【車・趣味】時期外れのアクセラ旅路 ~動物園・終盤編~
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皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
動物園編も、いよいよ最後となります。
茶臼山動物園、第三弾を綴って参ります。
のんびりマッタリ・レッサーパンダ
伊豆でもカメラに収めてきましたが。
こちらでも多くのレッサーパンダたちが、私たちを待っていました。
木の上でお休み中の子もいましたが。
外にいる子たちは若くて元気な子が多く、この日は陽光に富み、暖かさを齎していました。
その為か、活発に動く子も。
デフォルメされた絵などでは可愛く描かれることが多いですが。
本物は、意外と強面です。
青空を背景にする強面も、凛々しさのようにも見えて。
肉球に触りたいという思いを跳ね返す程、力強い生きる意思を示していました。
でも、やっぱり眠いよね。
更に進むと、レッサーパンダ専用の屋内施設が。
こちらは歳を重ねた子が多く、と案内板には書かれていました。
しかしその実は、年齢など関係ないと言うばかりに。
温かく調整された室内を、堂々とした足取りで歩き回っていました。
この室内はアクリル板で個室が設けられていましたが、実際は木の枝を伝って、張り巡らされた梁を使うことで別個室に移動ができるような造りとなっていました。
自由に歩き回れることは、檻という限られた空間に入れられるよりも。
ストレスは、ずっと少ないはずです。
人間にも、同じようなことが言えると思っています。
家といった限られた空間に閉じこもることは、外界からのストレスを遮断できることは確かではあります。
しかし一方で、別のストレスを抱えることになると言っても過言ではないと思います。
孤独、閉塞感、圧迫感。そして奪われる、自由。
ストレス社会と呼ばれる現代ではありますが。ストレスフリーになることは、決してないと思います。
何事にも言えますが。適量、適当、適度さが大事なのかな、と思い耽りました。
歳を取っても。毛並みが乱れてしまう程弱ってしまっても。
この子たちのように、生きる現実を真っ直ぐな瞳で見据えて。動じない強さのようなものを。
願わくは、自分が歳を重ねた時には、持っていたいと思うのでした。
寝床へ帰っていく、動物たち
閉園時間を間近として、飼育員さんたちが園内の清掃と動物たちを宿舎へ戻す為に動き始めていました。
付けられた名前を呼ばれて。素直に帰っていく子もいれば。
まだ外で遊び足りないのか、そっぽ向いて飼育員さんを困らせる子もいました。
その様を見ながら、思わず頬を緩ませてしまいながらも。
一日の終わりを感じさせて。何だか、寂しい思いが少しだけ込み上げて。
それ以上の癒やしをくれた動物たちに別れを告げながら、私たちは帰路に就きました。
癒やしと共に
動物園を訪れたのは、本当に数十年ぶりでした。
園内に漂う、獣の臭い。四方八方から聞こえてくる、鳴き声。
数多くの動物たちが、様々な仕草や表情を浮かべる園内。
小さい頃は、檻の中にいる動物を見つけるだけでワクワクして。迫力にドキドキして。
「あ、いた!いたよ!」とはしゃいでいました。
そんな思いも、学校という閉鎖された空間に閉じ込められたことを切っ掛けとして。
動物たちよりも、ゲームや玩具、アニメといったものに興味が移っていきました。
その頃にはすっかり、動物園に行くのはもっと小さい子どもたちが行く場所だろう勝手に決めつけて。
動物と触れ合うことを「まだまだ子どもだな」などと自分も幼いにも拘らず、思い込むばかりに恥ずかしさとなって。
動物たちと、知らない間に疎遠になっていました。
様々な経験をして、人間不信をこじらせて。果てには人間を嫌うようになって、心もズタズタになった私は。
思いつきでとは言え、訪れた動物園で。喩え間接的であったとしても、触れ合うことで。
自由きままでありながら、生きることに懸命で、そして活き活きとしていました。
その姿を見て。写真に収めて。予測などできない仕草や行動を取る彼ら彼女らは。
理性を持っているが故に、いつしか行動そのものに自ら制限を付けてきた私たちヒトと違って。
どこまでも生存本能に従順で、あるがままの姿を見せ付けていました。
時には、種の存続故に力や威厳を以て制することはあっても。
武器も持たないヒトが、同じヒトに殺されたり排他されることを恐れるばかりに。
卑下や謙るといった、培って、育んでいきながら。いつの間にか「そうすることが当たり前」という概念として、根付きながら蔓延しているように思えるのは、私だけなのでしょうか。
弱肉強食という言葉がある位、自然界で生きる動物たちは。食うか食われるかという立場を、生まれながら背負って。
それでも種を絶てまいとする、個としての強さを各々の武器としながらも懸命に生きる動物たちは。
常に死と隣り合わせで生きてきた遺伝子があるからこそ。動物園という、ヒトに「飼われる」立場になったとしても。
種により異なりながらも、威風堂々と過ごす様は。
頭脳ばかりが発達し、それにより様々な発展を遂げてきたヒトの前には。
同じヒトという種族が、利権を巡って戦い、和解することをやめなかった私たちに。
詰まらない争いばかり繰り返して、それで満足するのか?
問うように放たれる、無言の言葉に。
私は、何一つ答えらしい答えを見出すことはできませんでした。
それに対する償い、と言っては過言にはなりますが。
力強く、ひたすらに生きる意志を全面に出しながら。その自然体故に、時折見せるお茶目であったり間抜けたように見える姿は。
迫力と恐怖に感じさせることがあっても。見詰められる瞳に応えることができれば癒やしとなって。
生きることに対して、絶望の淵に立たされたヒトに。
生きろ。
飾り気がない分、全ての思いが詰まった一言だけを、投げかけているように。
言葉はなくとも。可愛さや凛々しさ。そして精悍さを以て。
私たちに癒やしを齎しながら、そんな思いを発しているかのようでした。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。