【生き方・価値観】食 ~本能によるものでも、価値観は様々~
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年末年始という言葉も、そろそろ終わりを迎えてくる時期となりました。
2020年新たな年の始まりと共に、これまでとまた違う一年になる。
未来。或いは将来。
それは結局、その瞬間を経た途端に、過去のものになってしまう。
今という瞬間も、こうして文字を起こしている合間に、次々と過去のものになっています。
今日という日に経験したことも。あの頃に感じた様々な感情も。
全て、思い出となります。
だからという訳ではありませんが、私はそれを写真という形で残すようにしています。
文章だと、どれだけ記憶が鮮明であったとしても。
どうしても「自分の都合の良いように」勝手に改変されてしまう可能性を秘めている為です。
然れど、写真というものは、嘘はつきません。
喩えそこに、その時の思いや感情が残っていなかったとしても。
その瞬間を、確実に残すことができる、唯一の手段。
端から見れば大したものでないものであったとしても、私が「この空が訴えていることは、なんだろう」。
そう思った途端に、カメラやスマホを取り出して写真として記録します。
それを見ることで、多少のズレはあっても。何かしら思い出せることができる。
私はそう信じています。
今日もそんな、精神的であるのか、心理的であるのか、自分でもよくわからない哲学(?)について耽っている白兎です。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
前書きが長くなりましたが、興味深い話題をネットで見つけました。
それは、食というものについて。
皆様のブログでも、食事や料理について記事をお書きになっている方が沢山いらっしゃいます。
私のようなクルマ好きには、愛車と共に様々な場所へ趣き、その地特有の美味しいものを堪能するというのも、ドライブを楽しむの中でも大きな要素になるっていると思っています。
ですが、私がこれまで抱き続けてきた疑問があります。
食というものに、興味や関心がない人。
生きる為、本能的に欲する欲求の一つである、食べるということ。
それに反する人間は、どういうものなのか。
今回は、そんな内容について綴っていきたいと思います。
- 食べることとは
- 始めに
- 食に興味、関心を抱けない人もいる
- 小さい頃から刷り込まれた思い
- 食べるという行為自体が、作業にさえなり得る
- 掛けられる言葉の有り難さの、その反面
- 本能であっても、どう考えるかは価値観が大きいのではないか
食べることとは
まずは、当たり前のことのようにしている、食べるということの定義を、私なりに考えてみました。
当たり前過ぎることを考えること自体変だ、と言われても。私はどうしてもその本質を調べ、自分なりに解釈して、理解したい。こればかりは、ご容赦くだされば幸いです。
さて、食べることという行動は。
食べ物や料理を見て。美味しそうと、或いは珍しい、興味が湧いて。
実際に口に運んで。咀嚼して、飲み込む。
動作としてはこんな感じになるかと思いますが、人間が感じることは、それだけに留まらないと、私は思っています。
食べ物や飲み物から栄養を摂取する。それだけでは済まないと思います。
美味しいものを食べたことによる、精神的な満足感や充足感。
家族や関係の深い人々と食事を共にすることで、結束感や繋がりをさらに強固なものとし。
それにより、「幸せ」という感情を抱き、そんな自分を大切にしたいという自尊心を高めていく。
私なりに考えただけでも、食べるという行為そのものが、人間が生きる定義そのものであるとさえ思ってしまいます。
それだけ、食は人生の質を高める重要な役割を持っているのではないかと、私は考えるに至りました。
始めに
そこで、今回のお題。
「食事に興味がない人」という存在が、少なからずいるということです。
最初にお断りさせていただきますが、私は決して、食べるということそのものを否定したり、料理や食事の様子を書き綴ったり写真に収めたりすることを非難するつもり全くないことだけは、ご承知賜りたく思います。
食事ということを、料理を楽しむことは、本能的な欲求だけでなく、人それぞれ趣味であったり、共有できることであったり。
私にはできない、とても素敵で素晴らしいことであると思っています。
そういったことを真っ向から否定したりすることは、他の誰でもない、私自身が許せないし、絶対したくありません。
それは即ち、私がこれまで綴ってきた記事、そこに込めた思いを拒絶されることと同義だからです。
拒否したり、されたり。そういったことで自分を保とうとしなくても。
それぞれが持つ価値観や考えの違いを……全てとはいかなくても……理解し、受け入れて。「そういう考えもあるんだ!」って思えることに巡り合う機会がある方が、私は幸せで、有意義であると思っています。
押し付けも、強要も、そこにはない。私はそう思い、願うばかりです。
長くなりましたが、本題に入って参ります。
食に興味、関心を抱けない人もいる
本題に戻ります。
まずは、私の場合についてからお話しさせていただきます。
私はかなり少食で、超が付くほど偏食家です。
具体的には、普通盛りのラーメン一杯で十分。
定食は「ご飯を半分で」と頼まないと、食べ切れない程。
食べられるものも、結構限られてきます。
まず、魚介料理は全般的にダメです。磯の香り、と表現すれば良いのでしょうか。どんな調理方法を介して出されたものでも、磯臭さを感じた瞬間、吐き気を催してしまいます。
肉に関しても、顎の力。つまり噛む力が弱いけでなく、歯並びが悪いので、噛み切るということが私にはできません。
よって、脂身や筋が多い部位。ホルモン系特有の食感のものは食べられません。
好きなもの、を挙げた方が早い位、私には苦手な食べ物や食事がとにかく多いです。
小さい頃から刷り込まれた思い
そんな私に、幼少期、よく祖母が掛けた言葉があります。
「もっと食べないと」「背ばかり大きくなって、ウドの大木になるよ」
「出されたものを残すなんて、勿体ない」「米粒を残すと目が潰れる」
良い意味でも悪い意味でも、食べることに対して大きな影響を齎す言葉ばかりでした。
本人から直接聞くことはありませんでしたが、祖母は戦争時代を生き、食べることにさえ事を欠いていた、とのことです。
それ故、食べることが遅くて苦手なものが多かった、孫である私に祖母なりの優しさと厳しさを教えてくれたのだと、今は思います。
このこと自体に反論することも、反抗したこともありませんでした。
しかし、今の私が考える食ということに、少なからず影響を与えていることもまた、確かな事実です。
私は少食、先ほど申し上げました。
少食ということに間違いはないのですが、それ以上に、満腹を超える苦痛を覚える程食べたいと思わない。
所謂腹八分目、というものです。それ以上の量を食べることに、苦しさしか得られません。
もう一つ。食事、特に外食に赴いた際。
食べ切れなかったものを、残して去る。これを無碍にできない。
HSP由来のことなのかもしれませんが、残された料理の材料となった食材が、ゴミとなって捨てられていってしまう。
そう思うと、得体のしれない寂しさや悲哀感を覚えてしまう。
食べ物自体に、感情はない。
でも、私にはとても無視できなかった。
だったら、自分が食べられる限界をちゃんと理解して、残さない食べ方をしよう。
ですが、それだけではありませんでした。
食べるという行為自体が、作業にさえなり得る
食べ物に対する、ある種の縛りとも言える思い。
最早脅迫概念に近かった、その考えと思いが齎したものは。
食事というものが、単なる「作業」になり得るものとなった
ということでした。
それを自覚したのは、気分障害を患った時からでした。
身体も満足に動かせず、動きたくもない。何もしたくない。
そんな中でも、食べることはしないといけない。
……本当に、必要なことなのか?
食べるということが。
空腹を知らせる脳の信号も、その時は完全に壊れて、機能しなくなっていました。
食べたいと、思わない。食べたくない。
食べる為のものを、調達することさえ面倒で。
仮に食べ物があったとしても、それを食べる時間が無駄にさえ感じるようになりました。
以来、私がストレスを強く感じた際にまず現れる症状が、食欲が大きく減衰することです。
そうなったら最後、極論を申し上げれば「薬を飲む為だけに、仕方なく、何か胃に入れる」という思いに至ります。
料理の美味しさや香りは、そこにはありません。
それ以上に、ただでさえ気が滅入っているのに、食事に無駄な時間を割きたくない。
会社でも平気で、昼食を抜いたりします。
掛けられる言葉の有り難さの、その反面
そんな私は、会社で「何食べて生きてんの?」と聞かれることが多々あります。
また、少食な私に「それだけで良いの?」と言われることもあります。
その時は、「超低燃費仕様ですので」と愛想笑いを返します。
時には、相棒「Lupus」と共に出かける際に、その出先の名産物の話をされることが多いです。
「そこは魚介が美味いよ」「美味しいものくらい食べてこなきゃ、勿体ないじゃない」「(魚介なら)新鮮なものを食べたことないから、食わず嫌いなんだよ。本物食べてみな、美味いから」
声を掛けてくれる先輩や上司が、私にアドバイスや優しさの籠もった言葉をかけてくれている。
そのことには、素直に感謝しています。
わかります。わかるんです。
でも、ですね。
食べることって、人からとやかく言わることなの?
幸せの定義は人それぞれ、という思いを自負している私には、素直過ぎて、相手を蔑ろにしかねない言葉が浮かんでならないのです。
こればかりは、食に対する冒涜と言われても仕方がないと思っています。
それでも、これ程までに言うのには、私が持つ矜持がある為です。
食べることを楽しむよりも。
知らない場に赴いた時の、そこから受ける五感からの情報。
それを自分なりに受け取って、どう思ったか、どう感じたかを吟味したい。
そういった思いの方が、強く出てくるのです。
本能であっても、どう考えるかは価値観が大きいのではないか
私の場合の食というものに対する思い。
それは「私の食事事情で、相手を困らせたくない」と「会食が苦手」というものがあります。
勿論、「美味しい」とか「うーん?」と感じることはあります。味覚がどうこうではなく、私なりの好みの基準というものはある、つもりです。
ですが、それ自体が「幸せ」という感覚に結びついたことは然程ありません。
更に掘り下げると、以前の記事で述べた通り、私は家族で食事を摂るとい機会が幼い頃からありません。
家族バラバラで食べて参りました。故に、食卓を囲んで食事をするという行為自体、今でも抵抗感といいますか、苦手意識があります。
誘われることがあっても、嬉しいと思う以上に、「どうしよう……」と困惑してしまいます。
みんなで食べれば美味しい?
皆様も耳にしたことは少なからずあるかもしれません。
幼い頃、特に幼稚園や小学校。
「みんなで食べれば、もっと美味しい」
……それって、本当なのでしょうか。
私もそうでしたが、食べるのが遅く、食事中に会話を振られると更に遅くなってしまい、当時の先生に「まだ終わらないの?」と言われた記憶があります。
みんなで食べれば美味しい。みんなと遊べば楽しい。みんなと一緒なら……。
私から言わせれば、それって洗脳に近い言葉では?
そう思えてなりません。
中には、一人で静かに食べたい人もいるでしょうし。
中には、流行よりも自分が美味いと感じ続けているものを、毎日食べたい人もいるでしょうし。
中には、食べることそのものがストレス、という人もいるでしょう。
生きていく上で絶対的に必要な、食べるということ。
その形がどうあっても。
他人から見て、「可愛そう」だとか「変な人」と思われても。
本能由来の食欲。それを満たす為の食事も、人それぞれで良いのではないでしょうか。
決めつける必要が、定義しなければならない理由が、あるのでしょうか。
その人が、その人なりに食べるという行為を楽しみ、満たせるのなら。
それで良いのではないのかと、私は思っています。
何を食べたって、別に良いじゃない。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
あ、今日食べたぜんざい。甘くて美味しかったです。