【生き方・メンタル】脆過ぎるメンタル 〜強く、なれるのか〜
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見上げると、月や星々が輝く、晴天の夜空。
派手さや強調が色濃い街並みの灯りと違って、地上を淡く、優しく照らしてくれます。
いつまでも眺めていたいな。そんなことをしんみりとする夜です。
皆様こんばんは、白兎です。如何お過ごしでしょうか。
実は今、大分落ち込んでおります。
仕事でミスを犯し、危うくクレーム沙汰になりかけてしまいました。
幸い現地の方が迅速対応してくれたお陰で事なきを得ましたが、ミスのことを指摘され、途中経過を待っていた私は、気が気ではありませんでした。
また、誰かに迷惑を掛けてしまっている。
一緒に仕事をこなしていた上司や先輩たちからは、「誰だってミスするんだから」「次からは気をつけような」と気遣い、優しく諭してくれる中で。
私は、ただ狼狽することしかできませんでした。
それから仕事を続けて参りましたが、誤入力したり確認項目を怠ってやり直したり、凡ミスを散々やらかす有様でした。
まさに、負の連鎖。
沢山のフォローを貰い今日の何とか仕事を終えることができましたが、帰路に着く私は、馬鹿が付くほど凹んでおりました。
相変わらず、私はメンタルが弱いにも程がある。
失敗を踏み台に、なんてできない。
前書きからどんよりとした雰囲気になってしまいましたが。
今回は、メンタルというものについて。
以前お話しした、「謝罪よりも感謝したい」というものを織り交ぜながら、綴っていきたいと思っています。
気付けばごめんなさい、と言ってしまう
以前お話しした記事で、私は何かあるごとにすぐ「ごめんなさい」「すいません」と口走ってしまうことを触れました。
それは心からの、本当の意味での謝罪ではなく。
飽く迄も、弱い自分を守ろうとして。
相手から敵意や失望を向けられないように。
そうしなければ生きてこれなかった、いつの間にか身についてしまった処世術でしかない、と自分を振り返って改めて思っています。
決して同じだ、と断言などできません。
ですが、私の友人も、同じように苦しんでいます。
勝手ながら。
同じ思いを抱いている人がいるんだ、と安堵している自分がおります。
いつもそうやって、都合よく味方を付けようとする努力ばかりして参りました。
然れど、まさに今この瞬間に。
「本当に謝罪しなければいけない時は、どうするの?」
と聞かれた途端に。
私の心は、精神は。
一気に綻び始め、身体が震える程怯えてしまいます。
本当に謝らなければならない時の、私は
本日の出来事のように、誰かに迷惑や手間を掛けてしまった。
その原因が、私自身であることが明白になった途端。
そこで冷静になって、直様非を認めて謝罪すれば、結果も異なってくるだろう、と思っています。
ですが、私には今でもできずにいます。
薄々「自分が悪い」と察して、思い始めた瞬間から。
平静を装う振りをしながら、動かす手の動きが、思考が徐々に鈍っていって。
目の前のことに集中することよりも、「ヤバい。ヤバイヤバイヤバイ」と混乱し。
問い詰められてようやく、口ごもりながら、しどろもどろしながら。
「申し訳、ありませんでした」と、始めて謝罪するに至ります。
実際の今日のやり取りでは。
「現地から設定不備があったらしいんだけど、誰が設定したかわかる?」
という言葉から始まりました。
最初こそ、「これまでチェック項目や複数確認を増やしたのだから、今更そんなこと」と私は強引に無視するように設定作業を続けていました。
しかし、現実は。特段仕事という舞台では、曖昧という言葉は許されません。
「今現地で手直ししているみたいだけど、この端末だって連絡が来てるんだよ」
端末の更新リストを見せられた瞬間。
設定すべくタイピングする私の手が、止まりました。
設定不備の端末を弄ったのは。
紛れもない、私でした。
わかった途端、私は続けなければならない設定すらまともに出来ないほど、困惑し混乱しておりました。
周りが訝しむ中、「ごめんなさい、私です」と素直に認めて謝らなければいけないのに。
私の口は、そう言いかけて、声に出せないまま戻すという、最後の最後まで逃げようと必死になるという姑息な真似を取り続けました。
そして。
勝手に逃げておきながら、最後は弁明もクソもない状況になって、やっと私は「それ、設定したの、私です」と、余りにも小さな声で非を認めるに至りました。
小さな子どもでも、自分が悪ければ「ごめん!」と言えるのかもしれないのに。
私は、そうやって逃げ回って、逃れられない状況に追い詰められて。
始めて「申し訳、ありません」と詰まりながらも謝罪したのでした。
情けないと恥じる以前に、人として、社会人としてそれはどうなんだ、と詰問されても……私は。
現実に立ち向かう度胸も。
非を認めて謝罪するという当たり前のことも。
そうやって自らの過ちから生じた、人への迷惑を顧みることもできませんでした。
ただただ、自分が迫害され立場を追い立てられることばかり恐れることを避けることばかり考えている私は。
いつまで経っても、脆すぎる程の心と精神を抱える、唯の臆病者です。
文化の違いがある、とも言われてる
閑話休題。
先日、安全に分類される講習を受けてきた時に、講師の方が発した言葉があります。
「日本と諸外国では、文化や考え方が根本的に異なっていると言える」
それまで教科書をただ読むだけで退屈だった講義の中で、思わず聞き耳を立てるように、私は聞き入りました。
「海外では『人間はミスをする生き物であるのだから、ミスを許容した上で最善を尽くす』傾向がある。だからミスしても、最低限「命は助かる」ことを目指している」
一方で。
「日本は『そもそもミスをしないように、教育や訓練を積み重ねようにしている』」
と話していました。
私なりに要約すると。
海外では「人間なんだから、ミスや失敗することは当然のこと。だから、死に直結するような時になんとか助かるように工夫したり改善する」という文化があるようです。
日本ではその真逆で、「死に至るようなミスや失敗を未然に防ぐ為に、しっかり教育して徹底させる」という考えがあるとのことです。
要するに、ミスや失敗を許容するか否かで、講じる策は正反対になる、と私は解釈しました。
人間だから「ミスや失敗する」ことを前提にするのか、働く以上「ミスや失敗は許さない」というスタンスを取るのか。
人間という生き物だけでなく、生死に関わる事柄にさえ、それだけの違いがあるということを知るとても良いきっかけとなりました。
同じ、人間なのに。思いや考え方が違うだけで、そのような違いが生まれてしまう。
実際、日本ではそういった教育や訓練を積ませても尚、それを守らなかったが故に死に至ってしまった事故件数は、ほぼ横ばいだと力強くお話ししていました。
個人的な意見を申し上げさせていただけるのなら。
人間は、どれだけ注意したり教訓として理解していても。
失敗したり、ミスすることがあることは、今回のことも含め大いに有り得ると庵が得ています。
故に、「ミスすること」を恐れるよりも、「ミスすることを前提にして、どうするか」と考えることに、賛同します。
それでも、強くなって生きたい
話を戻します。
私が今日実感した実例だけでなく、ヒトという文化的な違いはあったとしても。
私が過ちを犯し、誰かい迷惑を掛けてしまったことは紛れもない事実です。
ましてや、その過ちが人の死に直結するようなことであったとするなら。
こうして綴っている私の思いや考えなど、脆弱で自分勝手です。
人のことなど蔑ろにして尚、自分を守ろうとしています。
そうまでして、守ろうとする自分の価値は……。
誰かの生死に関わってきた時、そんなものは零に等しい。或いはそれ以下の戯言と言えるのかもしれません。
私が抱え続けて離れない、脆弱な精神。
今は生死に直接関係することはありませんが、いつか、直結する事態に繋がるかもしれない。
その時に、私は自分を守り続ける弱さを跳ね除けられるのだろうか。
今の時点では、できないと断言します。
ですが、いつか。近いかもしれないし、遠い未来かもしれませんが。
世間に向き合う私の脆過ぎるメンタルを克服していきたい。
自分という存在を守る為に逃げ続ける姿勢を捨て去って、自分以外の人と共に歩んでいきたい。
文字だけでは安っぽくなりますが、これだけはちゃんと言いたい。
誰かと共に歩んで行く為には、まずは。
脆過ぎる自分のメンタル、精神を克服したい。その為に。
希望や夢といった、届かないような願望ではなく。
強く生きていきたいと、本気で思っています。
今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。