【うつ病・価値観】何も言わない強さ 〜答えない勇気〜
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夜通しの夜勤を終え、眠気眼のまま帰路に就いていた時のことでした。
5時を過ぎれば世界は明るくなり始め、夜の街を少しずつ昇り出す太陽が照らし出し始めます。
この時期になると出勤時間には陽光が突き刺さり、暖かみと眩しさを齎します。
ですが、先日の夜勤を終えて高速道路をひた走っていた私と愛車を。
山と空の境目から、明る過ぎるまでの太陽が照らし出しました。
その強さは目が眩む程の、激烈なまでに煌めいていました。
太陽って。こんなに、綺麗だったっけ。
目を半開きにしながら拝む光は、晴れ渡った青空に余りにも美しくて。
ハンドルを握りながら手は疲れていましたが、感情を揺さぶられて言葉を失った、白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
連日投稿している、うつ病について。
積み重なった思いと共に、もう一つ。綴りたいことができました。
うつ病と診断されて、薬やサプリメントが欠かせなくなった身体になってから。
周囲との齟齬だけに留まらず、一見親切心に見える言葉の数々を受けて、一時的には励まされた気持ちであっても。
時が経って独りになった時には、私はいつも落胆して、勝手に落ち込んでばかりいました。
そんな時、いつも思い浮かんでは離れない思いがありました。
どうして、思ってもいない言葉を。愛想笑いと共に、返したんだろう。
今回は、人からの声に応えなければという思いを全身で受けて。考える余裕もないのに、適当な応答や曖昧な言葉を並べてきたことを。
誤魔化したり適当な言葉を並べて、良い子振るかのように振る舞うことが、自分だけでなく、相手をも傷付けかねないこと。
それにより、自分なりに行き着いた「敢えて、何も言わずに答えない」という一つの選択肢を取る勇気と強さについて、綴っていきたいと思います。
※注記※
本記事では罵りや汚らしい雑言が並びます。
私が感じたことに準じて記載して参りますが、この注記を御覧になり不快に感じたり嫌悪を覚える方がいらっしゃいましたら、申し訳ありませんがお引き返し願います。
※注記終了※
うつ病と言えなくても、声を掛けてくれる人たち
会社勤めの身であれば、定期検診やストレスチェックを受けることにより。
指標的ではあれど、自身の身体的・精神的状況を数値化することで、雇い主は雇用者の健康状態を掌握することができます。
例えば、血液検査にてある値が許容値を超えている結果が出た場合。
産業医その他を通じて、生活改善や指導を行うことが、ある程度雇用者に通告することが可能です。
しかし私は、そういった数値化されたデータよりも。
血液検査等を経ても、決して数値化などできない事項に対して、疑問に感じてならないことがあります。
それは、精神的な負担や病についてです。
外見的変化や体内状況を数値化、表面化できないが為に。飽く迄自己申告制であることに、私は長い間疑念を抱いてきました。
この場では簡単に、私の例を上げさせていただきます。
任せられた仕事が上手く捗らない自分と。それに対して、上手くこなしている人たちとを、無意識に重ね合わせてしまって。
私は、どこまでもダメなんだと勝手に比較して、自己嫌悪して。その度に落ち込んで。
落ち込んだ気持ちを少しでも拭わんばかりに、溜め込んだ鬱憤や嫌悪を、独り喫煙室で吹かす煙草の紫煙と共に吐き出してきました。
そのような時でも。愛煙家の先輩が喫煙所に入ってきた途端に。
それまで下を向いてばかりだったはずの私は。先輩の顔色を窺うかのように。
「お疲れ様です」と一言添えながら、自分が抱える本当の思いや感情に対して嘘をついて。
他愛もない話を掛けられたら、それに適当に合わせるようにして、偽りの笑みを浮かべて答える。そんな日々を送ってきました。
声を掛けてくれることは、純粋に嬉しいことでした。
それなのに。
私を放っておいてくれ。
愛想笑いの裏に隠そうとした、自分の本音を悟られないようにしていたにも拘らず。
「どうした白兎、なんかあったのか?」「元気ないじゃん、どうした白兎?」
数十年という長き会社勤めをする先輩たちは、簡単に見破られました。
さり気なくて、温もりを持った言葉は。
時に励まされて、冗談を交えながら笑い合うことも沢山ありました。
嘘偽りで塗り固めていた私には、そんな言葉が似合わない程までに恥ずかしくて、掛けられることさえ烏滸がましいと思う程で。
申し訳ないとすら思い続けてきましたが、それでも。私には純粋に有り難く、何度も救われてきました。
他愛もない言葉や会話。それらが心の安寧を齎すことを、時を経る毎に実感できるようになりつつあります。
言われて刺さった言葉の数々を経て
そういった言葉を受け取って、乱れた心を落ち着かせられてきた一方で。
親切心に見えても、実際に言われて傷だらけの心に突き刺さった言葉も沢山ありました。
実際にインターネットにおいても、うつ病を患った人に対して「こういった言葉はNG」と記載されていることが沢山あります。
その中でも、本記事では落ち込んで項垂れていた私が実際に言われて、身を抉られるような思いをした言葉だけでなく。致命的とまではいかなくても突き刺さって。
心に影を落とすように「知りもしないで……!」と勝手に憎んで。『私のことなんれ、放っておいてくれ』という思いを助長させた言葉を並べていきたいと思います。
一つ目は、「気にし過ぎだ」。「気のせいだ」。
これは主に精神を病んだ時に、念の為報告と相談を兼ねて話をした上司からの言葉でした。
イジメを経験していることで、一層癪に障った謳い文句です。
これらの言葉を掛けられる度に、私は「気のせいだったら、どんなに楽に生きてこられたことか!」と憤りながら虫唾が走って。
話しても無駄だな、と確信した言葉でした。
二つ目は「苦しいのは皆同じだから」「皆辛い思いをしているんだから」。
考え方によっては、周りも辛くて苦しい思いをしているのだから、自分だけが辛い訳ではないんだ……と、堕ちかけている私を救おうと、鼓舞してくれる言葉でさえも。
「頑張れば、乗り越えられる」「今が踏ん張り所だよ」。
一見寄り添ってくれているように思いながらも、人によって違う苦しさや辛さを、一つに纏めようにしていることに。そうすることによって、「お前だけが辛いんじゃない」と強引に押し込まれるかのように諭される言葉は、私には受け入れがたい言葉でした。
誰もが苦しんで、辛いながらも生きていることは、わかる。自分だけが辛い訳ではないことは、わかっているつもりではありました。
でも、全部同じように纏めようとするなよ。
頑なに拒み続け、今でも言われれば嫌悪感を覚える言葉の一つです。
最後は、「頑張れ」「踏ん張れ」。
これまでにない位、頑張りに頑張り抜いて。それでも自分が高みを求めたり、周りから求められたりして。
身体の、心の許容量を超えてしまった為に。精神を蝕まれて、生きる意義そのものを失いかけている人に対して。
頑張れ、という励ましの言葉は。
これ以上頑張れないのに、それでも尚頑張れと鞭打つつもりなのか。
息をして、食べることも眠ることもまともにできない人に、まだ頑張れと言うのか。
そういった思いから、私が「頑張る」という言葉が嫌いになって。使うことも使われることも避けるようになりました。
頷くことも、一つの選択肢
誰しも普遍的で激励の言葉によって、意図的に個人を落ち込ませたり、
掛けられる言葉の数々は、思いやりに満ちていると思います。
しかしながら、私は疑り深いせいか。
善意に溢れた声にさえ。その裏を無意味に勘ぐってしまう癖が、未だ抜けずにいます。
掛けられる言葉や声を真に受けることで。いつも後々後悔して。
答えらしい答えを見つけられないまま、自分はおろか人さえも信じることができなかった私は。
これまで自分が掛けられて、その度に嫌な思いや不快感を覚えてきた言葉。
それを、相手にも掛けないようにすると決意しました。
そうする為に出来ることを探して、模索して。一つの選択肢を、見出すに至りました。
何も言わずにただ頷くこと。適当に答える位なら、相槌を打つこと。
少なからず、人の顔色を伺って生きることしか知らずに来てしまった私には。
端から見れば、本当に聞いているのか。そうする自分に意志はないのか、と問われても。
掛けられた言葉対して、何も言わないこと。わざとらしい言葉を返す位なら、答えないことが、私にできる最大限のことではないかと思い始めています。
しかしながら、現実的にはそういった思いだけでは通用しないことも確かです。
実際に会社にて、明確な意志や考えを持っていないと捉われて。
「ちゃんと聞いてる?」
と吐き捨てられたこともありました。
そんなこともあり、敢えて何も言わなかったり答えを出さないことには、強さと勇気が必要なのだと改めて考えさせられました。
喩え誤解されても、軽蔑されるようなことがあったとしても。
揺るぎない、強い言葉や思いだけが全てではなく。
私は、言葉として答えることが全てではないと思うと共に。
自分を不必要に傷つけるだけでなく。時として、相手を傷付けてしまうようなことがないように。
会話する上での、一つの選択肢の一つとして数えても良いのではないかと、信じています。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。