【生き方・価値観】中間的な生き方 ~前向きでも、後ろ向きでもなく~
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各季節の前日である、節分。2月3日は立春の前日に辺り、暦上では春に向かっていく時期となって参りました。
春とは程遠い、寒い日々が続いておりますが、それだけ時間というものは意識していていてもいつの間にか訪れ、無慈悲に去っていきます。
それでも、少しずつ長くなり始めた日の長さを目の当たりにして、暖かくなる日が来ることを待ち遠しく思っている、白兎です。
皆様、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
先日は自分のミス故、精神的にダメージを追った私ですが。
先日のこと、もっと言えば過去の出来事として脳裏に焼き付き、教訓として。
同じ過ちは侵さない、とその今日この瞬間思い、一層気を付けて仕事を終えて参りました。そんな今宵は、気持ちは穏やかです。
先日の落ち込みが嘘のように、と言えるのは。
恐らく、今だけなのかもしれません。
人間は、忘れる生き物だと言われています。
嫌なことがあったり苦い経験を体験した時は、無意識的に忘れようとし。誰かに嫌なことを言われたりされたりしたことも、いつかは忘れ去ってしまいます。
心を抉られるような深い傷を負った時は別としても。
忘れることで、嫌なことをされたことだけでなく、嫌なことをした相手さえ忘れ去ることで、自然と「許す」ことができる、とどこかで聞いたことがあります。
他の生き物ができない、忘れることができるからこそ。
多くの人が過去に囚われることなく、未来というものに向かって邁進できるのではないか、と私は思うに至っています。
しかしながら。
私は不図したある出来事を目の当たりにしたことをきっかけに、過去の記憶が不意に蘇って。
俗に言う既視感を覚え、前に進めなくなって、その場にしゃがみ込むように立ち止まってしまう。
そんなことばかりで、私は前向きに生きるということを経験を多く積めないまま、ここまで進んで参りました。
皆様は、果たして如何なのだろうか……と伺いたい、という正直な思いがあります。
今回は、生きることに対して前向きになること、後ろ向きになることについて、私の経験や考えを交えながら綴っていきたいと思っています。
前向きに生きようと、してこなかった
私は昔から、生きることについて希望を持って進んできたという姿勢はありませんでした。
楽観的、と言えば都合よく聞こえるかもしれませんが、「その日を平穏に過ごせれば、それでいい」という考えを幼少期より持っていました。
過去も未来も、深く考えるようなこともなく。
周りが喧嘩していても、怒られていても、誰かが泣いていても。
それを何とか解決しようと努力して、出来得る限り周りを穏やかにして。
最終的には、私自身が平穏を保つ。
そんな思いを抱きながら日々を過ごして参りました。
どうすれば平穏を保てるだろう、と前向きに考えて行動するのではなく。
平穏を崩されそうになるような場面に遭遇して初めて、どうにかしないと、という思いに刈られ考え、行動に移してきました。
能動的にではなく、私の行動理念は飽く迄受動的でした。
部活における試合でもそうでした。
次を落としたら、もう後がない。
窮地に追い込まれた時。
そんな時でさえ、気持ちで負けたら試合も負ける、だから踏ん張ろうとするのではなく。
やれるだけやってみて、ダメならそこまで。これが自分の限界なんだ。
そうやって、勝負事でも前向きになれずに状況対応を優先していました。
結果はその時時で、挽回できたこともあれば、そのまま打破できずに終わってしまうこともありました。
それ故か。
自分の全力や努力の結果を出しきれなかったことを悔いて、次に活かすということはほとんどありませんでした。
どちらかと言うと、日常でも試合でも、自分の力が及ばなければ仕方ない。平穏で有り続けるのなら、それで良い。
いつの間にか、そんな中間的とも、どちらかと言えば後ろ向きな態度を取るようになっていました。
寧ろ。状況を打破するべく上手く立ち振る舞う人の凄さや、勝負に勝つことに執着する人の熱意といったものを、私はいつまでも理解できずにおりました。
逆に、そんな軟弱な態度を取り続ける私を責め、咎められることの方が多かった記憶があります。
だから、でしょうか。
前向きにならなければ、人としていけないことなのか。
そんな疑念すら覚えるようになって。それに抗うように自分を貫き通そうとした結果。
私は多くのものを失い、自分を嫌悪して卑下するようになっていき。
前向きになることを、すっかりやめてしまいました。
後ろばかり向いて生きることは、悪なのか
「どうせ、自分なんかにはできない」
「何をやっても上手くいかない」
そうやって自分自身を勝手に思い込ませて、積極的に物事へ取り組もうとすることなく、歩き続けていました。
私という存在を過小評価し続けることで、他の誰かが上手くやってくれる。
私がやる位なら、やりたいと手を挙げた人がやった方が良い結果が出る。
まるで、自ら自分に暗示を掛けるかのようにして。
そういった言葉や思いを盾にして、ひたすら自己防衛に走ってばかりでした。
そんなことをしてその場を躱すことができたとしても。
必ずと言って良い程、後悔や自責が常に付き纏っていました。
しかしいざ、私が主体となってやらなければならない出来事に遭遇した際は。
今度は鳴りをひそめていた前向きになろうとする気持ちが、中途半端な形で湧いておりました。
「やるからには、上手くやらないと」
「失敗は、許されない」
空回りした思いを胸に挑んだ結果は。
察するまでもない、散々なものばかりでした。
そう。
私が後ろ向きな姿勢に固執していたことは。
前向きになって、頑張ろうとしたことは。
二度と誰かに、周りに嫌われたくないという気持ちの塊でした。
前を向いて進んで、成功することで認められたり賞賛されることよりも。
失敗して失望されることを、何よりも恐れていた為でした。
自分を奮い立たせるよりも、自分を卑下して引き下がった方が、楽だったからです。
前向きという邁進よりも、しゃがみ込んで動かないという、後ろ向きを選び続けた私は。
十数年という時間を、惰性のまま過ごして参りました。
ヒトを形作るもの
自分を変えたいと思っても、願っても。
人間は、そう大きく変わることはできないと私は思っています。
この世に生を受けた瞬間に持ち得た「気質」。
0~3歳という極めて短い幼児期に育まれる「人格」。
その後の経験や境遇により決定される「性格」。
それらは基本的に、小学校高学年辺りの時点でほぼ完成されると言われています。
更に様々な経験を積むことで、物事に対する「考え方」や「価値観」が折り重なって、一人の人間という個性が生まれてくると私なりに考えています。
人格を否定されるような環境に遭遇してしまったり、挫折を経験した際、変わるのは考え方や価値観であって、性格や人格はほとんど幼少期のまま変わることはない、とのことです。
私も、他人に認められなかった経験をしたことで、世の中を見る目が大きく変わりました。
前向きな姿勢に対する疑念や、他人という存在の不許容、意味もなく惰性で生きる己の人生。
これらを全て、私は性格がネジ曲がって、歪んだ結果だと決めつけて参りました。
それも、自分がそうした訳ではなく、「こんな風になったのは、他人のせいだ」と責任転嫁してばかりでした。
捻くれた振る舞いや物見をするようになっていましたが、存外満更でもないと、自分の中で思えてもいました。
距離を置くことで、自分を保てる。他人とは、違う。
そう思うことで、私という「個性」を持っていると信じ込んでいました。
一方で、社交的に振る舞って前へ進み続ける人たちを見て、羨むことを通り越して、妬んでばかりもいました。
自分も、ああやって進んでこられたら。何か違っていたのかもしれない。
自分を肯定しようとする思いと、変わりたいという望み。
表向きには何事にも「興味がない」と涼しい顔をして過ごしてきましたが、実際の私の心の中は、矛盾する「自分という存在の定義」の狭間で藻掻き続けていました。
そういった中で、藁にも縋る思いで、少しでも自分を変えたい感情から、様々な手段を使って「自分を変える方法」を模索して参りました。
インターネットでのキーワード検索であったり、自己啓発本であったり。
それこそ、死物狂いの勢いでした。
しかし、待っていたものは。
「前向きになるには」だとか、「人生を前向きに過ごす方法」だとか。
「自分に自信を持てば、人生は変わる」だとか、「自信を持つには」だとか。
どれも、私から見れば。
「前向きに生きること」を前提にしていたり、過去に囚われ続けてはいけないといった謳い文句ばかりでした。
失礼を承知の上で、申し上げます。
それができないから、悩んで、苦しい思いをしているんだ。
自信を持つ?
簡単に言うけど、自信を、自分自身さえ砕かれた人間は論外、とでも言いたいのか。
勝手な憤りを覚えると同時に、私は失望しました。
一度でも挫折したり、自信を失った人間は、どう足掻いても変わることなんてできないんだ、と。
恐らく、書籍やネット上の情報を元に「自分を変えよう」としたのに、数年は費やしたと思います。
私のような、一度は世の中から拒絶されたような人間は。
結局、全て諦めて、妥協して、惰性で生きる他ないのか。
時間を、お金を無駄にしたその結論に、暫く失意の底にあったことを覚えています。
今思えば……。
ネット上の情報も、自己啓発本も。
間違っているとも、全部が正しいとも言えない。
そう思えるようになりました。
ネットの記事や書籍は、飽く迄「一般的な指標」として捉え、実践することは尊いことであると思っています。
しかしながら、全ての人がそれら「一般的指標」を享受して、実行に移そうとしても。
そうすることによって、皆が皆思い通りに自分を変えることはできない。
少なくとも、私は「一般的指標」を実行しようとして、失敗した一人です。
喩え有名な著作者や人気のネット記事を書く方であったとしても、それは万人受けするものではないと、私は自負するようになりました。
だから、という訳ではありませんが。
私はどうやら、諦めが悪いようです。殊更、自分に関わるようなことであればある程。
今や簡単に手に入る、そのような一般的な指標を頼ってダメなら。
私は、自分で模索するしかありませんでした。
自分を変えたいと「願うだけ」で終わることなく。変わりたいという思いを行動力に変える為に、私がしてきたことは。
表面的な自分ではなく、私という一人の人間が考える思いや価値観、好み、物事の捉え方だけでなく。
忘れ去りたいと。消し去りたいと思う過去。
それらを全て引っくるめた、「私」というものを曝け出すことでした。
自分を曝け出そうと決めた
これまでの記事でも、「クルマ」という共通の趣味から世界が広がった、と申し上げて参りました。
ただ一つだけ、忘却したようにして書かずにいなかったことがあります。
「クルマという共通の趣味を持つ人たちの集まりの中で。
「これまで騙し隠そうとしてきた自分を、素直に出したい」という気持ちが全面に表れたことでした。
言い方は悪くなりますが、「ダメ元」の気持ちで突撃するように開き直って挑んだようなものでした。
卑下するような、半分諦めを抱いていた私に。
オフ会の皆さんは、そんな私を受け入れて。仲間として歓迎して。一人の人間として、対等に接してくれました。
その時の私は、と言うと。
同じ趣味を持つ人と、対等な立場で話がしてみたい。
もしダメだったら、後々まで引きずらないように。合わなかった時は、単に相性が悪かっただけなんだ、と。
そんな思いから、服装や話し方を無理やり合わせることなく、私という存在を。
自分の考えや価値観を貫き通すことができました。
初オフ会は9月あり、残暑も厳しいところでした。
半袖ハーフパンツの軽装が相応しい中、私は長袖ワイシャツにベスト、スーツ調なスラックスという暑苦しい格好で臨みました。
初参加で緊張する私に、「仕事着ですか?」と半笑いする皆さんに対して。
「これ、普段着なんです」と私も笑みを零しながら答えたことは、今でも覚えています。
そう答えて笑われましたが。
この人たちは、馬鹿にする意味で笑っている訳ではない……そう、直感的に思うことが出来ました。
そんな初めてのオフ会は、その後のイベントを重ねるに連れて。
私と言う存在は、色々な意味で「変わり者」と他認識されることとなりました。
こんなことを言うと、おかしく思う方もいらっしゃるかもしれませんが。
私は、そうやって「変わり者」と誰かが認識してくれるだけで、妙な高揚感や嬉しさを覚えてしまう性質のようです。
人と会うことに対してだけでなく、生きることそのものに対して。
決して前向きな姿勢でもなく、然れど後ろ向きでもない姿勢を貫けた切っ掛けとなったことを皮切りに。
建前や偽ってきた自分というものが、このような場では通用しないと、何となく察したことで。
私は、「自分に嘘を付いてまで、付き合うことはやめよう」と決心した瞬間でした。
前向きでもなく、後ろ向きでもなく
こうしてブログを綴る私は、少なくとも「自分を隠したりすることはしない」ようになりました。
自分の性自認や性的指向、過去の出来事を、今では曝け出すことができるようになって、今に至ります。
このことについて、人生を前向きにだとか、後ろ向きに捉えるだとか、そういった概念からは多少ズレが生じるかと思います。
然れど。
私はそのようなことを恐れず、自分は文章が長くなりがりで纏めることが下手くそでであって。
イジメにあったことも、精神を病んだことも。
HSPであり、Aセクシャル自認で、他人という存在が苦手であることを。
そして、ケモナーであることを。
今は恥じらうこともなく、逆に自分の存在を確かなものとしたいが為に、私は臆するようなことはなくなりました。
このよう貫くことができるようになったことは。
誰かに強要されたり、そうしなければならないといった脅迫概念でないことは確かです。
全て、私が「そうしたいから」という思いの元に自分を曝け出した結果です。
逆に。これは私なりの答え、となりますが。
人生に対して、無理に前向きになろうとしなくても、却って必要以上に卑下して、後ろ向きになることもないのだろう。そう思うに至っております。
前向きや後ろ向きといった単なる杓子定規ではなく。
それよりも遥かに尊く、批判や損害されるものではない。
押し付けではなく、自分というものを包み隠さず出す。
簡単にはできない、然れど誰であろうと批判や訂正などできない尊いものという結論に私は至ることが出来ました。
世間では「前向き」であることが評価される一方で。
「後ろ向き」に生きることは過去に縛られている、だからこそ解き放そう、という風潮がある中ですが。
私は、その「中間的な生き方」というものがあっても良いのではないか、と思っています。
かつては、どっち付かずの意見を申して同級生だけでなく、教師からも非難されたこともある、「前向きでもなく、後ろ向きでもない」生き方。
どちらにも付かない、そんな中間的な生き方を、貫いていきたいと思います。
一つだけ、申し上げたいことがあります。
私は、このブログで。
自分自身を、経験を全面に押し出して、評価されたりしたいのではありません。
今後も綴っていく記事も、全て。
もしも同じような境遇で悩んだり、藻掻き苦しむような人がいらっしゃるのなら。
変人と言われても褒め言葉と捉えられるようになった、そんな馬鹿げた人間がここにいることを。
私のような変わり者が、経験を元に文章を綴っている。
それを通じて、少しでも共感していただければ幸いなことこの上ない。
その思いだけは、変えることなく。これからも、ブログを続けていければと思うばかりです。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。