【生き方・人間関係】2020年。 ~言の葉、言霊~
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つい十数時間前までだった、2019年
普段どおりに、寝て、起きて。
いつの間にか、2020年という新たな年が始まっております。
改めまして。
昨年は、大変お世話になりました。
本年もまた、何卒よろしくお願い申し上げます。
また、この度Pro版にアップグレードいたしました。
うーむ、HTML言語というものは難しいですね。
パソコンのエンドユーザーに関する知識は学生時代より学んで参りましたが、プログラム言語やデバックといった開発系は、私のような文系人間には難解なものです。
精進せねば。
さて、今回は年末年始のご挨拶というところから。
言葉
このことについて綴っれいければと思います。
※注記※
本記事は、私なりに感じ、考えた事柄について述べる内容となります。
決して押し付けるようなつもりはありませんが、不快感、反論を抱くようなことがございましたら、遠慮なくお伝え下さい。
最終手段として記事を削除いたしますが、すべて、私の思いである他ありません。
この注記にご賛同くださる方は、引き続きお読みくだされば、幸いです。
※注記終了※
言葉とは
言葉。普段より意識するようなものではないかと思いますが、それがどういったものなのか。
「口で言ったり、字として書いたりして意味を表すもの」
調べてみて改めて知ったことがありました。
私は言葉というものが、「口で言ったこと」だけだと勝手に信じ込んでいました。
つまりは、母音と子音の組み合わせた、言語という「声」や「音」。それが、言葉というものである、と。
しかし、こうして書き起こしている文章もまた、言葉という定義の一つになることは、かなり意外でした。
文字の羅列であったとしても、それによって「意味を示す」こと。
そう、文字をただ書くだけではなり得ないが、そこに「自分の意志や思い」が書く者により込められたのであれば、それは言葉になる。
確かにそうなのでしょう。
飽く迄、手段の違い。声に出すのか、文字として綴るのか。
過程は違えど、最後に行き着くのは、思いや意志、意見や考えが含まれていること。
それが、言葉というもの。
当たり前を通り過ぎて、無意識に使っている概念。
きちんと定義付けられていることを知るというのは、私は興味を唆られ、関心を持ちます。
当たり前過ぎるのに、深さをもつもの
こうして言葉の定義を知ると、奥深さに果てというものは存在しないのだろうな、と私は思っています。
ヒトという種族が種の存続を賭して、他の動物が持ち得なかった「言語」を操り、意思疎通する為に用いられてきた、言葉。
その時代に生きた人々の生活や状況、言い伝えを残すために、石の壁や石版に彫り込まれた文字や文章という、言葉。
時を経るに連れ、その手段は変化をしてきました。
手紙、書面。
国家や軍が生き残る為に飛び交った、言葉。
さらには、自分と相手がリアルタイムで話すことができるようになってきました。
黒電話や公衆電話を通じて直接声を交わす、言葉。
通信は、飛躍し続けてまいりました。
暗号文、ポケベル。
遠く離れた人同士が、機密的内容を非諾して送ったり、傍受したり。
固定電話がない場所でも、簡単な文字列を送ることで意思疎通を可能にした、言葉。
そして、今では。
スマホやパソコンというものを介して、誰でも、どこでも言葉のやり取りができる時代となっています。
黎明期の「World Wide Web」。元々は軍事的通信を目的に開発されたものでしたが。
次第にチャットや掲示場、個人運営のホームページ。
それから二十年も経たぬ間に、SNSやLine、ブログ、ツイッター、インスタグラムにFacebook。
上げ始めたら切りがない程、ヒトは「自分の思いや意志」を伝える手段を発見し、発明し、展開させ、現在ではあって当然というものとなりました。
ですが、手段の違いはあっても。
それらには、必ずといっていい程「思いや考え」という、最終的に伝えたいことが根付いていることに変わりはないと私は考えています。
それら全てが、言葉。
当たり前になりつつも、そこには、計り知れない深さがあると、私は思えてならないのです。
深さを知ることができるか、否か
例えば、本日のような年末年始に飛び交う言葉。
「新年 あけましておめでとうございます」
実はこの一文は、誤りがあります。
「新年」という言葉と「あけまして」という言葉が、同じ意味を含んでいる為です。
意味の重複、となってしまいます。
それ以外にも、相手が目上か目下であるかによって、表現が異なってきます。
そして、ここが私が最も申し上げたいところになります。
年末の「良いお年を」という言葉。年始の「あけましておめでとうございます」という言葉。
文面や声として出す言葉の羅列自体は、決り文句と言っても過言ではないかと思います。
ですが。
相手がもし、喪中であったとしたら?
喪中という、年を越すことにおめでたさなど感じられない人も、少なくないと私は思います。
そこに、掛けられる言葉は。
果たして、どういったものなのか。
私も祖父母を亡くした時、会社の先輩方が喪中に服していることがわかっていた時は、かなり悩みました。
今まで当たり前のように使ってきた言葉。それを使ってもいいのだろうか。
最終的に有耶無耶になってしまってすみません。ですがこればかりは、人それぞれになってしまう部分が大半を締めてしまうと思っています。
身内や普段から顔を見せている会社の人間ならまだしも。
SNSというものが当たり前となった現代では、そういった深すぎることを知る機会は、あまりにも少ない。他人に言えるようなことでないのだから、尚更のこと。
言葉というものが与えるものは、計り知れない。
そこで、私は敢えて意識していることがあります。
年末の挨拶は、「今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします」。
年始では「今年もよろしくお願いいたします」。
相手がどのような状況かであるかわからない。そうであるならば。
無難な言葉に留めよう。
一つだけ、申し上げたいことがあるとするなら。
不用意に相手を気遣ったり、慰めのような意志が伝わらないようにしたい。
言葉は自由な分だけ、相手がどう捉えるかは、自分ではわかるはずがないのだから。
その意志があることだけは、どうしても伝えたいと心より思っています。
言霊
言葉という内容について、ここまで述べて参りました。
言葉とは、「言霊」とも呼べるものです。言魂とも表記することもあります。
日本独自の考え方の一つであると言われていますが、それは。
「声に出した言葉が、現実世界に何らかの影響を及ぼし、良い言葉を発すれば良いことが、不吉な言葉を発すれば凶事が起こる」
とされています。
私なりに言い方を変えれば、言葉というものは。
本人が何気なく発した言葉であったとしても、それを受け取った相手や世間が、どう捉えるかはわからない。
特別な言葉でなくても、誰かを嬉しさや喜びを齎し、救いとなり得る一方で。
正反対に、誰かを傷付けてしまったり、恨みを覚えさせ、争いの元にさえなり得る。
言魂、という表記通り。
言葉には、知らぬ間に発した人の思いが入り込んでいるのではないかと、私は考えています。
たった一言であったとしても、そこには「魂」という、目には見えないながらも強い何かが詰まっている。
私もそれに気付くことができずに、いつの間にか、身勝手な「思いやり」と信じて発信した言葉が、相手を傷付け、恨まれ、疎まれて。
逆に相手からの何気ない誘いに対しても、「私の事情も知らないで、よくそんなことを……」と怒りや憎しみを覚えてきたこともあります。
SNSが齎した利便性と、裏に見え隠れする感情の渦
昨今、発展し続けるSNSで度々問題や事件に至る騒動さえあります。
手軽に「自分という存在を示すことができる場であり、手段の一つ」となった、SNS。
しかし一方で、投稿した本人が意図したものとは正反対に世の中や相手が反応し、俗に言う炎上沙汰になることも少なくありません。
あからさまに自己顕示や自己承認欲求を満たす為の非社会的行動は論外としても。
今や、どんな小さな言葉でも、一度発したら訂正や取り消すことはできないものになっていると、私は思えてなりません。
ネットワークという、無限大に広がる世界に投じた言葉は、一度誰かに認識され、感情を動かされた段階で、最早どうすることもできない。
喩え弁明したとしても、一対多という状況では、覆すことなどできはしない。
今こうして文章を綴っている私の記事も。
人によっては嫌悪や反論を呼びかねません。
最後は、考え始めたら切りがないというのが、私なりの見解です。
どれだけ自分が正しいと思っても、表面上は適切であったとしても。
ご覧くださる人々の思いは、私が考えることなど矮小過ぎるほど、広くて様々。
でも。私はそれでも。
一人のヒトとして、私なりの思いを、言葉にしていきたい。
どう解釈されるか考えて、悩んで、やめてしまう方が、私には辛くて切ないことだから。
その思いを抱く以上、覚悟は当然必要です。蔑まされたり苦情を受けることがあったり、意図は図れずとも「拡散」されるようなことがあっても。
私は、私の思いや意志を文章という「言葉」で綴り続けるのを、やめたくない。
社会的制裁が、ない限りは。
文章を扱う一人として、ある意味では、今年の抱負と言えば良いのでしょうか……。
このブログを続けていく為の矜持の一つ。
そんなものを示すことができたら幸い、と考えています。
今回もご閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。