【車・趣味】時期外れのアクセラ旅路 ~静かに営む喫茶店編~
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長野では最近、地震が多発しています。先週の1周間だけで、10回以上の揺れが観測されたそうです。
今の所大きな被害は出ておりませんが、また一つ先行きの見えない不安が増えてしまったと感じずにはいられない、白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
今回は、茶臼山動物絵を後にした私たちが、偶然立ち寄った喫茶店にて。
時代を超えた懐古的な時間を過ごせたことについて、綴っていきたいと思います。
かつて栄えた町
1998年の長野五輪が開催されることを受け、1997年に長野新幹線(現北陸新幹線)が開通しました。
それ伴い佐久平駅が新設され、それまで田園地帯であった一帯は商業施設らが立ち並ぶようになり。
市の中心地は、一気にそこへ移ることとなりました。
当時は大きなショッピングモールも開店したこともあり、小学生だった私は夢が広がっていましたが。
同時に、かつて買い物や娯楽の中心地だった町が、急激に過疎化していくことになりました。
その一つが、小海線の駅がある中込という場所です。
昼は商店街、夜は飲み屋街となり。見どころが少ない佐久市の中でも、路地やレンガ詰め、街頭はお洒落なデザイン。佐久市の中でも垢抜けている場所でした。
そして中込駅から歩いて数分の所に、大きなショッピングモールもありました。
幼い頃は良く、亡き祖父と共に出かけてはゲームセンターで遊んでいました。
当時のゲームセンターは、ワンプレイ50円。100円玉を50円玉二枚に両替するオレンジ色の両替機が、今でも記憶に残っています。
それが今では。
佐久平駅周辺に客を取られ、客足が減り業績が悪化したショッピングモールは閉店し解体。現在は介護施設となっています。
近くにあった映画館も閉館し、個人経営していた商店街のお店も数が減り続け、今はシャッター街と成り果てています。
拍車を掛けるかのように、近場だからという理由も重なり、それ移行行くこともなくなっていました。
幼少期の思い出が詰まったそこへ。かつて何度も来ていたというたーぼぅさんの希望により、赴くこととなりました。
静かに営む喫茶店
すっかり日も落ち、僅かな街頭だけが町を照らしていました。
人の往来も少なく、すっかり寂れた町並みに、20年以上ぶりに降り立ちました。
目的は、たーぼぅさんが思い出の時間を過ごしたという、小さな喫茶店でした。
喫茶店と言えば、一昔前なら至る所に点在していました。
私の住む家から車で少し行った所にも、行きつけとは言えずとも何度も寄った喫茶店がありました。
店内に漂う、コーヒーや紅茶の仄かな香り。ゆったり座れる長椅子と、机に乗ったルーレット式おみくじ機。時代掛かったスピーカーから流れてくる、オルゴール調のBGM。
ゲームも庶民には手の出しにくかった時代、待ち時間は木でできたボール迷路で遊び耽って。
出てくる料理は、手作りで熱々で、優しい味が口いっぱいに広がりました。
次第に喫茶店も、コーヒーショップブームの波に押されるようにして、次々と閉店していきました。
席と席が近く、肩狭く飲むコーヒーショップよりも。
ゆったりと寛げる喫茶店の方が、私は好みです。
さて、虫の声すらない静かな町を軽く見回すと。
ある店舗の一角の二階が、淡い電球色を放つお店がありました。
近づきながら、その入口を見た途端。
たーぼぅさんが、感嘆の声を上げました。
地元民の私も知らなかったその場所は。探し求めていた喫茶店でした。
時代を超えた音響の品々
出迎えてくれたマスターは、柔和な表情を浮かべた、見た目では70代程の男性でした。
適当な席に座り、注文を済ませて周りを見渡すと。
特捜もので見た記憶のある、とてつもなく大きなリール。
話を聞くと、これはオープンリールデッキという音響記録・再生機器ものだそうです。
私の中で最古の音響機器はカセットテープだった為、それよりも前の代物です。
現在のデジタル機器はボタン一つで機械側が音を分析し、低音や高音、ボーカルの声を自動調整してくれます。簡単である一方で、具体的にどのような調整を行っているかは機械任せになる為、処理そのものがブラックボックス化しています。
一方で大きな機材を前にしたマスターが電源を入れ、何やらカチカチとスイッチを入れ、ツマミを少しずつ回していました。
この音響機材は全て手動で調整を行い、音割れせずかつ小さくなり過ぎないよう微調整が必要らしく、操作する人の手や耳の感覚がものを言うそうです。
これが、職人技というものだと思う瞬間でした。
良し、と頷いたマスター。
その機材は壁際の超大型スピーカーに接続されており。
流れてくる音楽は。心地好い低音を響かせ、透き通った高音が絶妙に絡み合った、曇りのない音を店内を包みました。
初めて聞くのに、どうしてか、懐かしさを懐きながら。
私は言葉を失ったかのように、ひたすら聞き入っていました。
その後、注文した料理と飲み物が運ばれたきました。
私が頼んだのは、ミートソース。出来たてのそれは湯気を立たせ、煮込まれたトマトの芳醇な香りが鼻を優しく刺激します。
驚いたのが、思い浮かべていたミートソースパスタと異なり、ピーマンやマッシュルーム以外のキノコといった具材が、沢山乗せられていたことです。
具沢山のミートソースパスタを、店内で奏でられるBGMと共に、楽しむようにしながらゆっくり食べていきました。
このお店で食べるのは初めてでした。しかし、優しさと味わい深さは、昔喫茶店で食べた味を彷彿させるのでした。
食べ終わり、アイスティーを口に含んで、ホッと一息。
店内を、少し歩き回ってみることにしました。
すると。
映像作品では見たことはありました。母の思い出話でも聞いて育ちました。
蓄音機とレコード。実物を見るのも、実際にレコードが回転し音を奏でる様子も、初めて見ました。
少し雑音が混じりながらも。加工されていない、まさに生の音とでも言えばいいのでしょうか。
音には敏感でも、音にそのものに疎く拘りを抱かないでいた私でしたが。
アナログならではの柔らかく、優しい音色に。すっかり魅了されていました。
心の底から響く音。浸る懐古
※注記※
ここから述べる事項は、物理学や数学を学ばなかった故に、世間的に公表されている情報を元に文字として起こしています。
同時に、科学的根拠はなくとも、私が個人的主観に基づいた意見に偏ります。
専門的な知識をお持ちの方には、違和感や「それは違う」と思うことがあるかと思いますが、どうかご容赦願えればと思います。
これに対しご意見や疑問を抱いた際には、お手数ですが問い合わせフォームよりご意見くだされば幸いです。
内容により、本記事を修正。或いは問題箇所を削除いたします。
※注記終了※
物体、空気を振動させることで伝わる、音。
音波とも呼ばれる、その発信源たる音響機器は、時代と共に進化、発展してきました。
私たちが、今や当たり前として使っている音響機材。それが例えばスマホであっても、パソコンであっても。
それらは全て、デジタル化された情報です。
それと対を成すように、今回の喫茶店で聞いた音楽は。オープンリールデッキやレコードから発せられたアナログ的な音源とは根本的に異なっていたことだけは、確かな事実でした。
デジタル化された情報は、喩え音楽というものであっても。一つのデータとして扱われ、ソフトウェア上でも音楽データの一つとして振る舞います。
データ化される以上、アナログ的な情報では確かに存在する音波があったとしても。「0か1か」で判断されるデジタルでは、微妙な波形は最適化される形で誇張、或いは存在しないものと扱われ。
端的に言えば、人間の聴覚では探知できないような超高音域や超低音域は切り捨てられ、代わりに可聴域を増大する形で補完されるように形成され、私たち人間に届くデータとなります。
それらは、ある程度の修正は可能です。しかし最終的には機械に委ねられてしまうと、私は考えています。
一方で、一般的には揶揄されたり時代錯誤と呼ばれることもあるアナログ的な情報は。
録音された音源を、連続的な音波として忠実に再生し、私たちの耳に届きます。
経年劣化や摩耗といった、物理的損耗による雑音や音飛びを出してしまうことがあったとしても。
ノイズを始めとした不要な音も的確に再生しながらも、深みと響きある音を目の前にした私は。
これが、心の奥底から響く音なのだろうと、感じずにはいられませんでした。
決してデジタル的な音源を悪く言うつもりも、アナログ万歳というつもりもありません。
寧ろ。
デジタル的な情報が当たり前の世の中を過ごしてきた私には、アナログが齎す音は、逆に新鮮と言えるものでした。
アナログとデジタル。
時代に左右される両者ではあるものの。どちらが良くて、どちらが悪いとも言えないと個人的に思いながら。
テレビを始めとして、古い技術と言われて久しいアナログがあったからこそ、今のデジタルがあると思うと共に。
今だからこそ、簡単に手に入れることができる、ある意味機械的な技術であるデジタルというものは。
飽く迄自然的で、無限大で。技術屋と称される方々がいたことで、初めて手にすることができたアナログというものが、根本に存在することを。
それが齎す奥行きの深さや壮大さがあるからこそ。
現代では常識で、手にできて当たり前とも言えるデジタル情報があるのではないかと、思えてなりません。
偶然的に出会った、オープンリールデッキや蓄音機、レコードが齎してくれた音楽を聞けたことで。
その思いが、懐古という形で一層強くなり。
古い技術は、必ずしも現代に劣るものではないと、確信することとなりました。
寂れた町並みで出会った喫茶店。そのマスターが「趣味ですから」と微笑みながら大切にしていた、数世代前の機器は。
忘れては失礼であると思う、一夜となるのでした。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。