【うつ病・家族】家族も、突き詰めれば他人 ~自分の気持ちをわかるのは、自分だけ~
スポンサーリンク
梅雨や気圧の関係で、昔怪我をした場所に痛むことがあると思う。疼き、或いは疼痛というものだ。
私も学生時代に勤しんでいたテニスで利き腕の肘を壊してしまい、湿気が多い日や大きく冷え込むような時は必ずと言って肘が疼くように痛む。塗り薬や貼り薬が効かないので耐えることしかできないが、逆に言えば本人にしかわからない痛みだ。仮に整形外科を受診し、レントゲンを撮っても異常なしと言い渡される。お世辞にも健康的とは言えない骨格の写真を見せられながら、原因は腱鞘炎の類と診断されるのがお決まりだった。
本人にしかわからない、もしくは本人でも実際は良くわからずに苦しむものを、私はもう一つ知っている。どれだけ周りが気を遣ってくれたり、親切にしてもらっても、素直に「ありがとう」の一言も言えなくなるもの。
精神を蝕む病、うつ病。
今、季節も夏から秋へと移りかけている。昼間の日差しの暑さと吹き抜ける涼やかな風は、時に言葉には表せない不快で息苦しい状況へ追い込むこともある。
そんな季節の変わり目になると、必ずと言って家の中は嫌気が差すような陰険さに満たされる。今日は、そんな考えが不愉快な程しっくり来るような日だった。
連休明けの勤務を終え、帰路を走る愛車から降りて一息吐く。霧雨のような細かい雨が、私を静かに濡らす。
台風が近付いてきているからか、風も変に強く感じる。穏やかさからとは程遠い、荒々しく木々を揺らし高く、短く吼えるような風切り音が耳に刺さる。
さっさと部屋に言って寛ごう、そう思い家に入る。が、違和感を覚えた。
静か過ぎる。
家族を分離させる要因となっている父が帰ってきていないことが一番だった。
それでもいつもなら私より早く帰って来ている母や、療養中ながらも自室から出て迎えてくれる兄も姿を見せない。
これは、また何かあったな。
そう思いながら荷物を降ろし着替えていると、声色を小さくした母の声が二階から聞こえてきた。
作り置いてくれた夕飯を運ぶ手伝いをしながら、母が口走った。
兄の調子が、帰ってきてから悪いらしい。
言い方は悪くなるが、そこまでは「いつものことか」と溜め息を吐く自分がいた。
詳しい話は聞いていない。否、私自身聴くつもりがないというのが本音だ。
いや、それも嘘だ。本当は何があったのかを聴く勇気も、受け止められる器も私にはないのだ。
十年弱も実家から離れ、同棲生活同然とも言える生活を送っていた兄。居場所も詳しく知らず、仕事を転々として。
どんな結末を迎えたのかは知らない。だが遂には精神的に限界を迎え、全てを投げ出し兄は帰ってきた。
心身虚脱、という言葉があてはまる程に。久し振りというには余りに時が過ぎてしまった兄の姿は、すっかり生きる気力を失っていた。
見ているだけで、こちらまで泣けてくる程にまで、ボロボロになっていた。私が学生時代、生きる意味を見失う中、夢に向かい直走る兄は、太陽のように眩しかったのに。
すっかり意欲を無くし、何に対しても興味も失ってしまった。私の前で言うことはないが、時折死にたい、消えたいという希死念慮さえ抱いている。
紛れもない、うつ病だった。
今は少しでも。喩え本当に小さな一歩だったとしても、以前の姿に戻れるよう、自宅療養を続けている。
しかし、比較的早い段階で診療を受け対処した私よりも。
我慢に我慢が祟った兄は、より深刻な状態に陥っていた。余りに、遅すぎたのだ。
私もかつてはそうだった。一人暮らしを選び借りたアパートの部屋の角で、パソコンから流れる音楽を垂れ流しながら、食欲もなく無意味に横になり続ける日々。
生きる意味に、もう疑問すら抱かなくなった私は、とにかく死にたいと願った。
誰の記憶からも消えることを、腐敗し膿だらけになった心の底から、切願した。
しかし私は、蟻地獄のような世界から這い上がった。薬の力に助けられながら、今ではそれでも普通に会話できる程度にまでは戻ることができた。
自分が死んでも構わないという思いは、あの時から変わってはいない。自分が勝手に逝くことができれば、それはそれで一つの救いなのだと私は信じて疑ってはいない。
だが、遺体の処理や葬儀といったことを考えると、家族に迷惑を掛けることは明白だった。その小さな思いが、私を生かした。
かつて、亡くなった祖母の口から「優しい」と言われた思いと共に、ヒトとしての感情を引き換えに。
それからは一進一退と言える、精神の上昇と下降を繰り返すような日々を過ごしている。それは、兄も同じだった。
帰宅して早々、兄に帰宅を知らせる。開いたその部屋は真っ暗で、兄は毛布に包まりながら壁に顔を埋めるように寝入っていた。
交わす言葉は、少なかった。
自室のパソコンを立ち上げてから、私は一人夕飯を食した。家族の顔を見ながらご飯を食べることに意味を見出だせずにいる。家族揃っての食事というものに疎い私には、疑問に思うことも寂しいとも感じることもない。
その合間。何やら隣が騒がしくなった。
食事を終えた私は、あからさまに不機嫌な顔をした母に話を聞こうとした。どうも夕飯を食べようとしない兄に何度目となる声を掛けたようなのだが、それを突き放されるような言い様で突っ撥ねられたとのことらしい。それが癪に障ったようで、母も機嫌を損ねたようだった。
全く、もう。そう思いながら、私はアルコールの缶を開け、中身と共に思いを飲み干した。
確かに母は、当時はまだ未知のことが多かったうつ病に掛かった祖母を十数年見続け、その最期を看取った。
凄絶だった、としか話さない母は、それ以上のことを語ることは今もない。精神病棟、閉鎖病棟。とてもヒトとして扱わないような場所での出来事は、想像を絶するものだったのだろう、としか私には言えない。
そんな母も比較的ドライな性格ではあるが、母親として兄のことを放っておくことはできない、と言っている。
だが、と私は思う。
想う人と添い遂げ、子を育むようなことを望まない私には、母の偉大過ぎる思いを理解できない、と勝手に解釈していることも大いにあると思う。
然れどそれ以上に、家族であっても。同じ屋根の下で暮らしているだけで、血の繋がりがあったとしても、最後は他人なのだと思ってしまう自分がいる。
家族だから、気持ちがわかるのか。家族だから、救えるのか。家族だから……なんだというのか。
自分の気持ちなど、結局当の本人にしかわからない。言葉を以てしても通じ合えないというのに、どうやって掬い上げることができるというのか。
私も、自分の気持ちにはあまり触れられたくない人間だ。だから余計に、無理に接するようなことには否定的な思いしか浮かばない。
放っておいてくれない?
人間味もクソもない思いが、時々思い浮かんで離れなくなる。
世間ではよく、ヒトは一人では生きられないだとか。絆、という言葉に出した途端に安っぽくなるものを使って、人と人の繋がりの大切さを強調する文献を見かける。
私には、どこまで行ってもそういった答えに辿り着かない。苦しい時はいつも独りだった。友達というものも、所詮見せかけの集まりでしかなかった。
もし。こんなどうしようもない私に。
人の繋がりを、大切さを、重さを教えてくれる人がいるのなら。
勝手な願い出をする私を、思い切りぶん殴ってください。そして人を信じられなくなった私に、教えてください。
家族の尊さというものを。