白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【生き方・価値観】ブログを始めて ~変われたこと、変わらないこと~

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 如月という月が始まりました。

 年明けから、あっという間に1ヶ月が経ちましたが、私は未だその実感を得られずにおります。

 長いようで短い。それが時間であり、人生でもある。

 どこかで聞いたそんな台詞。勝手ながら、自分には関係ないだろうと思い込んでいたその言葉を、ひしひしと噛み締めている今宵です。

 

 皆様こんばんは、白兎です。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 お陰様で、ブログを開始して一ヶ月と少しが経ちます。

 私は元々好奇心旺盛で興味を持ったらとことん突き詰める、所謂凝り性な面があります。

 一方で諦め癖が強く、興醒めしたら最後。

 どれだけ熱意やを時間、お金を掛けていたとしても、簡単に切り捨てて。

 以降、全く関心を向けなくなってしまうという悪い癖を持っています。

 

 これは、「ヒトという存在」という観点から見て、私は致命的な欠陥を持っている、とさえ認識しています。

 唯でさえ興味が向く範囲がとてつもなく狭い私ではありますが、それまで築いた人間関係の構築や自分自身の生き方さえ、いとも簡単に綻びを生じさせてしまいます。

 

 そんな私が言葉や文章で何かを訴えたところで……と自問自答するとともに、自己嫌悪に陥ることは多々ありました。

 

 そんな折、先日カウンセリングに行って参りました。

 大概は抱えている悩みや葛藤を話し、共感していただくその場で。

 

 今回のカウンセリングでは。

 自分の口から、私が思いを文章に変えて載せることで、変わり始めている。

 何か変わったことはありましたか?とカウンセラーに強制されるようなこともなく。

 純粋に、口下手な私が、そうやって話すことができました。

 

 声に出して思いを伝えることも。絵画として表現することも。音楽に載せて意志を伝えることも。

 全て不得手で「自分にはできないこと」と断言できる私が、唯一思いや考えを伝えられる手段。

 それが、文字の羅列によって生み出すことができる「文章」であることを再認識することができました。

 

 

 今回は、文章を主とするブログという手段を使い始めて私が変わることができたこと。

 そして、それでも私という自分軸を変わらずにいられたことについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 口下手なだけで損をしかねない、このご時世

 

 

 

 自分の中だけで生まれた純粋な感情や、人生という経験から培った考え方や価値観。

 時には抑え込む場面は必要であることは、十二分に承知しているつもりです。

 

 感情任せの発言や行動は、受け入れられる以前に「理性」の有無を疑われて。

 自分なりの考えや価値観という、杓子定規で計れないものを訴え、押し付けようとしたところで。

 同情や共感してくれる人が少しでもいれば幸いであったとしても、大概は「異物」扱いされ、排他される未来が確約されます。

 口下手で対人関係が苦手と自認する私は、「洗礼」と呼んでも過言ではない場面に数多く遭遇して参りました。

 

 俗に言う、「普通」という範疇から外れていて。

 世間体で言う「協調」という概念からかけ離れてばかりだった私が、周りから排除されてきました。

 

 今ならまだ、そうなっても仕方ないと思えるようになりました。

 が、しかし。

 当時の、特に学生時代の私には理解できず、存在否定されるまでの「イジメ」に至ったことを理不尽に思い、また他人を呪う程でした。

 

 

 何故なら、第一印象として美形とされる人物や。

 言葉巧みに周りを動かせる頭脳や人望を持つ人物。

 

 それらの人の方が、誰にも非難されることなく円滑に事を運んでいたことを目の当たりにしたことに起因しています。

 

 排他された私は、言葉は悪くなりますが、ひたすらに思っていました。

 

 人気者は、こんな惨めな思いをしなくて済むだろうな。

 会話というリアルタイムなやり取りが下手くそなだけで、ヒトは選別され優劣を判断されるのかな。

 

 言葉と態度を以て周りを引っ張っていく、そういったヒトたち。

 一方で、思ったことさえ上手く伝えることができない自分。

 比較できないはずの両者を、そして周囲の人間を見ていく内に、私は歪んだ思いを抱くようになりました。

 

 

 口から出る言葉や態度だけで、周りが付いていくなんて。そう羨む一方で。

 その程度で周囲を、全体を動かせるなんて。先導者以外は、自分の意志を持っていないのか?

 言いたいことも言わないで従って、それで満足なのか?

 

 

 イジメの経験を受けてからなのか否かは、わかりません。

 

 ただ、言えることは、一つです。

 言葉や思い以前に、第一印象として出てくるカリスマ性や周りを惹き込んで動かすだけの力。

 口上手とセンスの高さが、周囲に齎すものは。

 私が信じ、重んじてきた「即答できずに回り道をしても、思いを伝えたい」というものを遥かに凌駕したことでした。

 

 

 その経験故か。

 口下手=誰からも賛同も共感も得られない≒「協調」の元では邪魔な存在。

 

 そんな価値観を周囲から向けられて。

 いつの間にか、口下手で物事をはっきり言えない私自身は嫌われ、いつも除外されていました。

 

 そのような私は、この世界には不要で邪魔な存在。

 誰から強要された訳でも、脅迫された訳でもないのに。

 私は自分から、そうやって勝手に思い込んで。

 「周りのヒトを信じた自分が馬鹿だった」

 自分の非を認めているようで、その実は周囲に「敵意」という形で他責にしてきました。

 

 その根源にあるもの、それは。

 

 自分というものをある程度貫きながら、周りを汲み取るだけの器の大きさを併せ持つ。

 そんな人間でありたかった。そういった存在になりたかった。

 

 面向かって自分の意志や思いを伝え、貫けなかった私が最後に抱いた思いは。

 上手く周りを動かし成功を収めていたヒトたちへの、ちっぽけな羨みと。

 彼ら彼女らを見倣うように自分を捻じ曲げてまでも、尚そうできなかった自分を憎んで呪って。

 私自身の器の小ささと、そうまでしたまで認められたかった自分の惨めさ。

 

 その一方で。

 

 そんな無理やりな手段に走らなければ、自分を、自我を保てなかった当時の私の弱さを蔑むとともに。

 それだけ、コミュニケーションを取れないが為に無理を重ねてきた自分がいたことを実感して。

 何が何でも、「私」という存在を確実なものとして、一人のヒトとして認めてもらうことに、必死に躍起になっていたのだろう、と今は感じています。

 

 

 

 

 

 思いを伝える手段は、沢山ある

 

 

 

 感情任せに、また少しばかり、また過去のについて触れてしてしまいましたが。

 

 カウンセリングを受けた際に発したことについて、話を戻します。

 

 

 実はカウンセリング自体も、半年以上受けずにおりました。

 表向きには仕事での忙しさ、それ由来の精神的疲弊を理由にしてきました。

 実際は人と会うことが億劫になって、面倒臭ささえ感じており、拒絶してきたことを、正直に話しました。

 数カ月ぶりにお愛したカウンセラーの方は、それでも私をこれまでのように優しく、温かく迎えてくれました。

 そこでも私は、相も変わらず面向かってのコミュニケーション……相手の表情や場の雰囲気を組んでのやり取りは未だ苦手である、と伝えました。

 

 唯。

 それまでとは違った、唯一変わったことがあることを話しました。

 

 ブログを開設したことで、思いを言葉にして、誰かに伝える方法を見つけることができた。

 

 気恥ずかしいような、なんだか嬉しそうな声で、私は話していました。

 カウンセラーからも、「白兎さん、前よりも活き活きしていますね」と柔らかい笑みを向けてくれました。

 

 話が進んでいくにつれて、確かに私は口下手ながらも思いを前面に出しておりました。

 

 会話することも楽しいですし、相手の顔や身振り素振りを見ながら言葉を選んで話すことは、大切なことであることを再認識できて。

 そして、改めて。

 私は、文章を書くことが本当に大好きなんだと思い、確信することができました。

 

 

 

 

 頭の中は、グチャグチャなんです

 

 

 

 これまでの記事でも何回も触れて参りましたが、私は相手と会話する際、言葉を声として出すまでに時間がかかります。

 

 

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 自分の思いや考えを出すまでに、色々なことを考えています。

 向かい合う相手の表情や声色、場の雰囲気を覗い、読み取って。

 日本語という、多種多様な表現方法があるものの中から、最善と思える言葉を選び抜いて。

 そこからまた、本当にこの言葉で良いのか?と頭の中で反芻させ、確認に確認を重ねて、ようやく声が出てきます。

 

 そんな私の頭の中は、会話している時だけでなく、常にフル稼働している状態です。

 仕事をしている時でも、休日でリラックスしている時でも。

 お昼寝しようかなと横になった時でも、起きた直後や寝床に入り眠りにつく直前でも。

 とにかく色んなことを考えては別のことを思考しています。

 そんな頭の中は、常にオーバークロック状態。自分でも把握できない程混沌としており、様々なものが飛び交い輻輳しています。

 

 結局、自分でもよくわからない程にグチャグチャになっているのです。

 余程切羽詰まった状況に出くわしたり、雑念を忘れる位に集中するようなことがなければ、頭が休まる時間はありません。

 

 どんな時でもこの有様なので、リアルタイムで会話することが苦手なのは然るべき、と言われても否定のしようがありません。

 

 ただ、好きで考えを重複させているのではないのです。

 私という存在が持つ自我や理性の範疇を遥かに超えて、ほぼ自動と言える位、頭の中は思案と思いと考えの嵐が吹き荒れています。

 

 たまに、「疲れた時は」といったキーワードでインターネット検索をかけた時に、よく書かれていることがあります。

 

 とにかく、リラックスして頭を休めましょう。

 何も考えないようにして、自分を休ませてあげていてください。

 考えを捨て去って、瞑想する時間を少しでも作って、一度頭をリセットさせましょう。

 

 仰ることはご尤もです。

 風邪をひいて身体が絶不調な時に「会社に行かないと……」と頑張ろうとしないで休みなさい、と同じように。

 精神を、頭をたまには休ませないと、いつか調子を崩してしまう。だから、何も考えないようにして休養させることは大切なのは、確かなのだと思っています。

 

 ですが。

 自分の意志の有無拘らず、頭が勝手に思考し続け、休めと指示したところで、受け付けない人間には、そのようなことは不可能と私は断言します。

 

 やれるならとっくにやっているよ。

 できないからなんとかしたいんだよ。

 

 ネット上の意見を、発信された方を否定するつもりはありませんが。

 中には私のような、頭の中が常に混雑しているのに思考を重ね続け、休んだ例がない人も、少なからずいるのではないのだろうかと思えてなりません。

 そんな人間が、「頭を休ませて、考えることをやめてリラックスしたい」という願いは、叶えられる日は訪れるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 考えや思いを「文章」にすること

 

 

 

 しかしながら、私は幸いなことに絶望せず、にここにいることができています。

 それは、混沌とした頭の中の考えや思いを「文章」という形に変換しアウトプットする手段を見つけられたからです。

 

 これまで、頭の中を駆け巡っては消えていった思いや考え。そして閃きや、唐突に浮かび上がった感情。

 その瞬間に外へ出して、「あ、今自分はこんなことを思っているんだ」と認識したり、誰かに伝え反応していただければ幸いだ、という凝り固まった考えを抱き続けていました。

 ですが、現実はそんなに甘くありません。

 タイミングを逃せばそれまで。思いや考えというものを「自分」として表現できなければ、結局は頭の中に逆戻り。思考、思慮の繰り返しは永遠に終わりません。

 

 私は特段、そうやって自分を、自己を表現することが下手くそです。

 

 特にこのご時世では、リアルタイムで進む事態に迅速かつ的確に判断、対応する能力を求められているように私は感じています。

 その真逆を行く私は、そのような視点から見られたら最後です。

 

 

 でも。

 私はそうやって上手く世渡り上手することができる、それだけが全てではない、と思っています。

 

 適材適所、という言葉があるように。

 人それぞれ、得手不得手があって、それをより強めたり補ったりすることが、ヒトという存在が成り立つのではないかと日頃から考えている為です。

 

 かくいう私は。

 思ったことや考え方、価値観、矜持といったものを。

 一人落ち着いた場所で、文章という形に変えることで伝えることを好んでいます。

 理由はいくつかありますが、一つは頭の中で錯綜する抽象的なものを文字として表すことで、自分の思いを整理できることにあります。

 

 もう一つは、頭の中で思い浮かんでは消えるものは、飽く迄主観的なものです。

 それを文字として、文章として書き起こすことで、俯瞰的で客観的な見方をすることができる為です。

 

 それまで曖昧だった、自分の中で勝手に思い浮かんだものの、上手く表現できないまま直接的行動や言動にしてきた結果。

 納得も、誰かからの共感はおろか。誤解を生み、最悪軋轢を生じさせてきました。

 その末路を体験して、勝手にヒトを疑って、憎んで。

 どうしようもない時間ばかり浪費してきました。

 

 そんな私が、自分を納得させて、尚かつ私というものを表現できる手段。

 それが、文章で自分というものを示すものであり、今こうして綴っているブログであることを実感しています。

 

 

 

 

 書くことが、大好きなんです

 

 

 

 能書きを垂れるように、ここまで書いて参りましたが。

 結局私は、文章を書くことが大好きです。

 

 小学校より始まった、作文を書けと言われた時も。

 高校卒業時の、卒業文を書けと言われた時も。

 社会人となった今でも、目標や将来目指したい姿を文章として書けと指示された時も。

 読書感想文のような、「他人が表現したものに対する自分の考え」を述べる場合は除くとして。

 大概の場合、四〇〇字詰め原稿用紙二枚に纏めろと言われても、全く足りない程でした。

 「先生、原稿用紙足りません!増やしちゃダメですか!?」なんて駄々こねたことさえありました。

 

 それ位、文章を書くことが大好きで、書くことに苦を覚えた記憶はありません。

 

 口に出して思いを出すことを苦手として。

 それ以外の美術、芸術、音楽といった手段も点でダメな私が。

 唯一と言っても過言ではない、書くことで自分というものを表現する。

 それが大好きで、周りから咎められる程、幾らでも書いてしまう。

 

 地味、と言われても構わない。

 思っていることは昔から変わらなくても、それを伝える手段を見つけられた。そして、少しずつ変わることができ始めている。

 それだけで、考えや価値観を文として書くことが好きな私には、この上ない幸せなことは変わりません。

 

 

 そう書きつつ、既に6000字を超えております。

 私の次の課題は、文章の「表現」方法になるかな、と勝手ながら思っています。

 長々と綴るのではなく、如何に上手く纏めて、本当に伝えたいことを伝えられるか。

 こればかりは、今の私にはまだまだ足りない所であると自認しています。

 

 表現の「質」。

 今はできなくても、こうしてブログを綴っていく中で。

 いつか自分なりの考えや表現方法そのものを見出して、見つけて。

 皆様にお伝えできればと、切に願っております。

 

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

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