白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【生き方・価値観】謝罪と感謝 ~謝るよりも、ありがとう~

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 寒い、と思う日はありますが。

 それを通り越して、「痛い」と感じることが、今年は本当に少なく感じます。

 

 今日も晴天に恵まれ、日差しの強さでやや日焼け気味な白兎です。

 

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 

 さて、唐突ではありますが。

  プライベートでも、仕事でも、人間は一人でこなし切れないことだらけです。

 独りが好き。そう豪語している私も、その実は一人でできることは本当に僅かです。

 

 そんな時、手を差し伸べ、助けてくれる人たちがたくさんいます。

 そこで、返す言葉。

 

 ありがとう。

 

 温かみのある言葉です。その一方で、至らない所があったり申し訳なさを感じた時には。

 

 すみません。ごめんなさい。

 なんだか、後ろめたさのようなものを思わせる言葉が出てしまいます。

 

 𠮟責や責任追及されているような場合を除くとしても、自分に対してしてもらった行動やアドバイス。それが捉え方や状況次第では、真逆とも言える言葉が口から出てきます。

 

 何故、このような話題を取り上げているか。

 

 私が、無意識的で圧倒的に「すみません」「ごめんなさい」と言うことの方が多いと感じている為です。

 ありがとう、と素直に言えれば良いのに。

 それが、いつのまにかできなくなってきてしまいました。

 

 

 今回は「謝罪と感謝」ということについて、私の思いや傾向を元にしながら綴っていければと思います。

 また今回より、強調したい言葉について青字も使い始めていこうと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 私の中の、謝罪と感謝

 

 

 すみません。ごめんなさい。申し訳ありません。

 謝罪とは、自らの非を認め、相手に許しを請う。

 謝る、とも言いますよね。

 自分が何かしらのミスをした時やクレームが入った時、もっと大きなものでは、会社が不祥事を起こした際に使われることが多いかと思います。

 

 無意識的に使っていた、謝罪の言葉の数々。

 今更ながら意味を知って、疑問が湧いてきました。

 

 相手の好意や助け合おうと思いからの、手助けや救われるような言葉。

 ならば、素直に「ありがとう」と感謝すればいいはずなのに、私は謝ってばかりいます。

 

 どうしてだろう。

 

 何か、自分の後ろめたさや非に思うことを常日頃抱いているから?

 相手に手助けしたもらわないと何もできない自分に許してほしいから?

 

 

 思慮を巡らせていく内に。

 

 そうではない、と納得がいく理由が見つかりました。

 何となく、朧気ながら。

 

 

 

 

 謙ることで、責められないようにしてきた

 

 

 

 私の口から、つい溢れるごめんなさい、すみません。

 

 何かを謝ろらないといけない、という訳ではないようです。

 どうしてそのような気持ちが浮かんだのか。

 記憶を遡る限り、幼少期はそんな言葉は使ったことはありませんでした。

 友達と遊んで、困っているところを助けて来れた時は、ありがとう、と笑っていました。

 そう。笑顔でありがとうと言えていました。

 

 

 それが、いつの間にか。

 自分が謙って、相手を上に立たせることの方が、楽だということを覚えてしまっていました。

 

 そう、いつの間にか……。

 

 いや、そうやってまた自分に嘘を付いている。

 

 今でも、覚えています。

 それは忘れもしない、あの時からです。

 

 

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 人格否定されたあの日から。

 自分に価値などない存在なんだ、という意識を持ち続けてきました。

 少々荒い言い方をすれば、そう思うことを「植え付けらた」と言っても悪くないかもしれません。

 

 いづれにしても。

 以来私は人の顔色を窺って、自分に向けられる視線を怖がって。

 そしていざ、温かい言葉や手助けという尊い行動を貰った時。

 真っ直ぐそれに向かい合うことも、受け取ることもできなくなっていました。

 ありがとうという言葉よりも。

 どんな状況であっても、すみませんと自分を謙るようになって。

 言い方は悪くなりますが、相手をヨイショすることで機嫌を取る選択ばかり取っていました。

 

 ここまでくれば、もう、姑息ですよね。

 

 自己保身という言葉だけでは済まされない、自分を欺くだけでなく、相手を侮辱している。そう言われても、思われても仕方がないと思っています。

 否。

 

 そうやって逃げてきただけだろ、臆病者。

 

 忘れようとして。無かったことにしたかった。

 それでも逃れることができなかった。

 その結果が、今の私です。

 人と接することを嫌がって、怖がって。歳だけは取っていくのに。

 精神は、あの時のまま。

 逃げてばかりで、現実と向き合えないままでした。

 

 

 

 

 それでも、自分と向き合って

 

 

 幸か不幸か、そんな自分と本気で向き合おうと決意した切っ掛けが私にはありました。

 私の場合なら、幸い、が近いかもしれません。

 

 それは、精神を病んだことでした。

 刃物を自分の腹に突き立てて、少し刃を喰い込ませて。

 もう数センチ行けば、出血していたであろう。

 死。

 それを肌身で感じた瞬間からでした。

 

 

 ※注記※

 言い訳になりますが、一つだけ言わせてください。

 今この瞬間、精神的に追い詰められ、生きるのがやっとという方もいらっしゃると思います。

 私が経験した、精神を病んだこと。それとご自身を比較することだけは、どうかお止めください。

 そして、死というものを受け入れないでください。

 

  今回は、飽く迄も私が「謝罪と感謝」を区別し、理解できたことの切っ掛けとして精神を病んだことを出しているに過ぎないこと。

 それは、この記事をご覧になっていらっしゃる方とは無関係であると私は思っています。

 私には私の、ご覧くださる方にはその方の苦しみや痛みがある。それは比べるものでも、比べられるものでもありません。

 どうか、ご自身のことだけは、大切になさってください。

 私から、勝手過ぎるお願いです。もしお気に障ることがありましたら、ご連絡ください。記事を即刻削除いたします。

 申し訳ありません。

 これは、心からの謝罪です。

 ※注記終了※

 

 

 脱線しましたが、続けます。

 

 他人から排他され、自分というものに見向きもしてこなかった私は。

 この時を切っ掛けとし、やっと自分と向き合う時間を作ることができました。

 自ら蔑ろにしてきた、私という存在。

 過ぎ去った時間以上に、自分を排除し続け、それでも尚現実に立ち向かい続けていたことを知りました。

 

 現実に向き合い、生きる為に言葉として発してきた謝罪と感謝という、自分の意志。

 殺し続けてきた、そんな自分の意志を。

 クルマという相棒に出会って、多くの人と出会って交流して、掛け替えのない友と出会って。

 遠回りしてきましたが、少しずつ、理解して……私は今、こうして文字として。文章として綴るに至ることができるようになりました。

 気のせいかもしれません。ですが、そうではないと反発できるようになりました。

 

 

 

 

 

  認めようとしないだけで、実はできていたのかも

 

 

 

 一度身についてしまった習慣。私の場合だと、相手の意志に拘らず「すみません」「申し訳ありません」とすぐさま出していた言葉。

 これを治すには、時間が掛かりそうです。寧ろそう言える自分を、ある程度許容したいとさえ思えるようになりました。

 謙るのではなく、相手を単に持ち上げるのでもなく。

 私はそういう気持ちも、少しは必要なのではないか、と思っています。

 

 ただし、それだけではダメだと。逃げる為に謝罪の言葉を並べるのは失礼に値する、と自覚し始めています。

 謙るのは必要。でも、度が過ぎれば卑下になる。卑下し過ぎることは、却って相手を馬鹿にすることになる。

 誰かに、そう言われました。

 

 そう意識し始め、少しでも無意味な謝罪は無くそうと思い始めた一方で。

 

  思っていたよりも、素直に「ありがとう」と言えている自分がいることに気付くことができました。

 

 文章で書くのは、簡単ではありますが。

 実際に私が「ありがとう」という時は、物凄く動揺しつつ、心が揺れ動く感覚が今も拭えずにいます。

 

 私の、とても公にできない昏い過去を友に話して、受け入れてくれた時も。

 可笑しい位、声も身体も震えていました。

 

  

 それでも私は、誰かに笑われても、馬鹿にされても構わない。

 

 この気持ちを、感情を、大切にしていきます。

 

 

 

 

  謝るよりも、ありがとう

 

 

 

  謝ることは自分の非を認め、相手に許しを請うことと、冒頭で申し上げました。

 社会に、この世界に生きる以上、不可欠なことに変わりはないと私は思います。

 

 でも、私がこれまでしてきたような。

 必要以上で、過度な自己保身に因る謝罪は、誰にも幸せを齎さない。

 

 今になって、私はそう思えるようになることができました。

 

 ならば、私がしたいことは。

 

 私の過去を垣間見えながらも。

 この記事を、私のブログを御覧くださり、ありがとうございます。

 

 

  少なくとも今は、これ以上の言葉が見つかりません。

 

 

 人が、そして自分が犠牲になりかねない謝罪という名の過度な卑下。

 それよりも、一言で思いが伝わる、たった一つの言葉。

 

 

 ありがとうございます。

 

 

 謙るだけでは得られない、誰もが幸せになれる言葉を素直に言えるように。

 私は、進み続けたいと思います。

 

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 

 ……お馴染みながらも、言えていましたね、私。

 こんな時に、「御閲覧くださり、申し訳ありませんでした」なんて、不自然ですし、可笑しいですよね。

 申し訳ないと思うなら、始めから書くな、と自分に説教すると共に、滑稽にすら感じます。

 普段から、言えていたことを、このようなところでも実感しています。

 

 

 

 改めまして。

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

  それでは、また次回まで。

 

 

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