【車・生き方】無意識という恐怖 ~路上講習にて~
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梅雨というには、あまりに凶悪過ぎる豪雨。止むことを知らないかのように、各地で被害を出し続けています。
昨年の10月。私の住む長野も台風19号により多大な被害と犠牲が出る災厄となりました。今も尚、上田電鉄の繋ぐ橋は復旧の目処が立たないまま、一年が過ぎ去ろうとしています。
この度、被災された方々に対し、心からお見舞い申し上げると共に。
災害で亡くなられた方へ、謹んでお悔やみ申し上げます。
コロナ禍、豪雨、土砂災害。偶然という言葉では余り有る災禍の重なり方に、自然の驚異のようなものを感じております。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
「白兎」改め、以前よりSNSその他で使っているHNを用いることとなりました、「【やさぐれ紳士】白兎」です。
「やさぐれ」という言葉が世間的に見て、度々引っかかってきた経緯があり使用を控えて参りましたが、本ブログでは使用可能の確認が取れましたので、突然ですがHNの変更のお知らせとなります。
肩書?が付いた程度ではありますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。
近頃は法律の改正に伴い、様々な規則が抜本的に見直されたものが多くあります。
その中の一つに、道路交通法があります。
様々な規制や規則が変更された、車を運転する上で切っては切れない道路交通法。改正され厳罰化されたにも拘らず未だにニュースで報道され、横行することが止まないことを見聞きして、数年前に受けた自動車講習のことを思い出すに至りました。
今回は数年前に会社主導で受講することとなった、路上講習を経た経験を思い返す切っ掛けを経て。
道路交通法がより厳しくなったことで、もしかしたら、知らない合間に自分も煽り運転に加担しているのかもしれない。
法律だけでなく、自動車を運転する時の無意識に依存する動作や心理、感情について、私自身への戒めを含めて、綴っていきたいと思います。
- 無意識化された、車を動かすという動作の自動化
- 自動車学校を卒業し、免許を取得してからの客観的意見
- 「ブレーキが全体的に遅い。カーブ時も遅めだから、もっと早めのブレーキを意識して」
- ヒトが持つ「慣れ」の凄さ≠無意識に全てを委ねること
- 忘れがちだからこそ、意識し続けなければ
無意識化された、車を動かすという動作の自動化
二年ほど前になるでしょうか。
会社が計画した車の安全運転講習に参加して参りました。
自動車学校に赴き、教官が助手席に座る中、一般道を「普段どおり」に運転し、その後講評を頂戴するというものです。
私の務める会社は60歳過ぎの方も多く、また、新入社員も車を運転した経験が少ない者も多く、自損事故や加害や貰い事故が後を絶ちません。
特に20代、かつ車に興味のない若手は車に触れる機会も少ないことが仇となり、荷物を運ぶ比較的大型のSUVやワンボックスでの事故が数多く報告されています。
その対策の一環として、講習が多く導入されてきました。今回ご紹介する路上講習も、年代問わずに免許取得以来、独学や経験で多岐に渡った社員の運転技能や思考を少しでも正すべく。
教習車に乗り、横に教官がいるという中での運転は、やはり緊張するものです。教習車が愛車と同じアクセラでなくて落胆したなんて言えない
しかしそれでも、学ぶことはたくさんありました。
普段クルマを運転する中で、「意識して運転する」ということはかなり限られてくるかと思います。
発進の時、マニュアルの場合はクラッチを踏んだ状態でローギアに入れ、クラッチを少しずつ離しながらアクセルを踏み込んでいく。
オートマであれば、ブレーキを踏んでミッションをPレンジからDレンジに移し、クリープ現象を利用しながら少しずつアクセルを踏んでいく。
曲がる時はブレーキ、或いはエンジンブレーキを使って速度を落とし、曲がり角の角度によってハンドルを切る角度を……。
そういうことを、いちいち意識しながら運転なんてできないかと思います。少なくとも、私はできていません。
免許を取り立ての頃は、半クラだとか右左折時の後方確認を意識してやっていましたが、今ではほとんど、特に考えることなく運転するようになっています。
いわゆる、無意識での動作です。
一度習慣化したことは、頭で考えながら行うのではなく、身体が覚えたことをほぼ自動的に行う。私の思いとしては、人間という生き物が持ち得る非常に優れた能力であると思っています。
運転に限らず、朝起きたら顔を洗い、歯を磨き、身だしなみを整える。これもほとんど意識せず、習慣化されたことの一例と思います。
そんな無意識と対を成す、意識。つまり事象を目で捉え、思考し、動作すること。
この割合が、無意識:意識=1~3%:99~97%と言われているそうです。
それだけ特段意識することなく、物事を処理しているということになります。
自動車学校を卒業し、免許を取得してからの客観的意見
話が脱線しましたが、戻ります。
今回の講習を通して、無意識というものが優れている反面、怖いものであることを実感しました。
路上講習を終え、教官に言われた言葉。それは。
「ブレーキが全体的に遅い。カーブ時も遅めだから、もっと早めのブレーキを意識して」
というものでした。
たった30分の運転でしたが、そう見抜かれたようです。
言われた直後は「そんなことないと思うんだけどなぁ」などと思いながら、帰路に着く相棒との運転で、私なりながら意識して……俯瞰視点で見るような形で運転しました。
すると、です。
赤信号で前のクルマが止まっているのに。
頭の中では、減速が遅すぎる。ブレーキを強く踏まないと止まれない。
でも、身体は思考に従うことなく、「普段どおり」にブレーキを掛け、停車する。
交差点を曲がる時でさえ。
減速が遅くてオーバースピードのままコーナーに入ってしまう。もっと早くブレーキを踏んで減速しないと、膨らんでしまう。
でも身体は思考を無視して、「いつもの通り」ハンドルを切り、曲がっていく。
昨日まで走ってきた帰路が、まるで別の、全くの初見の道を走っている。そんな思いすら感じました。
それでも、必死に考える中でも、身体は無意識のまま、「いつも通り」動く。
正直、怖さを感じました。
無意識に、ただ「何気なく」行っていた自分の運転が、怖い。しかし無意識下に置かれてしまった「運転する」という動作は、思考を容赦なく上書きしました。
ヒトが持つ「慣れ」の凄さ≠無意識に全てを委ねること
一度でも「思考」を通すことなく自動化されてしまった動作。 それが恐怖を感じるようなことであっても、「無意識」のうちに行われる処理は、たとえ意識していても変えることが難しいことを痛感しました。
でも、その中でも。
私が今できることは、無意識で行っていた動作を「意識」して行い続け、上書きしていく……それしかないのかな、と思っています。
私の好きな歌の中で、こんな歌詞があります。
『失って気付くことさえ 人は繰り返し間違う』
今日感じたことが自分にとってどれだけ大切で教訓としなければ、と思っていても。
いつかは、忘れてしまう。
もしかしたら、明日の朝には……。
忘れがちだからこそ、意識し続けなければ
だからこそ。自分への戒めとして、今回の記事を文章として上げさせていただきました。
習慣化されてしまった無意識下の動作を、如何に思考して、意識して。それを変えていけるか。
果てのない課題であると自負しています。
ですが、明日も、明後日も、週末も、それ以降も。
いつかは頭の片隅に置くことになるかもしれない今日の出来事を、考え続けて、実行していきたいと思います。
出来っこないと決め付けず、自分なりに。
本日もご閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。