【HSP・価値観】一匹狼 ~負け犬?ぼっち?単に、群れたくないだけです~
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前代未聞の事態に始まり、もう師走に入りましたね。終え本格的な冬は、もう目の前まで来ています。
東京五輪があれだけ騒がれたのが、嘘のように。多くのイベントに、観光に、人に。数え切れない程の影響を齎した新型コロナウイルス。
2020年という切りの良い年は、私たちが忘れていた何かを思い出せと戒めるような、そんな一年で終わると勝手に想像している【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
今年最後の旅を終え、久方振りに身体を休めることに専念することができました。眠気の余りに22時前に床に就き、睡眠時間は10時間以上というこれまでにない眠りについてばかりでした。
週末に至っては食事や買い物といった時以外は寝床に就いたままゴロゴロと、ただ過ぎゆく時間をゆっくり堪能する、ぐうたらとも時に身を任せるとも呼べる時間を過ごしておりました。
夢か現か。
そんな朧気な意識の中、先日投稿したHSPの記事のことを思い返していました。
誰とも接しない時間。雪が降りそうな空のもと、電気毛布とファンヒーターが部屋を温めて。起動したPCからは、お気に入りの動画をラジオ感覚で流しながら、ひたすら虚ろ虚ろとする時間。
部屋に一人寝入る、私。そこは、誰もいない空間。
どこまでも無機質で、私にとって果てしなく快適な時が流れる場所です。
人によっては、人の声すらしない空気を「寂しい」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でもそれって、人それぞれだよな、と妙に反発する自分がいました。
人に迷惑を掛けないのであれば、独りでいようが大勢といようが、その人の勝手だよね、と思いながら。
人は独りでは生きられない、と良く聞く中で。
せめて自分の意志がある時位は、独りで生きる時間が周りよりも多くても四の五の言われるようなことではないと、思うのでした。
今宵も独り、部屋で酒を嗜みながら。自分の時間を、私という人間と向き合うことを楽しみながら、今回も綴って参ります。
集団から敢えて離れて、独りでいることを好む者。集団の中にいることを良しとせず単独行動を取る人間を比喩する言葉、一匹狼。
憧れとさえ思うようになった、そんな生き方を考えながら。
媚を売って集団に「飼われる」ような接し方しかできなかった人間が、勝手に疲れて、勝手にやさぐれて。
人と接することもできないまで疲弊したことで見出して、群れることを嫌って独りでいることを好むようになった生き様を、記事にしていきます。
- 群れることでしか自分を守れなかった一方で、ストレスは感じ続けていた
- 真の孤独を味わってから、怖いものは薄れていって
- 一匹狼、という言葉を知って
- 負け犬とも、ぼっちと思われても構わない。単に、群れたくないだけ
群れることでしか自分を守れなかった一方で、ストレスは感じ続けていた
今の義務教育がどのような方針でいるのかはわかりませんが、私が小さい頃は「皆、仲良く」と先生に言われ続けて育ちました。
『友達百人できるかな』という歌がある通り、同級生となった周りと喧嘩することなく、仲良く友達を作りましょう。そのような文化があり、雰囲気もそれに準じた空気が流れていました。
確かにその通り、誰とも仲良く出来て楽しく過ごせることは大切なことだと思います。
多少のすれ違いはあったとしても、いざこざなどなく、偶然の出会いをいつまでも大切にしながら。
末永く友人としてあり続けることは、子どもを見る「大人たち」から見れば願いであったでしょうし、大きな問題を起こさないことを切に願ってのことだったと思います。
然れど、私は違和感ばかり覚えてばかりでした。
幼心ながらも、性格も考え方も違う周りに、男女の差に、同調することに疑問ばかり抱いていました。
楽しくなかったか、と聞かれれば、そうではありません。
ただ、何となく。同い年というだけで価値観も何もかも違う人と一緒に過ごす時間は、私はどこまでも「何か変」「何か違う気がする」という思いを抱えていました。
しかしながら、子どもは所詮子どもです。外界では肉親以外に頼れる存在は先生という絶対的なものを除けば、同級生という名の友だちしかいませんでした。
否かの小さな学校に進学した私は、特にその思いが先走って仕方ありませんでした。
一学年一クラスしかないような小さな小学校で、除け者にされることはある意味の「死」を意味することも無意識ながらも理解してしまった私は、否が応でも周りに合わせるという道を選んでいました。
自分が感じる違和よりも、自我を抑えて周りに合わせる生き方。
「何か変だ」と訴える自分を曝け出すことよりも、みんな仲良くしていることの安心さに身を委ねていました。
今思えば、それは卑怯な生き方だったと思い返しています。
この記事を綴っている今、意見も禄に言えない臆病者と私を自分で罵っています。
何故なら、表向きには笑いながら毎日を過ごしていたはずなのに。心のどこかで、私は周りとどこかズレていることを感じていながら、周囲に合わせることで誤魔化してきた事実があるからです。
もしも、この時期から多様性という言葉だけでなく。願わくばHSPやセクシャルマイノリティといった概念が広まっていたら……なんて、また周りの状況を言い訳にしている自分が、時々嫌になります。
人と。同級生と一緒にいることにさえ違和感を覚えて楽しめなかった癖に。
私は、今で言うストレスを感じながらも最後まで何も言うことも。自分の本当の思いを表に出すこともできませんでした。
本当の孤独を、この身で味わい絶望するまでは。
真の孤独を味わってから、怖いものは薄れていって
真の孤独、イジメと社会での孤立。
これについては、これまで何度も述べて参りました。
話してきた。それで慣れたはずなのに。
このことに触れる時には、精神がざわついて現実逃避の如く、心が一刻も離れようと全力で動いてしまいます。
自分では、表向きには慣れたと豪語している一方で。いざ向き合おうとすると途端に臆病になります。
ブログで訴えたくなっても、言葉が、思いが出てこない。
頭が、心が別のことを考えようと勝手に動いて、事実と向き合えずに悶々とする、そんな日々をこれまで何度も続けてきました。
でも、事実は事実。過去は、変えられない。
いい加減向き合えよ、白兎。
そう思いつつも躊躇って、気付けばブログを始めて一年弱経とうとしています。
そしてようやく、やっと本気で自分と向き合う心と時間を手にした今。
誰からも相手にされない孤独。それを三十年足らずで、私は幾度も体験してここにいます。
結果論にはなりますが、良いか悪いかは別としても。
自ら死を選ぼうとするまでに追い込まれた経験を経てからは、怖いものは一気に減ったような気がしています。
自分も、家族も。周りの人も視線も、評価も。
全てが、正直どうでも良くなっていました。
私は、私が生きたいように生きる。その中で下される言葉も、批評も、怖さを通り越して雑音のように思えるようになっていました。
会社でさえ、生きるために務めてお金を稼いでいる。逆ではない。
人に評価される為に、会社に務め社会に出ている訳ではないんだ。
そのような姿勢を見せ、貫くような仕草をすれば、離れていく人は沢山いました。
最初は、寂しさと虚しさが昔のように込み上げてばかりでした。
でも、いつしかそれで良いと思えるようになっていました。
煩わしい人間関係を断ち切れるのなら、私が恐れるものは何もない。
そんな生き様を貫くようになって、久しくある中。以前から知りながらも意味を理解できなかったある言葉が、私を救うこととなりました。
一匹狼、という言葉を知って
今ではすっかり魅了されるようになった、オオカミという生き物。
彼らは群れを作って行動しています。
しかしながら、効率的に狩りを行える群れから離れる個体がいます。
一匹のオオカミは他の動物に襲われたり満足に餌を捕らえられず餓死する危険性を孕みながらも、新しい群れを創り上げリーダーになり得る可能性も秘めています。
そのような危うさとチャンスを併せ持った状態を示すものとして、「一匹狼」という言葉が生まれたとされています。
人間はオオカミよりも遥かに弱い生き物です。群れを成し、知恵を出し合いながら獲物と対峙しながら生き永らえてきました。
そのような歴史があっても、ヒトもまた群れることを好まず一人で行動する人を「一匹狼」と表現しています。
勘違いされがちなのが、一匹狼と一人ぼっちです。
一見独りでいることに変わりはありませんが、決定的に違うことがあります。
それは本人の意志によるものか、周りに仲間外れにさせているかです。
一人ぼっちは「仲間に入りたいけど、できない。だから仕方なく独りでいる」とされています。別の視点から見れば、群れに負けて追い出された負け犬と同義とも言えます。
一方で一匹狼は「仲間なんていらない。自分で選んで独りでいる」と紹介されます。
この差異は、独りでいるという状況が「受動的か自発的か」でわけられると思います。周囲の意識や行動に左右されて「独りでいる」のか、自らの意志で敢えて「独りでいる」のか。似ているようで、大きく異なるものです。
かつて私は、周りに全てを委ねてばかりで自分の意志を示さぬままいきていました。それ故イジメや会社での孤立に繋がり、一人ぼっちという意識を長年抱え続けてきました。
裏切りと利権関係。仲間や友だちと言うには程遠い関係に疲れ果てた私は、精神科に通いカウンセラーと話すことを繰り返すことで、いつしか他人と距離を置いて独りでいることが快適で気楽に過ごしている自分がいることに気付かされました。
人の顔色を伺いながら生きるなんて、もう疲れた。そんなことをしなければ満たされない人間関係なんて、私には要らない。
それに気付いてからは、肩の荷が下りたどころか、身軽になってどこへでも行けるような好奇心とワクワクするような気持ちで一杯になるようになりました。
人の為に生きるのではない。自分の為に生きている。
そのような思いが迸るようになってから、私は随分変わったな、と振り返る程になっています。
負け犬とも、ぼっちと思われても構わない。単に、群れたくないだけ
巷では生きるも死ぬも人間関係に始まって、人間関係に終わるだとか。
仕事は業務内容よりも人間関係と言う方も大勢いらっしゃいます。
それを否定するつもりは、私もありません。現に、独りではやり過ごせない場面に出くわすことばかりですし、それが人生と言っても強ち間違いではないと思っています。
ですが。
HSPとHSSの気質を併せ持つことを自負する、私のような人間は集団生活で草臥れ果ててしまいます。
他人との関係を良好に保ち続けようとして、自分を壊したという過去があるとは言え、私はどうも独りでいる時間をこよなく愛する変わり者であるようです。
そのせいなのかはわかりませんが、会社では変わり者扱いされ人事情報でも「精神的に難しい人間」と評価されています。
それがどうした、何が悪いと冷めた目で、私は生きています。そんなことで評価されても批評されても、私にはどうでも良いことです。
もし、人間関係に悩んで独りでいることを恐れたり塞ぎ込んでしまっているような方がいらっしゃるのなら。
独りでいることは、そんなに怖いことでしょうか。仲間外れにされたり、仲間に入りたくても入れないことを理由に、自分というものを蔑ろにしてはいませんでしょうか。
一匹狼なんて言えば格好良いですが、変わり者と称されながらも生きている私のような人間もいます。
もしかしたら、一度自分を見直せば「独りでいる」ことは惨めなことでも怖いことでもないと、思い直せる機会があるかもしれません。
数は少ないかも知れません。おかしい奴だと思うかも知れません。
それでも、自分の意志で独りの道を選んで自らを見直して、やさぐれながらも生きている私のように。
裏切って裏切られてを繰り返して、死を見ても尚生き永らえている人間がいるのだから。
ただし、一つだけ。
一匹狼と自負している私ですが、自分が信頼できると思えた相手には自分を曝け出し、兎にも角にも尽くそうとする一面がある所を自覚しています。
確かに人は嫌いかもしれません。それでも、自分を「一人の人間」として見てくれる人には、特段自分ができることをしたいと思ってしまいます。
群れることは嫌いでも、人を選ぶ卑怯さはあるかもしれません。
それでも私が信じて、私を信じてくれる人は。掛け替えのない存在で、自分を犠牲にしてでも大切にしたい、そんな思いも持ち合わせています。
一匹狼は、決して感情のない人間ではないことだけは、最後にどうしても申し上げたいことであります。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。