白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【HSP・感情】泣くこと・前章 ~弱くも、情けなくも~

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  緊急事態宣言の延長が決まり、より一層の警戒強化を一方的ながらも通達されることとなりました。

 益々先行きが見通せなくなってきておりますが、一人ひとりが出来ることを最大限に考え、苦慮しながらも。

 それでもこの絶望を乗り越えようと、奮闘しています。

 私も出来ることとして、外出は買い出しに留めながらも。

 それとは別に、息苦しさで窒息しないよう、降車しないことを条件に愛車を走らせるようにしています。

 自粛という言葉に縛られているだけでは、生きる意義を失いかねない。

 感染症拡大を防ぐことを目的としながらも、傀儡とならないよう自分なりに努めている、白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 波乱万丈という言葉が相応しいとさえ思える、この数ヶ月。様々な制限だけでなく、意味もなく飛び交い輻輳する情報に辟易し、或いは疲れ果てた方も大勢いらっしゃるかと存じます。

 

 このような時に、皆さんは不意に悲しくなったり、無力さに刈られて。

 涙を流すようなことは、ありますでしょうか。

 

 泣くことは感情の浄化、とさえ言われていますが。

 泣きたくなくても、勝手に涙が出てしまう時もあれば。

 反対に泣きたくても、涙が出てこないということもあるかと思います。

 

 ここで涙もろいだとか、涙腺が緩いだとか。

 感情豊か、情け深い。そんな言葉が出て来るのかもしれません。

 

 そう綴っている私は。

 正気、自分でも泣くことに関しては未だに把握出来ずにいます。

 

 どんなに辛くても、苦しくても。泣いたら弱みを見せることになると勝手に信じ込んだが故に、泣くことを止めた中学生時代。

 なのに、祖父母が他界して。見せかけの「さようなら」を繰り返してきた私が、本当の意味での別れを告げられて。

 そして、その気は無かったのに、車という趣味を通して交流を自分の意志で進めてきて。

 

 これまで我慢してきた訳でもないのに。音楽を流しながらの運転席で、或いはアニメのワンシーンを目の当たりにした時。

 感情が妙に昂ぶって、抑え切れなくなって。

 いい歳こいて、情けない咽び声を上げながら、思い切り泣き耽る時もありました。

 

 

 クドいかもしれませんが、もう一度だけ皆さんに質問を投げかけさせてください。

 

 皆さんは、最近涙することや。

 涙に明け暮れる時が、ありましたでしょうか。

 

 

 今回は、私たちヒトが持つ感情の一つである、悲しみや虚しさ。時には懐かしさや思い出に結びつく、泣くことについて。

 一時は涙を見せることが、弱くて情けないことだと決めつけて、泣きたくても泣くまいと誓いながら。

 それが決して弱いことでも情けないことでもないとわかった瞬間、堰を切ったように。行きどころを失った涙が、滂沱となった経験を交えながら、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 最後に泣いたのはいつだろう

 

 

 

 表題として掲げたものの。

 切っ掛けは別として。自然と涙が流れて止まらなくなったのは、果たしていつなのだろう。

 

 泣いたことを思い返そうとすればする程、怒りや不条理といった、別の感情ばかりが思い浮かんで、邪魔して。

 色々なことが有り過ぎて。自分が、純粋な感情さえ失ってしまったかのような錯覚さえ抱いてしまいます。

 

 なら、周りに植え付けられた感情だけでなく。

 かつて抱いた、強そうに見えて脆過ぎる程の。泣くまいと誓う以前の私は。

 果たして、どうだったのだろう。

 

 その思いと共に遡っていく内に。

 記憶の中で、一番古い思い出が浮かび上がりました。

 

 

 小さい頃の思い出

 

 

 環境や境遇は星の数あれど。

 この世にヒトの子として生を受けた瞬間、私たちは一人の人間として生きていくことを決定付けられます。

 

 幼少期はヒトとして最初に出会う成人たち、所謂両親たちを始めとして。その親である祖父母や姉妹兄弟である叔父や叔母たちに囲まれて、私たちはヒトとしての道を歩き始めます。

 その中で学んだこと、経験したことを糧にして。早ければ幼稚園や保育園といった児童施設に預けられ。

 同世代のヒトとの出会いが生まれて、喩え何となくであったとしても。初めて「自分以外の、同世代の他者」を認識するようになると思います。

 

 

 その頃は同い年の子たちと出会って。

 出会えただけで、互いにニコニコと笑い合いながら。言葉もままならないながらも、知らない間に仲良くなっていました。

 運動力や素早さの違いはあったにしても、遊戯の時間は様々な遊具を用いて遊びに遊んで、時には新しい遊び方を見つけたり。

 砂場では頭の中に広がるものを具現化しようとして。砂場一杯に、それぞれの建物や山を創り上げて。小さな、本当に小さな夢の楽園を形作って。

 室内では所々掛けて掠れ傷だらけのプラスチックブロックを手に取りながら、車や戦闘機を創り上げて、出来上がった時には満面の笑みを零していました。

 

 底なしの体力のままに遊び終えて、昼食を頬張った後は、お昼寝の時間を共にしながらも。

 とにかく友達と遊びたいという思いが先走るばかりに、寝付けずに保育士さんに諭される子もいました。

 

 いざ、お昼寝の時間を終えた後は午前中と同じように駆け回ったり。砂場で遊ぶ子も、ブロックで使って遊ぶ子も、その子が持つ性格が全面に押し出された形でありながら。

 手段は違っても、遊ぶという方向に意志が向かっていました。

 

 私は男でありながら運動力が然程ありませんでした。しかし、体力では到底敵わない男の子たちに誘われるがままに駆け回ることもあれば。

 砂場や女の子、ブロック作り男の子たちが集う中。私は創作意欲が先走って、周りの声が聞こえなく成程夢中になることもありました。

 そういう意味では、私は男女という差を気にすることなく、小さい頃から興味が向かうものに全力を注いでいました。

 

 

 今、まさに。自然と頬が緩んで。目元が自然と細くなって。

 

 何だか、すごく懐かしい。

 

 懐かしい、と思うことはあっても。こうして文章として書くことは久しいです。

 

 懐かしさや感慨に耽って、語り合う仲さえ失った私には、特段そう思うのかも知れません。

 

 

 

 母親の死を、間近に感じた瞬間

 

 

 時を経て。

 社会人の三年目にして、地元の職場に異動し、実家から通うようになって半月が経ったことでしょうか。

 祖父母の介護と仕事の両立に無理が募って。祖父が誤嚥性肺炎で他界して、約半年後の出来事でした、

 

 母が胸のしこりを気にして、夫である父を差し置いて。息子である私が立会人として切除手術に臨みました。

 母の意志を汲み取っての立ち会いとなりましたが、結果は思いも寄らない病に侵されていることを知りました。

 

 

 悪性リンパ腫。その中でも末梢性T細胞リンパ腫と分類されるものでした。

 

 全身を巡るリンパ腫であるが為に完治という概念がなく、更にT細胞リンパ腫というものは悪性リンパ腫の中でも稀であると告げられて。

 

 五年後の生存率は、当時25%程と言われていました。

 

 幸いステージⅠという早期発見が功をなした為、抗癌剤治療と放射線治療を併用することとなりました。

 母自身も、「そんなに心配しなさんな」と茶目っ気を押し出すかのように振る舞っていました。

 

 しかしながら、見舞いに行くのは決まって私でした。

 兄は仕事の都合上見舞い時間には間に合わないことは承知していました。

 

 でも、父は臆病がってか知りませんが、一度も母親の見舞いに行くことはありませんでした。

 

 夫であり父である者が、仕事に耽る振りをしていることは明白で。私には、それが我慢できずにいた私は、日を追うごとに。

 

 何が夫婦だ。妻の容態も見に行こうとも、見舞いに行った様子も聞こうともしないのか。

 

 直接聞けない事情があるのなら、メモ書きでも良かったのに。

 

 それさえしなかった男への、更に口汚い罵りをお許しください。

 

 どんな事情があったか知らないが、妻への心配すら見せない臆病者が。

 

 この時、私の中で父親はいなくなりました。

 いたとしても、戸籍上では父とされながらも、今尚目の前にするこの男は。

 酒の勢いでしかものを言えない、器が小さくてひとすら情けない。

 戸籍の上では父親とされることさえ、恥じらう以上に反吐が出る思いを。今尚抱き続ける結果となっています。

 

 

 話が身内に逸れて、申し訳ありません。

 

 本ブログで、私が「家族」と言わずに身内という言葉に拘る理由が、ここにあります。

 同じ家の下に住むものが、決して家族ではないと確信付けることに切っ掛けになったことは、紛れもない事実です。

 

 

 それはさておいて。

 

 私は就業後に病院へと車を走らせて。母の見舞いを兼ね、様子を見る日々を送っていました。

 そのこと自体に疲れたり不平を抱くことはありませんでした、が。

 

 限られた面会時間の中で、おぼつかない足取りで現れた母は。

 抗癌剤治療の負担でやせ細り、副作用で髪が抜け落ちて。弱々しい足取りで歩を進めることさえやっとでした。

 

 幼い頃から見てきた、喩え空元気であったとしても、気丈に振る舞って弱みを見せることのなかった母の姿は、すっかり影を落として。

 

 生きているだけで、ありがとう。

 

 そんな、らしくもない思いさえ抱かせて。

 

 面会を終えて、コンビニで買った弁当を虚しく食べる私は。

 時には、涙が溢れるばかりに食材に混じって。唯でさえ塩気のある弁当の味を、よりしょっぱくさせて。

 手に持つ割り箸さえ、無駄に力込む手の圧力で軋み上げる程でした。

 

 

 

 一記事では収まりそうになさそうなので、ここまでにさせていただきます。

 ご閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

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