【HSP】過敏さを盾にする ~言い訳には、したくない~
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三寒四温、という言葉があります。
本来は中国大陸や朝鮮半島で起こる、寒い人暖かい日が7日間ごとに繰り返される気候の事を指し、それが日本にも渡ってきたと言われています。
日本でそのようなことは稀ではありますが、2月の終わりから3月に使われる、冬の言葉としてすっかり定着しました。
冬なのに妙に暖かくなったかと思ったたら、急に寒い日に戻る。
似たような言葉では、寒の戻りというものがあります。
そういった春と冬を行ったり来たりする不安定さを乗り越えて、ようやく春を迎えるとされています。
今週はまた寒い日が続く予報となっておりますが、気温差による体調の崩れに気を付きながら、暖かい日々の訪れを待ち望んでいる、白兎です。
皆様、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
これまで本ブログでは、HSPに関する記事を多く取り上げて参りました。
改めて、私と同じように生きることに対する違和感や生き辛さを感じていらっしゃる方が沢山いらっしゃると思うと共に。
自分だけでは、なかった。
そう共感し合えるような記事を上げられたことを、勝手ながら喜ばしく思うとともに、感謝しております。
ですがやはり、現実でそういったことを表現し、理解を求めることはとても難しいと私は思っています。
今回は、そんな思いや経験から。
個々人で差のあるHSPという性質を何気なくとも把握して。
その上で周りと付き合っていく為に、私なりに実践してきたことについて、綴っていきたいと思います。
- HSPという言葉だけでも、無限と言える情報が転がる現代
- 私が考えるHSP
- HSPと訴えても、理解されることは少ない
- HSPの性質を、伝える言葉や言い回しを変えれば
- 生まれ持ったHSPを、「そういう人間もいる」と言える日が来ることを願って
HSPという言葉だけでも、無限と言える情報が転がる現代
今となっては情報の宝庫と化した、インターネットやSNS。
例えば「HSP」というキーワードを元にして検索を掛ければ、一般的視点から見た「HSP」を記述したものや、実際にHSPを自認されている方の経験談。
それだけでなく、「HSP」という気質を持つか否かを簡単に診断できるものや、どうすれば世の中を上手く渡っていけるかという助言を綴っているサイトまであります。
「HSP」というものを知りたい。或いは自分が「HSP」なのかもしれないという思いから検索を試みる現実よりも、それ以上の数多の情報が先走っているとさえ感じます。
あらゆる情報が錯綜する中で、私が思うことは、唯一つです。
それは「自分が本当に知りたいものは何であるか」を見極めることであることです。
私の場合を申し上げますと。
昔から刺激に、特に「音」に敏感で。
それ以外の五感や、本来あり得ないとさえ言われる「第六感」とも呼べる、周りの空気や雰囲気を読み取り感じ取る。
人よりも多くのことを感じる敏感さを持っているが為に、周囲の、特に「一般的」と呼ばれる生き方に対して違和感を覚えたり、生き辛さを感じたりしてきました。
現実で私が感じるものを比べ、情報の海であるインターネットから仕入れた知識や考えを取り入れた「つもり」で対処することは、不可能でした。
誰かが必死に訴えかけるように綴った言葉や文字の羅列。それが如何に素晴らしいものであったとしても。
私の経験上、少しでも自らに落とし込むことができなければ、何の意味も成しませんでした。
自分以外の誰かが発信する情報は、助けになったり参考になることはあっても、全部が全部正しくて、全くその通りにしても救われることはありません。
私が考えるHSP
とは言え、インターネット上の情報は全く役に立たない訳では、決して申し上げません。
飽く迄調べたことに対することの「切っ掛け」とする。
もしくは数多くの情報から「これは自分に当てはまる」事柄を見つけ出して。
拾い上げていって、自分なりの考えとして構築する材料にする為には、貴重なものとなると思っています。
私もその一人で、「HSP」というものを調べに調べていって。
「世間的に定義される」というものは、敢えて排除して。
自分が納得し、腑に落ちたものを取り行ってきました。
本ブログでもHSPのというものの「一応の」定義を述べましたが、実際の私は然程重視していません。
何故なら、定義に当てはまろうがそうでなかろうが、現実で生き辛いと感じ苦しんでいる自分がいることに変わりはないこと。
それを下手に一般論を当てはめようとして「そうは言われても、何か違う気がする」と少しでも思うのであれば。
多少ズレていたって、少しでも当てはまるのなら、参考程度に取り入れても良いんじゃないかな。
迷いに迷って、自分を疑いながらも。
そう思うようになって、私は自分なりの「HSP」というものを定義を見出しました。
HSPは、人の持つ五感の内どれかから、或いは複数からの刺激に敏感で。
加えて第六感的な「場の空気や雰囲気を無意識的に読み取ってしまう」故に、深く考えて処理以前に、頭が混乱して怖じ気付いてしまう。
それが、生き辛さに繋がっている。
正解や間違いといった正否ではなく。
自分が喩え少しであっても納得できて、受け入れられるように、如何に咀嚼して反芻して、自分なりの指標とできるか。
たった一つの「HSP」という言葉であっても、解釈や受け入れ方は沢山ある中で、私はそうやって納得を重ねに重ねて、ようやく自分なりの答えを見つけることができました。
しかし、悩みに悩んで。苦しんで導き出した答えは。
現実には必ずしも通用はしませんでした。
HSPと訴えても、理解されることは少ない
苦労を重ねて、「HSP」というものを自分なりに解釈して、理解して上で。
実際にそれを現実世界で訴えとしたら……どうなるでしょうか。
先程の私の例を用いるとするならば、このような訴え方になるかと思います。
「私は五感からの、特に耳から入ってくる情報に反応し過ぎるんです。それに会議のような重い空気って、苦手です。もう、頭がパニックになってしまって……辛いんです」
もしそのようにして誰かに申されたら、貴方はその人を理解、もしくは許容することはできるでしょうか。
当事者はともかく、精神科医やカウンセラーでも、HSPという性質を理解すること、それだけに留まらず診断することはほぼ不可能と言われています。
身体の病気とは違って、目に見えた外見的変化や血液検査等から導き出される数値として計れるようなものではないだけななく。
「明らかに意気消沈していて、集中力を欠いていて些細なミスが増えた」だけでなく。
「声掛け等による情動反応が希薄であったり、どこかで「会社へ行きたくない」「死にたい」という危険信号を発している」という、私も患っている精神疾患の兆候が見られる。
そういった指標では、決して判断したり決めつけたりすることはできません。
HSPは、病気ではありません。
生まれて持ち得た、先天的気質です。
当人でさえ気付くことも難しい中、非HSPが圧倒的多数を占める現代でHSPの生き辛さや苦しさを叫んで、喚いて。理解や助けを求めても。
限界があり、無理にも程があります。
下手をすれば、「こいつはおかしい」と異端扱いされることもあり得ます。
私もHSPというものを知り、最初は打ち明けることもできずに、「こんな気質なんか持たずに、普通の人として生きられれば」と悲嘆し、時には絶望すらしました。
どうして、わかってもらえないんだろう。
HSPというものを自覚して、悩んで苦しんで。時には、寝床について枕で涙することさえありました。
でも、逆に言えば。
始めから無条件で「わかってもらいたい」一心で突撃するような姿勢を取られれば、誰しも回避するのが普通なのではないかと思い直し始めました。
極端な言い方をすれば、目の前にたまたま行き合った人に「私を受け入れて!」といきなりハグを求められるようなものです。
嫌ですよね、そんなの。私も嫌です。
そんな変質者を見る目で見られないようにするなら。
申し出る方法や出方さえ変えられれば、周りに自分の気質を伝えられるかもしれないと思うようにない始めて。
HSPという気質を、敏感さを盾にして、明らかに周りの刺激から逃げるように言い訳しなければ、何とかなるかもしれないと、いつしか思い始めていました。
寧ろ、「個性」という形で自分を示すことができるかもしれないと薄々感じていました。
HSPの性質を、伝える言葉や言い回しを変えれば
例えば、私の場合になりますが。
周囲の音や声が、どうしても気になって仕方がなくなります。
現実では、お酒の勢いや場の空気に任せて声色が大きくなったり、四方八方から言葉が飛び交う会社の飲み会が、私にとってとても苦手なものでした。
入社したての頃は、「新入社員だし、若手だし……」と半ば我慢する形で参加しておりましたが。
上層部のお偉い様が来るような、接待的な飲みの場を筆頭として。
月一で開催される担当内の飲み会でさえ、「お酒を飲んで楽しむ」以上に、上司や先輩たちの「パチンコ屋レベルの騒音」とも言える言葉のやり取り、盛り上がりに。
次第に辟易していくと同時に、我慢では済まされない辛さを募らせ始めていました。
そして、ある時。
飲み会に参加しない私に、とある先輩が「なんだ、出ないのか?」と首を傾げてきた時でした。
「あ、その……すみません。魚介類が食べられないのと、賑やかな雰囲気がちょっと苦手で。飲み会が終わった後、疲れてしまうので、今回は欠席しようって思って」
HSPの気質を直接的ではなく、「耳から入ってくる情報に錯乱する」ということを関節的に伝えた結果。
「そうか、まあ無理は良くないからな。また今度な」
一瞬残念そうな顔を見たような気もしましたが。
そうやって返してくれる人がいることを。
自分を削るようにして我慢するようなことをしなくても、わかってくれる人も、空気があることを知りました。
処世術、と言い換えられるかもしれません。
極論になりますが、参加しなければ死に直結するような場でもなければ。
自分という対価を払ってまで、周りに合わせる必要は無いことを自覚できたと共に。
HSPを、刺激に対する過敏さを直接的に盾として。
直接的な言い訳としたくないと、思えるようにすらなりました。
生まれ持ったHSPを、「そういう人間もいる」と言える日が来ることを願って
薄々感じつつも、中々言えずに悩んで、苦しむ。
HSPという、望んでもいないのに得てしまったもの。
文章や言葉として書くには、あまりにも簡単なことなのかもしれません。
ですが、実際はインターネット上に多数載っている記事以上に、辛いものです。
私もできるのであれば、HSPなんて気質。捨て去りたいと何度も願っていました。
ですが。持ち得てしまったものを捨て去ることは、不可能です。
仮にできるとするなら、それは自分という存在を否定することに繋がります。
なら、できることは少ないながらも。
刺激に過敏で生きることさえ辛いことを自分なりに解釈した上で。
直接的ではなく、間接的に周りに伝えること。
HSPを自覚し、自認する私たちが今できることは、そうやって上手く立ち回ることではないでしょうか。
私自身は、このような卑下するようなやり方が全てではないと思っています。
いつの日か、胸を張って。
過敏さを直接的な言い訳にするよりも、本当に苦手とすることをきちんと話して。
そうではない人たちと相互的に理解し合って、互いを尊重し合える日が来ることを願っています。
頭ごなしに、そんなことは理想郷。
そんなもの不可能だと言われようとも。
協調や謙遜を良しとしてきた、日本の文化。それが、全て正しい訳ではないことを。
少なくとも、それに馴染めず悩み生き辛さを感じている人も少なからずいることを知って貰える時が来る日を、私は目指したいと思うと共に、叶うと信じています。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。