白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【生き方・価値観】弄ばれている ~自分軸・他人軸~

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 山は白く染まり、大地は氷に支配される。

 例年より遅いながらも、ようやく厳しい冬の訪れを肌身で感じる陽気となってきました。

 雪が全くと言っても差異がない程降らない中、スキー場の経営は大丈夫だろうか……と思う一方で。

 ブラックアイスバーンで転んだり、相棒Lupusをスピンさせるような事態にならないことを願いつつ、内心ビビっております。

 と言いながら、過去何度も滑って転んで怪我してばかりの白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 現在引き続き「PSYCHO-PASS サイコパス」の二期、劇場版と視聴を続けておりますが、本当に見ていて楽しく、そして興味深い作品です。

 私は「カウボーイ・ビバップ」「攻殻機動隊」も好きな作品です。物語の構成や設定の差異はあれど、それぞれ感じさせられるものが沢山あります。

 台詞の言い回しが一々格好良かったり、哲学者の論文を例えに出して視る者を惹きつけたり。

 同じく好きな「BEASTARS」は、台詞回しや哲学的な話は出なくとも、描写や設定が訴えかけてくるものがとても強い。

 

 制作者も、脚本家も異なる、私を惹きつけて止まない作品たち。どれもがストーリーの奥深さもさることながら、兎にも角にも。

 

 どの作品にも、私に問いかけてきます。

 

 自分が選んだことが、本当に正しいのか?

 自らの行動や言葉は、自分の意志に依るものなのか?

 

 

  アニメ視聴後の余韻に浸る中、必ずと言っていい程、そんな思いが巡っていました。

 いや。

 誰かに聞かれているのではなく、問いかけているのは、他ならない私自身でした。

 

 行動も、感情も。

 人任せに、してこなかった?と。

 

 

 

 題名こそ意味深になってしまいましたが、今回はそんな疑問から、選択の意志ついて綴っていければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 行動の選択

 

 選択、というといかにも難しい局面や場面で用いられそうな印象を抱きがちですが、実際は本当に身近なところでも選択をしている、と私は考えています。

 

 例えば、服を買おうとしている時。

 自分が気に入ったデザインや用途の服を見つけ、試着して。

 気に入った。そう思えた瞬間に、選択を迫られます。

 買うか、買わないか。

 然程意識はしていないながらも、その選択肢の中には様々な要因や情報が加わっています。

 気に入ったが、値段が相応か。記載された代金を支払って手に入れる価値が本当にあるのか。

 サイズが微妙に合わないが、それを享受してまで買うかどうか。

 もっと短絡的なものであるとするなら、買おうと思ってレジに並んだのはいいが、混み合っていて会計まで相当な時間を取られそうと感じた時。

 これだけとは言えませんが、私が思う限り、買うという選択を選ぶまでに、このような要因次第では買わないという選択に寄っていってしまうこともあり得るのでないでしょうか。

 とは言え、自分が買おうかどうか悩む。それは飽く迄自分主体、「自分軸」というものがあると思っています。

 

 では、選んだ服が「店員が勧めてきたものであった」時はどうであるか、です。

 店員さんはその手のプロと言っても差し支えないと私は思っておりますので、私が思いそうなことは「店員さんがそう言うなら」「似合うって言ってくれているし」「勧められておいてやめるのも、なんだか忍びないかも」。

 思うことは人それぞれであるかもしれませんが、少なからず、先程述べた選択とは異なる意志が入り込んでくると思います。

 買うか否かを決めるのは自分自身であることに変わらないはずなのに、他者という意志が勝手に入り混じっている。

 変な話だ、と私は思ってしまいます。自分が決定するはずなのに、他者の意志が自分の意志に介入し、選択肢を改ざんしている。

 人に言われたから。アドバイスを貰ったから。

 その結果、残されるのは買う買わないの決定権だけになってしまう可能性も高くなります。

 これは自分ではなく、他人が主体となる「他人軸」と言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 感情の選択(受け取り方)

 

 実際の行動だけでなく、感情という目に見えにくいものにも選択が生じてくると思っています。

 感情の場合は選択というよりも、浮かび上がる感情を「どう受け取り、自分の行動に影響を出すか」と言った方がしっくり来るかもしれません。

 

 こちらも例えを出させていただきます。

 クルマを運転されている方は、ご経験があるかもしれません。

 法定速度や規制速度以下で走っている自分のクルマに、後続車が車間も取らずにピッタリ張り付いてきた時。

 速度的にはノロノロ運転ではなく、法定的にも規制的にも問題のない。

 にも拘らず、後続車が車間を離さない。何を思っているのか、クルマを左右に蛇行させて急かせているようにも見える。こちらが急ブレーキを掛けたら、間違いなく追突される場面。

 どんな感情が湧き上がるでしょうか。

 「何急いでるんだろ?トイレ間に合わない?」「先行きたければ、追い越してけばいいのに(追い越し禁止区間は除く)」「自分は自分のペース。後ろのことなんか知らん」「うざったいから、コンビニにでも寄って勝手に急いでもらおう」

 これらは、憶測の域は出ないながらも、感情から来る行動の決定は「自分主体」であると考えます。

 

 こんな考えも浮かぶかもしれません。

 「煽り運転が騒がれてるのに、車間取らないとか馬鹿か」「こっちがブレーキ踏んでも、事故らない自信があるんだろうな。違う?」「そんなに急いでいるなら、ちゃんと出発する時間や渋滞を予想して出てこないお前が悪い」「うざい……自損事故でも起こせ」

 私はハンドルを握ると性格が変わる、と周りから言われる為、相当口汚い罵りばかりになってしまいました。

 が、しかし。

 そんな思いに左右され、不快・不愉快さを覚えている。その要因は、「他人が主体になっている」ではないでしょうか。

 

 後続車が張り付いている、という状況は変わらない。

 にも拘らず、これだけの差が生まれても不思議ではないと思うのは、私だけでしょうか。

 

 それだけ、自分の意思決定や感情の受け取りが「自分軸」なのか「他人軸」なのかで変貌してしまいかねない。

 

 文章で記せば、圧倒的に自分軸の方が良さそうに見えるかもしれません。

 

 然れど、それを貫き通すことは難しい。少なくとも、私はそう思っています。何故なら。

 私が、自ら進んで「意思決定を人に委ね続けてきた」からです。

 

 

 

 

 人に委ね続けることの末路

 

 

 

 行動や感情の受け取り方。私はこれまで、自分よりも人を頼りにし、生きて参りました。

 言い方を変えるなら、「自分で決めるより、誰かに決めて貰った方が楽だから」という思いがとてつもなく強いです。

 学生時代に。自分がどう振る舞い、どう行動すれば全員の為になるか。

 社会人になって。どんな立ち位置にいて、どうすれば良いか。

 

 それを、私は自分という意志を無視して他人に委ね続けてきました。

 相手の顔色や声色から、無意識的に感じ取ってしまう性質だから……と言っても、唯の言い訳に過ぎないのは重々承知の上です。

 が、それでも尚。

 私の振る舞い方で他人が心地好く過ごせるのなら、自分が我慢して、決定権を人に譲渡した方が良いと思っていたのです。

 人を不機嫌にしたり、人間関係を悪化させる位なら。

 私という意志が犠牲になって環境が悪化しないのなら、その方がマシだ。

 本気で、そう思っていました。

 

 身勝手ですよね。もう、自分軸や他人軸なんて関係ありません。

 

 それ位、私は人の顔色を窺って、機嫌を勝手な杓子定規で測って。そこに私の意志を捩じ込んで環境を悪くする方が、私には毒と思い込んでいました。

 人それぞれが持つ価値観や思い、考え方なんて関係なしに。

 自分勝手なのに、私は自ら進んで人に全てを委ねるという選択を選び続けてきました。

 その結末は。

 言わずもがな、私の「人に委ねれば」という考え方。

 それが齎すものは、何もありませんでした。

 あったものは、一つ。

 自分が持つ意志を人に預け過ぎた結果、私自身という存在を見失う結果だけでした。 

 

 

 その為に精神を病んだ、自分というものがわからなくなったと嘆く日々は続きました。

 でも、そんなものは。

 自分が選んでいない以上、誰にもその責任やら怒り・不満の矛先を向けることなど到底できませんでした。

 ここまで来れば、最早自業自得です。

 「貴方がこうしろ、と言われたから」「こうやって振る舞っていれば良い」

 そんなことを、誰にも言われた訳でもない。

 

 唯、馬鹿みたいに、只管に。

 人に委ね続けた私が報いて然るべき結末でした。

 

 

 

 

 自分軸・他人軸

 

 

 ここまで、自分軸・他人軸という言葉を使って参りました。

 今、こうして文章を起こしている私が思うこと。

 自分軸・他人軸の差異は。

 「自分という個人が持つ意志・感情・考え。それらを素直に受け入れ、責任を自負して発するか、他者という存在に委ねて妥協・諦めて、最終責任を他者に差し向けるか」

 私は、そう考えています。

 

 見方によっては、一見人に委ねてそれに従う方が簡単に見えます。

 その他者が自分よりも年配であったり、経験豊富であったり、立場的に上位であればあるほど。

 自分の意志や考えを無視すれば、その方が「的確かもしれない」し、その方が「社会的には正しいかもしれない」。

 

 でも。今の私は。

 

 その「的確かもしれない」「社会的には正しい」という判断はできません。

 否。判断するまでもなく、断じて「違う」とはっきり言えます。

 

 どれだけ他人から社会的・会社的に「正しく、従順である」と判断されても。

 そこに、自分の意志がなければ。

 

 私という存在は、無いに等しい。

 

 表現法としては悪くなります、が。

 他人に選択肢や自意識を委ねた段階で、その人は既に。

 

 

 他者に弄ばれている。

 

 

 私は、そう思えてなりません。

 もし、このような文章を通した思いや感情を汲み取られ、自分という人間が否定され、社会の一道具にされかねのならば。

 個人が抱くこのような意志が不穏因子として排除されても、私は厭いません。

 他人に自分という個を委ね続けた身でありながら。

 それでも、私は、自分を貫き通したい。

 他者や社会に翻弄される位なら、いっそのこと、葬ってくれた方が有り難い程です。

 ……立派なサイコパスですね、私。

 

 

 

 選択肢がある分、人は迷う

 

 

 身近過ぎる内容だけでも沢山なのに。

 

 人生の転換期だとか、分かれ目といった言われ方をされることが多い言葉。

 それは。自分の生き方を決定する瞬間。

 

 選び方次第では、どんな未来が待っているかが真逆になってしまう程大切なことです。

 選択肢に対するアドバイスや助言を貰うことはできても、最終的に決定するのは、他ならないその人自身です。自分が選ぶからこそ価値があり、納得する結末が待っている……と言われそうではありますが、私は別の考えも持っています。

 

 人からどう思われても、貶されようとも、蔑ろにされようとも。

 

 自分という意志を貫くことは困難である一方で、尊い。

 だからこそ、人に囚われる「他人軸」ではなく、「自分軸」を貫きたい。

 

 

 

 自分が決めるより、誰かに決めてもらった方が楽だし、責任転嫁もし易い。判断が難しい場面であればある程、尚更なのかもしれません。

 問題が起これば、「あの人がこういったから!自分に責任なんてない!」だとか。

 「あの時、人に言われたから仕方なかった!」だとか。

 「自分は悪くない!そう言ったあの人が悪いんだ!」だとか。

 間違いではないと、私は思います。

 自分の選択、という意志がなければ、他人に責任を求める。自然と言えば自然なことです。

 

 しかし、果たして。

 それで、自分が納得できるのか。

 頭では理解できても、納得できないと言えるのか。

 

 私は自分自身を否定し続けてきた結果、十年という時間を、人に委ねてばかりでした。

 そんな私が、偉そうなことは決して言えません。

 

 ですが、良いか悪いのか……そういった意味では、私は頑固です。

 

 相手が上司でも、先輩でも、目上でも他人でも。

 筋が通っていなければ、受け入れられない。経緯はどうであれ、ちゃんと説明がなければ反抗するという生き方を、いつの間にか身に付けていました。

 

 病気がどうとか、そういう訳ではない、と思っています。

 

 矜持、と言えば格好良く聞こえそうですが、そんな綺麗なものではありません。

 納得できなければ、相手がどうであれ、今の私は反抗的な態度を取ってしまいます。

 会社としては、ブラックリスト。反骨精神有りのクズと思わても不思議ではないと思います。

 私は、恐らく、どうしようもなく糞で塵で屑です。

 

 それでも構わないし、どう思われても構いません。

 私という個が抱いた思いだけは、譲れなくなりました。

 

 

 

 そんな私のことなど、さておき。

 

 

 生きることは、判断や選択の連続であると私は思っています。

 それを自分という存在が判断し、進み続けるのは困難で、険しい。

 葛藤し、どれだけ悩んでも、それが正しいかどうかはわかりません。正解と思ったことを選んでも、選ばなかったこととはまた別の苦しみや後悔が残ります。

 あの時、ああすれば良かった。もっと違う選択肢があれば、と。

 

 しかし、自分自身が道を見出して、決定すること程尊いものはない。私はそう思い、信じています。

 

 何が正しくて、何が間違っているかなんて、そんなものはわかりません。自分が進むと決めた道次第では、天と地に別ける程であったとしても。

 

 それを、自分以外の誰が判断できようか。

 

 しかし他方で、他人に委ねる、ということも必要になってくる場面。哀しいかな、生きる上では十二分にあり得ることであり、私はそうせざるを得ない時があると認識しています。

 散々否定して来ておいて申し上げるのもおこがましいと思われるかもしれません、が。

 

 然れど。

 選択したことで悔やむことがあったとしても。悩むことや、自分の選択を愚かだったと呪いたくなることもあるかもしれません。

 それ以上に。

 私は、自分という存在が選び、進んできたことは、他の誰でもない自分の意志を肯定した証であると思っています。

 他人から四の五の言われようが、哀れに思われようが、そんな小さなものよりも遥かに尊大な価値がある。

 

 

 幾重にもある道の中から、自ら選んだ道。それは自分への責任を負うことになります。

 同時に、周りに依存することなく選んだ勇気と自分らしさ。

 そういったことを、誇っても決して奢りではないと私は思っています。

 悩みに悩んで。葛藤を乗り越えて。別の道を捨てたその覚悟。

 自ら進んで選んだ道だからこそ、そういったものを抱くことができるのではないでしょうか。

 少なくとも、私はそう思っています。

 

 

 自分という存在の意志や感情の決定・受け取り方。

 場合によっては変えざるを得ないこともあったとしても。

 人に委ねるのではなく。

 喩え、意思決定の割合は少なくても。全体のほんの一、二割でも良い。

 自分軸、という名の「自分自身」の意志を貫きたい。そして、社会や情勢に惑わされることなく、多くの方々がそうであって欲しい、と身勝手ながらも願うばかりです。

 

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

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