【生き方・価値観】生きること、死ぬこと ~そこに、平等はあるのか~
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今年はなんだか、年末年始という間隔が掴めずにいます。
師走の終わり、年末間際というのに、妙に暖かく、みぞれのみならず雨すら降っている。
環境だけでなく、仕事も「御用納め」というには程遠い位、最後の最後まで仕事に追われていたせいでしょうか。
「やっと休みか」という例年とは何かが異なる。
そんな雰囲気に違和感を覚えながら、得体のしれない不安のようなものを感じている白兎です。
皆様、如何お過ごしでしょうか。
この度、私の思考や価値観に近い考えを持っていらっしゃる方のブログを拝見しました。
そして、それについてもう少し深堀りしてみようと次第です。
生きること、そして、死ぬこと。
ヒトという生物が運命づけられた、どうやっても避けられないもの。
以前記事で上げさせていただきましたが、私は物心覚え始めて以来、隙あらばなんとなく考え続け、未だ求め続けている事柄です。
そんなことを考えるだけ時間の無駄、という意見もご尤もかもしれませんが。
誰もが辿り着けない、生死の先にある「真理」を見出そうとしているのかもしれない、と自己分析しています。
今回はそんな、この世の中を生きるというだけに留まらない、重い内容についてお話しできればと思っています。
その前に、今回自分の記事を見直してみました。
私は文章を書くこと自体は大好きで、幾らでも書こうと思えば書ける性質ですが、
兎に角、纏めるのが絶望的に下手くそです。
その為、一つの記事が軽く3000字を超え、時には4000にすら達してしまう私の記事は、客観的に見て「結局、何が言いたいの?」と自問自答することになりました。
そこで、全ての記事に対し目次や見出しを追加し、私が一番伝えたい言葉を赤字にし、その次に言及したいことを太字に編集しました。更に内容修正や誤字脱字(こればかりは、申し訳ありませんとしか言いようがありません)を直しましたので、もしよろしければ、ご閲覧いただければ幸いと思います。
前書きが長くなりましたが、本題に入っていきます。
この世に生を享けたこと
この世界に、親という人生の先輩に名前をつけられて産まれたもの。
そこには明確な自我や意志はなく、外部からの刺激や言葉、仕草から吸収し、結果として「他の誰でもない、一人のヒト」として育っていくものであると私は考えています。
そもそも自我とは、どういうものなのか。
専門家ではないのでWebからの知識になりますが、可能な限り私なりの見解で説明できればと思います。
自我。別名「エゴ」と呼ばれるもの。ここでいうエゴは、利己主義者のエゴイストとは別物です。
ヒトが無意識的に持つ感情や欲求・衝動、過去の経験が詰まっている「イド(別名:エス)」と呼ばれる、言わば本能の塊。
社会的ルールや道徳、倫理、良心、理想といった外部的なイメージや意識を司る「超自我(別名:スーパーエゴ)」。
イドと超自我という正反対に近いものからの欲求を受け取りつつ、外部から入る情報や刺激を調整するもの、それが自我です。
何が言いたかと言うと。
私たちヒトが持つ、「自分いうもの」と認識しているものは、無意識的欲求(イド)と外部的範例(超自我)との競合、そして外部からの情報や刺激を加えて生み出されたものであると、素人ながらも私は考えたいます。
このことから導き出されるもの。
ヒトという同じ種族でありながら、全く異なる価値観や考え方、理想や信念を持つことに至っている、と私は思っています。
当然と言えば当然かもしれません。両親から受け取った遺伝子だけでなく、ヒト本来が持つ本能、生まれ育った環境。
喩え些細な違いであっても、全く異なる考え方や価値観を持つ結果となる。
これはある意味、ヒトという種族でありながら、人間同士で些細なことから争ったり共存を図ったりという、他の動物とは異なる存在となっているのではないか。
他の動物は、本能に従って自らの遺伝子を後世に残す為に、殺したり、殺されたり。その頂点に立ったものがその権利を得ているのに。
ヒトという生き物は、それを凌駕する意識や思惑・考えが、生存本能と並んでいる。
このことについて、私はずっと考えを巡らせてきました。
何故、同じヒトという種族なのに、争わなければならないのか。どうして、(私から見て)つまらない地位や名誉に、縋るように拘るのか。
その為に、同じヒトという存在を蹴落としたり、騙したり、利用するのか。
私が物心ついた頃から決して離れることのなかった疑問。
それはもしかしたら、ヒトが持つ「理性」というものが、元を辿れば生存本能なのではないのか。
答えがあるとは、私は思っていません。
ですが、それを求めるという無意識は、今の中でも根付いて離れないのです。
答えのない答えを探し求める。最早私の潜在的な探究心、興味や関心を得られることなのかもしれません。
生きること
生きること、即ち「生」というものは、それぞれ異なった環境や境遇によって大きく変わってくるものであると考えています。
裕福なのか、貧相なのか。先祖代々から伝わる、歴史的地位なのか否か。各界で頭角を現したとある人物の、単なる子孫なのか。
こればかりは、本当に憶測の域を出ません。
ですが、決定的に言えることは、一つ。
生きることは、平等では決してないこと。
これに尽きると私は思っています。
憲法だけでなく、見る訳でもないメディアから入ってくることは、「全てのヒトが平等」「ヒトは皆平等で『最低限』の生活を営める権利」といったことが謳われています。
これは個人的見解であることを承知の上ではありますが。
そんなことは、絶対的にあり得ない。
幾ら表面上で平等と言ったところで、その先に待ち構えている、ヒトそれぞれの環境。
そんなことなど、世間的に認知されるはずがない。
何故なら、手段が存在しない。
その判断の主たるものは飽く迄主観的であり、決して客観的判断を付けられる決定的な、判断基準がないから。
事実、一昔前に話題となったワーキングプアという言葉。働いても働いても、一人のヒトして生活していくことさえままならない。
一方で、金と地位さえあれば、喩え殺傷事件を起こしても、逮捕されずに書類送検だけで済んでしまう者さえいる。
こんなもの、どこが平等か。
平等という言葉を盾に、結局は金や地位の有無で判断され、有耶無耶になっている。
何が平等だ、馬鹿馬鹿しい。
私はそういった表面的なステータスだけで平等という言葉が簡単に覆ってしまう世の中に、反吐が出る思いでいます。
それが、生きるということに対する平等という言葉に対する、私の疑問です。
死ぬこと
生きることが平等とは程遠い、世の中。私からすれば、腐り切っています。
一方で、「死」というもの。
私なりの見解ですが、
死ぬことということは誰もが望んで受け入れられるものではないもの。
しかし、それが皮肉なことに、平等なのではないか。
私はそう考えています。
生前、どれだけの地位や名声、活躍を築き上げてきたとしても。
死ぬ時は、結局は一人。
身内が見守ろうとも、そうでなくても。「死ぬ」という経験は、その当事者にしかわからない。
私も祖父母が亡くなる際、双方ともに前夜に立ち会うことが幸いながらもできました。
呼吸も荒く、こちらの声も届かない状況。もう限界なんだ、というのは嫌でもわかっていました。
それでも私は、祖父にも、祖母にも。
「帰って来たよ」と、短い言葉を掛けた覚えがあります。
当時は言葉にはできませんでしたが。
心のどこかで。
「今まで、ありがとう」
と呟いていたことだけは、はっきり覚えています。
祖父母は年さえ違えど。
私が最後に会いに行った明け方、共に亡くなりました。
祖父母は性格も考え方も、全く正反対。
生き様も、本当に正反対でした。
でも。
最期は、同じように。
苦しそうに、息をするのもやっとだったはずなのに。
逝ってしまった後は、本当に安らかな顔でした。
握りしめた手が、あまりにも冷たく、硬くなってしまったけれども。
死ぬ間際の苦しさは、遺された私たちが感じられないほど穏やかでした。
生死の平等さ
幼少期に我儘だった私に、本当に最期の最期まで優しかった祖父も。
自他ともに厳しく、認知症とうつ病を患いながらも、最期まで自分を貫き通した祖母も。
最期は、虚しさすら覚える程、平等にその生涯に幕を降ろしました。
祖父は亡くなって十数年、祖母は五年程経ちます。
生きていた時は不平等でも、死ぬ時は、皆平等なのかなかもしれない。
今は思うに至りました。
地位や名声を幾ら築き上げても、最期は一緒。
そこに至る過程は違うとしても。
長生きしたいと願っても、そうでなくても。
死ぬ時だけは、ヒトの願いなど問答無用に、平等に齎すものなのだろう
私なりの結論に至りました。
私は、長生きしたいと思ったことはありません。
歩けなくなり、流動食になって、寝たきりになって。
最終的には 胃のうで生かされるようになる位なら。
そうなる前に、死に至りたい。
叶うかどうかは別として、私はそう願っています。
然れど、恐らくそればかりは、許してくれないでしょう。
死。
それだけは皮肉過ぎる位、容赦ない程に。
きっと、初めて「平等」なのだろうから。
重い内容になってしまいましたが、最後までご閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。