白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【車・価値観】せめて、愛車の中では紳士で-後章- ~車内にいる心理~

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 夏の到来を思わせるような灼熱の暑さがやってきたかと思えば、もう立秋が過ぎていましたね。暦では、もう秋となりました。

 もうすぐお盆。日本が古来より受け継がれてきた、現代でも貴重な行事の一つと思っています。

 盆過ぎれば暑さ和らぐかな。

 今年は例年以上に気温が上がらず、私の住む地域は寝る時には窓を開けていれば十分涼しくなり、下手すれば風邪をひくような今宵。

 他方で皆さんは暑さに負けず、しっかり睡眠を取れているか心配になっている、【やさぐれ紳士】白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 先日後悔した記事ですが、誤字脱字のみならず、目次と見出しがメチャクチャになっていることに後々気づきました。現在は修正しておりますが、お目汚し、大変失礼いたしました。

 また内容も車に関することだったはずが、後半は私の回顧録のようになっておりました。

 運転に関することを書くための切っ掛けとするつもりが、思いの外思い出に浸っていました。普段声に出して先輩や後輩に、或いは身内にも昔語りをしない分、気持ちが文章となって表れたのだと思っています。

 って、これは言い訳ですね。すみません。

 

 さて、前回書き切れなかった分について、今回綴って参ります。

 車を運転する心意気やマナー。道路交通法で定められている数々の規制ではまかないきれない、ヒトの精神に委ねられることは。

 実は、それまで慣用句や比喩として用いられてきたことでさえ、科学的や心理学的に立証され始めていることを知ったこと。

 それを知ってから、報道される運転に関わるトラブルや事故が続く中で、「自分が幾ら気を付けても、場合によっては相手を苛立たせたり逆撫でするようなことをしているのかもしれない」と思ったと共に。

 せめて自分だけは精神的・感情的な運転をしないよう、愛車の中では紳士であり続けたいと願い、意識し始めたことについて、思いを言葉にしていきます。

 

 尚前記事については、下記バナーよりご覧できます。よろしければ合わせてお読みいただければ、幸いです。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 「ハンドルを握ると性格が変わる」。それには根拠があった

 

 

 運転免許を取得して、実際に運転するようになって。

 

 皆さんもどこかで耳にしたことや、実際に指摘された言葉が少なからずあると思うものがあります。

 

 ハンドルを握ると、性格が変わる。

 

 普段は穏やかで柔和である人が、車のハンドルを握った途端に猛スピードで走らせたり。

 ハンドルを握るといつもの性格はどこへやら。周囲の車にだけでなく、歩行者や自転車にも暴言を吐き捨るようになってしまう。

 

 皆さん自身はそういった経験や、周りにそのような方はいらっしゃいますでしょうか。

 正直、怖いかもしれませんね。いきなり運転や言動が荒くなったりしたら……。

 

 私も、その一人。運転のみならず、車に乗って走り出した途端に心意気が大きく変化します。

 

 怖いかもしれない、と断定ではなく投げ掛けるようにしたのは、自分では怖いかすらわからない為です。

 

 私の場合は前回の記事でも述べた通り、罵詈雑言の激しさと気分次第で理性を失いかけるという危険なものです。

 安全運転だけでなく、事故を起こしたら自分だけでなく他人を巻き込むことになること。

 何より、小さなことでもすぐカッとなってしまう自分の器の小ささ。後続車がいないのに無理にこちらの前に出た車に、一々イライラして。その車がスピードに乗らずにノロノロしていれば更に暴言ばかり吐いて。

 ずっと気になりながらも、どうしても直すことができずにここまで来てしまいました。

 

 何故そのような心境になってしまうのか。

 血液型診断が流行っていた頃は、A型はそういった傾向が多いという、根拠も何もない、単なるせっかちな性格や律儀さが仇となってなどと、偏見も甚だしいものが散見されました。

 

 それは、本当なのでしょうか。

 

 そこで様々な文献を漁っていく内に、ハンドルを握ると性格が変わるという言葉は。

 最近ではより心理学的や精神学的に説明されてものが出てきていることを、皆さんは御存知でしょうか。

 

 興味深い文献がありましたので、ここでご紹介いたします。

 

 まず、ヒトという生き物は他の野生動物と比べて頭脳が発達しているという点を除けば、身体的にはとても特化した生き物ではありません。

 そんな弱い、私たちヒトが他の動物の頂点に立っていることができるのは、全身の体積と比較した時の脳の容量が、遥かに多種族を凌駕していることにあります。

 強靭な肉体や武器を持つ動物たちに立ち向かう方法は、自ら武器を作り上げて戦闘力を向上させるだけでなく、戦術や戦い方を本能と理性の双方で考えることで立ち向かってきたのではないかと、個人的に考えています。

 

 言わば私たちの先祖は、肉弾戦よりも頭脳戦で生き残ってきたとも言えるのではないでしょうか。

 

 さて、ではこのことと運転、車を操ることに同関係しているのか。一見関連性のないように見えるかもしれません。

 しかし私はとても興味深く、ヒトの生きてきた歴史が着々と受け継がれていることを示しているように感じてなりませんでした。

 

 そう思うに至った、一つ目の文献。

 それによると、ヒトよりも遥かに大きく力を持つ車に乗ると、その車に自分を重ね合わせてしまうことを無意識的に行ってしまう、というものがあります。

 

 元々、力という意味では大したものを持たなかったヒトは、その頭脳で開発してきた武器や兵器。それによって他の動物を狩っただけでなく、時には同じヒト同士の争いにも使われてきました。

 同じようにヒト自らが開発し普及させた車というものも、本来ヒトが持つ力を遥かに凌駕する能力を持っています。

 ヒトは、強いように見えて弱い生き物だと、私は考えています。ですので余計に、自分より更に強くて大きな車に乗ると、それがあたかも自分自身の力だと「勘違い」してしまう。その結果として、気が大きくなることで無茶な運転や他者を優越したような感覚になり。

 最悪は、他人を平気で殺めるような暴挙に出ることになるのではないか。

 そう思うに至りました。

 

 もう一つ、こちらは個人的に納得し腑に落ちたものです。

 

 それは、車という空間は外界から遮断され、一つの「空間」とて成り立っている、というものです。

 その空間には、限定的であったとしても外部からの刺激や邪魔が入らない場所と言えると、私は考えています。

 

 これは私個人の意見になりますが、ヒトは誰しも、個人的な空間を守りたいものであると思っています。

 喩えそれが家族でも、血縁者でも。

 

 一人きりになりたいと思う瞬間。多少の差はあれど、皆さんもあるのではないかと思っています。

 それを約束してくれる場所の一つ、それが車です。

 

 電車もある意味閉鎖された空間という意味では、車と同義かと思います。

 しかしながら、電車内は自分以外にも沢山の人が乗り合わせています。

 顔すら知らない誰かが、声を大にしながら喋り合う憩いの場。或いは学生さんが親しい子と、盛大に盛り上がる場でもあると思います。

 都のような人に溢れた場はともかく、私はそのような場に幾度となくでくわしてきました。

 公共交通機関とは一見綺麗な言葉に見えますが、実際は果たしてどうなのか。

 

 夕方の帰宅ラッシュの時間、車内は仕事に人付き合いに疲れているところで。

 ある人はアルコール飲料の缶を、車内の雰囲気など構わず開けて、飲み干して。

 仲間がいれば周りのことなど知ったことかと言わんばかりに声を張り上げて語るに語る。周囲の目など気にしたり気を遣うような様子も見せず、喋りたいことをただ喋り倒す。

 

 それ自体は、私は悪いことだとは思いません。電車というある程度安全が約束された場は気も緩むのも、わからなくないからです。

 

 でも。

 幾ら何でも調子が良すぎるのでは、と思う御仁がいるのも確かです。声の大きさだけで留まらず、自分語りで夢中……否、必死とも見える様を見れば見る程。

 

 家でやれ。出来ないならせめて節度位守れ馬鹿野郎。

 

 私は数えることもなく、そんな人を見てきました。歳など関係ありません。

 

 

 脱線しました、話を戻します。

 自動車というものも、規模の違いはあっても状況としては電車ととても似通っていると考えました。

 違う所と言えば、同じ車内でも周りに他人がいるか否かという違いだけです。

 然れどこの差は、思いの外大きいのではないかと思えてなりません。

 

 自分だけの空間。自分だけの車内。

 それは自室と然程変わらない場所。否、場合によっては家族にも侵されない唯一の空間と言っても過言ではないと思うのは、私だけでしょうか。

 

 昨今スピード超過やひき逃げといった事件が横行していますが。

 これもある意味、車内という領域に守られたことによるドライバーが、この上ない安心感と優越感に浸り切った結果、引き起こったものと思えてならないのです。

 

 でなければ、事故後の容疑者が「スピードを出し過ぎちゃった」だとか。

 現在問題になっている、バイクを追い回した挙げ句に追突させ死亡させたドライバーが。

「はい、終わり」

 といった事件。

 正気の沙汰ではない。

 

 そう片付けてしまえば、それまでです。しかし私は。

 ご遺族の方には申し訳ありません。そして加害者側に肩入れするつもりも毛頭ありません。しかしいい年こいた大人が、そんな子ども地味た発言をするとは、とても思えません。

 人を、車を使って殺したことが。言い訳にもならない言動で許されていい訳がない。

 

 なら何故、今もそのような事件がなくならないのか。

 私なりに追求すれば、追求する程。先に申し上げた、自分という空間を約束された車内。それを侵食したものは許さないという、ヒトの精神に起因するとしか思えないのです。

 

 

 絶えることのない運転のトラブルは、平ストレスを発散できないが為なのでは

 

 そういったトラブルを引き起こしたヒトは。

 もしかしたら、ストレスを別の形で発散できないからなのではないかとも考えました。

 

 ストレスは、今や現代病の要因と言っても言い過ぎではないと思います。

 特に今の日本は変に外国よりの働き方を見様見真似で取り入れた結果、日本人が本来持つ気質や性格に合わないものになっているような気がしてなりません。

 

 例えば、集団行動の美化は日本の文化でありながら。実態は成果主義という、外国の考え方。

 コツコツと仕事をしながら確実に生産性を上げる日本人の気質があるのに、求められるのは即時の結果と成果。唯でさえ生産性の悪さを指摘される日本の働き方に、外国の考え方を導入すること自体無理があると思うのは、私だけではない。そう信じたいです。

 

 そんな社会に立たされて、ストレスを感じることなく会社に貢献しろという考え方自体、無理があると思います。

 

 そこで受けたストレスを発散しなければ、私たちはとても生きていけません。まともに受け切ろうとなどすれば、精神を害し生きる意味さえ失いかねません。

 

 かつて、私がそうであったように。

 

 では、どうすればストレスを発散し健全さを保てるのか。そう考えた時に、私は思わず納得してしまうことがありました。

 先述した、車の運転での発散。これといった発散方法がなければ、一番手が付けやすい手段とも言えるかもしれません。

 

 どうしてそんな極端な結論に至ったか。

 例えば。

 高級車に乗って、周りの大衆車を圧倒する力を手にしているという『勘違い』。

 車に備え付けられた高度なサポート技術により、未熟であっても十分な技能を齎してくれる車の能力を、あたかも自分の技術であると『勘違い』すること。

 拍車を駆けるように、車内という独立した空間が他者を排除し、まるで自分が一番であると『勘違い』すること。

 

 日常生活では発散できないストレスを解消し、他人を蔑ろにしてでも自分というものを確立する為の場。それが車であり、運転であるのではないか。

  更に言えば、人によっては唯のストレス発散の道具に成り果てているのではないか。

 喩え事故を起こし人を殺めたり傷付けてしまうような、大惨事となったとしても。

 車を飛ばしている、その時は快感だったのかもしれません。

 しかし事故を起こした後は、自分は悪くない。車が悪い。事故に繋がるような運転をした他人が悪い。

 そうやって逃げるような言動しか取れないのではないかと、思えてなりません。

 

 

 然れど、車が好きで、運転することが好きになって。

 私という人間を変えてくれた車が。

 

 そんな都合の良い道具であって良いはずがないと、私は心底思えてなりません。

 車を、単なる道具として扱うな。

 そうはっきりと、申し上げたいのです。

 

 実生活はともかく、愛車の中ではせめて紳士で

 

 

 とは言いつつ、それも私という一個人が勝手に思うこと。

 誰もが思うことでも、そういった考えでいなければならないというとなど、烏滸がましいだけの思いに過ぎません。

 

 個人的には、道具としてしか扱われない車のことを想うと、寂しくてなりませんが。

 

 人の思いや考えは、変えられない。

 なら私ができることは、少ないけれど。一つだけ、出来ることがあると思っています。

 

 自分の車を大切に想うのなら、相応のマナーを自分なりに心掛けて実施する。

 これに尽きると思っています

 しかしながらマナーという基準は曖昧で、人それぞれ考えることが違う以上、定義はできません。

 

 だとするなら。

 

 せめて愛車の中では、私は紳士であり続けること。それが私が考える、車を運転するにあたっての最低限のマナーです。

 

 これまで何度かお話しして参りましたが、私はニヒルで将来など疾に捨てた碌でもない人間です。

 日常では親であろうが意見が沿わない時は平気で諦め、会社では理不尽なことでも出世の為ならば頑張る、といった思いも気合もありません。

 それでも、車という唯一無二の相棒と共に過ごす時間だけは、事故を起こさないことは大前提に。自分も、周りのドライバーも気持ちよく運転出来るような空気を、作り上げていきたい。

 譲ってもらった時は素直に感謝し、どんなに渋滞していても状況を鑑みて譲ったり。後続車がお急ぎのように張り付いてくるのなら、「お先にどうぞ」といった余裕を持つ。

 ウインカーを出さずに曲がってきたり、無理な侵入にも心乱されることなく、冷静にあり続ける。

 

 自分と人は、違って当たり前です。でもそこで張り合う労力と時間を浪費する位なら、せめて自分が乱心せずに許容するだけの器の広さを持ち合わせたいと思っています。

 

 かつてオフ会で茶々を入れられた、「ハンドルネーム通りの紳士だね!」と言ってくれた言葉を、実際の運転でもそうで居続けられるように、私はなりたい。

 その為にも、まずは今日から、そして明日も。喩え性根は腐っていても、紳士と言われるような運転ができる人を、私は目指していきます。

 

 

 今はまだ、相変わらず汚い罵りを口ずさむ未熟な私ですが。

 いつになるかはわかりません。

 でもいつの日か、必ず。

 

 

 

 今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 友人と共に、流し撮りに初挑戦。自分がハンドルを握る様を俯瞰的に見られるのも、新鮮で面白いです。