【家族・価値観・人生】不仲が過ぎる両親-① ~確執?憤り?知らんがな~
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あと数日で、暦では夏に入る時期となって参りました。
蛙の声を呼び寄せ、静かに降りしきる雨が降り続く、梅雨を思わせる日はなかったものの。
来週は纏まった雨が予想され、各地で注意や警戒を呼びかける声が上がっております。
新型コロナウイルスだけでなく、雨による自然災害。所々で発生している地震。
明るい兆しの一つもないまま、不安と諦観だけが強まっている、白兎です。
皆さん、こんばんは。如何でしょうか。
諦観、という言葉を思い返せば。
私はこれまで家族というものに期待を捨て、諦めや見切りを付けてきたことは、本ブログでも綴って参りました。
同じ一つ屋根の下に住む、血縁関係のある人たちが生活を共に送る、家族と呼ばれる括り。
日本では広義的にはそのように定義されていますが、それすら満たすことなく、同じ場所に住む意義さえなくし、家族という定義が満足に機能していないもの。
それが、機能不全家族と呼ばれています。
両親の喧嘩が絶えない。
夫が妻を、妻が夫の陰口を子どもにネチネチと吐き捨てる。
家族という関係にありながら、旅行を共にするなど程置く。外食や買い物に家族総出で行くこともないばかりか、同じ食卓を囲む時間さえない。
干渉し合うことも、話すこともない。
否、時間を共にすることさえ拒絶しているのだろうな。
記憶のある限り、私は両親を、生まれ育った家族に対して。
最初こそは、これが家族というものなんだと信じ込んだまま、数十年生きてきました。
しかし、歳を取るに連れて。
私の家族は、余りに逸脱しているということに気づき始め。
知り合いや友人の家族が健全であることを目の当たりにし始めたことを切っ掛けに、益々家族という存在がわからなくなっていきました。
そして今、私が思うことは、唯一つです。
両親に何があったのかなど、知りたいとも思いません。知りたくもありません。
でも、そんなに一緒にいたくないのなら、今すぐ離婚してくれ。
家族だから、血の繋がりがあるからと、詰まらない風習や理屈なんて。
さっさと捨てろ。
数十年見てきた子から見れば、そんな形式的や外見的に過ぎない家族なんていらない。
見せかけの家族なんて、害悪しかない邪魔なものだと、久しぶりに諦めを通り越して怒りを感じる場面に出くわしました。
今回は不図した切っ掛けに、機能不全家族である自分の家族に対して疑念や不満で収まっていたものが、感情が暴走するまでの醜態を見せつけられたことで一気に嫌悪が進んだこと。
経済的その他理由があったとしても、子どもから見た偽りの家族など、愛情も何もないことに気付いたこと。
家族ごっこを続けることの無意味さや不要さを通り越して怒りすら感じたことについて、綴っていきたいと思います。
小さい頃から不思議に思ってきた、両親の距離感
幼少期は一度も怒ることなくいつもニコニコしていた祖父。曲がったことを嫌いながら、忙しい母に変わって面倒を見てくれ笑い合った祖母。余計なことを言わず、感情をあまり表に出さない寡黙「と思っていた」父。仕事に家事にと忙しい合間を縫いながら、祖母や私、兄を色々な場所へ連れ出してくれた母。
祖父母は顔を合わせる度に、主に祖母が文句を飛ばすことが多くありましたが、孫である私には溺愛と言って相違ない程優しく接してくれました。喧嘩とまで行かないまでも言い合いをする祖父母に、子供の私は「まぁた始まった」という感覚で見ていました。
一方、両親は祖父母とは全く逆を行く接し方をしていたことは、子どもながらも理解していました。
父が私や兄に口を出すことは、記憶に残らない程なかったと思っています。何より妻である母とは、顔を合わせるような場面でもそっぽ向くようにしていました。
逆に母は、夫であり私たちの父に対して、嫌悪する感情を一切隠さずにいました。
いつもは気丈でありながら、笑みと豪胆な口調はどこへやら。夕飯が出来上がった時にはドア越しに「ご飯です」と一言だけ。そこに感情と呼べるものは、一切ありませんでした。
また長野県の生まれでない父の実家へ遊びに行くことや、朝食を父と共に摂る時もありました。
そのような時の母は無条件で、寧ろ共にいる私たち兄弟にも、同じように冷え切った言葉でご飯を持って来ていたことを今でも覚えています。
冷たい声、突き刺すような氷のような目。
いつもの母さん、どこ行っちゃったの……?
理由もわからないまま「大人の事情」を目の当たりにしていく内に。
父と共にいる=母の期限を損ねる。
子供を取られた嫉妬なのかも、などと簡単に考えていた時期が長くありました。
その真相は。
子どもが考えられることなどよりも根深く、暗闇に堕ち切っていました。
夫の不満をぶち撒ける母。父に対し嫌悪を重ねた私
時を経て、中学、高校へと進学していくに連れて。
自分はもう一人前だなんて、勝手な勘違いを抱くようになる年頃になった頃からだったでしょうか。
元気だった祖父母は体調を崩し、それぞれ病院と施設に入って久しくなり、母はその見舞いと仕事で疲れ切っているように見えました。
上京した兄、その分空いて椅子。ダイニングテーブルに座るのは、私一人となって久しくありました。
帰ってきて夕飯の支度をしながら酒を煽り、私と母の二人で共にする夕食。
その時からだったでしょうか。
これまで、まるで我慢でもしてきたかのように講釈を垂れるようにして。
自分の夫を。私の父の文句を並べ始めたのは。
母は母で、末っ子の私が高校生になったことで、育児という呪縛から解かれた緩みのようなものがあったのかもしれません。
良くも悪くも、私が聞くに徹する態度を取るようになっていた、ということも影響して。
家事の手伝いもせず、考えていることはいつも自分のことばかりであった夫に、子である私に不満や不快をぶち撒けたくなったのだと思っています。
これは憶測の域は出ません。
然れどイジメを経て人間関係を拗らせることなんてクソ喰らえと成り果てていた私には、不服と思っても意見して痛い目を見る愚かさを、身を以て知ったこともあり。
聞いたふりをしてでも黙っていた方が楽だと、信じ込んでいました。
結果的に、自分の思いを吐くよりも。話し相手が吐き出す言葉を受けることの方が、何も考えずに済むことを、すっかり覚えてしまった私には。
自分の意見なんて、心の奥底へぶち込んでいけば良い。
浮かび上がった感情なんて、邪魔なだけだ。ゴミ箱へでも突っ込んでおけ。
湧き上がる思いも、感情にも向かい合うことを辞めてしまった私は。
魂も情感もない、身体というしか存在しない傀儡と化していました。
しかしある時。
あまりにしつこく父を罵倒する母に、思わず聞き返したことがありました。
自分の夫に、私の父に、そこまであからさまに否定しながら本人に言わないのは、どうして?
息子に言うだけ言って、それで満たされるの?
確執とも思えるしつこさから、堪らず投げ出した疑問と「大の大人が、馬鹿じゃないの?」という。子ども心から出た言葉。
それに対して、何も知らない癖に、と母は憤ったのだと思います。
あからさまに声色を下げながら、酒を流し込む様。
その後の言葉は、あまりにしょうもないばかりに思い出して言葉にすることが馬鹿馬鹿しくなるものでした。
でもしかし、母の訴えるように私を見詰める目と声は。
悔しさなのか、寂しさなのか、期待を裏切られた無念さなのか。
言葉は短いながらも、様々な感情が入り混じって、グチャグチャに掻き混ざっていることは、何となく感じることができました。
それから暫くして、私が上京して専門学校へ行くことを決意し、叶った時。
学校の見学や、下宿する場所を探す為に共に都心へ出向いてくれた母の存在は、心強いという言葉以外のものが見つからない程でした。
一方で。
数十年も同じ生き方を変えることなく来た父は、相変わらず自分のこと以外の動きに興味関心を向けることは遂にありませんでした。
しかしそれでも。上京しお金が掛かることもあり、進学すること位は、父に言っておいた方がいいだろうと思い、家にいる時間を狙って話すことを決意しました。
それが、その後の私に父親というものを、男性というものに歪んだ認識を抱く、残念を通り越して後悔しか残さない結果となりました。
最早、私に父親なんて。
居ても居なくても、どうでもいい存在と、成り果てていました。
結局、私も。
母が抱き続けてきた因縁に近い想いを、知らぬ間に私も似たようなものとして抱えたのでした。
長くなりそうなので、勝手ながら今回はここまでとさせていただきます。
ご閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。