【セクシャルマイノリティ・Aセクシャル】人を好きになること、愛すること ~わからないことの辛さ~
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今宵、私の済む地域では雪が降っています。
しんしんと、無音のまま、ただひたすらに積もっていく。
街の明かりを照り返し、誰に要求された訳でもなく、夜を薄っすら明るく染め上げる。
雨も雪も好きですが、路面凍結だけは勘弁して欲しいと切に願う白兎です。
皆様、如何お過ごしでしょうか。
相棒Lupusのショックアブソーバー(サスペンションを構成する部品の一つ。衝撃を吸収、減衰する役割を持つ)がいよいよへたってしまい、本日ディーラーに交換依頼を出して参りました。
が、雪国(氷国?)でバラ撒かれる塩カル(水分に反応して熱を生み出し、雪や氷を溶かす、正式名称「塩化カルシウム」)が大きな災いを齎しました。
塩分を含んでいる為金属に対する影響が大きく、クルマにとって重大な影響を及ぼす(サビを生む)が原因のせいか、ディーラーでも取替が困難なようで、明日までお預けとなっています。
前書きはこの位にして、本日はこれまで曖昧だった「私」という存在をある程度定義付けた内容について書いていければと思っております。
※注記※
今回の内容は、性的な表現、それらに付随する書き込みをして参ります。
お読みになる方によっては不快感、嫌悪感を覚える内容になる可能性があります。
この注記にあてはまる、とお思いになる方は、閲覧を控えてくださいますよう、お願い申し上げます。
※注記終了※
LGBTQ+
今回は、「性的指向」についてです。
SNSだけでなく、会社でも取り上げられることが多いことかと思います。
「LGBT」。聞き覚えのある方も多い単語かもしれません。セクシャルマイノリティとも言われることも多いかと思います。
詳細は多くの皆さんが言及していることと存じますので、割愛します。
簡単に言えば、「自分の恋愛や性的な魅力の対象は何か」ということです。
異性、同性、両性……人の数だけ、その種類はただの分類だけでは済まない程きめ細かく、かつデリケートな内容かと私は思っています。
自分が「人を好きに、愛を抱く対象」というものは、言葉では簡単に表せないものであると思います。
近年では、LGBTに加え、「Q」という概念も取り込まれつつあります。
この「Q」は「クエスチョニング」或いは「クィア」を示しているといわれています。
それは、「性的志向がわからない」「わからないことが自然」「既存のセクシャリティにもピンと来ない」という意味が含まれています。
または、「風変わり」「不思議な」「奇妙な」という捉え方もあるそうです。
ここはその人本人しかわからない、本当に不快ところに根差すもの。故に、他人という視点からでは定義ができないもの。
と私は理解しています。
それとTの「トランスジェンダー」。
個人的には、LGBTQ+という中に入れるのは果たしてどうなのだろうか、という疑念を抱いています。
トランスジェンダーは「自分の身体的性別と、自認する性別が異なる。またはそれ以外である」、と世間的に定義付けられています、
が。
それを定義付けられた「分類」としてわけるというのは、正直どうなのだろう。っというのが私の本音です。
「それはまた別のものではないのか?」と思えてならないのです。
性的志向とは別の、性自認にも関わることにも繋がってくる内容であると考える為であります。
そして、何より。
私自身が、そこに行き着く可能性がある。
それに起因する疑念、という身勝手な憶測もある為です、
さて、そんな中で取り残されている性的指向があります。
LGBTQ+の「+」に入る、それは。
Aセクシャル
それが、私のプロフィールにも書かせていただいている、「Aセクシャル」です。
こちらについても多くの方が情報発信されていらっしゃいますので、ここでは私の経験談を交えてお紹介できればと思っています。
Aセクシャルは、端的に言えば「他人に対して恋愛感情や性的欲求を求めない」ことであるとされています。
勿論この中にも様々な分類があり、例えば「性的欲求はないが恋愛感情はある」といったものや、「触れ合ったり抱きついたりすることはできても、性的行為は嫌悪を抱く」といった、一言では言い表せない概念です。
ちなみに日本では、先程の例では前者を「ノンセクシャル」と定義することもあるそうです。
経験から芽生え始めた、Aセクシャル
ここからが私が恋愛経験を経ながらも、それを無下にし、数人の恋人であった人たちを傷つけて……。
それでも尚、Aセクシャルという言葉に出会ったか。
私はこれまで、数少ないながらも恋愛経験をしてきました。
行為もあります。
しかしながら。
「一途になる」といったことや「この人となら一緒に、ずっと過ごしていたい」という思いを抱くことはできませんでした。
極論を申し上げるなら、パートナーがいるという、一つのステータスとして持っていたかった。
どうしようもないクズで下衆な考え。
若気の至りという言葉では済まされない、相手を傷付けてきた、私の勝手にも過ぎる思い、考え。
その根源にあったものは。
性嫌悪
行為に対しては、お恥ずかしながら、思春期で周りがその手の話で盛り上がる中。
私はさっぱりついていけず、理解しようとも、聞き入るようなこともしませんでした。
気持ちがいい。興奮する。最高。
普遍的でありながらも、「当たり前かもしれない」そういった言葉の数々に、私が抱いた感情は。
何に?
何が?
どう、いいものなの?
その手の雑誌を拾った同級生が持ち込んで、周囲が盛り上がっても。
私が最初に抱いた思いは。
「何、これ。……気持ち悪い」
でした。
時を経て実際に行為に臨んだ時も、最初こそ興奮しました。
前戯の中で漏れる、互いの声、高鳴る鼓動。溢れる互いの体液。
しかし、いざ本番を目前にすると。
自分の持つものや、相手のものを見ただけで。
気持ちが萎えてしまった。
それでも二人で絶頂を迎えたいという思いから、自分を鼓舞しながら望んだ本番も……。
世間で言う「至福の絶頂」というものを経験できませんでした。
当時お付き合いしてくれた人たちには、弁解する気持ちも、罪の意識も、今はありません。
申し訳なかったと言っても、それも自分を「許して欲しい」という思いにしかならないと思っているからです。
恨まれても、貶されても、非難されても構わない。罪だと罵られても構わない。
私には、どうしても理解できなかった。
そうとしか、私は今でも言えないからです。
……つくづくクズだな、私。
ヒトという種族の本能
人間を含む生物は、種の存続の為に、子を宿し、さらなる繁栄を願う。それが、生物の持つ本能なのではないか。
その定義に、無理やり当てはめ続けてきました。
そして、それを理解できない私は。
一つの生物でありながら、その本能に反する欠陥品なのではないだろうか。
ヒトとして、誰も愛するどころか、好きになるという感情が、わからない。
考える前に、本能で働くはずのその感情が。
私には、ない。
それから私は、「恋愛 わからない」「人を好きになる わからない」といった言葉でネットを徘徊しました。
最初は「恋愛経験がないから」だとか「本当に愛する人と出会っていないから」といった言葉だけが引っかかりました。
違う。
そうじゃない。
私が本当に知りたいものは。
好意を抱くことがどういうことなのか、愛という定義はなんなのか。
それを、足掻くように知りたかった。
そこで出会った言葉が、Aセクという言葉でした。
私のセクシャルマイノリティ
セクシャルマイノリティは、HSP以上に「自認する」という側面が強く、他人から判断してもらうことは相当困難ことと思っています。
私の場合は恋愛感情を抱けない(というよりもわからない)、性嫌悪(性的な事柄に嫌悪感を覚える)です。
ただ、赤の他人が恋愛していようが、行為をしていようが、それは特段嫌悪は抱きません。
私は、自分がいざ行為に及んだ際に、性的興奮以上に嫌悪感が先走ってしまう。
そんな感じです。
家族愛や友情は理解できる
ただ一つだけ言いたいことがあります。
他人に愛情や好意を抱けないのは確かですが、家族に対する感情や友人に対する感情はあることだけは、ご理解いただきたいのです。
家族愛、というものは正直今もわかりません。私の家は、元々機能不全家族なのですが……母親や兄は、ずっと大切にしていきたいと願い、その思いに準じて接しています。
父親については、血がつながっているという事実に吐き気すら覚えるほどですが。
友人に対しても、友情ということは、私なりの答えは持っている……つもりです。
曖昧になっているのは、上手く友人関係を築いてくることができなかったから。
しかしながら、少なくとも今は、友情というものを理解して……育んでいきたいと願っています。
性的指向は、思った以上に難しいもの
正直なところ、このAセクについては、記事にするかどうか結構悩みました。
自分勝手だとか、傲慢だとか、知らないだけじゃんとか……知りもしようともしないで、偉そうにとか。
そう非難されることが、怖かったからです。
でも、人の顔色を窺って、それに合わせて自分に嘘をつくことは、もっと嫌だ。
私は、私という人間を貫いていきたい。
世間から、どう見られても。
今からでも遅くはないだろうから。
もう、偽りの仮面を被って生きていたくない。
自分でも未だに求め続けている内容、纏まりもない記事となってしまいましたが、もしも同じような思いを抱いている方の微かな手助けになれば幸いです。
今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。