白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【HSS・HSP】ソーシャルディスタンスと在宅勤務 ~覆る常識~

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 5月に入り、いきなり暑くなりました。夏日を超えた場所も、100箇所を超えたとの情報もあります。

 

 雲もなく晴れ渡った、どこまでも続く青空。

 コロナ禍でなければ、これ以上ない程のドライブ日和なのに。

 早急には難しくても、少しでも早くこの異常事態が収まることを願っている、白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 娯楽目的の外出は自粛継続される中、食料品や日用品といった生活必需品。これらを購入する為に、どうしても外出しなければなりません。

 そこで、ウイルス感染防止の観点から、それまで聞き慣れなかった言葉が出てきています。

 

 ソーシャルディスタンス。日本語では「社会的距離」の意味を持つ言葉。

 

 コンビニやスーパーでもその一環として、レジに並ぶ際の距離を確保する為に、停止線のような線が張られるようになりました。

 会社でも同じように、普段よりも席の間隔を空ける目的に座席の移動して人との距離を物理的に取る施策が推し進められています。

 

 そして、会社では更に在宅勤務を要請し。通勤途中や社内での接触を完全に断ち切りながら事業運営、社会的貢献に努めようとしています。

 

 これは、コロナ禍に至る以前では常識とされてきたことが。

 覆ろうとしていると思えてなりません。

 

 何故なら、常識という縛りが。

 HSPである私には、違和感だらけだったからです。

 

 

 今回は、未曾有の災禍を齎し尚蔓延る新型コロナウイルスにより、感染しないことを最大の目的として広まり始めているソーシャルディスタンスや在宅勤務が。

 これまで日本の常識と化してきた生活や仕事のやり方を、大きく覆そうとしていることについて。

 常識というシガラミがHSPを自負する私には苦痛や違和感を覚えていた経験を交えながら、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 違和感塗れだった、生活での常識

 

 今や常識やマナーと呼ばれるものは、死後と化しているように思います。

 多様化や個性を優先しようとする時代の風潮から、それまで「普通」と呼ばれる概念が崩れて。普通というものがどんなものであるのか曖昧になってしまい、良くも悪くも受け取る個人に委ねられているように思えるからです。

 常識やマナーとされてきたものも、この「普通」という言葉がまかり通っていたからこそ、声を大にして掲げることができていたのだと思っています。

 

 しかしながら、表向きには消えかかっている中でも。

 常識という、ヒトとして生きる上での「当たり前」とされる考え方や行動は、私たちの頭や心から離れることなく残り続けています。

 

 買い物をする、という例一つでも、沢山の常識が隠れています。

 買いたい商品をカゴに入れて、会計を済ませる為には必ずレジを通ります。レジの数には限界がある為、必ず並ぶという行動が発生します。

 

 ここで、物凄く不快感を覚えてきました。

 

 店内が余程狭ければ仕方がないとしても。大半のスーパーは敷地的にも余裕があるにも拘らず。

 

 どうして、そんなにベッタベタに張り付くように並ぶんだい?

 

 一歩でも出したら確実に当たるような距離でも、人によっては更に踏み込むようにしてくっついて並ぼうとする方もいます。

 私は人との距離が近すぎると不快感が比例して増していくので、自分では人二人分程度の距離を空けるようにしています。

 にも拘らず、後ろから気配を感じるどころか。買い物カゴが膝裏や脹脛に当たるまで近接する方もいます。

 別に誰から「もっとお詰めください」と言われた訳でもないのに。

 近接状態を嫌って前に出ても。にじり寄るかのように、まだ詰めてくる。

 

 視界だけでなく、体温や匂い、音にも敏感な私には。

 近過ぎる距離は、苦痛で不快でしかありません。

 

 また、そういった時でも拘らず。

 大声で喋る小父様小母様。待ち切れなくなったのか、時には金切り声のような声を出す子ども。

 

 いい加減にしろ、と吼えたくなる程でした。

 

 最悪、不快感の限界を超えた時には。

 全部嫌になったかのように、その場から離脱して。商品を全部棚に戻して帰るという、端から見ればこちらが異常行動と見られるようなこともしたこともありました。

 

 それ位、物理的に近寄られることは。私には耐え難いものでした。

 

 

 

 

 会社の常識も、違和感しかなかった

 

 

 会社でも形は違えど、通例や風習といったものが残り香を放ちながら、常識というものを残しているかのように思い続けていました。

 

 無断欠勤や就業開始に遅刻することは、特別なことがなければこの際、論外といたします。

 それでも尚、社内での行動に「誰も何とも思わないのか?」と疑問符を持つことは沢山ありました。

 

 まず、日本の就業規則は、基本的に就業時間内は仕事に向き合い続けることを半ば強制されています。

 担当している業務や雇用形態が違うのは明白なのに。

 

 何故、同じ時間を一緒にしなければならないのだろう。

 

 例えば会議といった、決められた時間に用意されたものに参加するような時なら仕方がないとして。

 

 会議という名目で、結論の出ない無駄な時間を会議というのも、私としては無意味と思いますが。

 

 忙しい時間やある程度余裕ができる時間は。社員一人ひとりで、違っていると思っています。

 なのにどうして、同じ時間に仕事を始めて。同じ時間に昼休憩を取って。終わるか終わらないかの瀬戸際の仕事を抱えている社員でも、そうでない社員でも、同じ時間に帰るように促されなければならないのか。

 私には、今も納得できずにいます。

 

 東京勤務時の私は、自分がギッチギチに仕事を埋められて余裕を失っていた傍らで。

 本社の出世コースの社員や、社員の上に立つお偉い方々は、雑談に耽ってました。

 キーボードをひたすら叩き続ける私は。行きどころのない怒りのような感情をぶつけるかのようでした。

 

 そんな思いをしてまで会社に縛られる理由が、私にはどうやっても理解できませんでしたし、理解したいとも思わなくなりました。

 

 規則、と言われればそれまでになってしまいますが。

 現実問題として、日本は先進国の中でも時間あたりの生産性が何十年も最下位という結果が出ていることも、また事実です。

 

 それはともかくとして。

 

 常識という言葉を掲げて。それを逸した者は、排他される存在と見做される。

 古き良き時代、と呼ばれる頃から慣習化されたそういった思想が、未だに深く根付いているのではないか。

 

 被害者振るつもりはないにせよ。

 生きることに違和感や不快感を抱いてき続けた私のような人間が。イジメられたり、他者の助けもなく勝手に精神を病んだのは、ある意味常識を前にすれば必然だったのかもしれない、と思い始めています。

 

 

 

 ソーシャルディスタンスや在宅勤務で、得られる安心感

 

 

  そんな中で、唐突に国単位でなく。世界で、人種を超えた人間という生き物が窮地に追むようにして出現した、新型コロナウイルスは。

 亡くなられた方だけでなく、罹患し闘病されている方々には無礼であると承知の上でも、申し上げたいことがあります。

 

 少なくとも、これまでの生活習慣に影響を及ぼしたことは、事実であると思っています。

 

 

 誰に言われることもなく、会計を終えるまで列を作り。その距離を詰めることで、割り込みを抑制してきた行為。

 これは日本という国が。専ら日本人が「列を成していたら、最後に並ぶ」という無意識的な概念が浸透しているからこそ、成立していると言われています。

 諸外国ではそういった考えは薄いようで、割り込むようなことがあっても誰かに注意されない限りは無意識の内に列を無視してしまう、という報告もあるそうです。

 

 それを秩序、と呼ぶ人もいるかと思います。

 

 ですが秩序と一括にされる行為に対して、不快さや違和を持つ人もいます。それ故に苦痛や生き辛さを抱え続けてきた人もいます。

 

 そこで登場した、ソーシャルディスタンスという考え方は。

 私のような人との距離感を上手く掴めずに感覚と感情だけが暴走する人間には、新型コロナウイルス感染防止という大名目だけでなく、大きな安心感を齎すものとなっています。

 

 私が自負するHSPを始め、人の感情や思いを感じ取り、それがあたかも自分のものであるかのようにさえ思えて。

 自分が本来持つ考えや意志を、いとも簡単に侵食されてしまう人間からすれば。

 人との物理的距離を離そうとする考えや思惑は、個人的には物凄く有り難いものです。

 

 また在宅勤務というものも、フェイス・トゥ・フェイスを基本にしてきたこれまでの仕事のあり方という観点から見れば。物理的な接触を絶ちながら仕事を続けることを証明しつつあります。

 

 相手とのやり取りが口頭を始めとした面向かいではなく、電話やメールといった手段に限られてしまうことは、業務をこなす上では確かに弊害になります。

 

 社内システムを管理し在宅勤務にも一番手として駆り出された私に、問い合わせの電話が鳴り止むことはほとんどなく、通常勤務とは異なる疲れを感じているのも確かです。

 

 

 

 今に違和感を持つ人。今までに違和感を持っていた人

 

 

 

 然れど私は、こう思います。

 

 喩え寄り添う形でなくても。相手の顔色や仕草は見えなくても。

 こなせる業務は、確実に存在する。

 

 仕事に従事する方々の出社率を削減。その為に在宅勤務を推し進めようとする。

 理解はできますが、目的と手段を履き違えているように思えてなりません。

 

 

 これは私の勝手な思いになりますが。

 可能な限り、といった曖昧な表現ではなく。在宅勤務で賄える業種や業務を担う人々にはより積極的な働きかけを続けながら。

 それができない方々には、できないだけの理由があることを十分に理解した上で。激励という精神論で終わらせるのではなく、或いは別の方法で支援していく施策を模索する。

 

 そういった決断や指針を示すことが、今国のトップに立つ方々が最優先して実施することではないかと思います。

 

 

 根性論や精神論だけで働く時代は、疾に終わりを告げています。

 

 

 これまで常識という、見えない形で人々を縛り付けるようにしながら。

 それでも、今現在のような特別な違和感を持つようなことは、かつてなかったのではないかと思っています。

 

 ですが今は、それに対して不平不満を言えるような状況ではないはずです。

 

 今の状況に違和感を覚えて、困惑し疲弊している方もいらっしゃると思います。

 一方で。

 常識として凝り固まっていた、今までの生き方や仕事のやり方を強制されて自分というものを失い、除け者扱いされながらも生きてきた人もいることも、紛れもない事実です。

 偏見になるかもしれませんが。少なくとも私のような人間は、常日頃からそのような思いを抱えながらここまで生きてきました。

 

 新型コロナウイルスの蔓延により、皮肉ながらも生まれつつ新しい生き方。

 それが定着し、常識とされてきたものが覆ってほしいと個人的に願いながらも。

 

 

 まずは、この惨事が一刻も早く収まることを、切に願うばかりです。

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

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