白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【車・趣味】愛車と行く、冬と春の伊豆旅行 ~歌を通じて、訴えたいこと~

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 皆さん、おはようございます。如何お過ごしでしょうか。

 

 前回の記事で、日中帯のメインイベントを終えた私たちでしたが。

 

 晩御飯を食べた後には、疲れやストレスの発散の場である。

 カラオケに趣き、喉を鳴らしすことが最早恒例行事となっています。

 

 今回は伊豆旅行の夜にて、歌いに歌ったカラオケ。

 その中で、暗い影を落としている、今この瞬間の現代に対して。

 歌を、歌詞を通して訴えたい思いがあることを。

 歌って、語り合いながら見出したことについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 互いの愛車の特性とは真逆の声質

 

  車のオフ会の前夜祭として。

 或いは、今回のようなプチオフ会の後。

 それ以外にも、互いに会った日の夜には。

 ほぼ必ずと言っていいほど、カラオケで喉を鳴らすことが日課のようになっています。

 

 歳の差はあれど、私とたーぼぅさんは歌うことが大好きで、ストレスを発散するだけでなく。

 お互い声質の違いを目の当たりにして、聴覚から取り込まれる音色という情報が、互いの脳を刺激し、飽きることなく盛り上がり続けています。

 

 と言うのも。

 同じアクセラという名の車に乗るたーぼぅさんは、パワートレインがハイブリッドの愛車を駆っています。

 ハイブリッドは、モーターアシストを受けながら速度の伸びに長け、自然な加速力と伸びの良さが特徴です。

 一方で私は、ディーゼルを搭載する車を愛車としています。

 これまで記事にして参りましたが、ディーゼルはトルクに優れ、重い荷物を運びながら勾配を制する力強さを持つ反面、速度の伸びはお世辞にも良いとは言えません。

 

 お互い特性の違う愛車に乗っているにも拘らず。

 カラオケでは、それぞれの声質が愛車と相反する声色を持ち合わせています。

 

 たーぼぅさんの場合、低音域はカラオケの一室を揺るがす程の力強さとビブラートがとても素晴らしく、心地好さを感じてしまう程です。

 反対に高音域、特に突然音程が上がるような曲は苦手だ、と本人は言っています。

 

 その彼が歌う曲が、こちら。

 津軽海峡・冬景色。

 

 ※掲載については、双方共了承済み※

 

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 低音の響きとビブラートが心地好いと感じる程に、カラオケルームを支配します。

 

 

 一方の私が歌うのは、こちら。

 DEENの「夢であるように」。青春と言うには早すぎるながらも、最も印象的であり。

 今では十八番と自負する、一曲です。

 

 ※録画されていることを知らず、途中で思わず声を荒げています。またカラオケ終盤故喉が掠れかけております。お恥ずかしい映像となりますが、何とおご容赦ください※

 

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 私は、まさにその真逆です。

 低音は潰れてしまう程で、禄にビブラートもできません。

 しかし高音域は脳天を突き破る勢いで出すことができ、これまでも度々、周囲を驚かせることもありました。

 

 今でこそストレスを吐き出し、娯楽として楽しむだけでなく。

 自分の声に自信を持つことが出来た私ですが。

 

 

 一時は、人前で歌うことはおろか。

 声を出すことさえ躊躇う程に、恐れて。

 自分の声質を呪った結果。

 今でも発言の度に「ん?」と聞き直されるまでに小さくなってしまった自分の声を。

 まるで、後遺症のように。未だに引き摺っています。

 

 

 

 声変わりを契機に、歌う楽しさを失って

 

 

 ここからは、旅行記の記事から大分ズレる話になります。 

 

 

 幼少期から小学校高学年まで、私は元々高い声と声量を出すことができ、学級内でもソプラノを張れる程度でした。

 自分で語るには烏滸がましいと思いますが、クラス全体を引っ張れる程の自分の声や音感に自信を持てる程に。

 音楽というものが大好きでした。

 音符や符号は読めないながらも、当時は意識することもなかった、所謂耳コピを用いて。

 カセットテープから流れる音を、声を、再現する。

 その楽しさと「思い切り声を張れる」ことが、特技であり得意と思える程でした。

 

 

 しかし、音楽に対する楽しみは。

 小学5年生という、クラスメイトの中でも早い部類に入る、声変わりを経る内に。

 今まで何の苦労もなく出せた声が、日を追うごとに出せなくなり。

 その変化について行けない、自分の声に自信を失って。

 最後は、音程すら取れているのかさえわからなくなって程でした。

 

 その末路が。

 音痴と馬鹿にされ貶された、中学時代でした。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 これを切っ掛けに、すっかり自分の声に自信を失ってしまった私は。

 周りがカラオケに入り浸るようになっても。

 軽音部を始めとする、音楽を愛する人たちが学園祭で披露することにも。

 

 音楽というものに、関心を無くしてしまった私は、自らそういったものから遠ざかるようになっていました。

 

 

 カラオケに行って、自分が歌うことになった時に。

 またあの日のように、音ズレを指摘されて馬鹿にされるかもしれない。

 

 

 そうやって怖がって、逃げ回って。

 周りと同調することを、感化されることを、あたかも避けるかのように。

 ストレス発散目的に、自分の声を思い切り出すことを。

 カラオケに行くことを、自ら避けてきました。

 

 そんな私が、本格的にカラオケデビューしたのは、専門学生時代。

 端から見れば遅いと思われるかもしれませんが、その時に歌った曲は。 

 

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 かつて味わった、地獄や絶望など存在しない、理想郷を夢見て。

 現実世界を忘れるかのように入り浸ったゲームの主題歌だった。

 「夢であるように」でした。

 

 この曲は比較的高い声色を求められる曲で、カラオケでの原曲キーは「+1」に設定されています。

 それをいざ、歌い始める時。楽譜も読めないままで。

 自分の声に、すっかり自信を失って、マイクを握る手を震わせながらも。

 それでも、脳裏に焼き付いた記憶を。音程を頼りにして。

 歌い終えた時。

 

 専門学生のクラスメイトから、「上手いな!」「本当にカラオケ初めてなのかよ?」という称賛を得ることができました。

 当時は、卑下に過ぎる言葉ばかりを並べることしかできずにいました。

 

 しかし、それを契機として。

 いつの間にか忘却するかのうようにして、音痴と言われたことがトラウマと化して。

 自ら遠ざけるようにしてきた音楽を、歌うことを。

 久しいという言葉ですら表せない程にまで。

 自分の声で、歌うことを楽しめるようになっていました。

 

 

 

 

 思いの全てを、マイクにぶつける声に乗せて

 

 

 逸れた話を、戻します。

 

 

 カラオケの場を経るに連れて。

 羞恥心を通り越し、出すことさえ嫌っていた自分の声に慣れていった私は。

 今では堂々と声を、思いを。

 マイクに向かって、思い切り出すことができるようになりました。

 

 しかしながら、唯でさえ芸能界やアーティストに関心の薄い私は。

 レパートリーに乏しくあります。

 

 MAN WITH A MISSIONは曲のテンポや日本語訳がすっかり気に入り、片足を突っ込む程度のファンになっていますが。

 

 私の場合、どちらかと言えば好きなアーティストや音響、ノリという側面よりも。

 ゲームやアニメといった主題歌を聞き、直感的に「あ、この曲いいな」と思えた曲を聞き入って。

 その上で、歌詞を重視する形で、カラオケで歌う楽曲を少しずつ増やしていきました。

 

 歌詞は、人によって幾らでも解釈できるものであると、私は考えています。

 

 例えば。

 失恋を嘆くような歌があったとしても。

 率直に失恋歌と捉える人もいれば、愛しい物に対する鎮魂歌と受け取る人もいると思っています。

 

 無限大とも言える、歌詞に対する様々な捉え方がある中で。 

 私は、自分の経験や思いを重ねて、私なりの思いや感情を見出すようにしながら。

 自分の声で歌い上げる曲を、選んできました。

 

 

 

 先が見えない現代に、歌を通して伝えたい想い

 

 

 各々の持ち歌を歌い続けていく中。

 唐突に閃いたかのように、歌から、歌詞から思い汲み取るように。

 

 先行きの指標すら見えない、現代に伝えたいこことを。

 訴えたい思いを抱いていました。

 

 

 ※以下、歌詞引用有※

 例を上げると、TOKIOの「花唄」。

 『ああ、鳥が飛ぶ。急ぐ訳じゃなく。穢れゆく青空を、引き裂いていく。無力な自分と、恥じるその前に。絶望の風に羽広げて、舞う花吹雪』。

 

 DEENの「ひとりじゃない」では。

 『ひとりじゃない。もっと、自由になれるはずさ。プライドや猜疑心(うたがい)とか、もう捨ててしまおう。そばにいる誰かが、喜んでくれること。ひとを信じる始まりだと、やっとわかったよ。君に出会って』

 

 菅田将暉氏の「まちがいさがし」は。

 『間違いだらけの、些細な隙間で。くだらない話を、くだばるまで。正しくありたい、あれない寂しさが。何を育んだでしょう』

  『君の手が触れていた、指を重ね合わせ。間違いか正解か、だなんてどうでも良かった』。

 

 

 これらの歌を聞いて、歌って、思うことは。

 新型ウイルスによって、それまでの常識や「当たり前」が崩壊しつつある現代に向けて。

 激励とも、または諭しているかのように思えて、私はなりません。

 

 

 新型コロナウイルスが蔓延し、世界中を破壊せんとばかりに猛威を振るい。

 多くの犠牲者を出すだけで留まることなく、各国の首都が閉鎖されるという前代未聞の事態に陥って。

 果てには日本でも、首都閉鎖が懸念される未曾有の危機と混沌に支配されつつあり、未だ打開策さえ見えません。

 

 

 命に、ヒトという種の存続に関わる大きな問題であり、安易に意見することなど愚の骨頂。

 そんな思いが先走りながらも、歌の歌詞を通じて私が思うことは、一つです。

 

 自粛という言葉が蔓延る中でも。

 ヒトは、そんなに弱い存在ではないと思うと共に。

 

 未知の新型ウイルスによって、現実的に被害を被っている最中でも。

 

 

 ヒトは、無力と感じる前に、なにかしろ進むことができる。

 ヒトは、決して独りではない。

 ヒトは、間違いも正解も持ち合わせていない。

 

 

 勝手な娯楽の中で。

 私は、そういった歌に鼓舞される形ではありますが。

 報道や世論に惑わされない強さを、ヒトという種族は持っていると信じることができました。

 その一人である私が、申し上げたいことは。

 

 喩え一時であっても、自粛という戦術的撤退を余儀なくされても。

 いつかは、攻勢に転じて。

 新型ウイルスを、打ち破ることができると信じると共に、必ず成し得ると信じています。

 

 

 

 今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。