白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【人生・価値観】理想と現実 ~それは、妄想に過ぎないものなのか?~

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 小寒を過ぎたのに、特別冷えることもなく、雪も多く降らない。
 暖冬、という言葉だけでは説明しきれない、平穏。

 

 気象情報や傾向。言わば表向きにはそうであっても。
 そのような情報・予想だけでなく、真にそうあって欲しいと願うばかりの白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 私はどうしても、見えようがないものを追い求める性質のようです。

 答えのない答え。答えがないことが答え、と言い換えられるかと思います。

 どんな方向にでも、そんなものを求めることが、私の本能……欲求であり、欲望なのかもしれません。

 

 

 

 さて、以前お話しした「PSYCHO-PASS」という作品。

 精神世界や心理的描写だけでなく、思想・逆説。そして、世界に対する葛藤。

 

 ネタバレは避けますが、作品自体、かなりグロ要素や精神的暴力・負荷を強いる描写が多めです。

 ※ご視聴は自己責任でお願い申し上げます。※

 万人向けとは言えない、と個人的に思う作品です。

 が、それ以上に。

 五感を通して向き合える世界。それが現実。

 時には優しくて、ほとんどが残酷な現実に対して、本当はこうあって欲しいと願い、縋るような思いで創り出される理想。

 その齟齬が生み出す、現実世界への疑念・疑問。

 

 

 色々と考えさせられると共に、見つめ直す作品でした。

 私が好む「BEASTARS」と同レベルで、人生という変えられようのないものについて向き合う作品となりました。

 

 

 今回は、これらの作品から考えさせらたこと、理想と現実について綴っていければと思います。

 

 

 

 

 

 理想とは

 

 

 理想的な空間。理想的な社会。理想的な世界。理想郷。

 言葉では良く目にし、耳にする「理想」というもの。

 

 皆様が考える理想は、どのようなものでしょうか。

 

 一応の定義としては、「考えられる中で最高の状態のこと」を指すとされています。

 または、「ある条件を定義して、それらが満たされるものを理想と呼ぶ」と定義付けられることもあります。

 

 ここには、共通点があります。

 

 理想は、人間が考え、定義づけることで生まれる状態や状況のことを指し示している。

 

 即ち、人の数だけ理想というものは異なり、変化するものと言えると思います。

 

 私なりに、一例を考えてみました。

 

 人間という生き物に対する理想の場合。

 ・私は、誰からも好かれ、偏見を持たず、全ての人とわかり合える人間でありたい。

 ・私は、数年後には人の上に立ち、会社の方針を決められる経営層まで登り詰められる社会生活を送る人間でありたい。

 

 社会や世界という概念に対する理想の場合。

 ・誰もが生まれた時から平等、幸福であることを約束され、いざこざや争いのない平和で健全な社会・世界。

 ・生まれや学歴、職種の違いはあっても、それぞれの違いを認め合いつつも個人個人が生きることに対し誇りを持って生きていける社会・世界。

 

 

 お気付きの方もいらっしゃいますが、これらの理想は、絶対的な違いがあります。

 

 実現など到底不可能な理想と、実現可能な理想。

 

 私が適当に考えた、人間と世界の理想で場合では、前者が実現不可能、後者が実現可能です。

 実現可能性の有無は、ここでは考えないこととします。

 実現不可能な理想は、捉え方によっては「妄想」や「空想」とも言えるかと思います。

 逆に実現可能な理想は、「夢」や「目標」と言い換えることもできます。

 

 一方で、共通点もあります。

 

 それは、現実という世界と対比させた時に浮かび上がるものであることです。

 

 

 

 

 現実とは

 

 

 生きとし生けるもの。動物や植物が地球という惑星に産まれ、育ち、子を宿し、そして死んでいく。一瞬という今この瞬間を、必死に生きている。

 日本の場合は季節が入れ替わりを続け、動植物の活動に影響を齎します。

 自然という環境が、時には恵みを与え、時としては荒れ狂うかのように激しさと険しさを見せつける。

 変えようのない、自然の摂理。

 それに対し、ヒトという生き物が与えられた理性や思考力を元に認識している世界。それが現実であると私は考えます。

 更に加えるとするならば、時間という概念や、自然というものを観察、検知、計算や憶測することで世界というものを定義づけたものが、現実であると思っています。

 

 身近な例であれば、自分はいつ産まれて、どのような生き方をしているのか。今が何時で、明日は授業や仕事が待っていると認識。そこから生まれてくる考えや感情が複雑に絡み合っている世界。

 

 意見や価値観の違いはあれど、人間が定義づける現実とは、そのようなものではないでしょうか。

 

 ここで重要になってくることは、他の動物が認知しない、ヒトという生き物が「現実世界に対して少なからず、思いや感情を抱いている」ことです。

 

 自分の生まれに、学歴に、職歴に。

 育った家族という環境が良かったか、悪かったか。通った学校という閉鎖空間での時間が、有意義であったか否か。働く会社環境に、不平不満を抱いて怒ったり、悲しんだり。或いは任された仕事を完遂させたり、昇進・昇格したりすることで喜びや楽しさを感じる。

 人の数だけ、その違いは数えるには愚かなほど数多であり、それを外部から批評することはできないのではないでしょうか。

 何故なら、現実を捉えて認識して数多くの思いを抱くのは、個人たる主観であるから。

 

 私が考えるに、そこに良し悪しはないでしょうし、絶対的な指標となるものが存在しないと思えてなりません。

 

 現実とは、ヒトから見れば「人生」である、とも言えるのかもしれません。

 中には、様々な逆境を乗り越えて自ら描いた人生を歩む人もいるでしょう。然れど、そのような人は余りにも少ない。

 自分の、今生きるこの瞬間に、不平不満は多少なりともあるのではないでしょうか。それ位、人生は必ずしも本人が望んだものとはなり得ないことが、ほとんどです。

 

 私は、現実から目を逸し続けてきました。夢や希望なんて、疾うに捨て去りました。

 

 話を戻します。

 厳しすぎる現実を直視し続け、受け入れるがままでいれば、ヒトはいづれ綻びを生じ……最後は壊れてしまいかねない。

 そうならない為に、心の安息や拠り所が必要であると思っています。

 

 

 それが、現実と対比させた理想という世界ではないか、という結論に至りました。

 

 実現可能な理想なら、それを目標や希望にして現実を生きていく糧になり。

 実現不可能な理想であっても、現実というものから自分を切り離して、平穏を取り戻す為に浸るものとなる。

 

 理想と現実は、切っても切れない密接な関係があると、私は考えます。

 

 

 

 理想=妄想?

 

 

 こう書いてみると、一つ思うことが出てきます。

 理想というものは、結局は妄想の域を出ないのか、と。

 

 妄想、と聞くと。

 いかにも危なげさや怪しさといった、暗い面が強調されるかもしれません。

 

 ですが、私はそれでも良いのではないかと思っています。

 

 実現可能な理想が生きる為の糧になるのであれば。

 実現不可能な理想……喩え妄想と言われても、現実に向き合い過ぎて疲弊し傷だらけになった精神を癒やし、明日という果てなき人生を生きる原動力を取り戻せる。

 そう、思えてならないのです。

 

 妄想だ、と他人から言われても、良いではありませんか。

 だって、自分が理想的と思うものを生み出せること。自分の頭の中だけであったとしても、です。

 とても素敵なことだと思いますし、大切なものだと私は思います。

 差はあっても、それは一つの想像力であり、創造力とも言えるのではないかと、私は考えています。

 

 

 

 程良く、理想と現実を見据える

 

 

 

 現実の世界を見て、過ごして、明日を生きる。それは人生を歩むことそのものであり、避けて通ることはできません。

 そればかり見続けていると、ヒトはいつか限界を迎え、輝きを失いかねません。

 

 夢や目標という理想を掲げ、邁進することは、現実を生きることに力を齎し、ヒトが持つ可能性を開花させたり、時には周りをも惹きつける魅力にさえなり得ます。

 その指標が高すぎたり、低すぎたりすれば、却って自分を否定する材料に成り代わることもある。結果、自己肯定感を低くしたり、場合によっては人を羨み憎しみとなってしまうこともあるかもしれません。

 

 妄想と呼ばれても、自分が快適であったり素敵だと感じる理想に入り浸る。一時であったとしても、現実から目を離して癒やしや憩いを求める。更には抑え込んでいた自分を解放して、明日へ進む力を呼び戻す強力な力にも変貌するかもしれません。

 あまりにも入り浸り過ぎれば現実を見ることをやめてしまい、人生というものに終止符を打ちかねない。もっと進み続ければ、社会や他人に害を及ぼしかねない負の源になる可能性を秘めています。

 

 

 理想と現実。

 

 それに対する考え方や捉え方は人それぞれ。価値観や見る角度によっては、とても一言では言い表せない、と私は思っています。

 

 答えのない答え。

 正解も、不正解もない。

 

 ですがこの二つはどちらかが強くても、どちらかに偏っても、どこかで心の綻びが生まれてしまうと思います。

 その匙加減を上手く調整し、織り交ぜながら生きていく。

 それが人生というものであり、人が生きていくことであり、生きた証になる。

 私はそう考えます。

 

 

 

 

 

 哲学的なお話しになりましたが、今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

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 快晴でなくても、暗い雲ばかりでなくても良い。

 迷うことなく一筋の軌跡を、空に描くことができるのなら。