【価値観・生き方】人の痛みを知る 〜痛みを、知っているからこそ〜
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パンデミック発生から、早くも2ヶ月が経とうとしています。
その間に沢山のことが起き、未だに収束する気配すら見出だせずにいます。
新型肺炎ウイルスの発覚。爆発的な感染。世界各国での罹患者の増加。
日本国内では、政府の対応をめぐる賛否。根拠のないデマから始まった、生活用品の不足。
それに対して、ウイルスに対する特効薬やワクチンの開発。マスクの供給見込みといった明るい話題は、余りにも少ない。
情報ばかりが錯乱して、何が正しいのかどうかさえ危うくなっています。
2020年という年が始まってから、明るい情報が皆無なことに虚しさのような思いを抱えている、白兎です。
皆さん、おはようございます。如何お過ごしでしょうか。
先日、清掃スタッフの方と偶然お話しする機会がありました。
そのやり取りの中で。
仕事をする上での、立場や境遇などというものは、そこにはありませんでした。
飽く迄、一人の「人」と、同じ立ち位置で会話をしている。そんな感覚を抱くような思いでした。
その方が抱える家庭的な事情はわからないながらも、深追いするようなことはしてはならないと自分に言い聞かせながらも。
たった数分のやり取りの中で、言葉や声色から、悲しさや苦しさのような感情を何となく受け取りなるだけに留まらず。
「痛み」のような、何か。
言葉では言い表わしにくいながらも、私なりにそのようなものを感じ取りました。
今回は、怪我や病気で身体が訴える痛みとは別の、痛みについて。
人それぞれで深さや広さの異なる、心の痛みという感覚について、綴っていきたいと思います。
何気ない会話の中に見出した、痛み
それは、本当に特別でも何でも無い、日常のひと時でした。
一仕事終えて休憩がてら、喫煙部屋で一服している時。
清掃という仕事を果たすべく、清掃スタッフの方が喫煙所へ入ってきました。
その方は、これまでも少しながらではありますが、プライベートなお話しをさせてもらっている方でした。
私よりも、断然年上の方です。
お掃除の邪魔をしてはいけないと、スタッフの方が入られた時、私は腰掛けていた椅子から離れて端っこに移動するように心がけています。
そこでいつも、スタッフの方か「申し訳ありません」と言われてしまうのですが、煙草を吸う私からすればお仕事の邪魔になっている気になって、「あ、こちらこそ申し訳ないです」と口が勝手に動きます。
そこまでは、仕事という日常をこなす上で、特段変わらないやり取りでした。
しかしそんな中で、私が不意に「暗い話題、ばかりですね」と口走った瞬間。
スタッフの方が、急に掃除する手を止めて、私を見詰めてきました。
「本当にね。トイレットペーパーやティッシュペーパーがなくなって、次はお米も品薄になって、ゴミ袋までなくなるなんてね。ここまで来たらもう、家族全員お陀仏になっても良いって話になってるんですよ」
いつもなら、人の目を見ることを怖がっているような私なのに。
その時だけは、どうしてか。
手を止めて、独白するかのように話すその人から、目を離すことができませんでした。
寂しさのような、虚しさのようなものを零すスタッフの方に、私は相槌を打ちながら、聞き入るようにひたすら相槌を打っていました。
そして直後、私は自ら感じた思いと、本音を重ねるように。
「全くです。世の中の状況に食い下がってでも生きたいという気持ち、私にもありませんよ」
そう、口走っていました。
スタッフの方は、そんな私の言葉に反論することもなく。
「本当、笑っちゃうよね」
嗄れた声と共に、笑っていました。
清掃の終わりと、喫煙を終えた私とスタッフの方が喫煙室から出た時に、その方は。
急に声色を落として、まるで項垂れて零すかのように、言葉を並べていました。
「すみませんね、愚痴、聞いてもらっちゃうようなことになって」
その瞬間。
私は反射的に「とんでもないことです」と返すと共に。
「こちらこそ、ありがとうございます。話を聴くこと、好きなんです」
多分、そう言った私は、笑顔だったのだと思います。
スタッフの方が驚いたかのように「そうなんですか?」と聞き返してくる一方で。
「ええ。一方的に意見をぶつけるようなドッジボールは、嫌いなんですけどね」
などと、生意気を言う私を。
その方は、微かに笑うような声を漏らしていたような気がします。
直後に、「ありがとうございました」と掛けられました。
その言葉の真意は、わかりません。
ですが、私も。
「こちらこそありがとうございました」と返していました。
私とスタッフの方以外、誰もいない喫煙室で。
たった数分の合間に交わされた会話
それは、無闇矢鱈に話せるような、軽いことではないこと。
立場や境遇など関係なく、誰かに訴えたいことであることを直感的に感じました。
そしてその言葉の数々が、苦しさや辛さといった負の感情を全て乗せているかのように思えてなりませんでした。
その直後こそ表現できそうな言葉は思い浮かびませんでしたが、こうして記事にしている今は、私なりの言葉で言い表せるものがあります。
心の痛み。
怪我といった、外見的にひと目見てわかるような視覚的な痛みではなく。
胸張って誰にでも言えるようなことではない、本当の気持ちを零した時に垣間見られるような、感情とも思いとも言えるもの。
スタッフの方が愚痴と表現した言葉や気持ち。
私には、それが心の痛みというものとして感じ取っていました。
自分が負った、癒えることのない痛みと照らし合わせていた
清掃スタッフの方が零した言葉や声色から。
この時は、かつて私が負って、今尚カサブタにすらならない心の傷や痛みと捉えて、無意識ながら照らし合わせていたのだと思います。
今までは適当に相槌を打って、いかにも「わかりますよ、その気持ち」と安易に同情するような姿勢で乗り切ってきた場面の数々を。
今回は、そういった感覚はありませんでした。
それ以上に。
「誰にでも言えるようなことではないものを抱えている人が、私以外にも沢山いるんだ」と思いを改めて抱くと共に。
少しでも、相手と同じ立ち位置で向き合おうとしている自分がいることは確かでした。
私はどうしても。
お会いした方の見た目や声音や口調といった、直接五感で感じ取れる相手の仕草や。
ブログのように、外見を簡単には測れないようなものであっても、惹かれるような記事があっては見入って。
それらが、あたかも自分のことのように勝手に入り浸って。
その度に、私が抱えている痛みと照らし合わせるような形を以て、知ろうとして、共感しようとしてしまいます。
しかし、一方で。
思考という理性を介さずに勝手に動いてしまう、私の思いは。
それは、本当に共感と呼べるものなのか。
時折、そんな疑念の矛先が自分自身に向くことがあります。
自分の本当の気持ちでさえ、わからなくなってしまうことさえ、今もあります。
いつの日か、そんな惑うような思いを許容しながら。
そういう自分があっても良い、と思える日が来ることを、自分に言い聞かせるように願っています。
否。願うだけではなく、行動として、考え方として変えられるようになりたいと、切に思うばかりです。
自分の痛み≠人の痛みだとしても
話が逸れてしまいましたが、戻したいと思います。
私の場合、と限定させていただくと。
イジメからの人間不信。認めたくないイジメから逃避して勉学を怠り、高校受験にも失敗して。
会社に入ってからは自分を含めた人間不信は収まることなく、怯えるようにしながら、人の顔色ばかり伺ってきました。
最後は、自分という存在から離れてしまった意識が、いつのまにか、他人に認められたいという認識となって行動し続けた末路は。
自分を。精神を殺す病。
死にたいというよりも、消えたいという意識がいつまでも残り続けていました。
逆に言えば、そういった挫折や精神の病を患った私は。
その時に、一度死んだのだと、今では思っています。
死んでも尚、この世界を生き続けている私は、経験してきたことを痛みとして覚えて。こうして、ブログを綴るに至っています。
そんなことを言っておきながら、おかしなことなのかもしれませんが。
様々な逆行や苦難をバネにして頑張ろうとしても、肉体的・精神的に叶わなかった。
もしくは世間的に蹴落とされた経験を「復讐心」に変えてでも、進み続けることができなかった。
或いは現状を以て、本当に必要としているのにも拘らず、手に入れることがという現実を目の当たりにして絶望してしまう。
そういったトラウマや引け目を取るような出来事に遭遇して。
心の痛みとして残って、抱えて続けて。
それでも、懸命に生きているのではないかと、勝手ながら思っています。
先述した私の痛みは。
他の人が抱える痛みと一致することは決してない、と思っています。
そうだとしても。
痛みを抱え、知っているからこそ。
相手の全てをわからないながらも、喩え少しでも寄り添えるように。
願わくは、その人が抱える思いや感情と、対等な立場に立って向かい合えるようになりたいと、私は切に願っています。
トラウマや絶望を目の当たりにして、一度死んだという歪んだ認識を持っている、私ではありますが。
人それぞれが抱える痛みの深さや広さは、決して杓子定規で測れないことは承知の上で。
単なる捌け口になっても、厭いません。
決して、奢ることも、上から目線になるようなことにならないようにしつつ。
痛みを抱く者同士が、傷を舐め合うような間柄にならないようにしながら。
そうすることで少しでも、心が安らぐ時間を得られるのであれば、私は幸いです。
未だに自分の気持ちさえ捉えきれていない私ではありますが。
抱える痛みを、独りで抱え込まないでほしいと勝手ながら願っています。
決して多くはないかもしれませんが、誰かにそっと思いを吐き出すことで、安らぎのようなものを得られると私は信じています。
弱みを見せまいと独りで抱え込み続けた私が。
親友に吐き出せたことで、今の私を少しでも認め始めることができているからです。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。