【人間関係】適度な距離感 ~測り間違えて、捨てて、失い続けてきた~
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ブログを書き始め、早くも2ヶ月が経ちました。
書くからには毎日書かないと。
そういった力みのようなものを持って始めた訳ではありません。
寧ろ逆に、持ったことを沢山書いて行きたいな、と意気込んでいました。
使命感ではなく、自分の「書きたい」という気持ちに、素直になりたい。
そう思って久しく、現在は3日に1記事は上げたいな、という気持ちに落ち着きました。
更新速度は遅めではありますが、自分にとって内容の濃い記事を上げていきたい。
何よりも、私の記事を読んでくださった方が共感していただけるようなブログを目指していることは、今も変わりません。
強いて言えば、日記のようにならないように。
誰かの為に、私の思いが届けばという願望を抱いています。
そのような思いから、最近は文章の書き方だけでなく、文字装飾も少しずつ変わり始めている、白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
これまで本ブログでも多く取り上げてきた、人間関係。
仕事であれば、最悪の場合は離職に繋がる可能性さえある。
家庭では、離散や家庭内別居に至りかねない。
恋仲であったとしても、離別、破局に向かってしまいかもしれない。
ならばより良好な関係を築く努力をすれば良い、というアドバイスでだけでは簡単に築いたり、解決できないもの。
自分を理解するだけでも困難なのに、人を理解して受け入れたり受け入れられることは、途方もなく難しいことだと思っています。
そんな人間関係という難しい事柄に対してだけでなく。
私自身が経験してきた、もう一つ大切なことを、今回は綴っていきたいと思います。
自分と人との、距離感。
皆さんは、考えたことはありますでしょうか。
一度築けた関係の後の、人との距離感
自分以外の、誰かと付き合うこと。
好んで自分以外の他者と陰険であったり、険悪な雰囲気で付き合いたいとは、誰しも望んではいないと思っています。
何でもかんでもとはまで行かなくても、ある程度言いたいことを言い合える。
多少なりとも気を遣ったり上下関係を意識することはあっても、同じ場にいても然程苦にならない間柄でいられる。
職場であっても、家庭であっても、或いは恋人同士であっても。
どのような間柄であったとしても、人間関係というものは切ってもきれないものではないかと思います。
人生を、或いは自分の生き様と言い換えては誇張的かもしれません。
それくらい、良好な人間関係を築くことは大切であると思っています。
その為に必要なこと。
例えば、自分を多少抑えてでも、相手を尊重することであったり。
もしくは、自分という存在の全てを曝け出して、それでも受け入れてくれる人を大切にしようとしたり。
中間的立場を取るように、自分をある程度出しながら、相手を崇拝する程でなくても、相手を許容する姿勢を取ったり。
そういったことをしてでも尚「この人とは合わない」と自分が感じたり、相手が下手にしゃしゃり出てくるのであれば、その人との人間関係を保つことは実質的に、生理的に不可能であると思います。
少なくとも今の私は、自分を曲げてまで歪んだ人間関係を築きたいとは思いません。
ならば。
人間関係を保つ為に、私は更に。
もっと深いところに存在するとものを尊重して、認め合うことが良好な人間関係を育む為に必要であると信じています。
喩え一瞬でも、「この人となら上手くやっていけるかも」「この人との関係を、大切にしていきたい」
そう思った時に、始めて見えてくるもの。
それが自分と人との距離感であると、私は思っています。
固執するように、距離感というものを書き記すのには、理由があります。
意識するのは難しい、人との適度な距離感
会社で気の合う同僚だけでなく、立場の違う上司や後輩。冗談を言い合いながらも、仕事をこなしていけるような関係。
同じ趣味を持つ者同士が集まる中で、趣味を超えて仲良くなって、以降も交流していける仲になる。
この二つには、単に馬が合う、或いは仲が良くなるというだけでは成り立たないものがあります。
年齢や立場を超えても、それでいて、適切な距離感を保てる間柄。
一見気の置けないように見えて、時には自分を抑える。
でも言いたいことがあった時は、臆せず伝えられる。
相手も同じように、言われることを享受することもあれば、場合によっては意見する。
そうでありながら、互いに尊重し合える関係。
それが私が信じる、適度な距離感を保てる人たちとの良好な関係です。
一見、回りくどくて面倒な考え方かもしれません。
ですが、意識しなければ保ち続けられない、人との距離感。
今でこそ最も重要視して、実践しようと努力するようになりましたが。
かつての私はそれを誤るあまりに、沢山のことを、人を失ってきました。
距離感を誤って、失い続けた
引っ込み思案で積極性に欠ける私は。
特に人間関係が一段と難しくなる中学生時代は、どうしても他人との……特に同世代の中では、特に交友関係を築くことを苦手としてきました。
周りが知らない間に、友人関係を確実にしていく中で。
私は、いつも「友達すら作れない自分なんて」と劣等感を常に抱いていました。
そんな時に。
部活の仲間や、共有できる趣味をできる同級生を見つける度に。
私は、「仲良くなった」という錯覚のようなものを盾にするように。
自分という存在ばかりを、あたかも売るように押し付けてきました。
関係が深まれば深まる程その思いは突き進み、挙げ句に「自分はこういう人間なんだ!自分を理解して受け入れて!」と相手を蔑ろにしたまま、愚直なまでに自分というものを誇示してきました。
そんな自分勝手で、人と人との境界線を無理やりこじ開けようとしてくる人間を。
皆さんは、受け入れられるでしょうか。
人との距離感を見失った末路
結果は、お察しかと思いますが。
そんな身勝手で、人の考え方や価値観すら無視するようにしてきた私は。
有り体に言えば「ウザったい」。もしくは「何様だ」と思われて。
最後は、そんな私を捨て去って、もっとわかりあえる人と仲を深めていくようになりました。
当たり前、かもしれません。
仲良くなれるかもしれない。
否。喩え一瞬でも「仲良くなれるかもしれない」という、仮定の域を過ぎないにも拘らず、もっと仲良くなりたいという一心で突っ込んでくる人間なんて。
自分勝手で。都合のいい人間と見られて。
気持ち悪がわれる。
相手は元より、自分のそういった姿勢は。
より良い人間関係を保ちたい、などという私は。
不要、邪魔で。寧ろ邪険にされて然りでした。
人それぞれであっても、誰もが「人との距離を保とうとする距離」という境界線。
人によって異なる「ここまでなら許せる」という範疇を遥かに超えたものは、その人が持つ自我を守ろうとする為に、排除されて然りと思っています。
そうやって鑑みれば。
理性を超えた、どのような形であっても「誰かと繋がっていたい」という私の勝手な思い、そして「歩み寄りたい」という偽りの言葉で塗り固められた本心は、否定されて当然でした。
それをあろうことか。
見限られ、飽きられて、毛嫌いされていく中で。
「『歩み寄ろう』としただけなのに……」
と、勘違いするかのように絶望していって。
「それならもう、誰も信じない」
なんて、格好つけるようにして他人を拒むようになって。
最後は。
「独りで、生きてやる。誰も、近寄るな」
と、意気がるように。
否定された「事実だけ」を押し出すようにして、生きるようになっていました。
自分が、交友関係という言葉を後ろ盾にして押し付けてきた行動。
それを結果だけ見て、勝手に「見捨てられた」と勘違いするかのようにして。
自分以外の誰かとの、適度な距離感を計れなかった為に、私は全てを捨てて、失うことだけを繰り返してきました。
今更願ったところで、叶うことはありませんが。
あの時少しでも、人のこと想って、上手く距離感を維持することができたのなら。
反省するかのように思ったところで。
人間関係は、後から考えて、悔いても変わらない。
今はそれだけを、苦い思いと共に噛み締めています。
適度な距離感を保つ難しさと尊さ
そんな思いや経験を経て、尚。
私は、学習し活かすことができない人間です。
車とカメラという趣味で知り合って。
今も仲良くさせていただいている、友である「たーぼぅ」さんに。
衝動に刈られるように、「私を理解してください!」といった声を投げつけてしまうことがあります。
ですが、親友だからといって、何を言っても言い訳ではない。
頭ではわかっているはずなのに。思いが、感情が沸き立って、暴走してしまうことがあります。
私は私の考えや価値観を持っていて、それが全てではないと、ブログで綴ってきて。
心でも整理がついた、はずなのに。
「私という存在を、受け止めてほしい」という思いが、先立ってしまいます。
SNSで繋げっているから、という現実に囚われて、私はいつまでもかわることができずにいます。
ですが、いつの日か。
過去を振り切って、感情を汲み取って尚、理性で自分と人との距離感を上手くとっていきたい。
近すぎず、遠からず。
「適度な距離感」を、未だ上手く計れない自分を罵るようにしながら。
いつの日か、友だけでなく、誰に対しても適切な距離感を持って接し、関係を育んでいきたいと、切に願っています。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。