白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【人生・価値観】兄と弟 ~いつの間にか大きくなった、兄の背中~

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 季節の移り変わりという微妙なタイミングで、初めて甚平を購入し寝間着としています。肌を人に見せることに妙な抵抗を覚えてしまう私が、家にいる時位はいいだろうと軽い気持ちで衝動買いしてしまいました。

 日本の文化、侮ることなかれということを思い知らされました。綿と少量の麻で作られた甚平の通気性と汗の吸収が凄まじく、それでいて着心地が優しい。人前に着ていける自信は芽生えないものの、すっかりその虜となっています。

 そんなことを思いながら、もし、明治維新が起こらずに江戸という時代が続いたとするのなら。今の日本はどうなっていたのだろうかと、興味と想像が止まらくなっている【やさぐれ紳士】白兎です。

 着物と袴といったものも、歳を取ったら着てみたいとも思う今宵です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 さて、前書きが長くなりました。本題に入って行きたいと思います。

 

 本ブログでも再三綴ってきたことながらも、燻るように芽生え始めていた思い。それが、ここ最近より顕著になりつつあります。

 一昔では当たり前とも言えた三世代家族という環境の中、二人兄弟の弟として。末っ子として、私はこの世に生を受けました。

 

 生まれ育った環境を深く考えることもなく、私は保育園を卒園してから学生へ、そして社会人となって久しい歳となりました。

 しかし、状況や取り巻く環境は巡り巡るように変わっていって。

 今は自分の生まれを、末っ子として生まれたことについて、考え直させられるようになるに至りました。

 

 願おうが否が、この世に生まれ落ちた自分を取り巻く環境を。

 二人兄弟とは言え、その末っ子として育ち、時を経ると共に歳を取った今。

 変わりゆく身内に、いつ沈んでもおかしくない危うい状態に陥りそうになる中で、末っ子だからこそできることはないかと私なりに考え、思ったことを綴っていきたいと思います。

  今回は、そのきっかけとなった兄の上京と、彼に会いに行くまでについてお話しできればと思います。

 

 

 

 

 

 

 末っ子として、祖父母からも、母や伯母からも甘やかされて育った

 

 母方の祖父母と両親、そして4つ歳の離れた兄の弟として、私は生まれ、育ちました。

 祖父は私たち孫にはいつもにこやかな笑みを浮かべ、欲しいものをねだると嫌な顔ひとつせず買ってくれる、優しさと甘さの塊のような人でした。

 祖母は自他共厳しく曲がったことは許さない人でした。小さい頃からあまり外出せず、思春期になってもすぐ家に帰っていた私はあまり干渉されませんでしたが、学生時代は自由奔放だった兄はその都度詰問責めにあったと聞いています。兄から直接聞いた話ではありませんが……兎にも角にも、私から見た祖母は真っ直ぐで、純粋で。それでいてしょうもないことですぐに笑う、人間味に溢れる人物でした。

 母は自分がアレコレ言われることが大嫌いらしく、私たちにしつこくしてくることも、深いって聞き入ってくることもしない人です。大喧嘩するようなことはありませんでしたが、お互いにあまり深入りするような関係ではありませんでした。

 しかし、愛情がなかったかと言われればそうではないと思っています。社会人となった私とは酒盃を交わしながら語ることも多くなったこともあり、母は母なりに苦労を重ねていたこと、血の繋がりのない夫をある時を堺にヒトとしてみていなくなったこと。

 こう書くと、歪んだ家庭なのだとつくづく思うばかりではあります。ですが少なくとも私は、母子家庭で育ったと考えるようになった頃から意見は一致し、親子ながらも母とは近ず離れずの関係を今も築いています。

 

 干渉されることは、私も嫌いです。近過ぎない人間関係が、私には合っているようです。

 

 そして、もう一人。母の姉である伯母は、幼い頃から世話になっています。母と同じ位に、頭が上がらない存在です。

 長年看護師を務める伯母は乳離しない頃から祖母と共に私たち兄弟の面倒を見てくれ、仕事に追われる母と一緒に育て上げてくれました。

 

 家族皆、末っ子の私を可愛がってくれました。自分で言うのもお恥ずかしい話ではありますが、あまり怒られたことなく私は育ちました。思い切り怒られたのは母位で、それでも感情任せの怒りというよりも冷徹的な態度で叱責されたという感じでした。

 祖母もそれなりに口煩い人でしたが、私に対してはそれ程過干渉するようなことはありませんでした。寧ろ自転車で少し遠くの回転寿司へ一緒に行ったり、地元の祭りで手を引いて歩いて貰った、優しくも心強い祖母の印象が強く残っています。

 

 そして、4つ上の兄。学年は小学校の時にギリギリ被った位で、私生活を除けばほとんど接した記憶はありません。

 小さい頃は同級生よりも、兄にくっついていってその友達と遊んでいました。周りから見れば弟分のように見られ、人見知りが激しくはにかむ私をからかいながらも柔らかい眼差しと共に接してくれました。

 私生活という面でも、やはり年が離れていたこともあって互いに干渉したり目立った喧嘩もすることはなく、それは今も同じです。しかし互いに兄だからとか弟だからとか、そういった見方を互いに昔からしなかったこともあり、やはり近くも遠くもない関係でい続けていたと思っています。

 

 とは言いながら、歳の差がある分、成長の違いは年を追うごとに顕著となっていくこととなりました。

 周りと遊ぶことに夢中になった兄は、私と過ごす時間よりも外で遊ぶことが多くなっていき。外の世界を知らない臆病な私は、兄がどこか知らない場所へ行き始めていることを感じ始め。

 その感覚の違いが、兄弟という関係であっても互いを遠ざけ始めていき。

 

 気付いた時には、兄は東京という大都会へと移り住んでいました。

 

 

 

 一人上京した兄。迎えてくれた兄は、知らない間に大きく見えて

 

 同じ頃の私は、中学を卒業して間もない頃でした。

 

 思春期の大半を青春ではなく、イジメを被る時間に、無駄に費やした。

 

 そんな私が高校に上がっても、場所は同じく学校という閉鎖された空間。一度でも負の連鎖が始まれば、中学時代の悪夢を繰り返すことは明白でした。

 私は、人との交流を拒む道をひたすら歩み続ける選択を選んでいました。周りがどれだけ楽しく騒ぐように楽しんでいようとも、恋話に華を咲かせていようとも。

 

 私には、全てが煩わしく面倒の塊で、果てしなく幻滅する時間しかありませんでした。

 イジメという、腐ったゴミのようなヘドロのような、ヒトの醜さを身で味わった私に。

 青春という言葉は燃やす以前に霧散し、ただただ時間を浪費する毎日を送っていました。

 

 抜け殻のようになった私の元に、それは不意に訪れました。

 上京した兄から、遊びに来ないかという連絡が来たのです。

 

 世間知らずの私には、東京という都会がどんなものなのかさえ想像もできずにいました。

 しかし、小さい頃の兄との思い出が希薄になっていた私は、心をすっかり揺さぶられていました。

 

 兄に、会いたい。話がしたい。いつの間にか遠くに行ってしまった兄との時間を、少しでも取り戻したい。

 

 今思えば、本当に無茶苦茶な生徒だったと自分でも若気の至りだなと苦笑する程ですが、私は担任に対しバカ正直に「都会に行った兄に用事がある」と伝え無理やり学校を休み、当時はまだ長野新幹線と呼ばれていた新幹線に乗り東京へと向かいました。

 

 兎にも角にも、唯でさえ一人で出歩くことのなかった私には、新幹線の中で緊張と久しからぬワクワク感に満たされ、車両に揺られるまま。

 一時間程の乗車で、東京に辿り着きました。改札を抜けた、その先では。

 

 私を見つけ、手を挙げニッコリと笑う兄の姿がありました。唯でさえ人の波で不安が最高潮になりかけていた私にとって、その笑みは何よりも私を安心させると共に笑いを零させました。

 

 あれ。

 私はふと、自分に問いかけていました。

 

 こんなにニコって笑ったの、どれ位振りだっけ。

 

 そんなことを思ったのも束の間、私は兄の元に駆け寄って「久し振り」と声を掛けていました。

 それを聞いて、私の方を優しく叩きながら「良く来たな!」と迎えてくれた兄の声。

 

 何だか、不思議な感覚に浸っていたような気がしています。

 

 小さい頃って、こんなに優しい声だったかな。私に向かって、眩しいとさえ思う笑顔を向けたこと、あったかな。

 こんなに、大きかったっけ。

 

 ねぇ、兄さん。

 

 

 

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