【生き方・HSP】優しさって、何だろう ~表面だけ合わせてきた罪~
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今年を漢字一文字で表すと、という記事が少し前にニュースになっていました。
「金」。
成程と納得する前に、短絡的・直感的に五輪・パラが開催されたことに対する一言なのだろうな、と断定するのは容易なことです。
それよりも、もっとお金欲しいですね。
はい皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
恐らく、この記事が今年最後のものになります。
今年に入ってから掲載ペースが大幅に落ちた私ではありますが、ここ数ヶ月は特に顕著でした。
私の2021年を表すなら、多分これになります。
人間関係と自己分析。
全てお話しするととんでもない長文になりそうなので、特に印象に残ったことを抜粋する形で綴って参ります。
まずは、人間関係。これは私にとって、永遠の悩みとも呼べるものです。
過去の記事でも何度か触れましたが、基本的に他人と関わりたくない、という思いが根源にあります。許されるのなら、独りで部屋に籠もって眠りに就き続きたいとさえ思うこともあります。
元々連絡を取り合うことも癖にさえなっていないことも相俟って、休日は独りの時間を過ごすことに苦痛を感じることはあまりありません。
と思いながら、公私問わず。
実際は幸いにも優しく声を掛けてくださり、車という共通の趣味を持つ方とも巡り合うことができました。
実務においてもわからないことだらけで、初動すら取れない私に仕事を振りながら一緒に一から遂行まで指導していただく毎日が続いております。
自分でやった方が早い。
その言葉が、不意に頭を過るのでした。
異動前、慣れ切った仕事に対してそんな思いを抱いていた私は。
自分がどれだけ傲慢であったか。
仕事を降る「フリ」をしているだけで、現実は人に聞かれ答えることに面倒臭さでいい加減な態度を取る、仕事を「投げ捨てる」仕方でしかなかった。
天狗になっていたあの時、前の職場の人々に不快感を、人知れず与えたいたことに気付かされれました。
だって。
わからない仕事を、前触れ無く与えられることが苦痛であったり、嫌気が差したり、時には「もういいよ」なんて勝手に苛立っているクソみたいな私にも。
親身にしてくださればされる程、温かくて、兎に角温かくて。
放っておこうと思えばできるのに、二ヶ月経とうとしても尚物覚えの悪い私に、何度でも同じことを。
怒ることもなく、変わらない優しい声音で導いてくださる。
なんで、そんなに人に優しくできるんだ。
私なんて、一つのことしかできない、不器用で馬鹿でどうしようもない奴なのに。
どうして。
人に優しくするって、何なんだよ。
こんな記事を過去に書いて、読み返せば読み返す程自分を正当化している私が、惨めに思えて仕方がない。
共感したい、わかり合いたいなんて綺麗事をほざいておきながら。
わかっていないのは、私の方じゃないか。
何が共感だよ、馬鹿馬鹿しい。
自分自身に悔しさと苛立ちと、嫌悪感が付き纏う。
自分が、醜い。穢らわしい。
自身を咒うかのような言葉が、思いが、感覚が押し寄せて。
休みの日はまともに動くこともできず、押し留めようととも溢れ出る負の思いに反論すること行動も思考も取れぬまま。
情けなく独り床に就く日が、果たして何時間、何日と流れたことか。
寝床に身体を横にしながら、同時に思うことが胸裏を引き裂いていることを自覚するまでに、時間はかかりませんでした。
性根は腐敗仕切っている、なのに。
何で、私なんかに。
悩みを話し易い。
そう言われるだけは、職場、プライベート問うことなく変わりありません。
自分なりに「近寄らないで」と見せているはずなのですが、時には人生相談クラスの重い話や凄惨な話を聴くことも珍しくあります。
現職場も後輩の子が、様々な悩みを話しに私の元を訪れています。
一度だけ「私って、そんなに話しやすい?」と無粋ながらも聞いてしまいましたが、数瞬の間もなく「めっちゃ話しやすいです」と笑顔を見せられて、私はますます困惑しています。
話を聴くことは、私も苦ではありません。寧ろ好きな位です。
然れど、いつまで経っても「こんな私が、聴いてもいいのですか」という気持ちはどうやっても拭うことができません。
私の数少ない友人、たーぼぅさんも。
私は記事として上げることはできませんでしたが、お会いした当時は相当参っていることがひと目みてわかって。
話す口調や声も疲れ果てていることを瞬時に理解いたしました。
その時は愚痴大会+αで終えました。
でも。
あの時、私は友人の心に本当に寄り添えたのか?
そう思う自分がいます。
前述した後輩さんも、同じ感覚を抱きました。
聞いてくれるだけで良い、彼女はそう言いました。
そう言ってくれるのは、純粋に嬉しい。
嬉しい、でも、本当にそれで君は良いのか?
もっと話したいことが、あるんじゃないのか?大丈夫というけれども、何を以て大丈夫と言うんだい?
これは、私が思っていた以上に冷徹なのに深入りしようとする嫌いがある、ということに起因する結果が齎したものだと考えています。
元々、人とは何かが違うと感じ生きてきました。
原因を突き止めるべく死物狂いで……それこそ、簡単に同意など得られないとわかっていながらも……調べに調べを重ね、私なりに噛み砕いて咀嚼して。
得られた結果が、HSPやHSS型HSPでした。
病気でない以上、診断そのものは当人でしかできません。喩え一時の感情や考え方に巻かれる形でHSPという結果に行き着くことも十分あり得ることだと思います。
しかしながら、少なくとも、という前置きを置かせていただけるのなら。
HSPを決定付けるとされる「DOSE」をほぼ満たしています。
興味があることには積極的に話していくのに、そうでないものには「うんうん」と曖昧な相槌を打つことが最早私の中では当たり前になって参りました。
両極端な事象を受け、結局捌き切ることができなかった私は、所詮その程度で中途半端な奴なんだなと思い今に至ります。
表面だけ良く見せて、裏では「興味のないことなどどうでもいい」。
相反する姿勢を見せ続けていく内に、私のような人間は一番タチが悪い半端者であることを自覚して、この記事を綴っています。
数年前に耳にし、今も耳を離れず独り聞く曲があります。
転載すること自体ご法度ながらも、承知の上で載せさせていただきました。
歌詞の中で、特に印象的だったものは。
「生きる意味なんて見出だせず、無駄を自覚して息をする」
「「寂しい」なんて言葉で この傷を表せていいものか」
「そんな意地ばかり抱え 今日も一人ベッドに眠る」
続けます。もう、今の私には止められません。
「自分が死んでもどうでもよくて」
「それでも周りに生きて欲しくて」
「矛盾を抱えて生きてくなんて 怒られてしまう」
……そう思って、何が悪い。
「「正しいものは正しくいなさい」」
「「死にたくないなら生きていなさい」」
……善を被った、脅し文句。よく言われました、中学時代に荒んでいた私は。
「悲しくなるなら それでもいいなら」
「ずっと一人で笑えよ」
悲しいと思った、虚しいと思った。
それでも良い、もしくはどうしようもない時は。
喩え励まされる言葉であったとしても。
そう言ったてめぇが、一人笑って過ごせよ。
年末を前にした言葉が、私の仕舞いになることは変わりません。
幾ら汚かろうが、下衆だろうが。
優しさを、最後まで理解できなかった、私の思いの全てです。
今回も。
今年も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
皆様、どうか。
良いお年を。