白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【イジメ・Aセク】夢は、悪夢ばかり

 就寝時の寝苦しさと、明け方の肌寒さが身に染みる。

 

 真夜中だったと思う。睡眠薬の効果が残っていて眠いはずなのに、はっきりと意識が戻って起きてしまった。寒さに弱い私は毛布に包まっていたはずなのに、全身に汗をかいていた。

 身体の火照りではない。

 

 また、悪夢と言える夢を見た。もう、何回目と、何日連続かと数える気も疾うにやめて久しい。

 

 いつまでも忘れられない。いつまでも忘れさせない。いつまでも忘れることを許されない行いが、夢となって私を責め続けている。

 

 明けない夜はない。止まない雨はない。抜けないトンネルはない。

 悪いことを励ます言葉は、数多く存在する。だがどれも、私を苦しみから解放してくれることはなかった。多分、これからも。

 

 全てではないと信じたい。でも、私にも非があった。

 私の稚拙な考えが、ある人たちの人生を狂わせてしまったことに違いはない。

 その後ろめたい思いが、死ぬまで私を縛り続けるのだろう。

 それでも……。

 

 

 脳が創り上げたその場所は、中学校の教室を彷彿させる現実味を帯びていた。

 粗雑な木の天板と安価な鉄パイプで作られた机。同じように時代を感じさせる、草臥れ傷だらけの椅子。

 それらが無数に並び、顔は靄が掛かりわからないながらも多くの人が腰掛けながら会話に耽っていた。

 

 そうだ、ここは逃げ場のない学校という名前の監獄だ。壁が無機質なコンクリート色に塗り固められていた以外は、完全にあの時と同じだった。

 

 私は何をすることもなく、誰とも話すこともなく鎮座していた。雑に広げられたノートは真っ白のまま、筆記用具はどうしてか傷だらけ。すっかり色褪せ元の色を失ったシャープペンシル、消しゴムも所々欠けて外装もボロボロ。

 主観視点の私は、というと、特にそんな風景に感じることはなかった。

 いつも通りのこと、と怒りも哀しみも湧かない夢の中の私は異常なのは明らかだったが、感情はこれといって浮かんでこなかった。

 ただ、一つ。

 怯えるような、怖気づいた草食動物のような、しかし圧倒的な不安だけが私という存在を支配していた。

 その場から、動けない。怖くて、立ち上がることもできない。

 

 そこに、怒りと罵りに塗れた声が容赦なく飛んできた。

 

 

 お前がちゃんと考えないからだろ。

 そんなとこ座ってる暇があったら、何かしららどうなの。

 邪魔なんだよあんた。

 人から何か言われないと何も出来ない訳?

 気持ち悪い。

 汚い。

 卑怯者。

 臆病者。

 

 

 言い訳らしい言葉を、情けなく叫んだつもりでも。言葉に、声にならない。

 それが彼女たちを更に苛立たせて、私を更に責め続ける。

 

 

 明けのない問答に、私が折れた。

 そんなに憎くて邪魔なら、すぐに消えるから。

 もう、関わらないでくれ。関わるな。

 

 声のない怒号と共に机を蹴って椅子を蹴り飛ばして、私は暗闇の中へと独り歩いていく。

 そこは光もない、ただ地面があるということが感覚でわかるだけの道。何も見えない、何もないはずなのに。

 

 気を狂わせるような、腐敗した臭いが立ち込めていた。無味なのに吐き気を催す、胸と腹を思い切り締め付ける膨満感。

 夢か現実なのか、わからなくなって困惑する私の背後から。

 

 あいつらが。彼女たちの怨嗟のような声はどこまでも追いかけてくる。

 

 

 またそうやってどこかへ行くつもり?

 何か言ったらどうなの、卑怯者。

 逃げてる暇があったら、やることやりなさいよ。

 本っ当に、気持ち悪い。

 

 

 そこで、自分の意志に火が灯り始める。

 動けよ。動かされてないで、自分で動けよ俺。

 黙ってないで、腕の一つ動かせよ俺。

 動けよ、俺の身体!!

 

 

 そうやって目覚めては、いつも血が滲み出る位口を噛みしめる。歯が軋む音も、もう慣れた気がする。

 

 ……そうだよ、私は。

 いや、俺は。卑怯者だよ。

 

 でもな、やり方は他にもあっただろ。いつまでも夢で責めるように、あの時だって他のやり方があったはずだろ?

 それとも。

 

 生霊のようにしてまで責める程、俺がお前らにしてきたことはそんなに酷かったと言いたいのか。

 

 

 だったら、一つだけ言わせろ。

 確かに俺の言い方や態度は、お前らを傷付けたかもしれない。

 でもさ。

 お前らがやったことも、俺の中に残ってるんだよ。

 

 今も、こうしてさ。

 

 眠剤が効いて意識が朧気なのに、怒りとも、省みるとも言える感情だけははっきりとしていた。

 寝床から起き上がって、気晴らしに点けた煙草も、本当に気晴らしにもならないだろう。

 

 だけど、そうでもして現実を味合わないと、戻れなくなるような気がした。

 私が、私として。味気ない、この世の中でも、生きていることを思い出す為にも。

 

 

 もっと、車で出掛けたことを。掛け替えのない友人との思い出が、夢になれば良いのに。

 それは、一生叶わないのかも知れない。

 

 自分が犯した咎と、受け続けた罪に向き合い続けることしか、今の私にはできないのだろう。

 吐き捨てる紫煙と一緒に、思わず笑い声が漏れた。

 

 今日も、眠れない夜と付き合うことになりそうだ。心のどこかで、勝手にそう思っている。

 

 願わくは、もう覚めないことを、胸の片隅に感じながら、私は再び床に着いた。

 

 今夜も、冷えそうだ。

【Aセク・LGBT】受け入れられなくても ~然れど、寛容することはできないこともある~

 ※注記※

 本記事ではLGBTやセクシャルマイノリティについて述べています。

 セクシャルマイノリティは分類などできない程複雑なものですが、当事者の一人として、本音の数々を綴っていきます。

 個人的に憤りを感じたこともあり、汚い言い回しや皮肉、嫌味が並ぶこととなりますが、どうかご容赦ください。

 ※注記終了※

 

 

 

 先日辺りから、セクシャルマイノリティに障る発言をした某議員さんが差別的発言だとされ、連日報道界隈を賑わせています。

 恐らくご本人は「異性と結婚して子を増やせ」と言わんばかりの発言のみならず、謝罪どころか開き直る有様。

 流石議員様、お高い身分にいらっしゃる方々はどうも想像力に欠けていると見受けられます。

 

 それだけでなく、報道に関わる方々も同じことが言えるような気がしてなりません。

 話題に上げることは簡単ですが、安易に「LGBT」という言葉に食いついて報道する方々も、報道して目を向けてくれれば御の字。表向きに非難するだけで、裏に隠れた当事者たちの心境や思いを真に理解するつもりはないのだろうな、と冷めた感情しか浮かばない【やさぐれ紳士】白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 この話題は波紋を広げ、有名人や芸能人からも苦言を呈する言葉がTwitterを始めとしたSNSでも飛び交っています。

 報道機関などよりも、寄り添うように並べられる言葉。当事者たちが打ち明けづらいことを世の中に発信してくれることは、有り難いことと思うと共に。

 

 LGBTという括りでは収まっていない、Aセクシャルを自負する私としては。

 各企業や団体が積極的にセクシャルマイノリティについて謳ったところで、結局「理解」はされても「受け入れられる」ことはほとんどないのだろうな、と諦めに近い思いを抱いています。

 多種多様な人間を、と言いながらも。研修や講座で聞くだけでは性に関する事柄は決して理解されないだろう、と思う為です。

 当事者ですら困惑する自分自身の性への考えは、語りかけること程度で理解できる程、簡単ではないはずなのだから。

 

 

 今回は昨今理解が進み始めたと言われていたLGBT、セクシャルマイノリティに対して、暴言とも差別的な発言が大体的に報じられたことを受けて、世の中で未だ流布し解消されない性に対する考え。

 当事者が打ち明けたところで異物扱いされかねない世の中で、未だいることを。

 そして私個人として、それらが受け入れられなくてもある程度は仕方がないと思いながらも、それでも、差別的な発言は看過することも許すこともできない憤りを抱いたことを、綴って参ります。

 

 過去にAセクシャルやセクシャルマイノリティについて綴った記事は、こちらからご覧になれます。よろしければ、ご閲覧いただければ幸いです。

 

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 LGBTを貶す発言をするヒトから見れば、セクシャルマイノリティは他人事

 

 

 セクシャルマイノリティに関する問題は、これまでも幾度となく話題となり、切っ掛けとなって世に知れ渡り、認知されてきたという残念な一面があります。

 少し前の話になりますが、「女性は子供を産む機械」「装置」ととんでもない発言をした元大臣の発言です。

 これは差別云々以前に、人を人として見ていないことが露呈しました。何を思ってこのような暴言を吐いたのかは本人のみぞ知ることと思いますが、比喩としてと弁解しても到底済まされないことです。ご本人は日本の将来を憂いてのことなのかもしれませんが、人を愚弄するにも程があると思うものがありました。

 他にも男女格差について様々な意見が行き交い問題を作る発端となる失言も見られました。海外ではLGBTについて理解を求める運動が盛んに行われていますが、日本では啓発運動が良い所で留まり、鳴りを潜めてきました。

 

 そんな折、今回話題となっている議員の発言はあまりに唐突でした。その文言に、怒りすら覚える程でした。

 

「バイセクシャルとトランスジェンダーは生まれつきだが、レズとゲイについては広がれば〇〇区が滅んでしまう」。

 

 ……ほぉ、左様ですか。

 

 この御仁、理解を進めようというつもりは更々ないことはわかりました。。

 定義?しているつもりなのかもしれませんが、そもそもセクシャルマイノリティは生まれつき、本能として持った性に対する思いや考え方なはず。それをまるで害悪な存在だと言っているような発言は、仮にどう弁解されても謝罪されても許せることではありません。

 

 おまけにこの御方、子供も孫もひ孫もいらっしゃるとのことです。そんなご自身の生き様を、正当化するかのように誇張したというインタビュー記録もあります。

 

 ……そうですか。

 つまり、貴方のように結婚して子を育むことが「普通のこと」という認識なんですね?その偏った「普通のこと」から漏れる人たちは、子孫繁栄に携わらない害と言いたいのか?そのような人たちがいることで、日本社会は破綻すると?

 

 随分な物言いですね。結構なことです。

 しかし「普通」でないことだけで、そこまで言われる筋合いはありません。

  

 人の思いや感情、考え方はある程度定義できたとしても、完璧に分類することなど不可能です。喩え部類として近いものがあっても微妙に違っていたり、定義文を見て「うーん、それはないかな」と人によって全く異なる感じ方や解釈の仕方があります。

 ましてやセクシャルマイノリティは性に関することもあり、とてもデリケートで安々と触れられたくないことです。安々と公言するどころか、受け入れられることも簡単なことではありません。

 

 それを蔑ろにし、更に迫害するような発言をする御仁は、挙げ句に開き直って「自分の思ったことを言っただけ、謝罪する考えはない」という捨て台詞にも似た言葉。

 

 何区の何党所属議員の方かは知りませんが、もう謝罪も何もいりません。

 セクシャルマイノリティの話以前に、頭が凝り固まったような方と仲良くしたいと思う程、私の心は広くありません。どれだけ偉くてお金持ちなのかは知る気もありませんが、自身の考えを曲げられなくなった老害はさっさとご退場願いたいところです。

 

 しかしながら、事は簡単ではありません。

 揚げ足を取るように報道する、メディアにも問題があると私は考えています。

 

 

 

 

 セクシャルマイノリティを出汁にすれば視聴が伸びる、そんな考えが見え透くマスコミ

 

 

 近頃の報道関係は事実を隠蔽し、自分たちにとって都合の良い形に内容を改変して一般人である私たちに情報を流している、と盛んに騒がれるようになっています。

 「マスゴミ」と揶揄される酷い有様ではありますが、個人的には賛同します。

 

 何故なら、一つの問題や発言に食らいつくようにこぞって報道するだけで、それに対する説明やフォローがないことにあります。

 

 今回のセクシャルマイノリティについてもそうですが、発言した議員を「問題発言した」ということだけを伝えるだけで終わっています。剰えそれだけで「悪」と決めつけて悪者扱いして祭り上げるかのようにして、時が過ぎれば賞味期限切れとばかりに触れられることはほとんどありません。

 

 私の考えになりますが、仮に誰かの発言が問題だったというのであれば、「どこが問題になるのか」ということ。問題として取り上げるのであれば、その「基準」となるものがどういったもので、どの部分に抵触するから「この発言はマズイだろう」というところまで情報を示すのが、情報提供者として成すことなのではないかと思っています。

 

 今回に限れば、「セクシャルマイノリティに反する問題だ!」と大体的に言われても、人によっては「セクシャルマイノリティって、何?」となる人も少なからずいると思います。

 そのような情報も示すことなく、まるで揚げ足を取るようなやり方は、個人的に違うのでは、と思えてなりません。

 

 セクシャルマイノリティは、一言で説明できるような簡単なものではありません。しかしそれでも、ある程度の情報を提供しないのであれば、単なる野次馬と同等です。

 善悪で判断できない事柄こそ、情報を指し示し世間に知らせるのが、マスコミの仕事であり本命なのではないでしょうか。

 誰かを貶める、煽るような情報しか出せないのなら、それこそ不要なものだと私は思います。

 

 

 

 

 受け入れられることは難しい。それでも差別的な発言は、許す気はない 

 

 話を戻します。

 この度セクシャルマイノリティについて堂々と発言された議員さん、恐らく今後は進退を含めた情報程度しか我々には届かないと思います。

 

 正直なところ、そんなことはどうでも良いことです。

 

 私が最も思ったことは、LGBTやセクシャルマイノリティは、程度の差はあれどやはり受け入れられることは難しいことなのだなと痛感したことです。

 

 少子化が進み、これからの日本を支えていく人材についての憂い。それだけでなく、年金や国債といった現実的な話を前には、私も抱える性に対する考え方は蚊帳の外。もっと言えば、そのような問題を危惧する方々から見ればただの害悪なのかもしれません。

 

 色々と意見は出るでしょうが、私としては無理もないか、という諦めに近い感情しか湧きません。逆に安易に知った顔されるよりは良いのかな、なんて思うほどです。

 逆の言い方をすれば、セクシャルマイノリティについて理解を強要するようなこともまた、それはそれで違うのかなと思うのです。

 

 何故なら、当事者の性に対する考えや意識は、その人にしかわからないことだから。定義されていても、理解を促す啓蒙活動を以てしても、理解はできても納得はされないでしょうから。

 

 私が抱えるAセクシャルは、他人に恋愛感情も性的欲求も抱けないものです。それを口にしたところで、「いい相手に出会ってないだけ」「そんなこと言って、本当はムッツリなんだろ」と、心無い言葉を受けてきました。

 そして「そろそろ相手を見つけて、可愛い子どもを育てないとな」と言われた時が、一番ショックでした。

 そうしたい、という思いが湧き上がらないのに……。

 

 故に受け入れられることは、私は進んで望むません。寧ろ触れないでくれれば、私はそれで構いません。

 

 然れど、本記事で取り上げた発言は、あからさまに「人として失格」「『普通』の生き方をできない人間が増えれば、国が滅ぶ」といった内容とも捉えられます。

 そのような、例外に漏れた人を人間扱いしないような言葉は、私は許すことはできません。

 

 普通でないだけで、異物扱いするのか。

 異性を愛し、子を育むことができない考えや本能を持つ者は、人ではなく人形だとでも言いたいのか。

 

 なら、そうすることを「普通」と定義する理由だけでなく。

 特定の性にしか興味を抱けない、もしくは全く興味を持てない人間もいることを。

 許容するまでとはいかなくても、少なからず存在していることに、少しでも目を向けてくれる日が来ることを願うばかりです。

 叶いもしないかもしれない、願いを。

 

 

 今回もご閲覧いただき、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

 

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【ブログ】ブログの記事は、引き算式 ~まずは書いて、削る~

 各地で梅雨入りが発表され、暑さと雨が両立する時期に入って参りました。

 片や猛暑日を多くの場所で観測され、コロナウイルスのみに留まらず、熱中症の心配もしなければならない厳しい状況となってきています。

 マスクをしていると、脱水状態や体温上昇といった変化に気が付くのに遅れるとの情報もあります。

 人が集まる駅等ではマスクをしていないと白い目で見られてしまう中で、人との距離が十分に取れる屋外ではマスクを外して身体の熱量が危険域に推移しないようにする。

 世間の目と自分の体調を両立させることの難しさと葛藤を感じている、白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 私事ではありますが、本ブログもお陰様で開設から半年を迎えることができました。

 記事数はこの記事を以て99、読者数357、総アクセス数は約8600。

 一つのことに熱中はしても冷めやすい私には、有り余るものに正直驚くと共に、感謝の気持ちで一杯です。

 

 

 熱しやすく冷めやすい私が、ここまでブログを続けられたことは、皆さんの御愛顧の賜物と心から御礼申し上げます。

 今後とも、何卒変わらぬ御愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

 

 2~3日に一記事を上げるというペースを保ちながら、本ブログ運営してきた中で。

 私がブログと向き合い、思いを綴ってきたことを振り返りながら、今後のブログのあり方をお話しできればと思っています。

  

 

 今回はここまで思いを言葉としてきたブログについて。

 最初こそ勝手のわからなさから無我夢中でいたこと、途中でそれで良いのかと悩んだこと。

 そして、私のブログは引き算式であることに気付いて、今に至っていること。そしてこれからのブログとの向き合い方、在り方について綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 ブログで書きたいことは、ある程度決まっていた

 

 

 元々文章を書くこと自体に抵抗は全くない私は、主に車のSNSで自分の声を言葉に変えてきました。

 

 それだけで満足していた時もありました。

 

 今でこそHSS型HSPやAセクシャル、機能不全家族、いじめ後遺症といった言葉を知り、自分なりに取り入れて咀嚼し、飲み込むようにして知識を蓄えて。

 失敗よりも、成功を数えた方が早い程ではあったけれど。

 自らの思いや感情、行動といったものの理解を深めながら、実践して参りました。

 結果として多くの時間を費やしましたが、私は私という個人を認めることができました。

 

 しかしある時を境に、車のこと以外のことについても情報発信していきたいと願うようになっていました。

 

 生き辛さ、生きているだけでも感じる息苦しさ。

 

 私以外にも同じように生きること自体の辛さの余りに疲れ果て。

 世間体では疑問にも思われない、積極的に人生を歩むことを諦めてしまった人も、いるのではないだろうか。

 

 そう思った途端、全く同じとは言えなくても、私は自分が生きてきた中で経験したことや感じたこと。

 それを自分なりの言葉で書き連ねることで、「あ、そんなこと思ったことある」「自分だけじゃなかったんだ」といった、共感し合える情報源になればいいなという思いで、本日までブログを綴ってきました。

 

 

 

 

 

 我武者羅に書いて、突然気付いたブログの書き方

 

 

 

 そしていざ、ブログを開設したものの。初心者ブロガーあるあるなのかもしれませんが。

 何を書けばいいのか、という関門にぶち当たりました。

 

 まずは、自己紹介?それともブログの概要?初めた理由?自分の趣味?経歴?

 

 車仲間という郭で自分の言葉を発してきた私には、誰にでも見ることができるブログという世界を前にした途端、暫く記事も書けずに考える日々が続きました。開設日と実際に投稿を始めた日時に一週間ほどの乖離があるのは、その為です。

 

 とは言いつつ、書き始めないことには何も始まらない。

 最初は自己紹介を交えながら、私が感じ続けた「生きること」に対するして抱き続けてきた違和感や不快感を並べることから始まりました。

 

 始めこそ「本当にこれが、自分の伝えたい思いなのだろうか」と考え過ぎるばかりに、キーボードを叩く手が止まることが多くありました。

 それは今でも変わりませんが、ブログ開設当初はより顕著でした。 

 

 しかし、一つだけ信念のようなものがありました。

 自分が蓄えてきた知識や概念を、ただ羅列するだけの記事で終わらせたくないという思いでした。

 

 情報社会と呼ばれるこのご時世、沢山の情報が転がり、乱立しています。その中から、例えば「HSP」というキーワードを元に検索を掛けるだけで、幾らでも情報を手に入れることが可能です。

 ひしめき合う情報の渦に、同じような文面を書いた所で、一個人が運営するブログなど見向きもされないだろうと、直感していました。

 

 そこで、記事の主役となるキーワードをタイトルに埋め込みながら、私自身が経験した、或いは感じたことを織り交ぜながら綴っていくことを決めました。

 

 そう決意し、ひたすら文章を書いている時は、「如何に自分の思いを伝えられるか」と「自分が訴えたい言葉塗れにならず、共有や共感されるような文章を書きたい」という思いで文章を綴ってきました。

 時間と共に記事が増えていくに連れて。

 嬉しいという言葉しか浮かびませんが、読者となってくださった方も少しずつ増えていき。スターやPVが伸びることに喜びを感じ始め。

 言葉を選びながらも文章を書いている時間は、日頃の疲れや苛立ち、不満や不安。そういった負の感情だけでなく、時間さえ忘れてキーボードを叩き続けていました。

 

 途中までは、思いを言葉にする。如実なまでに書き連ねたことで、自分では十二分に満足する日々が続きました。

 

 しかしある時、気付きました。

 

 一記事だけで、5000字を超え。時には7000字にも及ぶ長い文章。

 ふと読み返した時、自分自身に疑念が湧きました。

 

 こんな長い文章を、最後まで読んでくださる人などいるのだろうか。

 同時に、その記事で「一番訴えたいこと」は何なのかが、自分でもわからなくなることさえありました。

 

 一つのことに集中し始めると、すぐに忘れてしまう私は。最初に抱いた信念、矜持を思い出しました。

 このブログが、本当に目指したいこと。それは長々と言葉を書き続けることではないことを。

 自分の体験や経験を元に、共感を得られるようなブログにしていきたいことを。

 

 

 

 

 まず思ったことを書くだけ書いて、日を改めて添削する

 

 

 

 

 一度文章を書き始めると、我を忘れて兎に角止まらなくなってしまう私は。

 訴えたい思いが強すぎるのか、同じような文言を一記事内に何度も繰り返し綴っていることも珍しくありませんでした。

 

 強調するという面から見れば、複数に渡って伝えたい思いを言葉にすることは確かに有効です。

 然れど行き過ぎたそれは只々クドいものとなりかねません。

 

 途中までそんな記事ばかりであったことに気が付いた私は、文章の構成を見直すと同時に、初心に変えるように小さい頃から学校で書いてきた作文の書き方を思い出すようになりました。

 

 文章を作る基本となる、起承転結。或いは序破急。

 私は前者の書き方を好んで用いていることに着目しました。

 

 真っ先に記事の顔となるキーワードについて、発端となった場面を交えながら始まり。

 始まりとなったことが、別の場所で更に飛躍したり躍進した出来事を書き連ねつつ。

 それらがある時を境に間違いだった、もしくは自分が信じ続けたものと違ったことに出くわした経験を綴り。

 最終的にそういった複数の経験を経たことで、今の私に影響しているという事実や生き方に影響を及ぼしていることに触れて、幕を閉じる。

 

 各章を見出しとして表現しながら、何も関係ない日常といった前書きや記事の締めの言葉を固着させるような工夫を取り入れて、今に至ります。

 

 しかしながら、声に出してコミュニケーションを取ることを苦手とする私には、簡単なことではありませんでした。

 

 

 要点を的確に捉えた文章を書きたい、スマートさを求める理性。

 日毎から吐き出せない思いを、言葉としてひたすら羅列して叫びたい感情。

 

 相反する自分の内側。それらを喧嘩させることなく、不平等なく納得させる方法を模索していったことで。

 今の私がブログを綴る手法に辿り着くことができました。

 

 まずはおおまかな文章の流れ、骨組みとなるプロットを見出しとして大体決めてから。

 感情の赴くままに、書きたいことをひたすら書き連ねることで、感情面から来る思いを出し切って一旦スッキリさせました。

 その後数時間から一日程置いてから、重複していたり何度も出てくる言葉や表現を感情と相談しながら、理性を以て削る。

 また見出しを跨ぐ際は「繋がり」を意識して、いきなり流れが途切れて飛んでしまうことがないことを心掛け、ブログの開始から最後まで筋が通っていることを何回か読み返して確認。

 最後に、文字飾りを加えて、一番強調して訴えたいことを全面に出るように整えて完成。

 

 私のブログの場合、書き方としては引き算式です。

 

 途中途中体裁を整えたり、最初から筋書き通りに書くといったことができず、書き終えた記事でも日を改めたら「なんか違う」と書き直したりします。

 

 日によって気分も変わることもあり、記事を書き溜めるようなこともあり、全て上手くいっているとはお世辞にも言えません。

 が、少なくとも指標のようなものができたことで、大分書き易くなりました。

 

 

 

 今後のブログ運営

 

 

 

 次の記事で、100記事目を迎えることになります。

 

 しかし変に記念記事のようなものを設けることなく、これからも今の運営を続けて行こうと思っております。

 

 私が取り上げる内容は、万人受けするようなものではないと自負しています。

 

 HSS型HSP。Aセクシャル。イジメ、その後遺症。うつ病。

 

 そうした記事をメインにしながらも、PVやスターを意識していないかと聞かれれば、嘘になります。

 それでも、私は自分の体験を元にこういった内容を綴る、雑記と特化の間を行く方針を貫いていきたいと思っています。

 

 喩え少なくても、似たような、或いは同じような体験や境遇にいる方に。

 当事者の声は、世の中に流布する概要よりも遥かに心に響くと、私は信じています。

 

 他の誰でもない、私がそうであったから。

 

 そんな信念を元に、投稿は毎日ではなく。

 今と変わらず2、3日の間隔を設けていく次第です。

 

 私の記事を見てくださった方が、喩え少しでも共感できるものを目指しつつ。

 記事を上げ続けなければならない義務感を抱くことなく。 

 

 私自身が、本ブログを通して思いや感情を伝えていきたい。

 その思いだけは捨てることなく、これからも続けて参る所存です。

 

 

 

 堅苦しい内容になってしまいましたが、今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

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 曇り空から覗く陽光。目立つことはなくても、私はそんな存在であり続けたいと願っています。

【Aセク・生き方】身内との時間 ~忘れていた温もり~

 晴れ渡り、行楽日和だったゴールデンウィークも、自粛ウィークとして終わりを告げ。昼間の気温も夏日を超えるような、暖かさを通り越して暑い日が繰り返すようになってきました。

 田園にも水が入り始め、草木も目に見えた速さで成長しています。

 そんな風景を横目に、冷房病でありながら暑さと湿気に弱く少し弱り気味な、白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 新型コロナウイルスの感染拡大防止の為、延長された緊急事態宣言。今週末を目処に、段階的に解除されていく模様です。

 予断を許さない状況に変わりはありませんが、これで少しでも日常が戻ってくることを、切に願うばかりです。

 一方で、在宅勤務という形で業務をこなし始めて、早くも一ヶ月が経とうとしています。慣れない環境下での仕事は弊害ややりにくさはありますが、人と距離を置く時間が増えたことは、私にとっては気持ちを安らげることに繋がっています。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 人との距離と共に、もう一つ私には取りたくても取れないものがありました。

 それは、身内との時間でした。

 私の身内は業種も勤務時間もバラバラながら、全員が仕事に従事しています。

 朝飯はおろか、同じ食卓で夕飯を共にすることさえそう多くはありませんでした。

 たまにタイミングが合った時に外出したり、食事を共にする時間が来る度に、嬉しさすら感じた程です。

 

 それが今、在宅勤務という意外な形によって身内と過ごす時間が増えるようになりました。

 

 人と接触することを苦手とするだけでなく。他人への恋愛感情や欲情というものがわからずにいる私には。

 私にとって身内は、より特別な存在です。

 

 今回は身内との時間が増え、互いに顔を合わせ談笑することで、忘れかけていた温もりを肌身で感じていることを。Aセクシャルを自認する私にとって、これまで思っていた以上に大切なものであったことに気付いたことについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幼少期より薄かった、身内の繋がり

 

 

 

 本ブログを綴り始めてから、私は身内話について触れることを避け続けてきました。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 かつて我が家は祖父母と両親、そして4歳年上の兄と私の3世代家族でした。

 祖父母が他界し、両親と兄と一つ屋根の下で暮らす私たちは。

 家族と呼ぶには不相応な関係を数十年続けて来ました。

 

  

  いつも気丈であり続ける母は、昔から変わりません。素面でも酒を煽りながらも、私と面向かう時は常に自分を貫こうとする強さを持っています。

 幼い頃の私は外界の全てが怖いとも感じる余りに。小柄な母の脚に両腕を回し、握り締めて恐怖から逃れるようにしていました。

 

 兄は歳が離れていることもあり、喧嘩することはなく、恥ずかしがり屋で臆病な私を見守ってくれました。イヌに吠えられてすっかり怯えてしまった私を、口笛を吹きながら誘導し助けてくれたこともありました。

 昔はあまり言葉を交わすことは多くありませんでしたが、頼もしい兄であったことに違いはありませんでした。

 

  時を経て。

 

 母は私生活だけでなく仕事上における出来事に対し、私にアドバイスを求められるようにさえなりました。

 

 しがみついて離そうとしなかった、泣きながら見上げる臆病な私の頭を撫でる母。

 いつの間にか、身体だけ大きくなった私は、見下ろす程にまでになりながらも。

 

 俯きながら答えを求める母に対しての私の意見は、時に受け入れられながらも。

 気丈であり曲がったことを嫌うように、粘ってまで意志を貫くことを嫌う私が折れることもありました。争いごとは、やはり私は嫌いです。

 母は母。子は子のまま。

 私としては、半ば母子家庭の環境で育ったような、そんな思いでさえいます。

 

 

 兄は兄で精神を病んだことで現在休職の身にあり、私が出勤する頃はまだ寝ていて、私が眠る時に起きてくることもざらにありました。

 時間が合えばアニメやゲームの話で盛り上がることは多いながらも、頻度としてはそれ程ありませんでした。

 しかし今の兄は粗相した時に注意してくれる、言わば父親代わりの存在です。

 

 そんな私を含めた身内は、性格が異なることは勿論のことながら、一家団欒と呼ぶような時間を取らなかった理由がもう一つあります。

 私だけでなく。母も兄も、自分の時間を必要とし、独りの時間を確保できないと息詰まって相応のストレスを感じてしまいます。

 時には語り合うようなことはあっても、大半は食事を摂った後も短い会話を交わした後、各々の自室へ戻っていくことがほとんどです。それは、祖父母が健在だった頃から然程変わっていません。

 

 

 身内は身内でも、人間関係が歪んでいるも然ることながら。私たちは自らの意志で、身内で過ごす時間を薄くしていたのかもしれないと、今は思っています。

 

 

 

 

  

 意外な形で取り戻しつつある時間

 

 

 

 そんな中、新型コロナウイルスの蔓延に伴い、この数ヶ月だけでも多くのことが変わりました。

 会社に就職して十数年経ち、初めて自宅で業務を執り行うこととなった在宅勤務も、その一つです。

 

 私もそうですが、あまりに唐突の激変に、多くの人が戸惑って。憤りや哀しみを抱きながら、今尚持ち堪える日々が続いていることと思います。

 

 しかしながら私は、通勤時間だけで往復2時間弱程費やしていた時間がなくなり、就業時間以外は大分余裕が生まれました。

 

 その余裕が、これまで満たせなかった身内との繋がりを濃いものへと変えていくこととなりました。

 

 会社規定にある休憩時間に、これまでも昼食を摂るようにしてきました。

 在宅勤務に服している今は、兄と共に食事をするようになっています。

 また終業後はそのまま自由時間になる為、母と兄と談話しながら夕飯を一緒に食べるようになりました。

 更に通常勤務時は通勤や会社における人間関係により疲れ切ることが多かった私は早々に自室に籠もることが多くありましたが、余裕ができた分、身内で会話を弾ませたりジグソーパズルに勤しんだりと、ストレス発散と意思疎通をより濃いものとし。

 改めて、と言っては過言かもしれませんが。

 身内と過ごす時間に、嬉しさのような、楽しさのような。言葉では、上手く表現できそうにありませんが、安らかな時間と共に。

 

 幸せの定義がわからないまま生きてきた私にとって、こういった何気ない時間が幸せの一つなのかもしれないと、思うようになっています。

 

 そして、こんな考えが私の脳裏を過り始めました。

 恋愛感情や性的欲求が向くことがない、Aセクシャルを自負している私は。

 身内に一層強い感情が向きやすいのではないか、と。

 それが今まで身内に対するフラストレーションをより強いものとなり、逆に思い入れも強くなりやすい傾向があるのかもしれないと、思い始めるに至っています。

 

 

 

 

 Aセクシャルは、家族愛や友情は理解できる

 

 

 

 性の多様性については、数年程前から世界だけでなく、日本も、企業も取り組むものとなっています。

 私が自認するAセクシャルというものは、過去記事として掲載しております。ご興味のある方は、ご覧くだされば幸いです。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 ここでは簡単にAセクシャルについてお話しします。

 ヒトという存在は、誰かを好きになり、愛し合って子孫を残し繁栄していくものであると私は考えています。

 初恋や恋愛による人との出会いと別れ。それを繰り返し、運命の人と巡り合って互いに愛し合って。結婚して新たな家庭を築き、新しい人生を歩んでいく、と言えば良いのでしょうか。

 

 ここで疑問形で綴ったことに、理由があります。

 

 Aセクシャルは、他人に対して恋愛感情や性的欲求が湧きません。故に、私には恋愛や結婚というものが未だに理解できていません。

 単に運命の人と出会っていないだけだ、と言われたこともありましたが、それはまた違います。本当に、私の場合は単に理解できないだけです。

 学生時代で周りが恋話等で盛り上がっていた中でも、私には所謂「ドキドキ感」のようなものがわからず、一人取り残された感情を抱いていました。

 

 一昔前は、自分が他の人と違うことに戸惑ったり。時にはヒトという存在として、生存本能に欠けているのではないかと、独り悩んだ時期もありました。

 今ではAセクシャルというものを自分なりに理解し、受け入れていることができています。

 

 もう一つ、Aセクシャルというと誤解されることがあります。

 

 極端な言い方になりますが、Aセクシャルは愛情や友情。つまり「情」というものが欠けている、もしくは理解できないのでは、と言われることがあります。

 

 これについては、当事者である私からはっきりと言えることがあります。

 喩えAセクシャルであっても、家族愛や友情はしっかりと理解できます。

 先程述べた身内のことだけでなく。車仲間や友人との交流については、理解し合って共感できる人と出会えた時は、この上ない喜びを感じることができます。

 故に、余程のことがなければ一度共感し合えた人との交流は、今も尚続いています。

 

 そこまでは、他の人と大きな差はないと思っています。

 違うのは、そこから恋仲になったり生涯添い遂げる仲に発展するだけの感情が湧かず、理解することができない。私はそう考えて今に至っています。

 少し長く綴って参りましたが、Aセクシャルは他人に恋愛感情が向かないだけの、一人の人間に過ぎません。

 持論になってしまいますが、そのようにご理解いただければ、この上ない幸いなことです。

 

 

 

 

 独りの時間は大切にしながら

 

 

 

 勤務形態の様変わりから、私はまた忘れていた大切なものを思い出すことができました。

 身内と過ごすことは、他人より多少なりとも本音を言い合えます。

 時々それが元で口喧嘩になったり険悪な空気になることもありますが。

 それよりも、私は母と父親代わりの兄と過ごす時間が増えたことで、これまで以上に温もりと充実した感情を抱けるようになっています。

 

 独りの時間を何よりも大切にする、私を含む身内ではありますが。独り過ごす時と向かい合う時間を、これまで以上に大事にしていきたい。そう思うようになりました。

 

 

 コロナ禍で人との接触を絶たれ、精神的にも身体的にも疲弊されている方も多いと存じます。

 

 皆さんは、大切な人たちとの時間を、どう過ごされていらっしゃいますでしょうか。

 

 このような問いが野暮だと思えるよう、現在を取り巻く惨状が逸早く収束することを、願い続けています。

 当たり前だと思っていた時間が戻ってくることを、切に祈りながら。

 

 

 

 今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

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【Aセクシャル・人生】結婚していく同期たち ~疎遠になっていくばかり~

 普段の仕事がシステム管理という業務をこなしている私ですはありますが。

 先日、久しく夜勤を伴う現場作業を遂行して参りました。

 

 半年弱パソコンやシステムとにらめっこする日々の連続で眼精疲労や肩の張りが気になっておりましたが。

 昼夜逆転となる仕事に久しく従事したことで、眠い目を擦りながら粛々と記事作成に勤しんでいる、白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 私の人間関係・友関係は深くとも決して広くないことを、これまでの記事で述べてまいりました。

 最近では最古参である、高校からの友人とも連絡を取り合うこともなくなりました。

 

 元来、他人に対しての興味が希薄な私は、心配という感情から自ら連絡することもなく。

 連絡が途絶えた友人たちの、本人の「連絡を取る余裕もない」と勝手に思う以上に。

 彼ら彼女らの家庭的な事情にさえ憶測を重ねてしまい、飽く迄も他人である私が介在するようなことはしてはならないと、感情や思いを抑制してきてばかりでした。

 そういった身勝手な思いを盾にするかのように、これまでも、ひたすらに受け身の姿勢を貫き通してきました。

 

 そして、かつて同じ職場で苦楽を共にし。

 酒盃を交わして互いの思いを語り合った会社の同期たちでさえも。

 

 結婚という契機を堺にして、私からも、相手からも連絡することがなくなって久しい日々を送るようになりました。

 

 結婚した彼ら彼女らの、その後の生活がどのように変化して。

 結婚し、子を育む親となった同期たちが、今どうしているのか。

 

 Aセクシャルを自負している、と言い訳にする私は。

 人を好きになって、愛し合って、家庭を築き上げていく。

 人が生きる上で当たり前であり、普通のことであると思えば思うほど。

 それを今でも理解できない私は、結婚した同期たちの生活を崩したくないという思いから、自ら一線を引くようになりました。

 

 

 今回は、結婚という大きな経緯を経た人たちと。

 人と交わることを理解できず、嫌悪し苦悩する私。

 

 理由はあれど、疎遠になってばかりいく現実と

 幾度も理解し決意したつもりでも、人を好きになって、愛することがわからない。

 それに対する葛藤や思いについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 入社し不安だらけだった私と同期たち

 

 

 話が少し逸れますが。皆さんは、会社に初めて出社した時のことを。

 ドキドキした緊張感、右も左もわからない不安。

 そういったものを、覚えていらっしゃいますでしょうか。

 

 高卒、専門卒、大卒。

 最終学歴は違えども、入社した際に同じ年代であれば同期と呼ばれる同じ郭として扱われます。

 同級生、かつ同じ学校を卒業した同士なら兎も角としても。

 ほとんどの場合は、初めて顔を見る相手同士。

 新入社員と見られながらも、当人たちは「この人たちが、同じ年代として働く人たちなのか」という感想しか得られるものはないのかもしれません。

 

 私は、そういった人間の一人でした。

 

 配属されたのは、首都圏でした。

 配属先の上司や先輩たちと、上手くやっていけるのか。

 業務説明を受ける、席を同じとする同期は、どんな人たちなのだろうか。

 社会は、自分が就職した会社は、どういったものだろうか。

 

 同期という「仲間」を意識するよりも。

 過去の人格否定から来る人間不信を引き摺っていた私は、自己保身を求める余りに、後ろ向きな感情しか抱けずにいました。

 

 

 身勝手な思いを隠すかのように、新入社員向けの説明続ける人事担当の方の言葉を、私はひたすらメモし続けていました。

 

 そんな私に。

 たまたま隣に座っていて、担当も同じとなることが決まっていた同期の一人が、声をかけてきました。

 

「全部メモ取ってるんだ。凄いね」

 

 褒められたことも多くなかった私からすれば。

 その言葉は、同期と言えど赤の他人から頂戴するには余りに温かくて。優しい口調でした。

 驚いた私は、思考して言葉を考えることもできないまま。

「え?いや、その。今できることを、やってるだけだよ」

 と半ばぶっきらぼうに返した記憶があります。

 

 今思えば。

 照れ隠しするようにして、言い放った気もしています。

 

 そんな、私の思いはさておいて。

  声を掛けてくれたその人だけでなく。

 同じ担当に配属となった、別の二人とも言葉や思うを交わしながら。

 実際に業務を行って行く中で、志を共にしていくようになっていました。

 

 それだけで留まることなく、他担当に配属された同期も。

 最終学歴の差はあれど。

 そのような詰まらない杓子定規で計られない程、時間と共に互いを知り、理解し合いながら。

 同期という括りに囚われることなどないままに。

 

 時には、同じ社員寮に住む同士で、今時古いと思われるかもしれない、麻雀に明け暮れたり。

 近くのスポーツ施設で、バッティングセンターや卓球に入り浸り。

 また別の日には、日常生活に必要な食料品や日用品の買い出しまで共に行き。

 挙げ句には、夏の熱さを和らげる為に。

 近場のコンビニに、アイスを求めて共に歩き。各々好みのものを買い、それを食べながら寮へ戻る道中で、思いを語り合う。

 

 人によっては、中学や高校といった学生時代にしてきたことを。

 私にとって初めて、そのような「青春」と呼べるようなことを、同期と共に過ごしました。

 

 仕事から来るストレスより、遥かに安らぎを齎してくれたそのような時間。

 今では、懐かしいと思うと共に。

 そんな時代もあったな、と感傷に浸る時さえあります。

 

 

 

 転勤しても、同期と機会を設けて酒盃を重ねて

 

 

 当時の会社は、新入社員の地方への転勤や配属というものがありませんでした。

 地方出身の私は、初めての配属先で仕事を続けて、1年と半年で、地方である地元に異動することとなりました。

 

 短い期間ではありましたが、盛大に見送りしてもらった私は。

 新天地で、再び仕事に勤しむ毎日を送り始めました。

 

 しかしながら、研修や出張で首都圏に赴いた折々に。

 かつて同じ職場で働いていた同期と連絡を取って。

 互いの近況報告や仕事や、会社への思い。

 そういったものを含めて語り合う、お酒の場を設けてきました。

 

 時には、居酒屋で。別の時は、同期のアパートの一室で。

 時間と共に、歳を取り、別々の経験をしながらも。

 語らう時間は、いつまでも変わらないまま。

 各々の思いを、変に隠す必要もないまま、ひたすら語り続けていました。

 

 同期というものを、時を経るに連れて。

 掛け替えのない、戦友とも思えるようになっていた、私でした。

 

 

 然れど。

 お酒の場が増えていくに連れて、もう一つ、別の話題が飛び交うようにもなっていました。

 

 人生のパートナーや、結婚に関すること。

 

 私も一時はパートナーを見つけ、同じ時間に浸ることもありました。

 しかしそういった経験も、数少ないとは言え、全て破局し。

 人生のパートナーを持つことや、その先の結婚について、意義を見出だせないままでいました。

 

 そんな私に、同期は熱く語りました。

 パートナーといる時間は、時々嫌気が差したり喧嘩になることもあるけれど。

 それ以上に「幸せだ」と、迷いなき瞳で私を貫き通しました。

 

 また別の同期は、こう言いました。

 お互いを、空気と同じように、一緒にいることが当たり前で。

 違和感がない間柄だ、と。

 

 それらの揺るぎない想いを目の当たりにし。

 私は、馬鹿みたいにひたすら「うーん、わからないよ、私には。人を好きになることや、愛することって、どういうことなのか」と繰り返すことしかできずにいました。

 

 挙げ句に「人を好きになるって、どういう感覚で、どういう感情になるのか、教えてほしい」と、烏滸がましい疑念をぶつけたこともありました。

 それ位、私は理解することができない自分を。

 熱くて真っ直ぐな同期たちと比べるようにして、フラストレーションのようなものを覚えていた記憶があります。

 

 そんな私に。

 

 きっと、いい人が見つかるよ。

 そういう思いを感じられる人と、出会っていないだけじゃないかな。

 

 私を気遣っての言葉だった、と信じたいと思いながらも。

 同期たちの言葉は、鋭利な刃となって私の心に次々と突き刺さりました。

 

 そこで反論するようなことをして、事を荒立てることを嫌った私は「そんなものなのかなぁ」と流し気味で酒盃を煽るようにして。

 酒と共に、今尚消えることのない違和感のような思いを飲み干すのでした。

 

 

 

 結婚式への招待状は、日に日に増して

 

 

 それまで同期と会い、お酒を楽しむだけでなく遊び耽ることも多かった私でしたが。

 同期たちの、パートナーとの話題が増えていくに連れ。

 

 彼ら彼女らの時間を。

 私のような人間が、邪魔をするようなことはしたくない。

 

 同時に、その頃からでしょうか。

 少しずつ、互いに連絡を取り合うことも減っていき。

 時折首都圏へ赴くことがあり、お酒の場に誘うようなことがあっても。

 仕事が忙しいと、断られることが多くなりました。

 

 私は、下手な憶測に憶測を重ねていました。

 

 同期たちは、時を重ね、パートナーを見つけて。

 確実に、ヒトとして真っ当な道を歩み始めていることを。

 恋愛感情や性的意欲さえ見出だせない私とは、根本的に違うんだ、と。

 

 

 そして、あたかもラッシュかのように。

 同期らからの、結婚式の招待状が届くようになりました。

 

 幸いにも「結婚したくても相手がいない」という思いは抱かなかった私は、結婚する同期たちを祝いたいという感情の方が上回り続けることができました。

 時には、式場で振る舞われる料理やアルコール類に手すらだせない大風邪を引いた時に招待されることもありました。

 出席することで、別の意味で迷惑をかけるかもしれないと思いながらも。

 人生の新たな門出を、応援したいという気持ちと気力を振り絞って、出席させていただいたことさえあります。

 

 その時に、同期の親族の方から。

 

 「ごめんなさいね、お身体崩されているのに」

 と仰られた時。

 「あ、いえ。こちらこそ申し訳ありません、こんな有様で」

 などと、平謝りに徹したこともありました。

 

 本来なら、お祝いと応援したい気持ちを出したいのに。

  何で私は、逆に心配される立場になっているんだ。

 

 愛想笑いもいつの間にか覚えて、喩え薬を以てしても、自分の感情や精神をコントロールするような身になっていました。

 

 それなのに。

 門出を祝う場でさえ、どうして私は。

 自分の身を心配される無様な姿を晒しておきながら、それでも。

 好きになることも。愛し合って、結婚する意義がわからないんだ。

 

  あの時、脳裏を過ぎった思いは。

 今も、忘れることが出来ずにいます。

 

 

 

 

 いつしか疎遠になった、同期たちと私

 

 

 同期たちの結婚式に招待され、早数年が過ぎ去ろうとしています。

 

 その後の彼ら彼女らは、子を授かり、気恥ずかしそうにしながらも満面の笑みを浮かべていたことは覚えています。

 

 今、結婚し子を育む同期たちは。

 

 幸せか否かを、私は知りません。

 

 日常会話でも、基本受け身で。SNSを通しても、相手からの発信がなければ、私は自ら働きかけることはほとんどありません。

 

 それ故か、かつて情報のやり取りをし、自らの思いを吐き出し合う仲だった同期たちとも。

 意識することもないまま、すっかり疎遠になっています。

 

 その要因が、結婚した同期たちが新たに築いた家庭の忙しさ故なのか、連絡もよこさない私を見限ったのか。

 憶測の域を出ない以上、断定してはならないと私自身に言い聞かせています。

 

 それと共に。

 私はどうなのかと問われれば。

 結婚した同期たちへの嫉妬のような感情は、今でも何一つ浮かんでおりません。

 それ以上に、同期たちの私生活を、私という個人が介入することで邪魔したくない、という思いが先走るのは確かです。

 

 そして、幸せなのか否かはわからずにいながらも。

 

 恋愛し、愛し合って結婚した、同期たちの思いや感情を。

 理解できないという建前で、私は受け入れたくない。

 感化、されたくない。

 

 そんな身勝手な思いがあるのではないかと、自分を疑うように見始めています。

 

 

 人を好きになり、愛し、子孫を残す。

 同期という、目の前で熱く繰り広げられるヒトとしての生き方を。

 

 私は、理解できないのか。

 それとも、理解しようとしないかのように、遠ざけているのか。

 未だに、その真意を、自分のことなのに見出だせずにいます。

 

 Aセクシャルという言葉を知った今は、そういった生き方もあると信じ、自分の全てを世間の「普通」というものに当てはめなくても良いと確信した。

 はずなのに。

 

 この揺れ動いて、今尚思い悩ませるものは。

 

 私の決意の弱さなのか。それとも、自分ですらわからない感情の錯綜なのか。

 私には、どこまで考えてもわからない。

 

 

 

 誰か……。

 

 ……教えてください。

 

 

 

 

 

 今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。 

  

 

 

 

 

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【Aセクシャル・SOGI】性自認、性的指向を ~一括に、しないで~

 早くも2020年も、3月に入りました。

 

 明るい話題は少なく、相変わらず不安を煽るような暗い話が、世の中を支配しています。

 紙類の枯渇が、根拠のないデマだと言われても。

 デマをデマとして捉えることができない、所謂情報弱者から見れば、どんな情報も信用できなくなります。

 その現実が、店頭から消えていく紙類を求め、あたかも奪い合いのような事態になっていると思えてなりません。

 

 噂では、マスクを求めるが為に、暴行沙汰にまで発展したとのことでした。

 

 自治体や販売店が、「冷静になって、対処してください」と言われても。

 「何を信じれば良いのかさえわからなくなっている」人たちからすれば、そういった言葉は、最早通じない。

 

 

 先日散髪に行って参りましたが、相変わらずドラッグストアは長蛇の列ができていました。

 各国で必死に対応している中で。

 責任を取るという言葉だけを繰り返すお偉い方々に、もう何も期待もできない。

 

 相変わらず全てのことに対し斜に構えている、白兎です。

 

 

 皆さん、おはようございます。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 

 新型肺炎が世界的に大事なる、丁度一ヶ月程前。

 会社が企画する、「ハラスメント研修」というものを受講して参りました。

 

 セクハラ、パワハラ、マタハラ。

 最早何でもかんでもハラスメント、という言葉を付ければ、全てハラスメントとして処理されてしまう現代。

 言い方は悪くなりますが、わざわざ講習会を開く程の内容ではなく、ネット上に幾らでも転がっていることを綺麗に纏め上げた、そんな内容でした。

 私も、Aセクシャルを自認する者として、あらかたそういったことを知った上で受講しました、得られることは然程多くありませんでした。

 それ以上に。

 この時もまた、私は疑念しか覚えぬまま帰路についていました。

 

 今や企業や世間体では当たり前と化してきている、セクシャルマイノリティ。

 講習会も、それを大前提として進められました。

 そこまでなら、まだ流すことができたのかもしれません。

 

 ですが、どうしても私が解すに至らなかったことがあります。

 それが「ジェンダーハラスメント」というものを強調していたことです。

 

 

 今回は、生まれ持った性を前提とする、性自認や性的指向について、今一度考え直していくと共に。

 そして、かつて私もLGBTQ+という形で示して来たことを。

 別の指標として表す、「SOGI」というものについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 性的指向を示す、LGBTという言葉

 

 

 これまでも、私はセクシャルマイノリティやAセクシャルについて、記事として上げて参りました。

 

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 この時はまだ、LGBTというセクシャルマイノリティ。

 つまりは「自分がどのような対象に対して、恋愛感情や性的感情が向かうか」という視点でしか、見ていませんでした。

 

 そこでも、私はLGBTという言葉に含まれていないことについて、私なりの言葉を用いて記事として上げました。

 

 恋愛感情は持てても、性的要求は持てないノンセクシャル。

 恋愛感情や性的欲求の向かう先がわかならない、クィア。

 そして、他者に恋愛感情も性的欲求も持たない、Aセクシャル。

 

 ここ数年、LGBTという言葉の急速な発展に伴う形で。

 企業も「LGBT」というものを、まるで強調するかのように理解を求め、研修や講習会を積極的に開いています。

 

 それでも尚、LGBTに当てはまらない、上述する人たちのことについて、触れることは一切ありませんでした。

 

 その度に、私は憤りとも虚しさとも取れる思いで。

 

 研修等を企画する会社上位陣に対して、LGBTという枠では収まらない人間もいると、無駄だと思いながらも訴え続けてきました。

 

 その結果は。

 お察しの通り、何も変わることはありませんでした。

 

 セクシャルマイノリティという言葉が独り歩きするかのように、それを企業として「推し進めている」というアピール材料としている。

 私には、そう思えてなりませんでした。

 

 会社に求めることは、無意味と思ったからこそ。

 ブログでは、敢えて「LGBTQ+」という名目で記事を上げました。

 

 今思えば。

 そういうものがある、と知って貰いたい以上に。

 Aセクシャル自認の私を、誰かに認めて欲しいという思いの方が強かったのだと、省みる形で思っています。

 

 

 

 

 時代に合わせざるを得なかった、性自認や性的指向

 

 

 LGBTという指標は。

 これまでの多くの人たちが信じて止まなかった認識を改めるものであることは確かだと思います。

 生まれ持って得た、身体的、或いは精神的としての男性や女性という性。

 それがいつしか、男らしさや女らしさという言葉に勝手に置き換わって。

 異性に恋をして、愛し合って、子を育む。

 その上で、男性は男性の、女性は女性の「役割」と信じられてきた、古典的なもの。

 

 日本は保守的故、古き良き時代を好み継続しようとするかのように、私は見えていました。

 それに異を唱えるように出てきたものが、セクシャルマイノリティであり、LGBTという概念です。

 

 しかしながら、です。

 他者から、どれだけ性的指向を尊重しようと言われても。

 それまで当たり前だと思われてきた、日本の文化に無理やり適用させようとするなど、無理にも程があると思えてなりません。

 自分が持った性自認を基本とし、異性に恋して結婚して、子孫を残し繁栄していく。

 それができない人間は、異端どころか「異物」扱いされて。

 洗脳のように矯正されて順応させる。

 

 極端な言い方に聞こえるかもしれませんが。

 私の母も、そうやって時代の流れに抗えず渋々結婚し、子を産んだと言っています。

 今の時代に生まれれば、絶対に結婚などしなかったと豪語する母。

 そんな意志の元産まれた私や兄は、いらない存在なのかと、聞いたことさえあります。

 母は、私たちを産んだことを決して後悔していないと言っています。

 

 だからこそ、私は余計強い思いを抱いているのかもしれません。

 

 男だから、女だからという杓子定規で計られたばかりに。

 誰が、そんなものを勝手に決めたのだ、と。

 そして、それから外れたものは、ヒトとして存在してはいけないのか、と。

 

 そこに慌ててLGBTという指標を持ってきて、説き伏せるように教育して。

 LGBT。セクシャルマイノリティを犯すことがあれば、即ハラスメントに繋がると、半ば脅されるように言われても。

 

 性自認や性的指向を理解されるどころか。

 不必要な脅しにも似た言葉だけをかき集めることで、コミュニケーションを阻害する材料を作って。

 年配者や若者という、考え方や価値観が異なりかけている両者の間に、隔たりを敢えて作っているようにしか、私には見えません。

 

 性自認や性的指向を大切に、などと言いながら。

 ただ単に、企業内でそれらに抵触することで報道沙汰になることを恐れている。

 それを防止する為の取り組みのようにしか見えません。

 

 LGBTという指標は。

 企業が取り組むことで信頼性を保つ為にあるものではないと、私は信じています。 

 

 喩え、どこかで偏見の目で見られるようなことがあったとしても、性自認や性的指向というものは、私は知っていただきたいと切に願うばかりです。

 

 

 

 

 新たな指標、SOGI

 

 

 

 LGBTだけでは、最早情報不足となりかけている性自認、性的指向。

 置き換わる訳ではありませんが、併用される指標が近年では注目されてきています。

 

 それが、SOGIというものです。

 

 「Sexual Orientation & Gender Identity」の頭文字を取った用語で、読み方はソギ・或いはソジ。

 意味としては「性的指向と性同一性」と約されることが多いです。

 

 SOGIという言葉の、GIは「性同一性」を意味し、生まれ持った身体的な性に対する違和感があるかどうかを示しています。

 仮に違和感がある場合は、LGBTでいうトランスジェンダーに分類されるそうです。

 私は中性或いは無性自認なので微妙な所ですが、それでも性自認を定義する意味では、個人的には喜ばしいことです。

 

 そして、SOGIのSOは「性的指向」を表し、これが従来のLGBTに当てはまります。

 先述した自己の性同一性を基準にしながら、どの性に対して性愛が向くか。

 異性であったり、同性であったり、両方であったり。はたまたどれにも向かないのか。

 私の場合はどの性に対しても恋愛感情も性的欲求も湧かないので、Aセクシャルとなります。

 

 

 より詳細なことについては、詳しく解説されているサイトもありますので、ここでは省略させていただきます。

 

 簡単に言えば、LGBTが性的指向を主たるものとして定められたものに対して。

 

 SOGIはそれに加えて、性自認も加味しているという点で一歩進んでいるように、私には見えています。

 

 

 でも、哀しいかな。

 

 認知度の低さも去ることながら。

 世間的に、特に日本という国においては。

 そういった概念を以てしても、性自認や性的指向は、古き良き時代を踏襲されるような形で、蔑ろにされているとしか、私には思えません。

 

 現に、ハラスメントという言葉が未だに横行される中で、それを正そうとしている姿勢そのものが。

 従来の性自認や性的指向を踏みにじっているようにしか、思えないのです。

 

 

 

 

 SOGIという言葉を知っても尚、悩み続ける自分

 

 

 

 LGBTだけでは括れない人も、数は少ないかもしれないとしても、存在する。

 それを認めようとするように定義された、SOGI。

 

 これまで知りもしなかった用語や定義を知ることができただけでも、私としては大きいものがあることは事実です。

 

 然れど。

 そこで終わってはいけない。

 そういったことを、もっと世間に広げていって、少しでも理解される環境を作っていくことこそ真の課題ではないか。

 

 

 異性だけでなく、同性。そして双方に対してにすら恋愛感情も性的欲求も湧かない私にとって。

 自分だけが、ヒトという生物としておかしい存在で。子孫を残す本能に逆らっているとさえ思える、私自身の性自認や性的指向。

 どれだけ指標としての言葉を以てしても、定義されたとしても。

 未だに、自分自身に疑念を抱き続けていると同時に、悩み続けています。

 

 

 出来うるのであれば。

 そんなことに悩むこともなく、人を好きになって、愛し合って、子を育むことができれば、どんなに良かったか。

 

 そんなことさえ思う私は。

 

 異端なのでしょうか。それとも、ヒトという生き物として欠陥を持っているのでしょうか。

 

 

 問うたところで、何も生まれないことはわかっているつもりです。

 ですが、一つだけ申し上げたいことがあります。

 

 ヒトという生き物として生を受け、育ってきた中で。

 人を愛して子を育むことが当たり前だ、という考え方に、一括にしないで欲しいのです。

 

 他の人が考える以前に、本能的に、当たり前にできることができることが、できない人間がいることを。

 私以外にもいることを、どうか知って欲しい。

 

 

 否。

 欲しい、と願望ばかり訴えるだけでなく。

 

 私自身も、同じように悩む誰かを。

 ひいては、別の問題や悩みを抱える誰かを、許容し共感して。

 自分だけが、辛い思いをしている訳ではないことを、この身を通して実現していきたいと思っています。

 

 人の痛みを知って、少しでも理解し寄り添うことができれば。

 全てでないとしても、痛み分けという訳ではありませんが。

 その分、優しくなれるはずと、信じているから。

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

  

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【セクシャルマイノリティ・Aセクシャル】性自認というもの ~今も、自分を探し求めています。~

 唐突ではありますが、そろそろWindows7のサポートが終了間際になってきていますね。

 お勤め先の会社や、個人用PCのWindowsを10へのアップデート、お済みでしょうか。

 個人的には7の方がまだマシという認識で、正直、10はイマイチ使い勝手が悪く感じます。(私としては、98が一番作りが単純で使い勝手も良好でした)

 

 私の務める会社も、Windows10アップデート対応に追われています。

 支所のシステム・LAN管理を任されている身としては、これから一ヶ月弱は修羅場になりそうだ……と、不穏さしか感じられない白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 本日は、私が何となくではありながら、にも拘らず考え続けていることについて、綴っていきたいと思います。

 

 それは、性自認というものです。

 

 以前記事にした、私が自認しているセクシャルマイノリティ。私の場合ではAセクシャルですが、それをどの程度自認しているかどうかは、本当に人の数だけあることです。

 

 Aセクシャルについては、こちらをから。御閲覧くださいましたら、幸いです。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 セクシャルマイノリティが現代、社会的にも話題となり、取り上げられている内容である、その他方で。

 

 性自認というものは、未だに圧倒的に認知度が低いと、私は思っています。

 

 

 ※注記※

 

 本内容は、性別という概要、概念について強く取り扱います。

 飽く迄素人である私が得た知識や経験に基づくものであるため、一人の人間として不快感、反論、異なる意見や思いを抱く方もいらっしゃると思います。

 度合いの程度によっては、本内容を削除いたしますが、ご理解くださる方は、このまま御閲覧くだされば幸いと存じます。

 

 ※注記終了※

 

 

 

 

 性自認

 

 

 私なりに理解している性自認。

 端的に言うと、「自分の身体的な性別とは別に、『自分がどんな性(性別)であると思っているか』」ということです。

 差別や偏見になりかねない言葉で申し訳ありませんが、言い方を変えれば、「男らしさ」や「女らしさ」という言葉でも、ある程度説明が可能です。

  

 ヒトという生物は、生物学的に、身体的特徴から見れば、男性であるか、女性であるか。この二つしかありません。

 

 ですが、そこに「身体的特徴たる性別に、自分の性別という認識がどう向いているか」という点は、見逃されがちです。

 「LGBTQ+」というセクシャルマイノリティと同等に、性自認はとても重要なことであると私は考えています。

 

 性自認の強さや方向性、恒常的か浮動的か。それこそ、星の数ほどあると思います。

 

 

 

 

 性自認の種類は?セクシャルマイノリティとは別物?

 

 

 さて、では性自認に明確な種類があるのかどうか、という話になりますと。

 ここが、かなり難しい。

 前述した通り、性自認は「その人が自認する性別」というものであり、外見や客観的視点で判断ができない為です。

 一応の種別を申し上げるとするなら、以下のようなものがあります。

 

 一つが、「中性」。男性と女性との中間に自分がいると認識していること。

 次に、「両性」。男性でもあり、女性でもある自分が認識していることです。ここには、男性が◯割、女性が◯割といった認識も含まれます。

 三つ目、「無性」。男性でも女性でも、どちらの要素も持たない。

 最後に、「不定性」。男性や女性であると認識する割合が変動し、場合によっては日によって変わることもある。

 

 これだけでも、定義というにはあまりにも曖昧で難しいと私は思います。

 

 

 もう一つあります。

 性自認とセクシャルマイノリティは、別物であるということです。

 

 性自認が「自分がどんな性を自覚しているか」に対し、セクシャルマイノリティは「自分の性的指向がどういうものか」を示すからです。

 自分が「自分の意識として」男であるか、女であるか、それ以外であるかという、性自認。

 恋愛感情や性的欲求の有無、それだけでなく、どのようなものにそういった感情や欲求が向くかという、セクシャルマイノリティ。

 

 私もつい最近まで勘違いしておりましたが、後述しますが、性自認の中で生まれる可能性があるX(エックス)ジェンダー。

 セクシャルマイノリティの中に含まれるトランスジェンダー。

 これを混同しておりました。

 

 自分の認識の甘さにお詫びすると共に、それだけ深い……一人の人間がブログに綴るには、あまりにも深くて、難しいこと。

 それが性自認や、セクシャルマイノリティであることを、改めて実感しています。

 

 

 

 Xジェンダーとトランスジェンダー

 

 

 もう少しだけ、補足にお付き合いくだされば幸いです。

 Xジェンダーは、「生まれ持った身体的性別の『いづれでもない』」という概念です。簡単に申し上げるとするならば、「自分を男や女という概念だけでは説明し切れない」というものであると私は思っています。

 

 では、トランスジェンダーとは。

 こちらは「生まれ持った身体的性別が、自意識上『明らかに一致していない』、或いは男女という世間的認識が、自分の持つそれが「間違っている」と認識している」ものです。

 

 もう少し簡潔に言うとするならば、自分が認知する性、性別が「中間に位置する、或いは曖昧であるか」。もしくは「明らかに違うと認知しているか」。その違いと私なりに理解しています。

 

 更に踏み込むと切りがなくなってしまいますので、世間的にも誤認されがちなことについて、ご説明いたしました。

 

 

 

 白兎の性自認

 

 概略が長くなりましたが、私の性自認についてお話しさせていただければと思います。

 私の性自認は「無性」が一番近いのかな、と自認しています。次点で、「中性」と思っています。

 

 身体的な性別は兎も角として、私は、自分の性をこのように自覚しています。

 男だろうが、女だろうが。私は私という、唯の一人のヒトでしかない。

 そこに、性別という考えは存在しない。

 

 といった感じです。

 

 そう思う理由は、これまでの経験が裏付けています。

 

 

 

 男の子や女の子らしい遊び

 

 

 幼少期故、自覚などありません。

 ですが少なくとも、世間的概念といっては失礼ですが、私は性別に起因する遊びを区別したことはありませんでした。

 戦隊モノのマネをして遊んだり、外で遊んだり。一方で泥団子作りや工作好きに耽ったり。

 兎に角、自分が好きなことに集中していた記憶があります。

 そこに、男の子や女の子らしい遊びという思いは存在していませんでした。

 今言葉として、当時の自分を言い表すとするなら。

 「自分が好きなことを楽しめば、それでいいじゃん」

 そういう思いであったと、思っています。

 

 

 

 身体的性徴が顕著になっていっても

 

 

 俗に言う思春期ですね。ここに至っても、私の性に対する考えは変わりませんでした。

 男らしさだとか、女らしさだとか、言及されたり追求されることも多々ありました。

 ですが、私の思いは一つでした。

 

 そういうの、どっちでも良いんじゃない?

 その人が好きなようにすれば、何も問題なんてないでしょ?

 

 逆に、それを無理やり定義付けられそうになること自体が、苦痛でしかなかった。

 自分の認める性を、全うすればいいだけなのに、なんで他人に強要しなければいけないのか。

 私には、最後までわかりませんでした。

 そして、今でも理解できずにいます。

 

 

 

 男でも、女でもない、私という存在

 

 

 結局は、自認する以前の問題で。

 言い方は物凄く悪くなりますが。

 私は、性別というものに対して、興味がない。

 身体的にも、精神的にも、どちらでも関係なしに、関心はおろか、誇りさえ抱かない。

 

 

 イジメを通して様々なものが変わった、ということもあるかもしれませんが。

 私は、ある意味矜持と言えるものがあります。

 

 男でも、女でも。性別に囚われることなく、好きなようにすれば良い

 

 誤解されることを覚悟の上ではありますが、私はその思いを強く抱いています。

 どう生きようが、どう振る舞おうが、それは人それぞれ。

 ヒトが考え出した定義に、無理やりあてはめなくても……良いのではないか。

 

 それだけは、どうか言わせていただきたい、と強く願っています。

 

 

 

 とは言いつつ、日常は?

 

 

 しかしその実は、結構偏っていたりします。特に行動や思考という側面では。

 これは性自認とは全く異なるとは思います。寧ろ、脳の使い方が関係してくるとは思いますが、その一例を。

 

 私は、地図が読めません。

 仕事柄外出することもありますが、先輩に地図を見せられて、ここを行けば良いと言われても。

 どこを示しているのか、全くわかりません。

 国道◯号線にぶつかったら、と言われることも多いですが。

 すみません、国道◯号線って、どこですか?

 

 といった感じで、ナビを使っても尚、道に迷う程方向音痴です。

 一度走ればわかるだろう、と言われても、本当に道を覚えられません。

 「この前行ったじゃん」と先輩に笑われながら言われても、私は本当に必死です。

 どこを通れば良いんですか、と懇願するように毎回聞いてしまいます。

 それが災いし、相棒とともにドライブに出かけた時は本当に苦戦します。予約したホテルに着くの涙ながらやっとの思いで、という程です。

 逆に何かの建物や看板を目印に、と言われると、存外すっと頭の中に入ってきます。

 

 それと、もう一つが。

 私は一つの事柄に集中し、没頭するきらいがあります。周りから話しかけられても「ちょっと待ってください、すぐ行きます!」と言うほどです。

 こうしてブログを書いている時も、音楽やラジオ、テレビは全部消しています。集中できなくなってしまうのです。

 そんな中で、例えば仕事中。

 自分が行っていた仕事や作業に割って入られると、どこまでやっていたのかがわからなくなってしまいがちです。勘弁してください、と本気で思うほどに。

 

 そういった意味で、私は複数の作業を同時に、平行に行うことができません。

 料理をしながら、食器を洗って、風呂場を洗って……といったマルチコアな動きは私には無理です。パンクします。

 

 そういった側面を鑑みて、性自認が「中性」であるかもしれないと書き記した次第です。厳密には性自認とは無関係なのでしょうが……。

 

 

 

 

 今も、自分を探し、求めています

 

 

 幼少期より違和感を覚え、思春期から顕在化し、今でも尚、私は自分というものを探し続けています。

 それがセクシャルマイノリティであったり、性自認であるのかもしれないと、私なりに思っています。

 

 他者が的確に判断できないこと。

 診断もほとんど不可能。

 

 だからこそ私は、ヒトという存在そのものに興味が湧くのかもしれません。

 考えても仕方がないことであったとしても。

 人の数だけ、考えや価値観が違うこと。

 定義し切れないそれが、私には普遍的なニュースや流行よりも興味深い。

 だから、こういったマイナーな記事を書く原動力になっているのかな。

 なんて思っています。

 

 みんな違って、みんな良い。

 そんな言葉が、相応しいのかもしれません。

 

 

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 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

【セクシャルマイノリティ・Aセクシャル】人を好きになること、愛すること ~わからないことの辛さ~

 今宵、私の済む地域では雪が降っています。

 しんしんと、無音のまま、ただひたすらに積もっていく。

 街の明かりを照り返し、誰に要求された訳でもなく、夜を薄っすら明るく染め上げる。

 雨も雪も好きですが、路面凍結だけは勘弁して欲しいと切に願う白兎です。

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 相棒Lupusのショックアブソーバー(サスペンションを構成する部品の一つ。衝撃を吸収、減衰する役割を持つ)がいよいよへたってしまい、本日ディーラーに交換依頼を出して参りました。

 が、雪国(氷国?)でバラ撒かれる塩カル(水分に反応して熱を生み出し、雪や氷を溶かす、正式名称「塩化カルシウム」)が大きな災いを齎しました。

 塩分を含んでいる為金属に対する影響が大きく、クルマにとって重大な影響を及ぼす(サビを生む)が原因のせいか、ディーラーでも取替が困難なようで、明日までお預けとなっています。

 

 前書きはこの位にして、本日はこれまで曖昧だった「私」という存在をある程度定義付けた内容について書いていければと思っております。

 

 

 

※注記※

 今回の内容は、性的な表現、それらに付随する書き込みをして参ります。

 お読みになる方によっては不快感、嫌悪感を覚える内容になる可能性があります。

 この注記にあてはまる、とお思いになる方は、閲覧を控えてくださいますよう、お願い申し上げます。

※注記終了※

 

 

 

 

 

 

 

 LGBTQ+

 

 

 今回は、「性的指向」についてです。

 SNSだけでなく、会社でも取り上げられることが多いことかと思います。

 「LGBT」。聞き覚えのある方も多い単語かもしれません。セクシャルマイノリティとも言われることも多いかと思います。

 詳細は多くの皆さんが言及していることと存じますので、割愛します。

 簡単に言えば、「自分の恋愛や性的な魅力の対象は何か」ということです。

 異性、同性、両性……人の数だけ、その種類はただの分類だけでは済まない程きめ細かく、かつデリケートな内容かと私は思っています。

 自分が「人を好きに、愛を抱く対象」というものは、言葉では簡単に表せないものであると思います。

 近年では、LGBTに加え、「Q」という概念も取り込まれつつあります。

 この「Q」は「クエスチョニング」或いは「クィア」を示しているといわれています。

 それは、「性的志向がわからない」「わからないことが自然」「既存のセクシャリティにもピンと来ない」という意味が含まれています。

 または、「風変わり」「不思議な」「奇妙な」という捉え方もあるそうです。

 ここはその人本人しかわからない、本当に不快ところに根差すもの。故に、他人という視点からでは定義ができないもの。

 と私は理解しています。

 

 それとTの「トランスジェンダー」。

 個人的には、LGBTQ+という中に入れるのは果たしてどうなのだろうか、という疑念を抱いています。

 トランスジェンダーは「自分の身体的性別と、自認する性別が異なる。またはそれ以外である」、と世間的に定義付けられています、

 が。

 それを定義付けられた「分類」としてわけるというのは、正直どうなのだろう。っというのが私の本音です。

 「それはまた別のものではないのか?」と思えてならないのです。

 性的志向とは別の、性自認にも関わることにも繋がってくる内容であると考える為であります。

 そして、何より。

 私自身が、そこに行き着く可能性がある。

 それに起因する疑念、という身勝手な憶測もある為です、

 

 

 さて、そんな中で取り残されている性的指向があります。

 LGBTQ+の「+」に入る、それは。

 

 

 

 

 Aセクシャル

 

 

 それが、私のプロフィールにも書かせていただいている、「Aセクシャル」です。

 

 こちらについても多くの方が情報発信されていらっしゃいますので、ここでは私の経験談を交えてお紹介できればと思っています。

 

 Aセクシャルは、端的に言えば「他人に対して恋愛感情や性的欲求を求めない」ことであるとされています。

 勿論この中にも様々な分類があり、例えば「性的欲求はないが恋愛感情はある」といったものや、「触れ合ったり抱きついたりすることはできても、性的行為は嫌悪を抱く」といった、一言では言い表せない概念です。

 ちなみに日本では、先程の例では前者を「ノンセクシャル」と定義することもあるそうです。

 

 

 経験から芽生え始めた、Aセクシャル

 

 

 ここからが私が恋愛経験を経ながらも、それを無下にし、数人の恋人であった人たちを傷つけて……。

 それでも尚、Aセクシャルという言葉に出会ったか。

 

 私はこれまで、数少ないながらも恋愛経験をしてきました。

 行為もあります。

 

 しかしながら。

「一途になる」といったことや「この人となら一緒に、ずっと過ごしていたい」という思いを抱くことはできませんでした。

 極論を申し上げるなら、パートナーがいるという、一つのステータスとして持っていたかった。

 どうしようもないクズで下衆な考え。

 若気の至りという言葉では済まされない、相手を傷付けてきた、私の勝手にも過ぎる思い、考え。

 その根源にあったものは。

 

 

 性嫌悪

 

 

 行為に対しては、お恥ずかしながら、思春期で周りがその手の話で盛り上がる中。

 私はさっぱりついていけず、理解しようとも、聞き入るようなこともしませんでした。

 

 気持ちがいい。興奮する。最高。

 

 普遍的でありながらも、「当たり前かもしれない」そういった言葉の数々に、私が抱いた感情は。

 

 

 何に?

 何が?

  どう、いいものなの?

 

 

 その手の雑誌を拾った同級生が持ち込んで、周囲が盛り上がっても。

 私が最初に抱いた思いは。

何、これ。……気持ち悪い

 でした。

 

 

 時を経て実際に行為に臨んだ時も、最初こそ興奮しました。

 前戯の中で漏れる、互いの声、高鳴る鼓動。溢れる互いの体液。

 

 しかし、いざ本番を目前にすると。

 自分の持つものや、相手のものを見ただけで。

 気持ちが萎えてしまった。

 それでも二人で絶頂を迎えたいという思いから、自分を鼓舞しながら望んだ本番も……。

 世間で言う「至福の絶頂」というものを経験できませんでした。

 

 

 当時お付き合いしてくれた人たちには、弁解する気持ちも、罪の意識も、今はありません。

 申し訳なかったと言っても、それも自分を「許して欲しい」という思いにしかならないと思っているからです。

 恨まれても、貶されても、非難されても構わない。罪だと罵られても構わない。

 

 私には、どうしても理解できなかった。

 

 そうとしか、私は今でも言えないからです。

 

 ……つくづくクズだな、私。

 

 

 ヒトという種族の本能 

 

 

 人間を含む生物は、種の存続の為に、子を宿し、さらなる繁栄を願う。それが、生物の持つ本能なのではないか。

 その定義に、無理やり当てはめ続けてきました。

 そして、それを理解できない私は。

 

 一つの生物でありながら、その本能に反する欠陥品なのではないだろうか。

 

 ヒトとして、誰も愛するどころか、好きになるという感情が、わからない。

 考える前に、本能で働くはずのその感情が。

 私には、ない。

 

 それから私は、「恋愛 わからない」「人を好きになる わからない」といった言葉でネットを徘徊しました。

 

 最初は「恋愛経験がないから」だとか「本当に愛する人と出会っていないから」といった言葉だけが引っかかりました。

 

 違う。

 そうじゃない。

 私が本当に知りたいものは。

 

 好意を抱くことがどういうことなのか、愛という定義はなんなのか。

 それを、足掻くように知りたかった。

 

 そこで出会った言葉が、Aセクという言葉でした。

 

 

 

 私のセクシャルマイノリティ 

 

 セクシャルマイノリティは、HSP以上に「自認する」という側面が強く、他人から判断してもらうことは相当困難ことと思っています。

 私の場合は恋愛感情を抱けない(というよりもわからない)、性嫌悪(性的な事柄に嫌悪感を覚える)です。

 

 ただ、赤の他人が恋愛していようが、行為をしていようが、それは特段嫌悪は抱きません。

 

 私は、自分がいざ行為に及んだ際に、性的興奮以上に嫌悪感が先走ってしまう。

 そんな感じです。

 

 

 

 家族愛や友情は理解できる

 

 

 ただ一つだけ言いたいことがあります。

 他人に愛情や好意を抱けないのは確かですが、家族に対する感情や友人に対する感情はあることだけは、ご理解いただきたいのです。

 家族愛、というものは正直今もわかりません。私の家は、元々機能不全家族なのですが……母親や兄は、ずっと大切にしていきたいと願い、その思いに準じて接しています。

 父親については、血がつながっているという事実に吐き気すら覚えるほどですが。

 

 友人に対しても、友情ということは、私なりの答えは持っている……つもりです。

 曖昧になっているのは、上手く友人関係を築いてくることができなかったから。

 しかしながら、少なくとも今は、友情というものを理解して……育んでいきたいと願っています。

 

 

 

 性的指向は、思った以上に難しいもの

 

 

 

 正直なところ、このAセクについては、記事にするかどうか結構悩みました。

 自分勝手だとか、傲慢だとか、知らないだけじゃんとか……知りもしようともしないで、偉そうにとか。

 そう非難されることが、怖かったからです。

 でも、人の顔色を窺って、それに合わせて自分に嘘をつくことは、もっと嫌だ。

 私は、私という人間を貫いていきたい。

 世間から、どう見られても。

 

 今からでも遅くはないだろうから。

 もう、偽りの仮面を被って生きていたくない。

 

 

 自分でも未だに求め続けている内容、纏まりもない記事となってしまいましたが、もしも同じような思いを抱いている方の微かな手助けになれば幸いです。

 

 

 今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。 

 それでは、また次回まで。