早くも2020年も、3月に入りました。
明るい話題は少なく、相変わらず不安を煽るような暗い話が、世の中を支配しています。
紙類の枯渇が、根拠のないデマだと言われても。
デマをデマとして捉えることができない、所謂情報弱者から見れば、どんな情報も信用できなくなります。
その現実が、店頭から消えていく紙類を求め、あたかも奪い合いのような事態になっていると思えてなりません。
噂では、マスクを求めるが為に、暴行沙汰にまで発展したとのことでした。
自治体や販売店が、「冷静になって、対処してください」と言われても。
「何を信じれば良いのかさえわからなくなっている」人たちからすれば、そういった言葉は、最早通じない。
先日散髪に行って参りましたが、相変わらずドラッグストアは長蛇の列ができていました。
各国で必死に対応している中で。
責任を取るという言葉だけを繰り返すお偉い方々に、もう何も期待もできない。
相変わらず全てのことに対し斜に構えている、白兎です。
皆さん、おはようございます。如何お過ごしでしょうか。
新型肺炎が世界的に大事なる、丁度一ヶ月程前。
会社が企画する、「ハラスメント研修」というものを受講して参りました。
セクハラ、パワハラ、マタハラ。
最早何でもかんでもハラスメント、という言葉を付ければ、全てハラスメントとして処理されてしまう現代。
言い方は悪くなりますが、わざわざ講習会を開く程の内容ではなく、ネット上に幾らでも転がっていることを綺麗に纏め上げた、そんな内容でした。
私も、Aセクシャルを自認する者として、あらかたそういったことを知った上で受講しました、得られることは然程多くありませんでした。
それ以上に。
この時もまた、私は疑念しか覚えぬまま帰路についていました。
今や企業や世間体では当たり前と化してきている、セクシャルマイノリティ。
講習会も、それを大前提として進められました。
そこまでなら、まだ流すことができたのかもしれません。
ですが、どうしても私が解すに至らなかったことがあります。
それが「ジェンダーハラスメント」というものを強調していたことです。
今回は、生まれ持った性を前提とする、性自認や性的指向について、今一度考え直していくと共に。
そして、かつて私もLGBTQ+という形で示して来たことを。
別の指標として表す、「SOGI」というものについて、綴っていきたいと思います。
性的指向を示す、LGBTという言葉
これまでも、私はセクシャルマイノリティやAセクシャルについて、記事として上げて参りました。
この時はまだ、LGBTというセクシャルマイノリティ。
つまりは「自分がどのような対象に対して、恋愛感情や性的感情が向かうか」という視点でしか、見ていませんでした。
そこでも、私はLGBTという言葉に含まれていないことについて、私なりの言葉を用いて記事として上げました。
恋愛感情は持てても、性的要求は持てないノンセクシャル。
恋愛感情や性的欲求の向かう先がわかならない、クィア。
そして、他者に恋愛感情も性的欲求も持たない、Aセクシャル。
ここ数年、LGBTという言葉の急速な発展に伴う形で。
企業も「LGBT」というものを、まるで強調するかのように理解を求め、研修や講習会を積極的に開いています。
それでも尚、LGBTに当てはまらない、上述する人たちのことについて、触れることは一切ありませんでした。
その度に、私は憤りとも虚しさとも取れる思いで。
研修等を企画する会社上位陣に対して、LGBTという枠では収まらない人間もいると、無駄だと思いながらも訴え続けてきました。
その結果は。
お察しの通り、何も変わることはありませんでした。
セクシャルマイノリティという言葉が独り歩きするかのように、それを企業として「推し進めている」というアピール材料としている。
私には、そう思えてなりませんでした。
会社に求めることは、無意味と思ったからこそ。
ブログでは、敢えて「LGBTQ+」という名目で記事を上げました。
今思えば。
そういうものがある、と知って貰いたい以上に。
Aセクシャル自認の私を、誰かに認めて欲しいという思いの方が強かったのだと、省みる形で思っています。
時代に合わせざるを得なかった、性自認や性的指向
LGBTという指標は。
これまでの多くの人たちが信じて止まなかった認識を改めるものであることは確かだと思います。
生まれ持って得た、身体的、或いは精神的としての男性や女性という性。
それがいつしか、男らしさや女らしさという言葉に勝手に置き換わって。
異性に恋をして、愛し合って、子を育む。
その上で、男性は男性の、女性は女性の「役割」と信じられてきた、古典的なもの。
日本は保守的故、古き良き時代を好み継続しようとするかのように、私は見えていました。
それに異を唱えるように出てきたものが、セクシャルマイノリティであり、LGBTという概念です。
しかしながら、です。
他者から、どれだけ性的指向を尊重しようと言われても。
それまで当たり前だと思われてきた、日本の文化に無理やり適用させようとするなど、無理にも程があると思えてなりません。
自分が持った性自認を基本とし、異性に恋して結婚して、子孫を残し繁栄していく。
それができない人間は、異端どころか「異物」扱いされて。
洗脳のように矯正されて順応させる。
極端な言い方に聞こえるかもしれませんが。
私の母も、そうやって時代の流れに抗えず渋々結婚し、子を産んだと言っています。
今の時代に生まれれば、絶対に結婚などしなかったと豪語する母。
そんな意志の元産まれた私や兄は、いらない存在なのかと、聞いたことさえあります。
母は、私たちを産んだことを決して後悔していないと言っています。
だからこそ、私は余計強い思いを抱いているのかもしれません。
男だから、女だからという杓子定規で計られたばかりに。
誰が、そんなものを勝手に決めたのだ、と。
そして、それから外れたものは、ヒトとして存在してはいけないのか、と。
そこに慌ててLGBTという指標を持ってきて、説き伏せるように教育して。
LGBT。セクシャルマイノリティを犯すことがあれば、即ハラスメントに繋がると、半ば脅されるように言われても。
性自認や性的指向を理解されるどころか。
不必要な脅しにも似た言葉だけをかき集めることで、コミュニケーションを阻害する材料を作って。
年配者や若者という、考え方や価値観が異なりかけている両者の間に、隔たりを敢えて作っているようにしか、私には見えません。
性自認や性的指向を大切に、などと言いながら。
ただ単に、企業内でそれらに抵触することで報道沙汰になることを恐れている。
それを防止する為の取り組みのようにしか見えません。
LGBTという指標は。
企業が取り組むことで信頼性を保つ為にあるものではないと、私は信じています。
喩え、どこかで偏見の目で見られるようなことがあったとしても、性自認や性的指向というものは、私は知っていただきたいと切に願うばかりです。
新たな指標、SOGI
LGBTだけでは、最早情報不足となりかけている性自認、性的指向。
置き換わる訳ではありませんが、併用される指標が近年では注目されてきています。
それが、SOGIというものです。
「Sexual Orientation & Gender Identity」の頭文字を取った用語で、読み方はソギ・或いはソジ。
意味としては「性的指向と性同一性」と約されることが多いです。
SOGIという言葉の、GIは「性同一性」を意味し、生まれ持った身体的な性に対する違和感があるかどうかを示しています。
仮に違和感がある場合は、LGBTでいうトランスジェンダーに分類されるそうです。
私は中性或いは無性自認なので微妙な所ですが、それでも性自認を定義する意味では、個人的には喜ばしいことです。
そして、SOGIのSOは「性的指向」を表し、これが従来のLGBTに当てはまります。
先述した自己の性同一性を基準にしながら、どの性に対して性愛が向くか。
異性であったり、同性であったり、両方であったり。はたまたどれにも向かないのか。
私の場合はどの性に対しても恋愛感情も性的欲求も湧かないので、Aセクシャルとなります。
より詳細なことについては、詳しく解説されているサイトもありますので、ここでは省略させていただきます。
簡単に言えば、LGBTが性的指向を主たるものとして定められたものに対して。
SOGIはそれに加えて、性自認も加味しているという点で一歩進んでいるように、私には見えています。
でも、哀しいかな。
認知度の低さも去ることながら。
世間的に、特に日本という国においては。
そういった概念を以てしても、性自認や性的指向は、古き良き時代を踏襲されるような形で、蔑ろにされているとしか、私には思えません。
現に、ハラスメントという言葉が未だに横行される中で、それを正そうとしている姿勢そのものが。
従来の性自認や性的指向を踏みにじっているようにしか、思えないのです。
SOGIという言葉を知っても尚、悩み続ける自分
LGBTだけでは括れない人も、数は少ないかもしれないとしても、存在する。
それを認めようとするように定義された、SOGI。
これまで知りもしなかった用語や定義を知ることができただけでも、私としては大きいものがあることは事実です。
然れど。
そこで終わってはいけない。
そういったことを、もっと世間に広げていって、少しでも理解される環境を作っていくことこそ真の課題ではないか。
異性だけでなく、同性。そして双方に対してにすら恋愛感情も性的欲求も湧かない私にとって。
自分だけが、ヒトという生物としておかしい存在で。子孫を残す本能に逆らっているとさえ思える、私自身の性自認や性的指向。
どれだけ指標としての言葉を以てしても、定義されたとしても。
未だに、自分自身に疑念を抱き続けていると同時に、悩み続けています。
出来うるのであれば。
そんなことに悩むこともなく、人を好きになって、愛し合って、子を育むことができれば、どんなに良かったか。
そんなことさえ思う私は。
異端なのでしょうか。それとも、ヒトという生き物として欠陥を持っているのでしょうか。
問うたところで、何も生まれないことはわかっているつもりです。
ですが、一つだけ申し上げたいことがあります。
ヒトという生き物として生を受け、育ってきた中で。
人を愛して子を育むことが当たり前だ、という考え方に、一括にしないで欲しいのです。
他の人が考える以前に、本能的に、当たり前にできることができることが、できない人間がいることを。
私以外にもいることを、どうか知って欲しい。
否。
欲しい、と願望ばかり訴えるだけでなく。
私自身も、同じように悩む誰かを。
ひいては、別の問題や悩みを抱える誰かを、許容し共感して。
自分だけが、辛い思いをしている訳ではないことを、この身を通して実現していきたいと思っています。
人の痛みを知って、少しでも理解し寄り添うことができれば。
全てでないとしても、痛み分けという訳ではありませんが。
その分、優しくなれるはずと、信じているから。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。