【価値観・HSP】深く考えることの善悪 ~寄り添うことも、傷つけることも~
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今シーズン、ほぼ初となる雪が積もりました。
積雪量は10センチと少ないながらも、水分を含んだそれは重く、雪かきやクルマの雪下ろしにも苦戦した白兎です。
皆様、如何お過ごしでしょうか。
今回は、以前ご紹介したHSP。
それを構成する一つである「深く処理する」という内容についてお話ししていければと思っています。
望んで欲しかったものではないのに、無意識にそうしてしまうこと。
私がこれまで経験したことにを交えながら、興味を示してくださったり、共感してくださる方がいらっしゃれば幸いかと思います。
深く処理する
HSPについて、私の経験談を用いてご紹介した記事。
HSPというと、刺激に敏感で些細なことにも反応する、感情が鋭く反応して共感力が強いというものが大きなものがあるかと思います。
その中でも、私なりに一番理解されにくいものが、「深く処理する」という概念です。
「深く処理する」って……どういうこと?
どんな感じなの?
聞かれることはまずあり得ないことですが、私の頭の中では、それこそ憶測に憶測を重ねる程の考えで一杯になることが多々あります。
例えば。
「俺は今の仕事、もっといいやり方があると思うんだけど、どう思う?」
と聞かれた時。
皆様は、どのような回答をするでしょうか。
私なりに単純に考えるとするならば、「どういうやり方ですか?」「聞かせてもらってもいいですか?」といった返し方が、率直なものであるかと思います。
一方で、私のような人間の頭の中では、こんな思いが錯綜します。
「今のやり方に不満があるのか?」「どこが不満なんだろう?」「そもそもその仕事に対して、やりたくない理由が本当はあるのかも?」「意見を聞きたいのか、それとも同情が欲しいのだろうか?」「それに対して答えた私を、試そうとしている??」「もしかして、私の意見を聞いて自分のものにするつもりなの?」「失敗した時に、私を道連れにする為の布石?」
ぱっと浮かんだだけでも、このような考えが一気に頭を駆け回ります。
答えのない答えすら求めようと、無意識に考え込んでしまう私には。
単なる答えが欲しい相手の言葉にさえ。
頭の中を掻きます程の思考の渦が、私を惑わせ、迷わせ、簡単な回答さえできないのです。
深く処理することの悪
このような気質故、私は即答やアドリブというものが物凄く苦手です。
答えたくても、言葉が簡単に見つからない。見つけられない。
もっと言ってしまえば、その人がどのような思惑で聞いてきているのか。
それが喩え、単なる天気の話であったり話題のニュースに関することであっても。
深く追求し過ぎてしまう。
これが災いし、これまで苦い思いを幾度も体験してきました。
考えを深く巡らせる=即答できない私に、「なんで黙ってるの?」「いいから早く答えてよ」と非難されたことも少なくありません。
私の考えや思い、至っては探りと言って差し支えなく、必ずしも真実や相手の答えに即したものではないからです。
考えに考えて出した答えに対しても。
「は?」「そんなこと聞いてるんじゃないんだけど」
と、的はずれな回答になってしまうことも多いです。
当たり前ですよね。
幾ら自分勝手な憶測に更に憶測を重ねたところで、相手の意図や気持ちなんてわかるはずがないのですから。
加えて私は、事を大きくしたり空気が悪くなることを避けようとする傾向があります。
険悪な空気……その場にいるだけで、自分というものが侵食され、侵され、壊されそうになってしまうから。
そんな曖昧で中間的な立場を保とうとする私に、批判が集中することは多かった。
小学校の教師にすら、「自分の意志をきちんと出せ、バカ」とすら言われた程です。(今でも軽く恨んでいます)
そんなこと、私は「賛同する人は賛同すれば良いし、そうでなければやめればいいのに」と幼い頃から思っていた私には、精神的に大きな傷を負う言葉でした。
深く考え、処理し、アウトプットする。
そんな自分に、嫌気が差さない日の方が少なかった。
深く処理することの善
一方で善とは決して言える訳ではありませんが、その性質が役立ったこともあります。
それは、相談を受けること。
以前書いた記事にも記しましたが、どういう訳か、様々な相談を受けることがあります。
総合的にみて、それらは決して明確な答えやアドバイスを求めるものではありませんでした。
単なる愚痴から始まり、とても他人に言えることではないような、重い話だったり。
簡単にアドバイスしたり「こうしてみたら?」という提案をしては、逆に傷付けてしまうかもしれないようなものばかりでした。
教師がクラスの険悪な空気について相談してきたことも。
医者が、経営状況やご自身のことを話してきたことも。
友人が、仕事で悩み苦しんでいる近況を話してくれたことも。
明確な答えを求めていないことは、なんとなく……それこそ第六感的な「直感」に近いもので感じ取ることができました。
そんな時、深く考え処理するという特質が役立ってきたと思っています。
聞き流そうと思えばそうできた。
私に話すことじゃないと、突き放すこともできた。
でも、私は私の思いに従って答えを出してきました。
同情するには程遠くても、話をただ「聞く」のではなく、まずは相槌を打ちながら「聴く」。この傾聴というものは、実際に実践することは難しいことです。
幸いにも私は一対一の会話は好きで、特に聴くことに対して大して苦を感じたことは然程ありません。
相手が一段落するまで、とにかく聴くことに徹する。
「それはちょっと違うんじゃない?」「気持ちはわかるけど……」と言った言葉は、タブー中のタブー。否定だけは絶対にしないようにと、ずっと自分に言い聞かせてきました。
そのあとに、必ず「私は〇〇だと思う」と、私の考えを出す。
考えを出すには時間は必要ですが、それでも、自分の本音と相手にかける言葉を慎重に吟味し、じっくり考え込みます。即答だけは、しないように。
そして、「私は」という切り出しに使う言葉は、今でも使っています。
私の考えは私が考えた一つの意見や意志であるに過ぎない。人には人の、考えや価値観がある。
それを、侵してはならない。
何よりも、人に押し付けることは、他の誰でもない私が許さなかった。
偽善者と言われても構いません。
それでも、「(聞いてくれて)ありがとう」と感謝されました。
何故、「私に近付くな」というオーラを出しているつもりでいた私に、相談するのか、ずっと悩んでいました。
他にもっと、いい考えやアドバイスができる人が沢山いるのに、と。
今では、なんとなくではありますが、その答えが見えつつあります。
最終的には、自分の意見を
そのような感じで、私はこれまで苦渋を舐めることの方が圧倒的に多かった。
「こんな自分、なくなればいいのに」「もっと単純に生きられれば」なんて、失礼を承知で、本気でそう思うこともありました。
ですが、今は。
偶然生まれ持って得てしまったこの性質。
「悪いことだけでは、ないのかも」と思えるようになりました。
私のような人間が、少しでも誰かの助けになれれば。
奢っては駄目でも、せめて私の考えを絞りに絞って出すことで、何かが変わってくれるのなら。
お節介になるかもしれないけれど。
勇気……否、嫌われるかもしれないという、いつの間にか根付いてしまった脅迫概念に近い思いを、たとえちょっとずつでも、振り払いながら。
私は、自分が考え出した言葉を、意見を、怯えることなく出していきたい。
怖いけど。無意識が止めようとしても。
少しだけでも、そのようになっていきたい。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。