【人生・価値観】承認欲求 ~欲望の先に待つもの~
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クリスマス~が今年もや~ってくる~
帰路途中にあるショッピングモールへと向かう道。普段以上の、私からうれば異常とも言える程の渋滞ができていました。
会社帰りの多い時間帯の混雑。
家で家族と盛り上がる為のご馳走やお酒、プレゼントを求めてなのでしょうか。
それが、普通の家庭なのか。
普通の家族ではない家に生まれ育った私には、そういった「普通」というものはわかりません。
いつも通り、部屋でウイスキーを静かに楽しんでいる白兎です。
皆様、如何お過ごしでしょうか。
お陰様で本ブログも読者の皆様やPV数も右肩上がりで、本当に感謝するばかりです。
その一方で、これまで私が何度か遭遇し、挙げ句挫折してきたことを感じ始めています。
それが、今回のお題に値するであろう「承認欲求」というもの。それについてお話しできればと思います。
承認欲求
幼い頃は誰もが多少の差はあれど、基本的に同じクラスの子や同学年の子と仲良く、楽しくやっていこうと、考える前に教師から教わるものであると私は思っています。
しかしそんな言葉も、歳を重ねるに連れて。
部活に入ったことをきっかけに、才能が開花したり。勉学で才を見せ始め、他人とは「違う」ものを得始める人もいる。
それにより優越感を覚え、人よりも優れている自分というものを、ある種の確信のようなものを抱き始めることさえあるかもしれません。
そこにカテゴリーや種別はないと私は思います。運動神経や頭脳、美術的才能……挙げれば切りはないと思います。
ですが、共通することがあると私は考えます。それは。
自分は、人より優れたものを持っている、という自己顕示。それを糧に、邁進し続ける力。
それと同時に、傲慢の材料になりかねない「人を見下す」という快楽に溺れてしまう可能性も秘めている、自己顕示するという欲求、欲望。
そういった才能や天性のようなものを持っている人は、極僅かです。
それ以外の人間は、多少他の人よりも得意があったとしても、自慢できるものがあったとしても、世間的には認められないことは少ない。
それ故、この世界に人間として生まれたが為に。
どんなことでも構わない、誰かに認められたい。
自分という存在を。
それが、承認欲求というものであると、私は考えています。
仙人のような、浮世離れした生き方をすると自ら自負しているのならともかく、そういう人は多くはない。
学校という限りなく狭い世界ならまだしも。
社会というあまりにも広大で、限界というものを知らない世界に立てば、誰かに認められなければ、生きていくとさえ叶わない厳しすぎる。
そんな世の中で生きるための本能の一つ、それが承認欲求ではないのでは、と思えてならないのです。
私の場合
全員が全員に当てはまることはないと思いますが、少なからず私は、そんな無意識に湧き上がる欲求に翻弄されてきました。
憶測の域を出ませんが、私はその欲求に殊更貪欲で、何がなんでも認められないといけないという、一種の脅迫概念のように求め続けてきました。
その根底には。
人格を全面否定され、一人の「ヒト」としての存在を完全に拒否された。
その経験が要因であると、勝手ながら分析しています。
具体的な例を並べるとすると、こんな感じになります。
「パソコンのことについては学校で習ってきたから、困ったら私に聞いてください」。
「貴方の意見には決して反対しないから、私を信じてください」。
「お酒も多少飲めます。飲み会も参加する誠実さを持っています」。
「話を聞いて、興味を持つので、沢山のことを聞かせてください。とにかく、私に色んな話をしてください」
昔は本当にこんな思いばかりを抱いて生きてきました。
承認欲求というものを通り越して、これはもう、「見捨てないでください!」という心の叫び。
見え透いた虚構であったとしても、自分なりに、誰かに認められようと必死だった。
当時は、認めてくれさえすれば、どんなことでも我慢できました。
自分というものを削っても、時間や体力を削っても、それ以上に承認というものをとにかく求め続けていました。
その末路
こんなことをして得られるものは、何もありませんでした。
先輩に可愛がってもらったり、飲み会の席で唯一の若手という意味では、目立っていたということは確かでした。
ですが。
私の求める欲求は、結局止まりませんでした。
「私という存在を認めてほしい」という心からの絶叫は、止まることはありませんでした。
その末路は。
自分というものを犠牲にし、自分という「本当の姿」を失い。
待っていたものは、精神が崩壊する心の病でした。
好かれたいというあまりに。認められたいというあまりに。
私が選んできた道は、間違いだらけだったことを、病を患ってから気づきました。
気付くには、あまりにも遅すぎる程でしたが……。
もう一度、自分と向き合って
精神を病んでしまった私は、それまで行ってきたことさえできなくなり、自分の存在価値すら疑うようになっていました。
いっそのこと、私が消えてなくなり、世の中の全員の記憶から、私という存在が抹消してほしい、と思っていた程です。
そんな中で、改めて自分と向き合う時間が増えたこともまた、確かでした。
本当に求めるものは、何?自分がほしいものって、何?
立場?会社での評価?評判?
……それって、自分を削りきってまで手にするようなものなのか?
そう思ってから、沢山悩む時間がありました。
私が求めるもの……認められたいって、どういうことなのか。
クルマのSNSと出会って
それから数年経ち、私はクルマのSNSに出会いました。
最初はパーツのレビューを参考にする程度の、単なるROM専でしたが、いつの間にか、「自分の愛車を紹介して、情報共有したい」という思いに刈られ、本格的に活動を始めました。
ブログも書けるSNSとだったので、始めこそ、能書きを垂れるように……そこでも、誰でもいいから認めて欲しい。
そういう歪んだ欲求の為にブログを書いたり、パーツレビューをひたすら書いていました。
ですが、ある時気づきました。
それって、本当に自分が求めるものなの?
違う。
そうではない。
そこから、実際にSNSと上で知り合った人たちと会ってみたい、という別の感情が生まれ始めました。
同時に、人に実際に会う恐怖との、葛藤を通り越した、自分の中で渦巻く感情同士の戦いでした。
その恐怖を振り切って、その先にあったものは。
私にはあまりにも温かく。私が抱き続けてきた「承認欲求」などという概念すら存在しない、朗らかで賑やかで、楽しい人々との出会いでした。
そこから、私は変われたのだと自負しています。
自分を承認して欲しい、認めて欲しいなんて思わなくても。
ありのままの自分をさらけ出せる、場所があるということを。
ブログを始めてから
今でもクルマのSNSを続けながら、このような記事を書くに至っています。
今は純粋に、ブックマークや読者数、PV数目的に、記事を書くことはありません。
これまでほぼ毎日書いているのは、本当に単純な理由です。
「書きたいものがあるから、書く」。
ただ、それだけです。
一番は「書かなければ」という脅迫概念を抱きかねない。
それだけは、私はしたくありません。
容認欲求を制御できなくなった者の成り果て
ここ数年、バイトテロやバカッターと呼ばれる人たちが報道されています。
これは私なりの憶測ですが、その人たちも「世間ではとても考えられない」行動を投稿することで、一時的に注目を集め、自分というものを知ってもらいたいのではないのだろうか、という欲求が齎した行動の果てなのではないかと私なりに考えてます。
同じ学生でも、才能を見いだされて活躍する子がいる一方で、そうでない子たちが認めて欲しいと単純に考えれば、ある意味自然な行動なのではないのかな、と。
後先のことを考えない、それこそ、若気の至りで、「こんなことしてるんだぜ俺!」って注目を集めたい。
裏を返せば、それは「承認欲求」の強さから生まれる行動なのではないかと、私は思います。
とは言え、同情などできません。
事実、その後の彼らの末路は見えきっていました。
少年法という、ある意味都合のいい法律に守られて、報道では実名だけでなく、身内や住所、経歴。そういった情報は非諾されました。
それはそれでおかしいと思う私ではありますが。
そんな法律を無視するかのように、実際には報道された彼らの情報は無慈悲なまでに晒される結末となりました。
当然の報い。
そう言われても仕方がないでしょうし、私もそう思っています。
でもそれは、社会的にみた視点であって、その子たちからすれば、ある意味必死な「承認欲求」を満たす為の行動だったのかもしれない。
社会的に許されることではないことは明確でも、底の見えない非難の嵐を受けても、そうすることでしか満たせなかった欲求。それが承認欲求なのかな、などと考えています。
こういった事柄を、私なりの結論を一言で表すとすれば。
人に迷惑をかけなければ、自己満でも良いんじゃないかな。
ブログでも、ツイッターでも。書きたいことがあれば書けば良いのではないのではないかな、と。迷惑行為や事件沙汰にならない程度なら。
自分に嘘をついても、社会的に迫害されるようなことをしなくても。
少なくても、賛同し、共に進んでくださる方がいる。
そのことに感謝する一方で、自分や他人、社会を裏切るようなことは、単なる害悪でしかないと私は思います。
超えてはいけないラインは、年齢関係なく、存在しているはずです。
喩えそれが、承認欲求という、自分自身を保つ為の本能であったとしても。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。