白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【生き方・人生】亡き人を想う ~思い出は、心の中で生き続ける~

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 朝晩の寒さと日中の暖かさが交互にやってくる日が増えて参りました。三寒四温という言葉がある通り、立春を過ぎてから冬の寒さと春の訪れが入れ替わる忙しくも季節の移り変わりを肌身で感じる時期となって参りました。

 我が家の小さな庭では、今は亡き祖母が好きだった福寿草の花々が凍てつく大地に負けずに芽を出して。日中は黄色の花弁を誇らしげに広げ、力強く咲き誇っています。

 

 人は、時と共に老いながら変化していると実感させながら。木々や花々は季節の移り行くままに、儚くも強く生き続けていることを、小さな小さな福寿草を見ながら思い耽る今日この頃です。 

 

 

挨拶2

 

 

 皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。

 

 2月15日。6年前となるこの日、祖母は静かに息を引き取りました。

 6月6日。12年前、祖父がこの世を去り仏の世界へと旅立ちました。

 

 今年は祖母の7回忌と祖父の13回忌が偶然にも重なる年でした。

 私は勝手ながら、これは偶然ではなく亡き祖父母が必然としてくれた、運命的な何かを感じぜずにはいられませんでした。

 この記事を綴るこの日、祖父母の法事に行って参りました。

 

 

 目覚めた朝、外は快晴ながらも風が強い陽気。

 母が語るに晴れ女だったという祖母による晴れ渡り、祭り事や賑やかさが好きだった祖父が歓喜の余りに風を荒らしているのかな、と私は思わず頬を緩ませていました。

 祖父母の命日、月命日に赴く墓参りは決まってこのような天候ばかりだったこともあり、「相変わらず、二人とも元気だね」と言葉に出さずとも胸の奥で静かに思うのでした。

 

 法事の準備をする時間となり、礼服を用意し着用しようとしました、が。

 不摂生によるサイズオーバーにより、着込むことが叶いませんでした……。特にスラックスは顕著で、胴回りは元より、腿周りが全く通らなくなっておりました。

 この礼服、購入したのは確か、祖母が亡くなった時。6年の歳月で、私は歳だけでなく横方向へと身体も成長していました。

 痩せないとな、とやりもしない思いを携えながら、泣く泣く普段着兼仕事着である黒のスーツもどきを纏うこととなりました。

 

 

 法事の時間が近付き、身に纏う服を無視するかのような冷たい風が舞う中。私は母と共に、葬儀にて弔いの義を執り行ってくださったお寺へと向かいます。

 駐車場で母の姉である叔母と合流し、3人で境内へと足を踏み入れていくと。

 唯でさえ寒い空気が、山門を潜った途端、凛とした澄み切ったものに変わるのでした。

 鼻から吸う空気。服越しでも引き締められるような厳かさと、肌に直接沁みるかのような冷ややかさ。

 

 気の所為などではないと思いながら。

 

 事務所から入り、法事の準備に取り掛かる住職(私の住む地域では住職のことを「おっしゃん」と呼びます)とお手伝いさんにお願いし、待合部屋にて暫しの間を過ごし。

 ストーブを始めとする暖房器具が炊かれながらも寒さを忘れることは叶わないまま、法事が執り行われました。

 

 冷え切り澄んだ本堂。

 コロナ禍ということもあり、マスク越しでありつつも、しかしながら。

 

 経文を読む住職の声が、木魚を叩く音が、大小の鈴の音が。

 どこまでも澄み切り、凍えるようなお堂の空気を震わせるかのように、経を聞く私の耳に届いてきました。

 

 会社や私生活。自分の理想や自己都合に合わないことに苛立って、嫌悪して。

 好き勝手に苛立ち、幻滅してきた自分が、精神も心もあまりにも矮小だったことを諭されている。そんな気がしてなりませんでした。

 

 思い込みで卑下する訳でもなく、純粋に、感じることしか私にはできませんでした。

 

 同時に。

 何年もの間、忘れかけていた祖父母との思い出を彷彿させる時間であったことも確かでした。

 

 怒ることなく、いつもニコニコ笑いながら傍にいてくれて。最期は誤嚥性肺炎で亡くなった祖父。

 自他共に厳しいながらも、しょうもないことで笑いこけて。十数年に渡るうつ病と認知症に苛まれながら、お別れの時は薬の作用が抜けて綺麗な顔で逝った祖母。

 

 二人が亡くなって、約十年の時が過ぎて。

 

 私は、変われたのかな?

 

 イジメで、会社でゴミのようになった私は、あの時から成長したのかな?

 

 ボロボロで崩壊間際の家族でも、見守ってくれるかな。

 いや、違う。

 どうか違う世界からでも、見守ってください。

 

 住職のお経を唱える声の元、合掌し焼香しつつ、法事は無事終わりを迎えました。

 直後、住職は最近の葬儀や法事についてお話ししてくださいました。

 

 新型コロナウイルスに関係なく、近頃は家族葬が増えたことで法事を執り行わないことが増えていること。

 お寺に法事を依頼する時も「おっしゃん、偉い寒いな」という方が増えたということ。

 それにあやかってか、都会では木造ではなく鉄筋製で冷暖房完備、待合室だろうが本堂だろうが床暖房完備というお寺も増えているということを、住職は嘆くかのように仰っていました。

 

 

 価値観はそれぞれとして、私はおっしゃんのご意見に賛同です。

 確かに住環境は整備され、快適性や居住性をより良くする為に床暖房やオール電化が進んでいることは紛うことなき事実です。

 

 しかしながら、敢えて疑問を投げさせていただきます。

 

 お寺というものは外界から切り離されて、静かで、お香の匂いが漂って。夏の暑さであろうが冬の寒さであろうが、自然が齎すありのままを受け入れる場だと考えております。

 住環境が整い快適になっている現代だからこそ、隔絶された寺社の厳しさや険しさ。それがあってこそ法事の意味があると、個人的に思う次第です。

 

 現に今も、お香の香りが髪や衣服に染み付き。こたつに入れる脚も、法事時の寒さは覚えています。

 

 古い思想、と言われるかもしれません。ですが私は、充実した現状から離れたものから得られるものがあると信じています。

 今回の場合、故人を想う場。それが寺社であっても、そうでなくても。

 

 時代は進化し続けても、私は残るものがあると思っています。

 

 大切だった。大切だと思っていた。

 もしくは亡くなって初めて気付いた、故人の思い出。

 

 日頃のストレスや心を揺さぶられることよりも、余りに小さなものだと思える程、大きくて忘れることなどできないと、私は信じて敬うと共に、この記事を残させていただきます。

 

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

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