白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【セクシャルマイノリティ・Aセクシャル】性自認というもの ~今も、自分を探し求めています。~

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 唐突ではありますが、そろそろWindows7のサポートが終了間際になってきていますね。

 お勤め先の会社や、個人用PCのWindowsを10へのアップデート、お済みでしょうか。

 個人的には7の方がまだマシという認識で、正直、10はイマイチ使い勝手が悪く感じます。(私としては、98が一番作りが単純で使い勝手も良好でした)

 

 私の務める会社も、Windows10アップデート対応に追われています。

 支所のシステム・LAN管理を任されている身としては、これから一ヶ月弱は修羅場になりそうだ……と、不穏さしか感じられない白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 本日は、私が何となくではありながら、にも拘らず考え続けていることについて、綴っていきたいと思います。

 

 それは、性自認というものです。

 

 以前記事にした、私が自認しているセクシャルマイノリティ。私の場合ではAセクシャルですが、それをどの程度自認しているかどうかは、本当に人の数だけあることです。

 

 Aセクシャルについては、こちらをから。御閲覧くださいましたら、幸いです。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 セクシャルマイノリティが現代、社会的にも話題となり、取り上げられている内容である、その他方で。

 

 性自認というものは、未だに圧倒的に認知度が低いと、私は思っています。

 

 

 ※注記※

 

 本内容は、性別という概要、概念について強く取り扱います。

 飽く迄素人である私が得た知識や経験に基づくものであるため、一人の人間として不快感、反論、異なる意見や思いを抱く方もいらっしゃると思います。

 度合いの程度によっては、本内容を削除いたしますが、ご理解くださる方は、このまま御閲覧くだされば幸いと存じます。

 

 ※注記終了※

 

 

 

 

 性自認

 

 

 私なりに理解している性自認。

 端的に言うと、「自分の身体的な性別とは別に、『自分がどんな性(性別)であると思っているか』」ということです。

 差別や偏見になりかねない言葉で申し訳ありませんが、言い方を変えれば、「男らしさ」や「女らしさ」という言葉でも、ある程度説明が可能です。

  

 ヒトという生物は、生物学的に、身体的特徴から見れば、男性であるか、女性であるか。この二つしかありません。

 

 ですが、そこに「身体的特徴たる性別に、自分の性別という認識がどう向いているか」という点は、見逃されがちです。

 「LGBTQ+」というセクシャルマイノリティと同等に、性自認はとても重要なことであると私は考えています。

 

 性自認の強さや方向性、恒常的か浮動的か。それこそ、星の数ほどあると思います。

 

 

 

 

 性自認の種類は?セクシャルマイノリティとは別物?

 

 

 さて、では性自認に明確な種類があるのかどうか、という話になりますと。

 ここが、かなり難しい。

 前述した通り、性自認は「その人が自認する性別」というものであり、外見や客観的視点で判断ができない為です。

 一応の種別を申し上げるとするなら、以下のようなものがあります。

 

 一つが、「中性」。男性と女性との中間に自分がいると認識していること。

 次に、「両性」。男性でもあり、女性でもある自分が認識していることです。ここには、男性が◯割、女性が◯割といった認識も含まれます。

 三つ目、「無性」。男性でも女性でも、どちらの要素も持たない。

 最後に、「不定性」。男性や女性であると認識する割合が変動し、場合によっては日によって変わることもある。

 

 これだけでも、定義というにはあまりにも曖昧で難しいと私は思います。

 

 

 もう一つあります。

 性自認とセクシャルマイノリティは、別物であるということです。

 

 性自認が「自分がどんな性を自覚しているか」に対し、セクシャルマイノリティは「自分の性的指向がどういうものか」を示すからです。

 自分が「自分の意識として」男であるか、女であるか、それ以外であるかという、性自認。

 恋愛感情や性的欲求の有無、それだけでなく、どのようなものにそういった感情や欲求が向くかという、セクシャルマイノリティ。

 

 私もつい最近まで勘違いしておりましたが、後述しますが、性自認の中で生まれる可能性があるX(エックス)ジェンダー。

 セクシャルマイノリティの中に含まれるトランスジェンダー。

 これを混同しておりました。

 

 自分の認識の甘さにお詫びすると共に、それだけ深い……一人の人間がブログに綴るには、あまりにも深くて、難しいこと。

 それが性自認や、セクシャルマイノリティであることを、改めて実感しています。

 

 

 

 Xジェンダーとトランスジェンダー

 

 

 もう少しだけ、補足にお付き合いくだされば幸いです。

 Xジェンダーは、「生まれ持った身体的性別の『いづれでもない』」という概念です。簡単に申し上げるとするならば、「自分を男や女という概念だけでは説明し切れない」というものであると私は思っています。

 

 では、トランスジェンダーとは。

 こちらは「生まれ持った身体的性別が、自意識上『明らかに一致していない』、或いは男女という世間的認識が、自分の持つそれが「間違っている」と認識している」ものです。

 

 もう少し簡潔に言うとするならば、自分が認知する性、性別が「中間に位置する、或いは曖昧であるか」。もしくは「明らかに違うと認知しているか」。その違いと私なりに理解しています。

 

 更に踏み込むと切りがなくなってしまいますので、世間的にも誤認されがちなことについて、ご説明いたしました。

 

 

 

 白兎の性自認

 

 概略が長くなりましたが、私の性自認についてお話しさせていただければと思います。

 私の性自認は「無性」が一番近いのかな、と自認しています。次点で、「中性」と思っています。

 

 身体的な性別は兎も角として、私は、自分の性をこのように自覚しています。

 男だろうが、女だろうが。私は私という、唯の一人のヒトでしかない。

 そこに、性別という考えは存在しない。

 

 といった感じです。

 

 そう思う理由は、これまでの経験が裏付けています。

 

 

 

 男の子や女の子らしい遊び

 

 

 幼少期故、自覚などありません。

 ですが少なくとも、世間的概念といっては失礼ですが、私は性別に起因する遊びを区別したことはありませんでした。

 戦隊モノのマネをして遊んだり、外で遊んだり。一方で泥団子作りや工作好きに耽ったり。

 兎に角、自分が好きなことに集中していた記憶があります。

 そこに、男の子や女の子らしい遊びという思いは存在していませんでした。

 今言葉として、当時の自分を言い表すとするなら。

 「自分が好きなことを楽しめば、それでいいじゃん」

 そういう思いであったと、思っています。

 

 

 

 身体的性徴が顕著になっていっても

 

 

 俗に言う思春期ですね。ここに至っても、私の性に対する考えは変わりませんでした。

 男らしさだとか、女らしさだとか、言及されたり追求されることも多々ありました。

 ですが、私の思いは一つでした。

 

 そういうの、どっちでも良いんじゃない?

 その人が好きなようにすれば、何も問題なんてないでしょ?

 

 逆に、それを無理やり定義付けられそうになること自体が、苦痛でしかなかった。

 自分の認める性を、全うすればいいだけなのに、なんで他人に強要しなければいけないのか。

 私には、最後までわかりませんでした。

 そして、今でも理解できずにいます。

 

 

 

 男でも、女でもない、私という存在

 

 

 結局は、自認する以前の問題で。

 言い方は物凄く悪くなりますが。

 私は、性別というものに対して、興味がない。

 身体的にも、精神的にも、どちらでも関係なしに、関心はおろか、誇りさえ抱かない。

 

 

 イジメを通して様々なものが変わった、ということもあるかもしれませんが。

 私は、ある意味矜持と言えるものがあります。

 

 男でも、女でも。性別に囚われることなく、好きなようにすれば良い

 

 誤解されることを覚悟の上ではありますが、私はその思いを強く抱いています。

 どう生きようが、どう振る舞おうが、それは人それぞれ。

 ヒトが考え出した定義に、無理やりあてはめなくても……良いのではないか。

 

 それだけは、どうか言わせていただきたい、と強く願っています。

 

 

 

 とは言いつつ、日常は?

 

 

 しかしその実は、結構偏っていたりします。特に行動や思考という側面では。

 これは性自認とは全く異なるとは思います。寧ろ、脳の使い方が関係してくるとは思いますが、その一例を。

 

 私は、地図が読めません。

 仕事柄外出することもありますが、先輩に地図を見せられて、ここを行けば良いと言われても。

 どこを示しているのか、全くわかりません。

 国道◯号線にぶつかったら、と言われることも多いですが。

 すみません、国道◯号線って、どこですか?

 

 といった感じで、ナビを使っても尚、道に迷う程方向音痴です。

 一度走ればわかるだろう、と言われても、本当に道を覚えられません。

 「この前行ったじゃん」と先輩に笑われながら言われても、私は本当に必死です。

 どこを通れば良いんですか、と懇願するように毎回聞いてしまいます。

 それが災いし、相棒とともにドライブに出かけた時は本当に苦戦します。予約したホテルに着くの涙ながらやっとの思いで、という程です。

 逆に何かの建物や看板を目印に、と言われると、存外すっと頭の中に入ってきます。

 

 それと、もう一つが。

 私は一つの事柄に集中し、没頭するきらいがあります。周りから話しかけられても「ちょっと待ってください、すぐ行きます!」と言うほどです。

 こうしてブログを書いている時も、音楽やラジオ、テレビは全部消しています。集中できなくなってしまうのです。

 そんな中で、例えば仕事中。

 自分が行っていた仕事や作業に割って入られると、どこまでやっていたのかがわからなくなってしまいがちです。勘弁してください、と本気で思うほどに。

 

 そういった意味で、私は複数の作業を同時に、平行に行うことができません。

 料理をしながら、食器を洗って、風呂場を洗って……といったマルチコアな動きは私には無理です。パンクします。

 

 そういった側面を鑑みて、性自認が「中性」であるかもしれないと書き記した次第です。厳密には性自認とは無関係なのでしょうが……。

 

 

 

 

 今も、自分を探し、求めています

 

 

 幼少期より違和感を覚え、思春期から顕在化し、今でも尚、私は自分というものを探し続けています。

 それがセクシャルマイノリティであったり、性自認であるのかもしれないと、私なりに思っています。

 

 他者が的確に判断できないこと。

 診断もほとんど不可能。

 

 だからこそ私は、ヒトという存在そのものに興味が湧くのかもしれません。

 考えても仕方がないことであったとしても。

 人の数だけ、考えや価値観が違うこと。

 定義し切れないそれが、私には普遍的なニュースや流行よりも興味深い。

 だから、こういったマイナーな記事を書く原動力になっているのかな。

 なんて思っています。

 

 みんな違って、みんな良い。

 そんな言葉が、相応しいのかもしれません。

 

 

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 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。