【生き方・人生】許すこと ~相手を。自分を。~
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2月も、いつの間にか数日を残して過ぎ去ろうとしています。
2020年という新たな年を迎えて、お正月をのんびり過ごして。
御用始めからかつてない程の忙しさを経験して。
例年の如く冷え込むことも極わずかで、雪はおろか、車道が氷に覆われる日も片手で数えられる位しかないままで。
片や、新型肺炎の爆発的流行によって、予定されていた研修や車の集まりさえ、全部中止になってしまいました。
何もかもが、いつもと違うことばかりを経験してきたつもりでいながらも。
一年という限られた月日は、身の回りだけでなく、世界を、人間という存在を脅かすことが起こっても。
無慈悲なまでに、無意識のままに過ぎ去っていってしまうと思うと共に。
一個人の感情や思いなどお構いなしに、時間の流れはどこまでも平等であることを感じ、無意味に黄昏れるような思いに浸っている、白兎です。
皆さん、おはようございます。如何お過ごしでしょうか。
日常生活を営む中で。
家族であっても、会社の先輩後輩、または上司であっても。
時には、自分自身であったとしても。
誰かに対して、苛立ったり責め立てたいと思うようなことは、皆さんはありますでしょうか。
腹立たしいあまりに、その元となった人間を叱咤する。
状況次第では、声を荒立てて怒りを顕にすることもあるかもしれません。
或いは。
他の誰でもない自分自身に苛立って、不満を募らせて。
自身を呪いたくなる程、憎んでいらっしゃる人もいるかもしれません。
何故このようなことを書き始めたかと言うと。
私は、自分自身を誰よりも憎んで、呪って。
生まれたことさえ憎んでんばかりで。
人はおろか、自分を許すことができずに生きてきた、その一人だからです。
そんな考えに囚われ、私は十数年という時間を共にすると同時に。
どうすれば、罪悪感にも似た思いを、思い出を消すことができるのか。
負の感情を払拭がにしたいが為に数多の時間を費やし、調べてきました。
ですが、そのほとんどは。
求めていたものとは、程遠いものばかりでした。
しかし。
一つだけ疑い半分でありながら、実践し続けてきたことがあります。
何度も挫折しましたが、今はその甲斐あって、何とか自分というものを理解して、少しずつ受け入れ始めることができて参りました。
それが今回綴っていこうと思っている、許すことです。
許すということ
許す、と聞いて。
皆さんはどのような思いや感情が芽生えるでしょうか。
日本語としての「許す」の定義として捉えると多岐に渡りますが、今回私が綴っていこうと思っている内容に絞った上での意味は、このような感じになります。
罪や過失を、咎めないことにする。
罪や過失、と聞くと犯罪を連想させるかもしれませんが。
より身近でも、頻繁に起こっていると言い換えることができると思います。
例えば、仕事上での凡ミス。
それが職場内で収束することもあれば、クレームを始めとする問題から更に発展して。
取引先に迷惑をかけたり、信用問題に派生することもあれば。
家庭内でも、些細な言い回しの問題や感情任せの発言から、口喧嘩沙汰もなる。
家族間だけでなく、もしかしたら育児や進学といった、子供の一生響くことに成り得さえするかもしれません。
たった一つのミスや一言であっても、当人以外の誰かから見れば、「この野郎」「勝手なことを」と思われるかもしれないこと。
それを、「今回は仕方ないが、次は気をつけろよ」と職場で叱責する。
「そんな言い方しないで、もっと前向きに行こうよ」と家庭内で意見する。
許すということは。
喧嘩沙汰といった大事にならないように、事態を収束させる為に。
程度の差はあっても、相手の行為や発言を真っ向的に否定しないことだと、私は思っています。
加えて、ここで敢えて対象を明確にしていないことが重要になっていると思っています。
誰かが犯してしまったことを、咎めないこととする。
それは、職場の社員や身内だけでなく。
自分自身ですら対象になることも十分ある、と私は思っています。
他の誰でもない、自分以外の人間以上に。
自分自身を許せるか否かとなれば。
許す、ということは格段に難しくなると共に。より複雑になってくる。
私は、そう思わざるを得ないのです。
許すことを、簡単にできないことも
例えば、失態を晒してしまった人が。
「申し訳ありませんでした。以後気をつけます」という謝罪を述べる。
もしくは家庭内で、「さっきの言ったことは、その、悪かった」と謝る。
仮にその場や、その瞬間は収められたとしても。
個人的に。時には集団的に。
怨恨や疑いが芽生え、残ることで、許すことを難しくしてしまうことは少なくないと思っています。
失敗や失言をしてしまった人間が、どれだけ誠意を込めて謝意を示したとしても。
その全てが、「他人」という存在に伝わり切るとは、私は思えません。
初めての失敗であれば、まだしも。
例えば、それが何度も何度も繰り返されているような状況であれば。
「またかよ」だとか。「いい加減にしろよ」という、個人的な憎しみを買いかねないだけでなく。
最悪の場合、「こいつはダメだ」とレッテルを貼られて。
最期まで「許されない存在」として扱われかねません。
私が、誰かを許したり、許されたりすることが簡単ではないと思う理由は、そこにあります。
自分がどれだけ「ごめんなさい」と償う思いで。泣くように許しを請う思いでいたとしても。
他人には、必ずしも全てが伝わるとは限らないと、思っている為です。
そうやって、他人に許されることを考える以上に。
許すこと自体が、難しいことがあります。
自分自身を、許すことです。
他人に対して、自らの過ちや失態を。
受け入れられるか否かは別としても、言葉として。或いは態度や行動を以て示すことは、できると思います。
音場は汚くなってしまいますが。ある程度なら、環境や他の誰かに押し付ける形で、誤魔すことも多少はできると思います。
でも。
自分自身が行ってきたことに、罪悪感や過ちを自覚し。
それを忘れ去ることができない程、強ければ強い程。
誰かを許すよりも、自身を許すということは。
遥かに困難なことであると、私は自覚すると共に実感してきました。
自分の失態を、何かに押し付けるということができないからこそ。
失態や失礼に値する行為をした、当時は正当化してきたとしても。
いつかそんな行動を取った自分に苦しんで。
「もっと、別のやり方があっただろうに」と悔やんで。
最後は、過去という取り返しの付かない出来事に対して行動を自分なりに選択した自身を。
何年も。十数年も。何十年経っても。
悔いるという形で、自分を許せないまま過ごしてきた。
少なくとも。私は、そういった人間の一人でした。
許すこと=許容して認めること
誰かを許したり、自分自身を許すこと。
許すという単語は簡単に見えて、実際にそうすることは難しいことです。
私も許すという言葉に囚われて、何年もの間、許すとことに拘り続けてきた結果。
どれだけ素晴らしいことや納得させられる言葉でさえ、全て「許すなんてこと、できない」と拒絶し続けて来ました。
許すことが言葉以上に容易でないこと。
それは相手や自分に対する「恨み」や「憎しみ」が強ければ強いほど。
自分が折れることで、許さざるを得ない為ではないかと、私は思っています。
そこで、相手をや自分を「許す」ことを、上から目線で捉えるのではなく。
許すことを、冒頭で申し上げた「咎めない」こととして捉えれば、少し変わって来ると思っています。
咎めない。
言い換えれば、「間違いや過ちを犯した」人を許容して、認めることだと、私は思っています。
喩え一時的であったとしても、その人を拒絶することなく、「仕方ないな」と許容する。
もしくは、完璧に見える人間でも「そんなミスもするんだ」と認める。
それだけでも、許すという事柄に対して、少しでも寛容的になれると、私は信じると共に。
喩え、客観的には判断のしようがない、自分自身という存在に対しても。
過去、どれだけの過ちや周りに反するような態度を貫いて。
それを否定されて、拒否されたことがあったとしても。
「あの時は、そうせざるを得なかった」と自分を認めて。
拒否され拒絶されたことも、「そんなこともあったな」と許容する。
とても難しいことを申していることは百も承知です。
他人は元より、過去や今の自分自身を認めて、許容することは、簡単なことではありません。
私も、十数年の時間を費やして、ようやくそうやって人や自分を、少しずつ認めて許容し始めることができてきました。
それ位、人や自分を認めて許容して。
許すことは、この記事だけでなく、誰かが同じように発信する情報を頼りにしても、果てしなく難しいことです。
私が、個人的に思うことは、ただ一つです。
誰かを、自分を許せずに苦しんでいる人が、許すというキーワードを頼りにしながら。
それを鵜呑みにすることなく、飽く迄参考程度に留めながら。
人それぞれが異なる経緯や思いを抱えるからこそ、「自分自身と向き合う」ことが許すことの始まりだと、私は信じています。
誰かを、自分を「許して」、今という時間と真剣に向かい合いたいという気持ちと共に。
その為には誰かを、自分を「認める」という単語が飛び交う中で。
まずは、一番難しいかもしれない、自分自身と向き合うことから始めて。
それからどうするかを考えても、決して遅くはないのではないでしょうか。
貴方は、多少「こいつとはウマが合わない」と思う一方で。
誰かを認め、許すこと。
そして。
貴方自身を認めて、許すことは、できますでしょうか。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。