【HSP・HSS】HSS型HSP ~繊細と好奇心の狭間~
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先日、心療内科を受診して参りました。
普段は前回の受診から何か変化があったかどうかや、薬の調整をお話しして終わる、短い時間です。
私の通っている心療内科は主治医の先生はとても寛容的で、診断する側の意見や治療方針を押し付けてくるような方ではなく、受診する側の話を聞き入れてくださり、薬の種類や分量もこちらの意見要望を取り入れた上で決定してくれます。
時には、心療内科の経営状況や精神科学会の話までしてくださり、先生の愚痴を聞くような関係を保っています。
先生と受診者という主従関係ではない、対等な立場でお話しすることができるその心療内科に通い始めて、早くも五年以上経ちます。
今通っている心療内科は、セカンドオピニオンを介して通い始めております。
最初通った所は受診する側の意見を特段聞くこともなく、状態を聞いただけで薬を処方するだけという、ある意味事務的とも言える対応であったと私は思っています。
如何にも受診する側を「異端者」扱いし、「処方した薬をきちんと飲むように」といった、半ば命令されているような姿勢でした。
あまりにも機械的なそんなやり取りに、私は嫌気が差し、通院先を変えることを決意するまでに時間は掛かりませんでした。
今思えば、セカンドオピニオンを選択したことで、私が理想とする主治医に出会うことができたことは奇跡的であり、ありきたりな言葉を用いるなら……運命的なことでした。
そんな出来事は置いておくとして。
私は好奇心旺盛なところがあり、処方される薬のことだけでなく、精神科が出す薬について興味を抱く傾向があります。
自ら進んで調べ、抗うつ薬や抗不安剤、睡眠導入剤の種類。数多くある存在する薬品の名前を知って、効果や副作用を素人ながら知った上で。
「この薬を試してみたいのですが」と、自分から進んで処方していただいたこともありました。
処方される薬のことを、ましてや自分が服用するものがどんなものであるか位は、俯瞰的であっても知っておきたいという思いがありました。
その上で、主治医という専門家から説明をしっかり受け、専門家の意見と素人の意見を交え、服用後の経過報告や実際の効果や副作用について話を積極的に行って。
今に至っています。
前置きが長くなりましたが。
私はHSPであると自認していることは、これまでの記事でも触れて参りました。
一方で。
私は好奇心が妙に大きかったり、席に座ってじっとしていられないといった、HSPではあまり見かけられないものを抱えていることに気付き始めました。
繊細、と世間では言われてる、HSP。
私の中でのHSPは、敏感さ故に外界に恐怖すら覚える故に生きづらさを覚え、内向的で静かな場所を好むものである、と定義しています。
ところが実際の私は、そういった性質を自負していながらも、外界に興味を抱き、普遍的で平穏な日常を時に嫌うことさえあります。
一見、矛盾していて、共存などあり得ないと思える性質たち。
然れど、双方の性質を持ち得る人間が存在すると言われております。
それが、HSS型HSPと呼称されるものです。
今回は、五感からの刺激の敏感さ故に苦しむと共に、共感性を持つと言われるHSPと。
その真逆とも言える、自ら外の世界へ飛び出て刺激を求め、平穏な日常に飽き嫌ってしまう性質であるHSS。
それら二つを包括するHSS型HSPと呼ばれるものについて、綴っていきたいと思っています。
HSPのおさらい
本題に入る前に、簡単にHSPというものについて軽くご説明いたします。
かつて記述した記事を引用しますことは、どうかご容赦ください。
HSPはそのヒトが生まれた瞬間から先天的に持ち得る「性質」のことを指すと言われています。
その性質とは、「深く処理する」、「過剰に刺激を受けやすい」、「感情の反応が強いと同時に、共感力も強い」、「些細な刺激をも察知する」。
人により差異や強弱はあれど、これら4つのを「自覚・自認」して初めて、HSPであると言われています。
ここで私が、敢えて「自覚や自認」と記したことには、理由があります。
心や考え方、物事に対する感じ方が「人と少しズレている」思っても、他人からは簡単に理解されることはそう多くありません。
喩え言葉にして「何だか、皆と違う気がするんです」と言ったところで。
「気のせいじゃないの?」だとか「思い込みだろ」と一蹴されかねない。
生きていく内に、どこかで「人と違うような気がする」と自覚し、それがいつ日か「人と違う」と思うが故に生きづらさや息苦しさを覚えていき。
最悪、「周りが普通で、自分がおかしい」と歪んだ認識さえしてしまいかねないもの、それがHSPという気質であるのではないかと私は思っています。
当たり前なことなのかもしれませんが、ウイルス検査といった物理的手段を用いて判断できるようなものではありません。
飽く迄も「五感からの刺激が昔から妙に強かった」とか、「話をしている相手に、勝手に感情移入してしまう」といったことは、他の誰でもない、自分しかわからないことであると、私は考えています。
私からすれば、自分以外からの人間から、そういった「生きることに対する違和感」を何らかの杓子定規を用いて判断や診断されることの方が不自然と思える程です。
ですが、刺激に対する敏感さや繊細さによって「生きづらい」と思うこと。
人と比較するのではなく、自分なりでも構わないと思います。
「世間的一般論」と呼ばれるような規範がある中で、少しでも違和感を覚えた時点で。
その瞬間は思い込みだったり、勘違いだと思っても良いと思います。
ですが、そうした違和感を感じるようなことが一時でもあったのなら。
一人で抱え込んで、「自分だけおかしい、独りだ」という思いを抱かないで欲しい、と勝手ながら、私は願っています。
HSSとは
おさらいが長くなってしまいましたが、改めて本ブログで初登場した「HSS」というものが何かを、私なりに簡単にご紹介いたします。
詳しく言及されている方も沢山いらっしゃいますので、詳細は検索していただければ幸いです。
HSSとはとは『High Sensetion Seeking』の頭文字を取った用語であり、簡単に訳すと「刺激を追求する」気質のことを指します。
これが何を意味するか。
端的に言えば、HSPと定義する真逆の性質であると言い換えることができます。
「好奇心が強い」、「外界に刺激を求めることを厭わない」。
そして、「現状という状況に飽きっぽい」と言われています。
もう少し踏み込んで、具体的な例を上げると。
「何もしないで、じっとしていることが苦手」であったり。
「一般論を語るような会話はとてつもなく退屈に感じる」ことであったり。
「人からすればどうでもいいようなことであっても、自分が惹かれるような出来事に遭遇した時、時間や周りをそっち抜いてまでのめり込むこともある」
簡単に言えば、外界に刺激を求める外交的思考・性質。それがHSSです。
ここで、違和感を覚えた方もいらっしゃるかと思います。
先述したHSPと、まるで矛盾しているではないか。
ご尤もな意見です。
しかし、現実にはあり得るのです。
HSPの繊細さや内向的思考、慎重さ。
HSSの外界へ興味関心を求める姿勢や大胆さや飽きっぽさ。
双方を包括する人間が、実際に存在しています。
その一人が、私のような人間なのです。
五感の刺激に臆することなく、好奇心と大胆さ任さに突っ込むこともあった
これまで私は、五感の中でも「聴覚」からの刺激が特段敏感で。
それ以外でも、視覚や嗅覚から入ってくる刺激が強すぎる余りに。
外界から取り入れ、処理する五感や脳。それに一々反応して疲れ疲弊していた自分に辟易しておりました。
だがしかし、一方で。
何気ない日常から私感じ続け、自分にとって脅威だらけの外の世界へと飛び出していたことが、実は多くあります。
例えば、仕事を終え帰路に着く際。
毎日同じ順路に拘ることなく、敢えて遠回りするルートを選んで、愛車との時間を少しでも長く過ごせるよう、帰り道を変えることが日常茶飯事です。
帰宅後は、夕飯を終え身内と談笑したりしなかったり。
お風呂にすぐ浸かることもあれば。湯船に浸かることを後回しにして、動画を視聴して笑いこける日もあれば、ブログを書くことに熱中し過ぎるあまりに就寝時間を大きく削ってしまうこともあって。
或いは、ゲームアプリに只管のめり込んで、いつの間にか時間を忘れてしまうことも。
本来人間は、自分なりのルール。所謂ルーティンをこなすことで精神の安定を図っているとも言われています。
起床したら歯を磨いて、朝食を終えて、着替えて、決まった通勤ルートを使って会社へ行く。
帰宅したら、夕飯を食べてお風呂に浸かって、自分なりの娯楽を楽しんでリラックスして、就寝時間が来たら寝床に着く。
しかし私は、毎回そういった同じ生活習慣を送ることはありませんでした。
それだけではありません。
私を変えてくれるきっかけとなった、クルマのオフ会。
最初は新鮮でしたが、回を追うごとに同じような内容を只管繰り返していることに気付きました。
言い方は悪くなることは承知の上ですが、単に馴れ合うように雑談して終わるような集会であることを、といつの間にか思うようになりました。
そして、そんなものは……詰まらない時間だ、と考えるに至りました。
特別なイベント内容や場所でなければ、新しい出会いや発見、興味が惹かれることは、私はそう多くありませんでした。
そんな思いから、時間を経るごとにオフ会に参加する機会は減っていきました。
勿論、全てが全て面白みがなかった、と断言することはできません。
その時々でお会いしたり、再会する人たちとの会話や交流は、固着化することなく新鮮で楽しくて。
何よりも、自分以外の人間と交流できる場に参加できるようになったことを、喜ぶと共に楽しい時間を過ごすことができました。
ですがそれ以上に。
共通の趣味や趣向を持つ集まり、ということに留まることなく。
もっと深い、私という人間以外の。
一人一人が持つ個性や考え方と言ったものに触れていきたい。
そんな好奇心の我儘とも、好奇心の塊と言えるようなもの。
ただの気分屋と言われても仕方がないことは自負しています。ですがそういったものが、集団的な集まりによる安心や結束以上の、好奇心を満たすものを無自覚のまま求めておりました。
自覚し始めた、HSS型HSP
HSPは、どうしても「臆病」だとか「慎重」というレッテルを張られがちであると、私は思っています。
外界は刺激だらけという中、HSPを自認する人間からすれば。
過剰過ぎる程の刺激から身を守る為、距離を置いて一人の時間を保たなければ身が持たない。
自分や周囲の変化に弱いのみならず、勝手に感情移入してしまう共感力。
そういったものから自分を守る為に、自分の意識を内側に向ける内向的思考。
それ故、余計に理解されづらくなって。
いつしか「非協力者」として排他されることも少なくないのかもしれません。
周りはどうであれ。そのような感覚や感情を抱いたまま生きて参りました。
そう思って信じてきた、にも拘らず。
時として、沸き立つ好奇心に抗おうともせず、私は自分以外のものに刺激を求めてきました。
過去を振り返れば、尚更HSPという枠では収まらなかった自分がいたことを認識でき、より自覚することができました。
給食の時間は、私からすれば「食べる」の為にじっと座り込んで、談笑を交える以外に何もできない苦痛の時間でした。
食べることに集中できず、もっと別のことをしたい。
小学生の頃から思い続けていたことを、今でも感じ続けています。
学校での授業でも。
教科書を読めば済む内容をただ読み進めるだけの教師の講義であれば。
聞いている振りをして、内容は少しも頭に入ってくることはありませんでした。
挙げ句、当時から書こうと続けていた小説の骨組みや肉付けのことで一杯になることもあり、まさに「聞く耳持たず」といった姿勢を貫いて折りました。
最近のことを例として挙げるとするなら。
外食で食事中、そしてそれが終わった後の雑談。
会話が弾めば特段意識するようなことはありませんが、身内でのそういった機会を目の当たりにした際。
食後の余韻に浸り、「美味しかった」だとか「次は別のものを食べてみたい」と談話する時間でさえ、私はいてもたってもいられない「衝動」のようなものを覚えてしまいました。
じっと座っていられない。すぐに次の場所へ行きたい。
ウズウズすると言うか、悶々とすると言えばいいのでしょうか。兎に角、そこに居続けることを嫌い急かそうとする。
自分でも制御できない、身体の奥底から湧き上がるような衝動を抑え込むことが、苦しいとすら感じる時間でした。
或いは、休日を迎えて身体を、精神を休めようと自室でゆったりしようとしても。
適当な動画をラジオ感覚で流して過ごすようなことは、私にはできません。
先述したように、ブログの下書きをしたり、スマホゲームを進めようとしたり。
喩え下らないことであっても、「何かしていないと落ち着くことさえままならない」。
兎にも角にも、私の場合は「興味がないものには一切の関心を向けず、自分が好きなこと」ばかりに従事し、押し通して参りました。
今思えば。
刺激に敏感で、繊細と言われ。
一人の時間を保たなければ自分という存在を守れない、HSPという気質を自覚しながら。
好奇心の強さだけでなに留まらず。
私は自分以外の何かに刺激を求めるばかりに、他の人なら上手く自分の身の安全を確保するところを……。
繊細さと好奇心の狭間を行き来する、不器用な生き方であるが為に。
碌な対策もせず、自分では得られると思えないと勝手に信じて。
闇雲に外界に何かを求めていたのかもしれません。
しかしながら、今なら確実に言えることもあります。
馴れ合うことで満足する位なら。
気分屋だとか、異端と罵られれも。
もっと深い仲を築きたい。その思いがあったことは、事実です。
その思いと願いに従って、行動した結果。
表面的だけでなく、気の置けない人との交流を深め、いつしか親友と呼び合える仲になることができました。
繊細と好奇心の狭間
ここまで申し上げてきた通り、繊細さ故に守りに徹しようとする自分がいる。
片や、時としてそんな守りを蔑ろにしてでも、沸き立った好奇心から闇雲に外界へと突っ走ってしまう自分。
言葉では語り尽くせませんが、私は矛盾する双方を抱えていると自負すると共に。
どちらも意志や理性で制御し周囲に、社会に適合できるだけの器用さを、私は持ち得ておりません。
両極端の気質を持つ故、未だに自分というものを把握し、それ相応の振る舞いができずにいます。
そして時々、「私って、どういう人間なんだろう」と不意に思いついては悩むこともあります。
端から見れば、気分屋にして変わり者、そして反骨精神旺盛と思われている、と俯瞰的角度から勝手に解釈しています。
然れど。
「害の無い普通の人」と認識される位なら、それ位極端な認識を持ってもらう方が却って都合が良い。
寧ろ、そう言われることを喜んでいる自分がいます。
私の中では、時として悩んだり、苦しんだり、自分というものを見失い掛けることばかりであっても。
周りからそうやって認知して貰えることが、繊細と好奇心の狭間で揺れ動く私を定義してくれることによって。
格好良く、「私はHSS型HSPなのです」と言って、変に気遣われたりするよりも。
気分屋で、変わり者、反骨精神旺盛な面倒くさい人間。
そう思われる方が、私のような人間を定義し、認識されるにはいい塩梅なのかもしれません。
この記事をご覧になって、もし同じような思いを抱いたり、親近感のようなものを覚える方がいらすのでしたら。私が言えることは、唯一つです。
全く同じではないのかもしれません。ですが、このような変わり者の私も、何とかここまで生き長らえています。
認めることは難しくても、少なくとも私のような人間でも、それなりに生きることを楽しんでおります。
この記事を少しでも知っていただき、励みのようなものとしてお考えくだされば、この上ない幸いなことです。
長々と綴って参りましたが、今回も御覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。