自分を押し殺す必要性は ~心の声に、耳を傾けて~
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気温の落差に身体が中々追いつかないところを、暑さと冷え込みが交互に押し寄せる日が続いていますね。
状況の変化で心もお疲れの方も多いことと存じます。
せめて、このまま夏に真っ直ぐ行くことなく、穏やかな春の温もりを肌で感じられる日が続くことを願うばかりです。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか
私はと言いますと、あまりにも沢山の出来事を一気に目の当たりにしたことで、これまでの人生の中で最も自分自身を省みる時間を過ごしておりました。
ここからは独白に近いものになりますが、どうかご容赦ください。
学生生活。就職活動を経て社会人として働き十数年。
カウセリングの力を借りながら、私はいつの間にか「自分というもの」をすっかり忘れ果て。
我儘も自分の思いも、「本当はどうしたいのか」ということも投げ捨てて、人に尽くすかのように合わせることを続けていたことに気が付くのでした。
このような書き方をすると如何にも被害者面をしているかのように見えるかもしれませんが、事実は異なります。
私という人間が、無意識的に行ってきた結果の積み重ね。
より極端な言い方をすれば。
人に嫌われない、捨てられないようにする為。
子供ながら必死に考え、生き永らえる為の処世術のようなものでした。
私は機能不全家族に起因するアダルトチルドレンのようです。
カウンセラーによる、アダルトチルドレンや機能不全家族診断の結果、どうやら複数のタイプを包括しているとのことでした。
薄々そうなのではないかと勘付いていましたが、この結果は、私の想像を上回るものでした。
詳細はより落ち着き、冷静になった際にお話しさせていただければ幸いですが、複数数タイプのアダルトチルドレンを抱えるということ。
驚く私に、カウンセラーは珍しいことではないと、優しくそっと伝えてくれました。
思い返せば、これまで過ごしてきた私の生き方に抱き続けていた違和感。
そのほとんどが腑に落ちました。
どうせ私なんて。私なんかが幸せになれる訳がない。そもそも幸せって、何?
私のことなんて気にしないで。独りで平気だから。私なんかより、他の人と楽しんで。私がこの場所にいなくても、別に問題ないだろう。
おちゃらけてバカ言って、少しでもみんなが笑えたり和めば良いな。難しい顔して黙り込む周りが、耐えられない。場違いであったとしても、空気が読めないと思われても、みんな笑顔でいられるのならそれで良い。
この記事を綴る合間に浮かんだものでは、このようなものが挙げられます。
諄いようではありますが、これらは全て。
意識的、無意識的に拘わらず、全て私自身が感じ行動に反映させてきたことです。
そして、自分が「本当はどうしたいのか」という意志はなく、只々「自我を創り出せなかった結果」人に全てを委ねていたこと。
仮初であったとしても、人が喜んでくれることで、捨てられないようにするのなら。
私自身を偽り、押し殺す。
色々考えて模索するよりも、私という一人の人間を犠牲にして済むのなら、その方がずっと簡単だったから。
自分を押し殺して物事が円滑に進むのなら、私はそれで構わないと信じてやまなかった。
このような思いは、休職に至ったことを切っ掛けに限界と疑念となって噴出することとなりました。
そう、休職は飽く迄切っ掛けでしかありませんでした。
然れど、記憶のない頃からの行いはカサブタと成り続けるだけに留まらず、種々の感情や想いを殺すことで膿んでいきます。
膿んでも尚、身体は大きくなり歳だけは取っても、積もる想いは悲鳴を上げ続けます。
見て見ぬ振りをしても、腫れ上がっていきます。
それがいつの日か、許容できる範囲を。耐えられると「思い込んでいた」領域を超えて、制御など受け付けず暴れ回ることとなります。
これが、言葉として表せる私です。
アダルトチルドレンは、タイプによってHSPに関わるとのことでした。
が、今の私が言えることは。
本当の自分を、幼い頃に抱いていた願望は。
家族に求められることではありません。
かと言って人に、赤の他人に求められるかと問われれば、哀しいかな、それも難しいと思っています。
そう申し上げると、では結局八方塞がりで苦しみや辛さを抱えるしかないのか……と考える方もいらっしゃるかもしれません。
でも、私はそうではないと確信を持っています。
自分を押し殺してまで、人に尽くす必要なんてどこにもありません。
ならば、「本当はどうしたいのか」「どうしたかったのか」。
「安心する為に、どう生きたかったのか」。
悲鳴を上げ続ける自分の声を。心の叫びに耳を傾けること。それが最初の一歩なのだと私は思っています。
綺麗事に聞こえると思います。それは十分承知しています。
逆に考えれば、そのような思いを抱えながら知人や友人、身内に話をして通用するか……ということです。
私は、それが叶いませんでした。
身内は論外としても。
知人友人にいきなりこのような話をしても、「互いに」理解し合い安息を得ることは難しいと思っています。
何故なら、と思うよりも答えは簡単なことだと私は思います。
主観的には「こんなに苦しいのに!なんでわかってくれないの!?」となったとしても。
余程のことがなければ、「えっ……?」と困惑されると同時に。
何言ってんだこいつ。
そう思われるのが関の山と、私は思います。
当然といえば当然、その人にも悩みや葛藤は大小問わずあるはずです。
それだけで手一杯のところに、救いを求める一心であったとしても。
直接言われることは稀にせよ、重過ぎる、と距離を置かれる可能性は大いにあります。場合によってはそれで縁の切れ目になることもあり得ます。
何より、「半端な優しさ」によって、互いを破滅しかねません。
なら、どうするか。
辛い、苦しいだけでなく。
自分が行っていることを、純粋に「楽しい」「嬉しい」と思えているかどうか、それを聴くことなのではないかと思うのが、私の答えです。
勿論仕事上では、そう考えることは難しいと思います。仕事を純粋に楽しめる方もらっしゃる他方で、仕事は「生きる為の金を得るもの」と考えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ちなみに私は後者です。
生きる為の金であり、逆ではない、というのが私の信念です。
長くなってしまいましたが、もう一度だけ言わせてください。
自分を押し殺してまで、人に合わせる必要など、どこにもありません。趣味やプライベートのみならず、譬え生活の為の仕事であったとしても。
当事者である自分が、身体的にも精神的にも、死んでしまっては何も残りません。
人の悲鳴……愚痴や不満、滅入ってどうしようもなくなった声に応えることはできても。
存外、自分が発する声なき思いを感じ取って、聴くことは難しいかもしれません。
かく言う、私がそのそうです。
そうだとしても、どうか自身が訴える声にだけは、どうか応えてください。救ってください。
自分の想いをわかってあげられれるのは、他ならぬ自分だけなのだから。
またもや纏まりのない文章となってしまいましたが、程々に切り上げさせていただきたく思います。
今は少しずつではありますが、私という人間を理解しながら。
願わくは、私の経験がお読みになる皆さんの足しになれれば、幸いです。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。