【生き方・価値観】幸せって、何だろう? ~家族?お金?名誉地位?~
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朝の迎えを知らせる、小鳥たちの唄声。日が落ちた後の静寂に響く、蛙たちの鳴き声。
梅雨入りして久しいのに纏まった雨も降らないまま、暑さと涼しさを行き来する毎日が続いています。
極端な暑さや寒さを苦手とする私には、もう少し気温差がなく湿気のない日が続くことを切に願っている、白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
以前から度々目にしておりましたが、コロナ禍における今この瞬間、ことさらピックアップされたかのようにネット上で飛び交う言葉があります。
幸せ。
その定義とは、何か。何を以て幸せと呼ぶのか。幸せというものを感じている状態や心境、感情はどういったものなのか。どのような時に、幸せを感じるのか。
その逆である不幸についても数多くの視点から様々な意見・主張が飛び交っています。
幸せというと、漠然としながらも自分や周りが穏やかで、温かさに包まれているような情景。もしくは心安らいで自然と笑みに溢れて零れて、多少の不自由はあってもそれを寛容できる余裕さがある状態、と言えば良いのでしょうか。
曖昧な表現になって恐縮ではありますが、私なりに少しでも「幸せというのは、こういうものだ!」と具体的なものを示せれば尚良いのかもしれません。
しかしながら私は。自分が幸せだな、と思ったことがありません。かと言って不幸せさを感じているかと問われれば、それも違います。
極端な言い方をすれば、幸せというものがどういうものなのか、この歳になっても理解できていないのかもしれません。
幸せって、何だのだろうか。どういった気持ちや気分が、幸せというのだろう。
今回は、ふとした疑問から幸せというものが、どういうものなのか。
世間では当たり前のように囁かれ、流れているその言葉。私は幾ら考えても、辿り着くことができなかったものを、自分は本当に知らないだけなのか、別の感じ方をしているのか。
それとも、感じることを拒絶しているのか。
そんな私にとって、幸せとはどういうものなのかを自分なりに考えたことを、経験と憶測を交えながら綴っていきたいと思います。
幸か不幸か、感じる以前に
世間、特に報道で取り上げられるもので幸せという言葉を耳にする機会は多くあります。
芸能界に興味を全く持たない私には、誰が結婚しようが子どもが生まれようが、自分の生活に何一つ影響がないこと。知ったところでおめでとうという感情も生まれず、何よりも報道される有名人や芸能人の名前すら覚える気すらない私には。
余計に「どうでもいい他人事」と注目することも、関心を向けることは今でもありません。
地位や名声、知名度があれば注目されて当然のこと。比べる方が烏滸がましいとさえ思っていたこともあります。
しかし現実には、身近なところで幸せというものを垣間見る場面に何度も出くわしてきました。
十数年前に入社した同期が籍を入れ、結婚式や披露宴に招待された時。その時の彼らや、相手となるお嫁さんたちは、にこやかに笑い嬉しそうに声を上げていました。
私も元が付くとは言え、同僚の彼らが新たな門出に立ったことを素直に喜び、「気張らない程度に、いつまでも仲良く」と伝えてきました。
その度に返される「ありがとう」という言葉と共に返される表情は、私にはあまりにも眩し過ぎました。
式に招待されている身でありながら。
私はこの先、こんな屈託のない純粋な笑顔を浮かべる日が訪れることはないだろうな。
僻む訳でも羨むような気持ちもありませんでした。ですが実際に、自分が彼らのようになる未来を想像することはとてもではありませんができませんでした。
私の場合、機能不全家族にして家庭内別居。記憶にある限り、家族揃って談笑に耽ることも、真面目な家族会議のようなものもないまま、ここまで来てしまいました。
ましてや、男性というものを最初に学ぶ私の父親はどうしようもない位、碌でもない男です。
それを数十年も見続け、母も私に愚痴を零す有様である私の家族は、最早家族として成り立っていません。
よりを戻すつもりもなく、かと言って離婚することもなく、永遠に互いを敬遠し続けてきた両親。主張もないのに、酒の勢いに任せて独り言を喚く父。私が生まれる以前に夫である父に直接訴えることを諦めてしまった母。
身内という、最も血筋や関係の近い人間でさえ、そのような様を見続けきた私には。
家族を持つことや、新しい家庭を築くということが、幸せに結び付くことはありませんでした。きっと、これから先も。
では、私の中の幸せというものは、何なのだろう。
そんな素朴な疑問が、今更になって浮かび上がって来ています。
幸せ≒快感?達成感?心の満足?
では、幸せの定義とは何なのでしょうか。
私なりに調べ、感情として理解はできなくても、概要を知ることはできました。
ここからは引用を含みますが、私なりの解釈を加えながらお話ししていきます。何卒ご容赦ください。
それによると、幸せは「持続的により良い状態のこと」と示されており、専門的な分野では『ウェルビーイング』と称されているそうです。
その内訳として、5つの分野に分けれています。
喜びや感謝、愉快や愛といったポジティブな感情を持つこと。
没頭・没入できる体験をすること。
人と、特に家族などの親密な人たちとの関係を大切にすること。
人生に意義や目的、意味を見出し行動すること。
そして、何かを達成したり習得し自分自身や能力を向上させること。
私はこれらのことを、快楽に浸ったり達成感を味わうことで、心が満足すること。それらが幸せなのではないかと考えるようになっています。
つまり、様々な感情を一括にして幸せという言葉にしている、と言っても過言ではないとも言えます。
喩え短期的な、例えば志望校に合格した、試験に受かった、良い買い物をして満足した時に感じる感情も。
結婚や出産を経て、パートナーや自分の子どもの為に身を尽くしたいといったもの……それを、愛と表現すれば良いのでしょうか……や、自分が描いた世界や社会を目指して奮闘している時に感じる頑張りや夢や目標に向かい突き進んでいる時に感じる爽快感のようなもの。こういったものは終わりがない、長期的で継続的な感情と言うこともできるかと思います。
いづれにしても、ヒトは自分や他の誰かの為に一生懸命になり、時間や体力の消耗を忘れ去ることができる程身を投じ、快感その他の良好な感情に浸る。
その割合は人によって様々であると思います。
私の場合は、と仮に聞かれることがあれば。
とてもではありませんが、幸せとされるものからは程遠いところまで来てしまっている、と答えるのが関の山です。
幸せを幸せと感じることなく、ここまで来ていた
家族には元々期待など捨て、自分でも新しい家庭を築く願望も、今は忘却の彼方へ消え去りました。
生きることにも、年金や格差社会を見てきた今では、未来や将来という言葉に嫌悪するまでに捨て切り、叶うことなら早死できればと願ってさえいます。
社会での地位や名誉にも興味や関心のない私には、能力開発や役員に対するゴマすりをする上司を何度も見る内に、反吐が出る程の負の感情を抱いてきました。謙り、直接関係のない人に頭を下げたりヨイショする位なら、そうしたい人がすれば良いと思って久しい。
こうして綴ってくると、つくづく幸せとは無縁なのかもしれないと思いつつある自分がいます。
強いて言うなら没頭や没入することは沢山ありましたが、その時々に「自分は幸せだ」と考えたことがない、というのが正直なところです。
こう書くといかにも無感情とも見られがちですが、感情まで捨て去った訳では決してありません。寧ろその一瞬一瞬に感じたものは、今でも心の中に残り続けています。
趣味である車やケモノ、BEASTARS関連のものを買い漁って、一時的であっても所有欲に浸ったこと。
車を知って、沢山の知識や経験を持った車仲間と出会い、話したり行動を共にしたこと。
ブログを知って自分が抱え続けた思いや考えを、文章として書き連ねること。それを書き終えた時の快感。
私はそういった感情を、こう考えています。
単純な一時的なストレス発散のための快楽。もしくは、溜まりに溜まった鬱憤の捌け口。
今思えば、それらは幸せの一つ一つだったのかもしれません。
でも未だに、幸せだったと感じた記憶や経験が然してないと感じていることも、変わることはありません。
結局私には、幸せというものを理解し実感するには、経験も体験もそう感じられる心も、乏しいと言う他ないのかもしれません。
無理に幸せを感じようとしなくても
幸せとは何か。
それを知ろうとする好奇心と共に、私は幸せというものを具体的な形として求めていたのかもしれません。
特段そう思うに至ったのは、会社勤めするようになってからが顕著でした。
結婚し数十年という長い月日を送ってきた諸先輩から、顔を合わせる度に言われてきました。
早く結婚した方が良い。相手は職種を選んだ方が後々良い。一生独りでいることは寂しいものだ。
家族というものに幸せを見出だせなかった私は、そういった言葉を真に受け続け。
独り身でいることは、不幸せなことだ。いつの間にかそんな意識が芽生えていました。
しかしながら、今ははっきり言うことがあります。
私は独りでいる時間を、特別大切にしています。
これは別に、愛するパートナーに巡り合った人や家族を築いた人を僻むことも、対抗するように意地を張っている訳ではありません。
ですが。
パートナーを迎えられることが、幸せに結び付くとは言えないと。
独り身であっても、安らぐ時間があるのなら。
それが幸せと言えなくても、私には何よりも大切な時間だ。
周りから見て幸か不幸かよりも。
自分にとって、何が幸せに値するのか。
無理に人に合わせたり、世間に合わせるようなことを強いるよりも。
自分が、抵抗なく受け入れられることを、あるがままに受け入れて生きること。
そういったものが幸せの一つなのでは、と思って良いのではないかと私は思っています。
書きながらも、最後まで幸せって何だろうと結論付けることができなかったばかりに半端な文章になってしまいましたが、どうかご容赦ください。
今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。