白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【生き方・HSP】音 ~私を生かす・活かすもの、苦しめるもの~

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 私事となり恐縮ではありますが、お陰様で、間もなくブログを初めて一ヶ月を迎えることができます。

 

 そして、月間PVが中旬前にも拘らず、1000を超えることができ。

 また総合PVも2000という数を超える間際まで来ることができました。

 

 日頃から御閲覧くださる皆様には、深謝いたします。

 これを糧に、これからも駆け抜けて参りたく思います。

 相棒である、愛車Lupusとともに。

 

 今後とも、よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

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 とある日の夕暮れ。自然が気紛れに創り出す美しさ。

 言葉では語れない、神秘の産物。

 

 

 

 三連休の中日。本日は「PSYCHO-PASS」という作品に見入っていた白兎です。

 

 このアニメ作品、漫画が原作らしいのですが……面白く、とても興味深い内容です。

 私がブログで綴り続けている、真理や精神、人間らしさや社会に対する疑問、疑念。そして葛藤。

 とても上手く、深く表現している作品です。

 詳細はネタバレを避ける形で、別記事に起こせればと思っています。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 

 話は変わりますが、今回はということについて綴っていきたいと思います。

 

 世界中に発生して、溢れている、音。

 雪が降り積もる、微か過ぎる音から始まり、工事現場の大きな掘削音、花火が炸裂する大音響。

 私たちヒトが発する心臓の鼓動、歩く度に生まれる靴音、そして言葉を声として外界に出す、音。

 様々な楽器や歌声を組み合わせて出来上がる、音楽。

 その逆で、異なりすぎる音が積み上がって生まれ得る、不協和音。

 これら全てが、

 

 

 私は、HSP自認、その中でも音(聴覚)と言うものに敏感です。

 以前上げた、HSPという記事よりも、音というものについて更に深堀りしていきたいと思います。

 

 HSPについては、こちらで言及しています。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 それでは、改めて、始めて参ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 聴覚、耳

 

 

 幼少期の私が、聴覚以前に耳の調子がとても悪い子供でした。

 鼻自体も鼻水が溜まりやすかった当時は、鼻をすすり過ぎたり、かみ過ぎただけでも、中耳炎をしょっちゅう患ってばかりいました。

 

 私自身の記憶としては曖昧ではありますが、特に6歳の時。

 滲出性中耳炎という病気を患い、耳鼻科に半年以上通い続けたそうです。

 これは鼓膜の奥にある中耳という部分に液体が溜まり、耳が聞こえにくくなるという病気です。

 その治療に伴う苦痛や痛みの記憶は朧気過ぎて思い出すことは叶いませんが、母曰く、相当大変だったそうです。

 6歳の子供が、専門医に色々聞かれても、自分の症状を的確に言えるはずがない。

 事実、私も色々聞かれて、答えられなくて……主治医の訝しげで、怖い顔だったという記憶しかありません。

 母は私のことについて説明しようとしたようですが、「貴女に聞いているのではない」と一蹴されたとのことです。

 

 今思えば、ただのヤブ医者。

 

 話は別となりますが、私は保育園の年長期。右肘を脱臼しました。

 その時は関節が外れたという自覚はなく、ただ「あれ?腕動かないや、なんでだろ?」とある意味楽観的な思考でいました。

 肘が脱臼しているので、上腕を繋げるのは筋肉と筋だけ。自分では気になりませんでしたが、右腕が異様にグネグネしているという異様な光景だったのでしょう。

 それでも違和感はないまま、昼食時に利き腕である右手が使えない為、左腕で不器用ながらも食べているという違和を感じた先生が異変に気づき、大急ぎで接骨院に連れて行かれたこともあります。

 

 そんな、自分の状況すら把握すらできない幼児に、聴覚についてあれこれ聞かれても答えられるはずがない。

 今の医学、基お医者さんは……どういう対応をするのでしょうか?

 

 それはともかく、私は耳や鼻に劣等感すら 抱いていました。

 もっと耳が健全で、鼻も普通であったら。

 そんな羨望に似た思いを抱き続けた思いだけは、はっきり覚えています。

 

 今思えば、そんな出来事が私に聴覚というものをより一層意識付けたのではないか、と勝手ながら思っています。

 

 

 

 

 外界を知る為に必要な、五感

 

 

 人間が持つ五感。それは外界からの情報を得て、自分がどのように解釈し、行動するか。

 その割合は人の差はありますが。

 約八割が、視覚。目に見える情報から得ているというデータがあるみたいです。

 言われれば、確かにと思わざるを得ません。

 外界を知る上で、脳が視覚から得た情報を処理して映し出すもの。それが目で見たものであり、ある意味で直感的に普遍的であるか否か、普遍的かそうでないか。

 平常か、異常であるか。

 言い方は荒くなりますが、てっとり早く判断できるのが視覚が最も適していると考えれば、特別不可思議なことはありません。

 

 また別の論では、嗅覚だけは、脳に直結しているとも言われています。

 見た目や音、即ち視覚や聴覚は、情報を得て、それから脳が処理する、という過程をを踏まないと行動に移せないそうです。

 五感から得た情報を元に行動に移行するまで。ヒトという生き物は脳が発達しているが故、その処理速度はコンマ数秒という、知覚することさえ難しい次元の世界になるかと思っています。

 その中でも嗅覚は、脳にダイレクトに情報を伝え、生存本能に近い行動を身体に求めると言われています。

 例えば、買ったいいが放置していた肉の包装を解いた瞬間、腐敗臭を漂わせた。

 或いは、開封後暫く放置した牛乳が仄かな匂いではなく、見た目ではわからなくとも、豹変しかけている異臭を放っていた。

 そんな時、ヒトはあれこれ考えるまでもなく「これは危ない」と直感的判断を下し、近付くな、すぐに廃棄しろと直接行動させると言われています。

 事実、私も下宿時代に経験しました。即刻、腐りかけの食材を臭いという判断の元、廃棄しました。

 

 

 さて、今現在の私というと。

 遺伝からか、左目だけ強烈な乱視かつ微妙な遠視気味で、右目は近視という歪極まりない偏りを持っています。

 それ故、眼鏡が必須です。矯正なしに、私には視覚から得られる情報は頼れず、生活すること自体に支障を来しています。

 一方、鼻や耳の調子の悪さが昔より改善しています。味覚や触覚は測る元がありませんが……。

 

 

 

 聴覚から得るものが、私を生かし・活かし、苦しめる

 

 

 幼い頃は、医者に通い嫌な経験をしながら。

 

 今では、聴覚というものが私にはなくてはならない感覚となっています。

 特別意識している、という訳ではありません。

 

 音というものから得られる情報を視覚並に。

 否、それ以上の外界からの情報を得、処理することに特化したもの。

 こればかりは、否応なしに生まれ持って得たものなんだろう、と思っています。

 

 

 

 

 音が齎す、苦しみ

 

 

 HSPの記事でも述べましたが、まず私は、唐突の大音響が大の苦手です。

 

 花火が炸裂する音や、爆竹が爆ぜる音。雷光の後から来る、壁をも震わせる雷鳴。

 私からすれば、恐怖や不安を煽るものでしかありません。本当に、今でも怖さを感じます。

 直接的な害でないのはないことは、頭ではわかっているつもりなのに。

 聞くだけで、「死」という言葉が脳裏を過るほどです。

 

 大げさかもしれませんが、本当にそう感じるのです。

 

 

 それだけでなく、「気のせいじゃない?」と言われることさえある、微細で些細な音さえ反応します。

 震度1にも満たない地震による家の軋み、遥か遠くから聞こえてくる救急車のサイレン、世界が寝静まった深夜に微かに聞こえてくる人の声や物音。

 

 そこには死という概念こそ思い浮かびませんでしたが、脳裏を過ぎっても尚、こびり着く。

 怖さ、と言うのが最適かもしれません。

 

 日常生活でも聞き流せば良い雑音や、特別気にする必要のない雑踏や、自分には関係のない会話。子供がはしゃぐ声や赤ん坊が泣く声。

 

 私には、全て苦痛に変換されて脳へと送られてきます。

 その度に、体力や気力は容赦なく削り取られてしまう。

 

 更に、幸か不幸か。

 苦い経験をした時の記憶。

 状況や空気は朧気ながらも。

 

 その時聞いた音や言葉、声色。

 今でも鮮明に、全て記憶として残っています。

 

 私の場合は、イジメに合った時に殊更大きな傷を残した場面の数だけ。

 顔や名前はぼやけているのに。

 その時聞いた言葉、声色。

 全て記憶しています。

 一字一句、とまでは言えないながらも、概ねは記憶しています。

 

 変な言い方になるかと思います、が。

 

 「貴方はあの時、こう言ったよね?覚えてないかもしれないけど」

 「忘れたかもしれないけれど、貴方が言ったこと……全部、覚えてる」

 

 狂人と思う方もいても仕方がありません。

 が、事実です。音や声に関しては、嫌気が差す程鮮明に、私は記憶しています。

 無意識であるかどうかなんて、どうでもいいと思える程に。

 

 挙げ句に、本来は削られたフィジカルやメンタルを回復する為の睡眠が、いつの間にか、私には心地好いものではなくなっていました。

 眠りの入りが悪くなり続け、中途覚醒(睡眠の途中でも起きてしまう)が酷くなり。

 寝床に入っても、眠りに入ることさえできず、仮に意識が飛んだとしても、一時間置きには起きてしまいます。

 ただ、身体を横にしたまま、意識が。脳だけが現実を見続けている。

 体力も精神も。回復や調整もままならない状態が続くことは、とてつもない、果てしない苦でしかありません。

 その為、今では眠剤は欠かすことが出来ず、さらには聴覚から入る情報を遮断する為の耳栓がなくてはならないものとなっています。

 

 敏感という言葉いするだけでは、私からすれば、残酷な程。

 聴覚から入る音という情報は、私を苛み続けています。

 

 

 

 

 音が齎す大切なもの

 

 

 今までだったら、悪いことばかりに目が行き、どうにかして治したいという思いに刈られていたと思います。

 ですが、物事は表裏があるように、悪いことも良いこともあるということに、気付くことができました。

 十数年という、少し遅すぎる位に。

 

 

 一番は、人の声色からその人が抱えている感情だけでなく、何かしらの思いのようなものを感じ取ることができることです。

 感情が変化すれば、自然と声の波長や抑揚、口調が変化します。それに伴って、表情や背格好、目線、瞳の動きも変わってきます。

 それを、なんとなく声を聞いただけで、「何かあったのかな」と感じ取る。こればかりは、確証や理論立てて説明がつけられません。

 私が思うに、その人それぞれの平常時の声色や口調を、無意識的に記憶しているからではないか、と憶測しています。

 

 無意識的に記録した音と、現実のそれと照らし合わせ、差異を見つけだす。

 

 これによって、体調の変化(風邪等による具合の悪さ)だけでなく、精神的に何か抱えてしまっている可能性を把握できます。

 

 ただ、どストレートに「何かありましたか?」と聞くような真似はいたしません。

 

 飽く迄、相手が切り出すまで、待つことに徹するように心がけています。

 何故なら、私が声色から感じ取ったものは「私の感覚」以外の何ものでもない。

 その感覚が、その人が抱える「何か」と必ずしも一致するとは限らないから。

 

 逆に言えば、それがあるからこそ傾聴に徹することができるのではないか、と勝手に推測しています。

 自覚がなかったのに、人から相談を受けることが多かった理由。

 今なら、ただなんとなくですが、わかってきた気がしています。

 

 

 声以外にも、クルマの音でも何かを感じることがあります。

 メンテナンスが十分でない車両は、必ず何かしらの異音を発します。純正マフラーにも拘らず大音響をだしていたり、ガラガラした音やシュルシュルといった滑るような音。

 

 このことで救われたことが、実際にあります。

 会社の車に乗って移動中。ハイブリッド車なのに、モーターからエンジンに駆動力が変化する際。通常は違和感なく繋がります。

 ところが、その時の車は何故か「キュッ!」という、悲鳴にも似た音を繰り返していました。

 これは、マズそうだな、と思った矢先。

 

 オートマチック車ではほぼ起こり得ない、エンジンストール。エンジンが完全停止し、交差点の真ん中にも拘らず発進もままならなくなってしまいました。

 幸いエンジン再始動で事なきを得ましたが、修理に出した結果。

 

 エンジンも、モーターからも、ハイブリッド車用のバッテリーにも異常なし。

 問題が起こっていた所は、オートマチック制御部の故障。

 意外過ぎて、重大な事故に繋がりかねない状態でした。

 他の社有車でもハイブリッド車はありましたが、奇妙な音を立てた車はその一台だけでした。

 

 いつもの音と、何か違う。

 

 音という形で故障の兆しを知らせてくれた、私の一事例です。

 

 

 

 音感

 

 

 これは少し論点からずれるかもしれません。

 私は幼少期より、ピアノを始めとした楽器を演奏することはおろか、触ったことさえありません。

 その為、楽譜を全く読むことが全くできません。譜面という紙の上に、オタマジャクシは沢山並んでいる……その程度の認識しかできません。

 

 よって、例えば「レ」という音を出されたところで、それを的確に「レの音」と答えられません。定義された音の波長を、そもそも知らないからです。

 

 しかし。こんなことがありました。

 高校の時、音楽の授業で「グループを作って演奏する」という課題が与えられました。

 私はとんでもなく動揺しました。

 楽譜を渡されても、全くわからない。

 音符という記号が並んだ譜面を読み解いて、音程を理解し、それを的確に演奏することができなかった為です。

 当然、ピアノ経験者に聞いたところで理解は追いつかない。どうすれば……と途方に来れていた時でした。

 グループを組んだ一人から、こう言われました。

 

「白兎(実名)さんは、楽譜見ないでボーカルの音程ってわかるかな?」

 

 その言葉がきっかけでした。

 演奏する曲は、幸いながら私も知っている曲でした。

 楽譜が読めない私は、ボーカルの歌声を、実際に鍵盤に合わせていく手法。

 今で言うなら、耳コピでしょうか。

 

 どの鍵盤がどの音を出すのかさえわからないながらも、鍵盤を押して「ん。違う」「半音、ずれてる?」「あ、この音で間違いない」。

 音符も記号も、理解できない私には意味を成さない。

 楽譜という決定的なものを理解できない私にとって唯一、頼りになるもの。

 

 実際の曲と鍵盤が出す音を一致させる。

 楽器が出す音と、一度記憶した音程とを合致させる。それしか、私にはできませんでした。

 鍵盤を押しては、合っているか否かを判断。加えてリズムを完璧に一致させる。

 試行錯誤の連続でした。楽譜が読めないという、音楽ではあり得ない程、大きなハンデを持った私。グループの人はそんな私を受け入れてくれて、練習も重ねに重ねました。

 

 その結末は。

 指一本でしか押せない鍵盤を、自分が記憶・記録した音とリズムだけを頼りに演奏しました。

 他の生徒が目の前に楽譜を置くのが当たり前の中、私は一人、視覚を遮断し聴覚に集中する為に目を瞑りながら挑むという異様な光景に映っていたかと思います。

 

 なんとか、課題を完遂することができました。

 前もって、グループに人間だけでなく、同じ授業を受ける生徒には、楽譜が読めないと伝えてはいました。

 演奏し終えた周りからは「目、瞑ってたよね?」「楽譜もないのに、どうやって?」「演奏するのに、一人だけ必死だったね」

 褒め言葉や冷やかしはありながら。

 

 音というものを、私は無自覚で、無意識ながらも。

 いつの間にか記憶し、記録し。それを不器用ながらでも、再現できる。

 

 そう実感した瞬間でした。

 

 

 この経験は、今でも私を活かすものとなっています。

 趣味とまではいかないまでも、誘われればニコニコと連いていくようになった、カラオケ。

 

 良いか悪いかは抜きとして、私は原曲キーでなければ歌うことができません。

 キーを上げ下げして、自分が出せる声に調整して歌うことができる人も沢山いらっしゃると思っています。

 本音を言えば、羨ましく思えます。

 反面、私は少しでも音程やリズムが変わった途端、歌うことができなくなります。

 カラオケの機械が調整するだけでなく、自分が出した声が、自ずと記憶している音と少しでも狂いが生じた途端、止まってしまいます。

 

 楽譜はおろか、音符さえ今でもわからない私には、世間で言う「絶対音感」や「相対音感」というものはわかりません。

 然れど、私が言えることは一つ。

 聴覚から入った、音という情報を、無意識に記憶し、記録している。

 ただ純粋に、今はそう思っています。

 奢ることや卑下することは、二の次です。

 

 

 体調変化にも用いています

 

 

 私自身不可思議にさえ思う、聴覚からの刺激に対する反応。

 今は自分の体調管理に使うようにさえなっています。

 

 極度に疲弊している、と自覚している時。

 その時聞く音楽は、普段より半音低く聞こえます。

 

 また、休日を間近にして半ばリラックスモードに入りかけている時。

 この時は、テンポが遅く聞こえてきます。

 

 

 そんな時の私は、とてつもなく強い違和感を抱きます。

 「あれ、音がズレてる?」「テンポが、何だかゆっくりだ」

 

 逆手に取る、と言える程のものではありませんが。

 そう感じる時は、精神的に何かしらの影響が出ている。

 良くも、悪くも。

 

 視覚から得る情報以上に、聴覚は、私と密接なんだ。

 そう、思えてならないのです。

 

 

 

 

 才能でも、天性でも、そんなもの誇れるものではないけれど

 

 

 経験談を用いて綴って参りました、音というものに対する私は。

 単純に敏感なだけで、殊更自慢できるようなことではありません。

 

 一つ、申し上げることができるとするならば。

 

 

 聴覚が伝える音という情報。そこから脳へと、精神へ伝えるもの。

 それ自体を変えることは出来なくても、解釈次第では、強みにも弱みにもなる。

 視覚からの情報が大半を占める人間という生き物のなかで、音を重視し、大切にしている人間も、少ないかもしれないが、確かに存在する。

 

 

 視覚から得られるものに制限が掛かっている私だけでなく。

 

 

 音とというものに苛まれ、苦しみ。

 他のヒトと、違うと思う方がいるのであれば。

 

 

 それは、異常でもなんでもない。

 

 生まれ持ち得たもの。

 変えることはできない。ですが。

 

 自身を生かし・活かすか、それとも苦しみ、悩むものになるか。

 

 音というものに悩まされながらも、活かす可能性を見出すことが幸いにもできた私ですが。

 

 貴方にも、必ずできる。拒むことを選択しない限り。

 

 

 

 7500字オーバー……相変わらず、纏め下手な白兎です。

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。