【HSS・HSP】好奇心と恐怖は、表裏一体-後章- ~死と生を、共に抱いて~
スポンサーリンク
皆さん、こんばんは。如何でしょうか。
さて、一記事でまとめようと思っていながら3分割することとなったHSS型HSPの最後の纏めに入りたいと思います。
今回は外部から入手した情報よりも、私個人が考えるHSS型HSPについて綴って参ります。意見の差異等あるかもしれませんが、HSS型HSPの一人の意見として捉えてくだされば、幸いです。
HSPやHSS型HSPについての記事は、以下からご覧いただけます。
本記事の前章は、こちらから。
中章はこちらです。併せてご覧くだされば、幸いです。
HSS型HSPは、矛盾だらけ。その一言に尽きる
これまで述べて来た通り、矛盾を抱えながら、頭の中をパンパンに膨らませながらも辛うじて生きているのがHSS型HSPです。
外部の情報や刺激を過敏な程受け取り、そこから予想される数多の事態を想定しながら、生きるために必要な行動もこなさなければならない。時には脳内の処理が追いつかずオーバーヒート状態に陥り、身動きが取れなくなってしまうことさえあるHSP。
片や何もせずにじっとしているのも苦手。夜勤明けや長距離運転といった、疲労が溜まっていてもただ横になって過ごすのは苦痛すら感じてしまうこともあります。
身体は休息を欲しがっている。でも、どこかで刺激を追い求め続けている。
人にどう思われるのか怖くて、初めて会う人が怖い。でも、心の端で人を求めている。
痛いのは嫌だけど、死や生について考えることは昔から。そして、死ぬことそのものに恐怖を抱いていない。
これらは私が抱いているものですが、全てにおいて矛盾しています。
そう。
私は、生きていることそのものが矛盾に満ちています。
身体・精神的な生死、社会的な生死
現実的な話として、大を擁して小を捨てる。意見の余地もないまま、少数を説得したり従うことを強制することを良しとする考え方が、日本の文化として色濃く残っています。少しでも異論を唱えれば異物扱いされ、排除されていくのが事実です。
生きていくという根源を歪めてでも、そうしなければ生き残れない現実。
そんな風習に、私は納得したことが一度もありません。
皆が皆同じ方向を向いて進まなければいけないという考え。今思えば、小学校の頃から違和感を抱いていました。
その為に、心を歪められても立ち向かってばかりいたような気がしています。
先導者のような輩に周りが踊らされているように見え、それを嫌ったが為にイジメの標的とされた中学時代。
精神が悪臭漂わせる程に腐ったことで疲れ果て、中間的を通り越して浮世離れしたような立ち振舞をして、何も得られなかった高校時代。
自分の中では人生の黄金期だった専門学生時代も、結局は終われば理想郷に見えた虚構。学生時の友人との関係を全て切り捨て乗り込んだ社会人生活も、豪華な飾り付けに溢れた言葉とは裏腹に自己利益と生存を求める人間ばかり。
学生時代の失敗を活かそうと、意見せず黙って従っていれば「意志はないのか」と責められて。
応対するのも次第に面倒になって、心は再び腐っていく中で。立場の違いからゴミ扱いされながらも、傀儡のように仕事をこなしす無意味な日々。
最早、生きるという意味すら考えることもなくなっていた私に訪れたものは。
死。
生きることの喜びや楽しさ、意義を見出だせないのであれば、死んでいるのも同然と思った瞬間でした。
自殺未遂まで犯し、うつ病と診断されて、薬漬けとなることとなりましたが。
そこまでして、ようやく生きることという意味を見つけられた気がしています。
身体や精神を壊してまで、私という存在が持つ考えや意志を曲げる必要などないのだと。
金の為に生きているのではなく、生きる為に金を得ているということのだと。
周囲の為に生きているのではなく、生きているから周りがいるのだと。
生かされているのではなく、私は私の為に生きているのだと。
そうでなければ、死んでいるのと同義だ。そんな屈するような生き様をする位なら、死んでも構わない。
こじつけのようかもしれませんが、その時に私は気付いたのだと思います。
ヒトには身体的、精神的な死と生があると共に。社会的な死と生もあるのではないかと。
無意識のまま闘ってきた矛盾も、突き詰めれば死と生に繋がることを。
死と生を抱きながら
一貫した意志を持てないことを小馬鹿にされたり、卑怯者と一蹴されたこともありました。
それは私が幼かったというだけでなく、自分というものを深く知るだけの指標や材料がなかったことにありました。
その為に、自分は人とはどこか違っている。変わっているを通り越して、どこかおかしいんだと思うことも多くありました。
しかしようやく、朧気ながらもどちらかに偏るという考え方や判断ができないことはおかしいことでも、不思議なことでもないことを、HSS型HSPという考え方が教えてくれました。
そしてHSS型HSPを知れば知るほど。深く潜り込めば潜り込むほど。
「安全という前提」があれば危険を厭わず、寧ろ突っ込んでいく時さえあるということを知るに至りました。
喩え、時には死に近付き過ぎる程のスリルを求めることもあれば、生に固執し過ぎるまでの保身に走ることがあっても。
勿論、この記事や私の考え方はHSS型HSPというものを考える一つの意見に過ぎません。言い訳になりますが、綴りながら考えがグチャグチャになって文章が纏まらなくなり、何度も投げ出そうとしました。ああでもないこうでもないと言いながら、書いては消してを繰り返し、ここまで書き連ねても本当に言いたいことを書けているかどうか、綴っている私にもわからなくなっています。
でも。
唯でさえ少ないHSS型HSP。曖昧である癖に複雑なものを抱えていると自負している身として、迷い悩んでいる人に一つの例として示したい、という思いは確かな事実です。
今回は車両事故寸前という境地から、死と生について綴りました。
今後も日常生活で感じたこと、思い耽ることがHSS型HSPに結びつく切っ掛けがあれば、綴ることを続けて参りたい所存です。
三回にも分けておきながら纏まりのない記事となってしまったことは、どうかご容赦ください。
今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。