【生きること・生き辛さ・価値観】自分は自分を、大切に ~悩みを聴いても、自我を忘れぬように~
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新たな年を迎え、少し時間が経ってしまいました。
今回ばかりは、時間の流れは歳と共に早くなる、と簡単に片付けられそうにない自分がいます。
昨年から受けた、それも、自ら望んで受けた心の痛みが。
ブログはおろか、私生活も仕事も潰しかけていたことに、今更気が付けたのだから。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
昨年はお世話になりました。本年もまた、よろしくお願いいたします。
年始の挨拶を差し置いて私情を吐露したこと、失礼いたしました。
しかしながら、やっと、少しは気が楽になれた気がしています。
決して軽やかではありませんが、こうして酔いや感情に任せず文章に、自分に向き合うことができたのが久しいと思えてなりません。
去年は一年の合間に、大きなことが起き続けました。
私なりに捌いてきたつもりでしたが、現実はやはり簡単ではなかったことを今になって痛感しています。
人間関係、と一言で片付けられないようなこと。
人の悩みを、その気もないのに打ち明けられること。
相談されて浮かれて、調子に乗って悩んでいる人へ相談役を務めるような真似事をして。
結果的に我が事のように感じて、勝手に苦しむなどという愚行も犯しました。
そして、時には親身になっていたつもりが。相手が唯の構ってちゃんだったということがわかった際は、込み上げる自己嫌悪に陥る日もありました。
年明け早々ではありますが、今回は戒めの意も込めて、記事を綴ります。
悩みを聴くことは、悪いことではない。然れど、決して全部が良いことではない。
最後は自分というものを、自我を侵食されるようなことがあれば、もうそれは悩み相談ではなく、単に利用されていることもあり得ることを。
自分は自分を大切に、と今年の目標宣言にする為にも、記事を書き連ねて参ります。
長くなりそうですので、前後編に分けていければと思っております。よろしくお願いいたします。
人間、悩みは尽きない
仕事をする上での悩み。
家族間での悩み。
他人との付き合いに対する悩み。
自分自身への悩み。
人は常に悩みを抱えていることを、個人的ながらもそのように感じて今宵を過ごしています。
のみならず、悩みの大小だけでなく、人に相談できるものか否か、生きる上での障害になり得るか。
自分自身のことでも理解できないのに、人の悩みを得て知ることは、当然容易なことではありません。
まして、対象が赤の他人なのか。会社関係なのか。その人にとって、大切な人に対してなのか。
考えれば考える程。深く読もうとすればする程、一個人の想像など容易に超えてしまいます。
私は基本、悩みを抱えたとしても人に吐露することは多くありません。仮に吐き捨てる時は、勝手ながら私が信用できる人にしか決していたしません。
理由は、簡単です。
悩みを打ち明けた所で、解決し救われるような道へ導いてくれることなど、この世界ではあり得ないことを知っているから。
喩え相談することで、束の間の安泰を得られるとしても、やはり私はダンマリを決め込む方を選びます。
根本解決できないのなら、ただ、自分の弱みを相手に見せるような行為。それが如何に無駄で無意味で情けないことであることを、知っているつもりだから。
なら、泣き寝入りするしかないのか。
そんなことはありません。
世の中はどうしようもないものだと割り切って、開き直って生きる。
私が数十年生きてきた中で到達した結論です。
こんな結論に至ることがなかった方も、大勢いらっしゃるかと思っています。
上手い解決法が見つかった方も、そうで無い方も。
人の生き方は、とても数え切れるようなものでは無いほど、無限です。
仮に私の意見が寂しいだとか、悲しい人と言われることがあったとしても、覆ることは決してありません。
私はそれしか知りませんし、他の人の生き方や悩みの捌け口を知り得ません。
良し悪しで判断などできないもの、それが生きることであり。
悩みとどう向き合うかの考え方の差異のようなものなのかな、と思っています。
誰もが闇を抱えて生きている
そう言いつつも、可能な限り足掻いてでも解決したいのが、ある意味人間の性なのかもしれません。
私も達観したような物言いをしておきながら……本音は、また別です。
過去に戻ってやり直したい、という気は更々ありません。でも、あの時違う行動を、言動をしていたら……と思うことは沢山あります。
それができないからこそ至った結論が前述したものであり、結局はどこかで思い悩む気持ちや感情を抑え込んでいるに過ぎないのかもしれません。
そういった方法が自分としては楽なことに変わりはなく、苛まれる位なら毒を飲むように飲み下して諦めて開き直る。
その方が、見たくない現実から逃避でき、だからこそ生きてこられたというのが本当のところです。
私の話は、この位にさせていただきます。
では実際はどうか、と焦点を変えると。
三種三用、千差万別。
人の数だけ、否、それ以上の悩みが点在しています。
昨今ではSNSの発展もあり、打ち明けられない悩みの欠片を散らすかのように世界中に発信する方も少なくありません。
直球で悩みを吐く方もいらっしゃいますが、多くは悩みの片鱗を見せるような文言を書き連ねる方の方が圧倒的であると感じるのが、私個人の思いです。
それだけでなく、面向かって神妙な趣で悩みの相談を受けることも多々あります。
勿論全てを知られたくないという防衛本能から、真に解決したい事柄が霞がかったやり取りが多くなりがちです。
どういう訳かは、私もわかりませんが。
どうも私という人間は、人から見ると「話をしやすい」と認識される嫌いがあります。
それも単に盛り上げ易いだとか、ノリが良いという訳ではないそうです。
悩みを聴いてほしい、話を聴いてほしい。
自慢でも傲慢でもなく、ただ真実として、そう言われることが沢山ありました。
先のSNSは、短い書き込みを見ては考察し、思いを巡らせて。
顔を合わせての悩み相談では、声色と顔色、そして言葉選びに悩む仕草を鑑みていく内に。
人の悩みは、抱える時間が長ければ長い程、解決への道は遠のくことを。
未消化に終わった悩みは、やはて精神と心を蝕むような闇へと変化していくこと。
そして、一度抱えてしまった悩みと言うなの心の闇は、悩み相談程度では晴らすことはとてもではないができないこと。
自分では、それを知っているつもりでした。
しかしいざ、人のそれを目の当たりにすると。
どうすることもできない無力さ。寄り添えない私の冷酷さ。人間という生き物の脆さ。
そういった思いが瀑布と化して押し寄せ、あたかも私事のように錯覚させて、結果自分を苦しませること。
昨年のいつ頃だったか……そんなことを思い知って以来、深読みと没入感のようなものが入り混じっておりました。
その末路が、ブログもまともに書けずに独り塞ぎ込むという、この様でした。
本記事では抽象的で個人的主観が強くなってしまいましたが、次回はどのような悩みがあったかを、底知れぬ闇に触れてきたかを具体的にお話しできればと思います。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。