉では簡単に表せないものであると思います。

 近年では、LGBTに加え、「Q」という概念も取り込まれつつあります。

 この「Q」は「クエスチョニング」或いは「クィア」を示しているといわれています。

 それは、「性的志向がわからない」「わからないことが自然」「既存のセクシャリティにもピンと来ない」という意味が含まれています。

 または、「風変わり」「不思議な」「奇妙な」という捉え方もあるそうです。

 ここはその人本人しかわからない、本当に不快ところに根差すもの。故に、他人という視点からでは定義ができないもの。

 と私は理解しています。

 

 それとTの「トランスジェンダー」。

 個人的には、LGBTQ+という中に入れるのは果たしてどうなのだろうか、という疑念を抱いています。

 トランスジェンダーは「自分の身体的性別と、自認する性別が異なる。またはそれ以外である」、と世間的に定義付けられています、

 が。

 それを定義付けられた「分類」としてわけるというのは、正直どうなのだろう。っというのが私の本音です。

 「それはまた別のものではないのか?」と思えてならないのです。

 性的志向とは別の、性自認にも関わることにも繋がってくる内容であると考える為であります。

 そして、何より。

 私自身が、そこに行き着く可能性がある。

 それに起因する疑念、という身勝手な憶測もある為です、

 

 

 さて、そんな中で取り残されている性的指向があります。

 LGBTQ+の「+」に入る、それは。

 

 

 

 

 Aセクシャル

 

 

 それが、私のプロフィールにも書かせていただいている、「Aセクシャル」です。

 

 こちらについても多くの方が情報発信されていらっしゃいますので、ここでは私の経験談を交えてお紹介できればと思っています。

 

 Aセクシャルは、端的に言えば「他人に対して恋愛感情や性的欲求を求めない」ことであるとされています。

 勿論この中にも様々な分類があり、例えば「性的欲求はないが恋愛感情はある」といったものや、「触れ合ったり抱きついたりすることはできても、性的行為は嫌悪を抱く」といった、一言では言い表せない概念です。

 ちなみに日本では、先程の例では前者を「ノンセクシャル」と定義することもあるそうです。

 

 

 経験から芽生え始めた、Aセクシャル

 

 

 ここからが私が恋愛経験を経ながらも、それを無下にし、数人の恋人であった人たちを傷つけて……。

 それでも尚、Aセクシャルという言葉に出会ったか。

 

 私はこれまで、数少ないながらも恋愛経験をしてきました。

 行為もあります。

 

 しかしながら。

「一途になる」といったことや「この人となら一緒に、ずっと過ごしていたい」という思いを抱くことはできませんでした。

 極論を申し上げるなら、パートナーがいるという、一つのステータスとして持っていたかった。

 どうしようもないクズで下衆な考え。

 若気の至りという言葉では済まされない、相手を傷付けてきた、私の勝手にも過ぎる思い、考え。

 その根源にあったものは。

 

 

 性嫌悪

 

 

 行為に対しては、お恥ずかしながら、思春期で周りがその手の話で盛り上がる中。

 私はさっぱりついていけず、理解しようとも、聞き入るようなこともしませんでした。

 

 気持ちがいい。興奮する。最高。

 

 普遍的でありながらも、「当たり前かもしれない」そういった言葉の数々に、私が抱いた感情は。

 

 

 何に?

 何が?

  どう、いいものなの?

 

 

 その手の雑誌を拾った同級生が持ち込んで、周囲が盛り上がっても。

 私が最初に抱いた思いは。

何、これ。……気持ち悪い

 でした。

 

 

 時を経て実際に行為に臨んだ時も、最初こそ興奮しました。

 前戯の中で漏れる、互いの声、高鳴る鼓動。溢れる互いの体液。

 

 しかし、いざ本番を目前にすると。

 自分の持つものや、相手のものを見ただけで。

 気持ちが萎えてしまった。

 それでも二人で絶頂を迎えたいという思いから、自分を鼓舞しながら望んだ本番も……。

 世間で言う「至福の絶頂」というものを経験できませんでした。

 

 

 当時お付き合いしてくれた人たちには、弁解する気持ちも、罪の意識も、今はありません。

 申し訳なかったと言っても、それも自分を「許して欲しい」という思いにしかならないと思っているからです。

 恨まれても、貶されても、非難されても構わない。罪だと罵られても構わない。

 

 私には、どうしても理解できなかった。

 

 そうとしか、私は今でも言えないからです。

 

 ……つくづくクズだな、私。

 

 

 ヒトという種族の本能 

 

 

 人間を含む生物は、種の存続の為に、子を宿し、さらなる繁栄を願う。それが、生物の持つ本能なのではないか。

 その定義に、無理やり当てはめ続けてきました。

 そして、それを理解できない私は。

 

 一つの生物でありながら、その本能に反する欠陥品なのではないだろうか。

 

 ヒトとして、誰も愛するどころか、好きになるという感情が、わからない。

 考える前に、本能で働くはずのその感情が。

 私には、ない。

 

 それから私は、「恋愛 わからない」「人を好きになる わからない」といった言葉でネットを徘徊しました。

 

 最初は「恋愛経験がないから」だとか「本当に愛する人と出会っていないから」といった言葉だけが引っかかりました。

 

 違う。

 そうじゃない。

 私が本当に知りたいものは。

 

 好意を抱くことがどういうことなのか、愛という定義はなんなのか。

 それを、足掻くように知りたかった。

 

 そこで出会った言葉が、Aセクという言葉でした。

 

 

 

 私のセクシャルマイノリティ 

 

 セクシャルマイノリティは、HSP以上に「自認する」という側面が強く、他人から判断してもらうことは相当困難ことと思っています。

 私の場合は恋愛感情を抱けない(というよりもわからない)、性嫌悪(性的な事柄に嫌悪感を覚える)です。

 

 ただ、赤の他人が恋愛していようが、行為をしていようが、それは特段嫌悪は抱きません。

 

 私は、自分がいざ行為に及んだ際に、性的興奮以上に嫌悪感が先走ってしまう。

 そんな感じです。

 

 

 

 家族愛や友情は理解できる

 

 

 ただ一つだけ言いたいことがあります。

 他人に愛情や好意を抱けないのは確かですが、家族に対する感情や友人に対する感情はあることだけは、ご理解いただきたいのです。

 家族愛、というものは正直今もわかりません。私の家は、元々機能不全家族なのですが……母親や兄は、ずっと大切にしていきたいと願い、その思いに準じて接しています。

 父親については、血がつながっているという事実に吐き気すら覚えるほどですが。

 

 友人に対しても、友情ということは、私なりの答えは持っている……つもりです。

 曖昧になっているのは、上手く友人関係を築いてくることができなかったから。

 しかしながら、少なくとも今は、友情というものを理解して……育んでいきたいと願っています。

 

 

 

 性的指向は、思った以上に難しいもの

 

 

 

 正直なところ、このAセクについては、記事にするかどうか結構悩みました。

 自分勝手だとか、傲慢だとか、知らないだけじゃんとか……知りもしようともしないで、偉そうにとか。

 そう非難されることが、怖かったからです。

 でも、人の顔色を窺って、それに合わせて自分に嘘をつくことは、もっと嫌だ。

 私は、私という人間を貫いていきたい。

 世間から、どう見られても。

 

 今からでも遅くはないだろうから。

 もう、偽りの仮面を被って生きていたくない。

 

 

 自分でも未だに求め続けている内容、纏まりもない記事となってしまいましたが、もしも同じような思いを抱いている方の微かな手助けになれば幸いです。

 

 

 今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。 

 それでは、また次回まで。

【HSP・価値観】HSP ~追記=

 最新話のBEASTARS(アニメ)を見て、放映当初からのクオリティの凄まじさだけでなく「色々と」凄いなこのアニメ、と興奮しっぱなしな白兎です。

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 先日お話しした、HSP。基本的なことに加え私自身の経験を交えてのブログとなりましたが、実は下記忘れていた事柄があることを思い出しました。今回はこのことについてお話しできればと思っています。

 

 ※今回の記事は、辛辣な言葉や事故中心的な発言が多くなるかと思います。傲慢なつもりは毛頭ありませんが、そのように不快感や嫌悪感を抱く恐れのある方は、閲覧をお控えくださいますよう、お願い申し上げます。

 

 

 

 

 私が考える「HSP」というもの

 

 

 HSPはネットにて診断は可能とは言え、最終的には自分自身の考えや経験に基づくものなのではないかと、私は思っています。

 私もネットでの診断で、あてはまることは確かにある。でも、結局それも自問自答の世界。周囲から「貴方はHSPです」といったことはないのかなぁ、なんて思っています。

 風邪や何かの病気のように、人から判断してもらうことはできない。

 故に、生きづらさや他の人とは違う何らかの「違和感」を抱きながら生きていくことに繋がっている。そう、私は考えています。

 

 さて、脱線しましたが、話を戻します。

 

 ここから書くことは、HSPと関係があるかはわかりませんが、私が実際に感じていること、考えていること、違和感を覚えていることについてです。HSPと何ら関係ない事柄になるかもしれませんが、ご容赦ください。

 

 

 薄々感じていた、HSPの兆し

 

 

 まず、人に対してもではありますが、私の場合、ものにさえ感情移入していまうことがよくあります。

 幼少期の記憶では、今まで使っていたテレビが遂に壊れてしまい、捨てることを親から告げられた時。

 その時、どうしてか私は。

「捨てないで!お願いだから、捨てないでよぉ!」と泣き喚いことがあります。

 何故、と聞かれても、今でもその答えは出てきません。

 とにかく、「捨てられてしまうもの」に対して、妙に悲哀感のような、感情を引っ張られてしまうことがよくありました。

 

 今でも、そういうことがよくあります。

 

 例えば、通り過ぎていく、洗車もせず薄汚れたクルマ。

 見ただけでも、「あんなに汚れて……クルマがかわいそう」と横目で見ていたり。

 

 音もまた然りです。ガラガラした音をたてたり、キュルキュルとした音を響かせながら走っていくクルマ。

「ん?オイル交換していないのかな。苦しそうな音を出してる……」とか「ファンベルトが限界な感じの音だ。メンテナンスしてないのかな、乗れればそれで良いと思っているのかな」

 そんな思いを脳裏に浮かべてしまうことがよくあります。

 

 これは個人的見解となりますが、五感から入ってくる情報から、その裏に潜む「考え」「思い」「事実」を無意識的に感じ取ったり、考えを巡らせてしまう為ではないかと考えています。

 当然、そうやって思い浮かべた思いや考えに根拠や真実はありません。聞かれたところで、本当に「なんとなく、そう感じるんです」といった曖昧な答えしか、私は出すことはできません。

 独りよがりの思考や感じ方。

 理論的な推論などではなく、端的に言えば「直感」や「勘」。

 人に伝えられない、自分だけが常に感じ続けるもの。

 それが、生きづらさに繋がっているのかな……と、私なりに考えています。

 

 

 権力や地位は、絶対的なものなのか

 

 

 これこそHSPは関係ないのかもしれませんが、「権力や地位を持つ人を尊敬するということが理解できない」というものが私にはあります。

 弁解するように聞こえるかもしれませんが、その人の持つ頭の回転の素早さや洞察力の鋭さ、状況判断能力は素直に感じて、「この人って凄いなぁ」「見習わないとなぁ」と思うことはあります。

 しかし、会社の上部の人間が訪れた際に、周りが妙にヘコヘコしているというか、ヨイショするような仕草や対応。

 私には、「なんでそんなことしてるの?同じ人間じゃないの?」って思ってしまうのです。

 権力や地位を狙ったり、或いは守る為の、社会人としての生き方なのかもしれません。が、それだけの理由で敬ったり謙ることは、私にはやはりわからないままでいます。

 こう書くと単に空気が読めない人間じゃない、なんて思われるかもしれませんし、実際にそう言われても仕方がないことだと思います。

 ですがそれ以上に、私はそういった表面的なものよりも、その人自身が持つ「個性」や「考え方」をもっと見てみたい、という思いの方が強く出てしまいます。

 

 それ故、そんな態度を取る私を怒ったり、叱られたり、文句を言われることが数多くありました。

 相手がどんな地位の人であっても、筋が通っていない事柄をゴリ押しされて不快感全開で目を細めていれば、当然といえば当然の報いなのだろうと思います。

 それでも、譲れない。どれだけ蔑まれても、煙たがられても。

 

 

 人間という種族が遺してきた遺伝子 

 

 

 人間は、元々大型の獲物を狩るために、協力して、集団を作って文明を築き上げてきたと言われています。

 そういう側面から見れば、私はヒトとして、色々と異端なのだろうな……なんて、どうしようもなく身勝手に生きている、ひねくれてやさぐれた人間です。

 

 HSPという話題に絡めるはずが、こんな終わり方になってしまいました。

 最後までお読みくださった方々には、申し訳なく思います。

 それでも私は。

 あの時から自分に対して嘘を付き、仮面を被って生きてきた。もうそんなことはやめて、嫌われても、気持ち悪いと思われても、自分というものを殺さずに生きていきたい。

 

 

 

 今回はここまでとしたいと思います。

 ご閲覧くださり、ありがとうございました。それでは、また次回まで。