【生き方・価値観】ストレスの過不足 ~内外からの刺激~
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パソコンに触れてから、早くも20年近く経とうとしています。私が初めて触ったOSはWindows98でした。
当時はCPUやストレージ容量が相応のものしか出回っておりませんでしたが、余計な機能もなかった為却って扱いやすかった記憶があります。
最近は仕事もプライベートもパソコンがメイン媒体となっている私ではありますが、マウスを動かすという動作も年数を重ねれば身体に負担となって出てくる訳で。ここ数日、聞き手の手首の痛みに悩んでいます。
そこでこの度、トラックボールマウスを導入いたしました。マウスを固定したまま、トラックボールという球体を回すことでカーソルを移動させるものです。
人差し指用を購入した為、これまでのマウスと使い勝手が大きく異なっております。品が到着した午前中から使い始めていますが、存外使いやすいです。
完全に適応できるようになるまで時間は掛かりそうですが、パソコンによる作業で手首や前腕に痛みがある方にはオススメできるのでは、と思っている白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
夏の甲子園が戦後初の中止に追い込まれるなど、深刻な打撃を様々な所に残しながらも尚も衰えないコロナウイルスによる影響。
春の選抜のみならず、甲子園に目指して日々鍛錬していらっしゃったであろう、学生の皆さんの無念さと悔しさ、心中お察しいたします。
それ以外にも、多くの生活を一変させて耐え凌ぐ日々が未だに続いています。
そんな中スマートニュースで、気になる記事を見つけました。
コロナ禍で一番辛いことは、何ですか。という質問と答えでした。
その問いに対して、精神的な辛さが7割を超え、次いで金銭面での負担が3割弱、肉体的負荷が数%という結果が出たとのことです。
そして別の記事では、ストレスや辛いというキーワード検索が増加の一途を辿っている、と書かれていました。
日常生活を送る上でも避けては通れない、ストレス。今回のコロナウイルスによって、潜在していた様々な思いや感情が限界に達し始めているのではないかと、個人的に思っています。
それを見て、ストレスとはどういうものなのだろうか。
一人考えていく内に、私なりの結論に至りました。
今回は現代社会では切っても切れないものであるストレス。大概は悪いものと捉えられているストレスが、過剰であったり不足した時にどうなるのか。
また言葉ばかりが独り歩きしているストレスは、自分の内面や外界からの刺激なのではないかと思うに至ったことを、私の経験を交えながら綴っていきたいと思います。
※注記※
本記事では精神面に関する内容を含みますが、本ブログ運営者は専門家ではありません。本記事をご閲覧になったことで生じた事象、事柄に対して一切の責任は負いかねますことを、どうかご了承ください。
飽く迄「そういう考えもあるのか」という認識でご閲覧いただければ幸いです。
また精神的疲労や精神疾患の兆候がある場合は自己判断なさらず、専門医への相談や診療を行ってくださいますよう、重ねてお願い申し上げます。
※注記終了※
ストレスの定義
ストレスと聞くと、何となく生きる上での「敵」と認識されることがほとんどな気がしております。
私もストレスに弱いことを自負している為、有害なものと判断して。嫌なことがあれば深く考えることもせず「ストレス溜まるな」と馬鹿の一つ覚えのように連呼する程です。
では、ストレスというものの本来の定義は、どういったものなのでしょうか。
まずストレスとは、「外部から刺激を受けた際に生じる緊張状態」のことを指すとされています。
別の記事では、「生活上の精神的重圧そのもの、またはそれを感じた時の感覚」と定義されているようです。
ここで注目したいのは、ストレスという言葉には二つの種類があることです。
一つは、精神的な圧力を伴う事柄そのものであること。もう一つが、それを受け取った時の人間の生体反応であることです。
混同すると紛らわしくなる為、本記事では精神的圧力を伴う事象や事柄そのものを「ストレス因子」、受け取る側の反応を「ストレス反応」と呼称させていただきます。
しかしながら、二つに分けられているとは言っても。
ストレス因子とストレス反応は、とてつもなく密接な関係にあること。そして重圧といってもどこまでが重圧なのか、或いは緊張状態を始めとする反応や感覚、感情は人それぞれ違うことにあまり注目されていないのではないか、と思えてなりません。
このことがストレスという事象を混同させ、肉体的にも精神的にも悪影響を及ぼす悪しきものと認知されていると考えています。
例えば目上の人から注意されるという、同じストレス因子に遭遇した時。Aさんは「いつもガミガミ煩いな」と流すことができても、Bさんは「自分に至らない点があったのか。でも連絡も報告もちゃんとやったはずなのに、何で怒られているんだろう」と過度な緊張状態に陥ってしまう。
こういった比較事例だけでも、同じストレス因子でも受け取る側にストレス反応よっては雲泥の差が出てしまうのではないのでしょうか。ちなみにこの例の場合、私は大体Bさんのような心境に陥ります。
少々極端な例を出させていただきましたが、実際にこのようなことは起こり得ると私は思っています。
何故なら。ストレスそのものがどんな形であったとしても。
強弱はともかくとしても、ストレス因子もストレス反応も、最終的には「内外から来る刺激の波」であるのではないか。
そう考え始めている為です。
ストレス≒刺激の波
ストレスは外部からの刺激を受けた時の生体反応であると述べました。
これは、人類が誕生し始めて間もない頃に遡る所から始まっていると思っています。
私たち人間は、一人ひとりの力。他の野生動物が持つ、強力な牙や爪、巨大な体躯の前には、遠く及ばない矮小な存在だったかと思います。
人類は発達し始めた頭脳を用いて武器を作り。生きる為に、食料や衣服や住居の材料とする為に、集団で獲物を狩るべく強敵を前にしてきました。
自分よりも何倍も大きく、獰猛で強力な獲物。
それを前にした時、下手をすれば一瞬で死ぬかもしれないという恐怖。しかし、生きる為に戦わなければならないという生存本能。葛藤を乗り越え、犠牲を出したであろう古代の人々は獲物にありつき、時代と共に発展してきたことと思っています。
このようにして太古の時代について考え、憶測するだけでも、ストレスというものを少しでも理解しやすくなると考えています。
巨大にして獰猛な野生動物。人間一人ではとても敵わない存在そのものを「ストレス因子」とするなら。
それを前にして人間側が受け取った、様々な思いや感情は「ストレス反応」であるのではないか、と。
このことから考えても、ストレスは刺激の波の連続であると私は確信しました。
命を脅かす脅威という形で、強烈な刺激を齎してくる相手。
それに晒された側は、自己の内面から滲み出る感情や思いの波に押し流されそうになっても。生き残るために自分を鼓舞し、肉体を緊張状態にすることで戦いに挑める状態にしてきた。
これは、形は変わりながらも現代でも全く同じことが言えると私は思っています。
ただ一つ、変わったことがあるとするなら。
古代の人々は生きるか死ぬかという、究極的な状況を乗り越えてきたことに対して。
現代では、一つのストレス因子やストレス反応が、直接生死に関わるようなことがなくなった分。喩え些細であったとしても、ストレスという刺激の波に晒され続けるようになってきていると思わざるを得ません。
長引くストレスは、確実に害悪を齎すことは、身を以て知っているつもりです。日常生活を送ることさえままならなくさせ、生きる活力を徐々に、しかし確実に失わせる恐ろしいものです。
一方で刺激の波であるストレスが少な過ぎてる状態も、決してヒトを良い状態にさせるとは思えません。
何故なら。
これは私の経験談になりますが、私は会社という人間社会の様々な思惑に、嫌気が差さない日はありませんでした。
それが、一ヶ月という短い期間ながらも。そういったシガラミから解放された在宅勤務を経て、人間関係に起因するストレスが大きく低減されたことは、紛れもない事実です。
然れどストレスの低減は、私が想像していた理想とはかけ離れていたことを実感し、別の弊害を、感じ始めている為です。
多過ぎても、少な過ぎても良くないストレス
どうしてもストレスと聞くと、精神的な負荷といった側面を彷彿させがちではあります。
実際は、肉体面でもストレスの影響を受けているのではないかと、在宅勤務を通して考え始めるに至っています。
会社へ通勤する際、私は最寄りの駅までは車を使って移動し、鉄道に乗り換えて勤務先近くの駅まで電車に揺られています。
到着した駅からは、距離で言えば片道1.5キロ。時間で言えば二十分足らずではありますが、毎日歩き続けてきました。
それが新型コロナウイルスの感染拡大防止策の一環として開始された在宅勤務により、私の中で唯一だった運動は一切なくなりました。
電車の時間に間に合わせる為に早起きしたり、帰りの電車を待つ時間が消えたことで、確かに精神的な負荷はなくなりました。
しかしながら、座ったまま碌な移動もせずパソコンに向かい続ける日々を経るごとに、身体はすっかり鈍ってしまいました。
結果として、死活問題として毎晩ほとんど満足に眠れなくなっています。
よくよく考えれば、身体に負荷を掛けることもストレスの一環であることに、今更ながら気が付きました。
歩いたり会社のフロアを走り回ることはストレス因子の一つで、確かに疲れます。それでも身体はその負担を受け、ストレス反応として負けないように筋力を維持しようとします。
そんな肉体的なストレスもなくなれば、身体は刺激に対し鈍くなり、睡眠その他に影響が出て然りではないか、と。
また精神的にも、他人が齎す圧力が低減したことで、私はすっかり安らぎに身を置くようになっていました。
ですが日を追うごとに、何の代わり映えのない日々に鬱屈感を覚え始めていました。
不快感はない。でも、何か物足りない。そんな感覚。
ブログの書き溜めができない私にはブログと向かい合い続けることもできず、在宅で仕事をこなす傍ら、悶々とした時間ばかりを浪費しておりました。
過剰なストレスと、足りな過ぎるストレス。
双方を知った今、私はどちらも決して良いものではないことであると、思いを改め始めています。
自分の許容量を知り、ストレスと上手く付き合う
しかしながら、ではありますが。
ヒトはストレスという刺激の波に、誰もが同じように感じたり、流したり、耐えられたりするものではないと思っています。
特に今回のコロナ禍におけるストレスは、これまでのそれとは比べることなどできない、大きな災禍となって私たちに降り掛かり続けています。
ここまで綴ってきた、私のストレスというものに対する持論も、恐らく通用しないだろうと痛感しています。
でも。喩え状況は大きく異なっているとしても。
まずは自分がどれ位のストレスを許容できるかを、主観でも良いから判断して。
仮に破裂寸前にならずとも、「このままだと、何だか危ない気がする」と感じたら、逃げても良いと私は思っています。
自粛自粛と言われていますが、誰も行かなそうな自分だけの場所を探し出して、赴いて自然に触れても良いと思います。
避けようとも避けられない、ストレス。
常に外界だけでなく、自身の中で沸き立つ劣等感や自己嫌悪も、ストレスの一つであると私は考えています。
時には行きどころのないストレスに見舞われても。
ストレスと戦うのではなく、上手く付き合うことを目指すことが、大切なことではないかと、私は思っています。
今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。