白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

温もりと優しさ ~ありがとうと、ごめんねを繰り返して~

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 いつの間にか梅雨入りしたようですね。一時は夏日を通り越し真夏日に迫る暑さに辟易していたと思えば、朝夕の気温差がより激しくなりましたね。

 加えて湿度の高さも相俟って、暫く具合の悪い期間が続きそうですね。

 ひとまず、ショッピングモールやお店の冷房をもう少し弱めていただけませんでしょうか……。

 

 

白兎5

 

 はい皆さん、こんばんは。着重ねの量で寒暖調整して早幾星霜、衣替えの概念を遠い昔に置いてきた【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 これまで、当ブログでは生きてきた中で、私自身が感じてきた違和感や葛藤を中心とした話題を綴って参りました。

 飽く迄、私の経験や思ったことについて「同情」を求めるものではなく。

 同じような、似たようなものを感じた。それで嫌な思いをした、辛かった、苦しかった。

 そのような方々に、少しでも「共感」していただける文章を書きたい。

 独りよがりと思えるような決心の元、不定期になりながらも記事を書き連ねて参りました。

 

 

 しかしながら、休職を経て四ヶ月目となる今、少しずつ変化しつつあります。

 

  これまでは知識を持つ方々のお話しを元に、或いはインターネットを通して、独学と敬称するには烏滸がましいところではあります。

 私なりに目の当たりにし、受け止めながら咀嚼して解釈することで知識として蓄えて参りました。

 然れど、ここに来て頭では理解できても納得できないこと。

 或いは純粋に、理解することを拒むかのように避けてきたことが、あまりにも増えております。

 今回はそれについて綴って参りたく思っています。

 

 何か。それは。

 

 

 温もり。

 そして優しさです。

 

 

 

 

 

 疎外され、嫌われることには慣れていた

 

 今から、遠い遠い昔の話。楽しかったり嬉しかったり、そういった思い出はすぐに薄れていくのに、いつまでも残り続ける記憶です。

 幼少期から小学校卒業位までは小さい規模の集団だったこともあり、私は比較的平穏な時期を過ごしておりました。運動こそ苦手で恥ずかしがり屋であったものの、周囲に溶け込み目立つことなく日々を送っていました。

 周りからは優しい、と言われることが多かった記憶がございます。今となっては自分自身、その言葉の意味を無意味に思案する時間こそあれど、疎まれ仲間外れとは程遠い日々でございました。

 成長と共に、周りの趣向……流行とでも言えばいいのでしょうか、そういったものには興味関心を一切持たず、寧ろ流されることを嫌った私は好きなことを貫いていました。

 或いは、ませていた、とも言い換えられるでしょうか。

 それでも周囲は私のことを毛嫌いすることがなかったことは、幸いだったのかもしれません。

 「このゲーム面白いからやってみて!」と強要することはせず、只管自分が興味のあることのみを追求していたことも良い方向に導いてくれたと言っても過言ではないと思っております。

 

 変わっているところはあるが、自分を曲げない存在。クラスメイトから見た私はそのような感じだったのかな、などと思い返しています。

 

 

 然れど中学校、思春期に入ってから状況は変わりました。

 このことは過去にも綴っておりますので詳細は省かせていただきますが、各々の自我が芽生え始め、一人の人間として確たる価値観や性質が固まっていく中。

 既に流行りに対する興味のない、しかし譲歩や馴れ合いを好まない私を害悪と思ったのでしょうか。

 

 暴力のような身体的な攻撃はありませんでしたが、言葉や態度による否定、精神的に傷付け孤立させる動きが目立ち始め、日に日に明らかな個人攻撃が顕著になっていきました。

 今思えば相手にも何かしろの思想や価値観が合わなかったからなのだろうな、と思うことはできます。が、証拠にならない嫌がらせや否定は私を益々疑心暗鬼にさせていきました。

 

 実害を被った、その事実は変わらない。

 

 それから暫く、疎外され嫌われるだけの学校という閉鎖空間など行きたくない、行く価値もないと思うようになり、ある時、一人の童ながら一つの結論に至りました。

 

 人なんて、幾ら仲が良くても豹変するんだな。

 寄って集る連中なんて、一人の意思もクソもないんだな、馬鹿馬鹿しい。

 

 そう思ってしまってから、周りを見る目はすっかり変わってしまいました。

 本音で言われているかもしれない、気遣いや優しさも。

 からかいかもしれない、でも仲を深める為の婉曲した言葉も。

 学生生活を謳歌する学園祭で盛り上がる周囲のテンションも。

 

 疎まれ嫌われることに慣れてしまった私には、全て嘘と建前にしか見えなくなっておりました。

 

 これらの経験が、人生に対し斜に構え人をわざと遠ざける腐った態度として身に付き、以降の私を形成していくこととなります。

 

 人との触れ合いなんて、いらない。

 馴れ合いなんてくだらない。

 

 時を経て、社会人になっても相変わらず冷めた姿勢。快く思わない方々から様々な言葉も投げられました。

 ですが、もう慣れ切った私にはどうでも良い言葉ばかり。このまま誰とも親しく過ごせなくても構わない、逆に変に近づかないでくれ。

 独りでも、私は構わない。大丈夫。

 

 私は自分で作り上げた鎧を纏って、人を遠ざけていました。

 

 その時が訪れるまでは。

  

 

 傷付くことに慣れたはず。だけど出会いと共に齎される、温もりと優しさは

 

 

 いつの間にか本心を隠すことに慣れ切って、湧き上がる感情さえも無視した私は「冷静だがやさぐれた浮世人」を演じるようになっていました。

 同時に人を信じることを止めた……否、諦めた私は誰にも本音をぶつけることだけでなく、鬱憤や思いを話すこともなく全て飲み込んでいました。

 消化などされないことなど、わかっていたつもりでした。ですがそのような暴挙は遂に身体と精神を蝕むこととなりました。

 

 これが報いか、と自分を呪ったことさえありました。

 

 それから薬という補助を受けながら、人生なんてクソ喰らえと腐敗した時間を無駄に費やしていました。

 

 しかしある時から、思ってもいなかった出来事と出会いに邂逅することとなりました。

 学生時代に想像などできなかったことは、指摘されるまでもありませんでした。

 

 共通の趣味を持つ人との出会い。それも直接的な出会いではなく、SNSを通してのもの。

 当初こそ、人との出会いを通しての広がりといった希望よりも。

 裏切りや「どうせいつか有耶無耶になって離れていく」と疑いが、圧倒的に私を支配していました。

 

 ですが、現実は違いました。

 初めて相対する私に、掛けてくださる心地好い声音と言葉、柔和なで朗らかな顔。

 

 傷付くことも、嫌われることも慣れていた私には、余りにも温かくて。

 十数年以上、自分とはとてつもなく離れ切って、実感も持てなかった。

 

 戸惑いを通り越して、言葉では言い表せない事柄を無理やり理論や理屈として受け取ることが恒常化していた私は、素直に受け取ることが途方もない程困難で困惑しました。

 

 言葉をちらつかせて、裏では何か企んでいるはず。騙す気か、利用するつもりか。

 そのようなもの、慣れた私には無駄なこと。証拠を掴んだらすぐにでも切ってやる。

 

 懐疑心の塊と化していた私、しかし出会いを切っ掛けに出会った人たちは私の疑いなど矮小で愚かとさえ思わせる程の想いに満ち溢れるものばかりでした。

 

 運が良かったと言われればそうかもしれません。

 ですが人を信じることを、優しさと温もりを捨てるように忘れた私には。

 全てが温か過ぎました。一度のみならず何度も人を信じて頼ることを捨て去った私には。

 言葉で表せない、安心感と言えば良いのか、心地好さと表現すればいいのか。

 とにかく、こんな私と接してくださる人がいることの嬉しさ、喜び。そのようなものを噛み締める時間が増えていきました。

 然れど一方で、「人を裏切り裏切られた私などが、そのような感情を感じていいのか」と思い悩む時間があったことも、また確かでした。

 傷付いて独りになることは慣れ切った、だけど優しさや温もりは、信じきれない。

 身勝手な想いが錯綜し、だがしかし享受し思い切り甘えたいという想い。

 

 相反する想いは葛藤となり、やがてそれまで抑え込んでいた感情が暴走する結果を招きました。

 

 

 ありがとうと、ごめんねを繰り返して

 

 時が経ち、獣人を模した着ぐるみ界隈と出会いました。元々人間という存在が不信そのもので生理的に嫌悪するようになっていた私には、元来持ち合わせる自分を切り離すことで「羨望を叶え成り切る」という世界に飛び込んでいました。

 

 

 元々好きだった、孤高ながら崇高な狼。それを高校時代から執筆していた物語の主人公と重ね合わていました。

 

 しかし。

 表面的には獣人であっても、中身は人間。当然ながら人それぞれの着ぐるみに対する考えにみならず、考え方そのものや価値観、譲れない想いは出て参ります。

 

 結果的に、私も反りが合わず喧嘩別れするという事態に出くわすことととなりました。

 

 正直な思いを綴らせていただくと、またか、という感情が強かった印象です。

 所詮、着ぐるみと言えど中身が人間なら排他されることもあると。

 

 同じ趣味を持つ者同士、和気藹々と言わずとも仲良くできれば、私はそれで良いのに。

 理想郷を語るように思案を巡らせる自分が馬鹿馬鹿しくなり、一時は界隈を去ることも考えました。

 

 もう、喧嘩も裏切りも沢山だから。

 

 そうして無気力な日々を送っていたある日、とあるメッセージが届きました。

 

 それはMr.Childrenの「Sign」の歌詞の一部でした。

 『ありがとうとごめんねを繰り返して』

 『人恋しさを積み木みたいに乗せていく』

 

 謝罪の意味の「ごめん」。感謝の意の「ありがとう」。

 喧嘩別れし絶縁した事実は変わらない、それでもそうやって頑張ってきたんだよね。

 

 そう言われた瞬間、情けない位ボロ泣きしていました。感情を押し殺さなければ生き抜けなかった私は、込み上げる様々な思いを抑えることは最早できませんでした。

 

 そこまでして、ようやく気がつけたような感覚に包まれました。

 価値観の違いがあるから、いざこざは起こり。時として見限ることも見限られることもあることを。

 でもありがとうと、ごめんねを繰り返しながら、生きているということを。

 

 過去は誰にでもある。幸か不幸かなんて、わからない。

 それでも直ぐ様拒絶するようなら、私にそうしてきた人たちと同じになる。

 まずは、受け入れること。頭で理解できなくても、ひとまず発せられた言葉を受け止める。

 脚色づけることなく。

 

 今はまだ、私も上手く噛み砕いて自分のものにできずにいます。

 ですが少しずつで良い。全部理解しようとしなくても良い。

 拒絶された過去は過去。今は、新しい出会いをまず受け入れたい。

 拒否することなく。時には謝ることはあっても、感謝を必ず添えながら。