【生き方・価値観】共感 ~私が、目指したいもの~
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小寒を迎えたのに、雨が降って。春一番を思わせる、唸るような風が吹き荒れて。
不穏さを感じずにはいられずにいる、白兎です。
皆様、如何お過ごしでしょうか。
開設からの投稿記事が、20をようやく超えることができました。
最初は「始めてのは良いけど……どうしよう」と不安しかありませんでしたが、ご覧くださる皆様のおかげもあり、ここまで自分の思いや考え、趣味趣向を伸び伸びと書かせていただいてくることができました。
私は「書きたいから書いている」と以前、申し上げました。
一方で。
ここまで来て、不図思うことがあるのです。
私が書いた記事を、見てくださった人たちは、どう感じているのか。
書くことでご飯を食べている、そんな人間でもないただのブロガーの一人。曖昧な世界観や精神的、心理的なこと、答えという答えのないものを追い続けている私が考え、思い続けていることです。
興味や関心。物珍しさ。
共感や同情、或いは反感や否定。それ以外の感情や思い。
もしくは、どこまでも無関心。
杓子定規では決して計れない、見えないもの。見えているようでも、朧気で。
姿形を持たない水を、この手に掴もうという傲慢にも似た感覚。
そんな、求める意味さえ不明瞭なものを求め続けるのには、私の持つ矜持といっても過言ではないものがあります。
今回は、私がブログを書く目的。
そんなことについて、綴っていきます。
自己満足?
文字や文章という手段を用いて伝えたいこと。
それは、書く人それぞれの思いが籠もっていると、私は思っています。
私の場合はクルマの紹介であったり、経験してきた過去であったり、今抱いている思いや考えを綴っています。
表現の仕方、言葉遣いに気を付けているつもり、ではありますが。
突き詰めれば、それは自己満足に過ぎないのではないか。
あれだけ「書きたいから書く」と堂々と宣言の如く書いておきながら。
他のブロガーさんの記事を拝見し、「あぁ、成程」とか、「そういう考えも、あるのか」とか。
自分が興味を持った記事を深々と読む一方で。
私自身が、毎日のようにPV数を見て、その数値だけで喜んだり、憂えたり。
そう。
私が志した思いは、目で見えるものを求めているだけなのか。
一方で。
私が、唯一といっていい程自分の思いを伝えられる手段である、文章。
そこで訴えたい、伝えたいものが、ある。
真逆に位置し、相見えるには困難な感情。
葛藤、といいても差し支えありません。
文章を書いて、自分という存在を誇示したいという自己満足。
それは否定したいと書いたところで、叶わないことです。
それでも、譲れない願いや思いが、私の中に確かに存在する。
言葉にするには、私には難しすぎる内容です。でもしかし、これだけははっきりさせてください。
私の記事を読んでくださった方が、そこから何か思うことが一つでもあってくれれば。
同情でも、不快でも、厭わない。
しかし願わくは、少しでも共感してくだされば、これ以上のことはない。
過去を語ったり、自分の抱える問題を書くことで、自分が満たされたいということは、飽く迄二の次。
私の文章を見て、誰かが、何かしら得られる切っ掛けとなりたいというもの他なりません。
慢心の塊だ、とお思いなった方は、それはそれで構いません。否、仕方がないと思います。
それでも、私が文を書くことをやめない。否、やめられない理由は。
恐らく、多分、私なりにではありますが。
確固たるものがあります。そう、思いたい。そう、信じたいです。
共感と同情は違うのか?
間違いも正解もない、自分の気持ちを伝える手段。声に出して言葉にするという手段などはありますが、私の中では殊更、文章というもの。
それを通して伝えたいと思うもの。
共感というもの
似たような言葉で、同情というものがあります。
両者は非常に近いながらも、差異があります。定義もあるそうです。
その中で私が考える、その違いは。
同情は、主に「不幸な状況」にある相手の感情に寄り添う。飽く迄主観的であり、痛みを分かち合う、と言えば良いのでしょうか。
対して共感は、相手の立場や感情を理解する。こちらは客観的で、相手と同じ立ち位置に立つ、といった感覚である印象です。
似て非なるもの。判別も難しいながら、私が共感というものに拘るのには、理由があります。
同情=弱みを見せた者に対する感情
これは私の経験上での定義故、正否があるとは思ってはおりません。
しかし、曲げることができない以上、反論承知で申し上げます。
私が、イジメを受けて、人格否定されて。
人という存在を失いかけた時に、形振り構わず求めたもの、それが同情でした。
「イジメを受けて、人間を信用できなくなった!わかってくれる人、いるよね!?」
「私がこれだけ辛い思いしてきたんだ、誰でもいいから理解してよ!!」
大げさかもしれませんが、本気でこんな思いで周りに求めていました。
……自分が何かをする訳でもないのに、愚直過ぎる程に、馬鹿が付く程に。
同級生のみならず、担任という大人にすら「裏切られた」と思い込んで信じ込んでいた私は、そんな身勝手な思いしかありませんでした。
そこに待っていたもの。
「俺もイジメられたこと、あったよ」
「白兎(実名)も辛かったかもしれないけど、俺も同じ感じだったよ」
私が、本当に欲しかったもの……心のどこかで、絶叫するように求めていたもの……とは違うものでした。
当たり前と言えば、そうですよね。
勝手に糾弾した、私の言葉。そんなものに、寄り添おうという人なんて、いるはずがない。
ましてや、同じとは言えなくても、似た境遇を経験した人は……。
自分だって、寄り添ってほしい……そう、思っていたのではないか。
憶測の域を出ず、私の考えという狭すぎる範囲を遥かに超えた思いがあったはず。
それなのに。
私は只管、自分の不幸を、不運を誰かに共有したかった。
わからなくはない、でも。
それって、「自分だけが満たされたいだけ」だよね?
今は、そう思えてなりません。
それとはまた別に、寄り添ってくれた人がいました。
そこでも、私は疑念を抱いてしまいました。
同情って。
自分が、弱音や愚痴を吐いたところに、寄り添ってくれること。
その前提条件が、「弱みを曝け出す」こと。
弱みを見せるということ、って。
自分が情けなくて、弱くて、助けを求めていることを誇示することではないのか?
イジメの件以来、「弱みを見せる=情けない」「悔しさや切なさから出る涙に寄り添ってくれること=自分が弱いと自ら誇示している」
自分の境遇を絶叫しながらも、心の奥底では、そんな「弱みを見せる」ことに対し恐怖を抱いていたのだと思います。
私は、弱みなんて見せたくない。イジメを受けた経験という弱みなんてものは、人生の汚点だ。
そう信じて疑うことはありませんでした。
しかし、一度見せて弱みを。晒した途端、次はどう弄ばれるか。
そう考えると、恐怖と警戒心、敵対心。
負の感情しか、浮かぶことはありませんでした。
今思えば、単に強がっていたんだろうなぁ、と思いますが。
それだけ、生きるということに必死だったんだと。
そうでもしなければ、死という選択肢しかなかったんだって。
私が必死で求めていたものは。
本当に求めていたものとは、異なっていました。
共感という言葉を実感した瞬間
以来、人を疑うことそのもに疑念すら抱かないまま。
自分を勝手に追い込んだ結果。
自ら、死に至る病。精神疾患を患うという皮肉な結末を迎えました。
それにより進んで精神科に受診し、辛うじて生を繋ぎ止めることはできたものの。
自分というものを。矜持と言えるものを創れないまま。
傀儡のように生きる日々を、数年続けてきました。
それでも、転機というものがあるということを。
身を以て知ることができました。
望んでいても、そうでなくても。訪れるものは訪れるものなんだ、と今は思うことができます。
ある時、自分の生い立ち。経験。人生に対する向かい方。
それを、言葉というにはあまりに不器用過ぎて。小さな子どもが、何が何でも意志を伝えたいような、そんな感覚で。
私は破裂寸前の感情をむき出しに、両手が潰れる位握り締めて。
奥歯を、音が出る程噛み締めて。歯が砕ける程、行き場の無い思いを、無意識的に身体を使って表現した時でした。
その時。決して心地好い言葉でも、雰囲気でもない私の思いを聞いてその人は言ってくれました。
「大丈夫?」
立っていることすらやっとだった私に。
「無理しなくて、良いんだよ」
今にも泣き出しそうな私に。
「とりあえず、座って。大丈夫だから」
その言葉を聞いた瞬間。
十数年抱え続けていた思いの全てが、止めどなく溢れてしまいました。
情けなく、項垂れて嗚咽を漏らす私に。
その人は。
「我慢しなくて、良いんだよ」
私という人間には、あまりにも優しくて、温かすぎる声色でした。
私は、イジメの件以来人に触れたり、触れられたりすることが苦手になっていました。
違う。また、自分に嘘ついてる。
嫌悪感、という嘘に塗り固められた……恐怖。
それを、強引でなく。
鎖でこれでもか、という程封じてきた感情が。
一気に溶け出して、理性を突き破って。私が本当に求めていたものに、縋り付くように。
「こんな私が、穢れきった私が……」
ヒトという温かさに触れたい。でも、まだ過去の因縁が私を縛り付けていました。
「ごめんなさい、私、自分から人に触ることが、怖くて……手が、震えて」
情けない位に動揺する私に。
その人は、そっと、私に触れてくれました。
「大丈夫だから」
その瞬間、「触れても、良いですか?」と理性には程遠い言葉を付けながらも。
私は、初めて「人の温もり」というものを知りました。
温かくて、心地好くて。私という人間には、あまりにも温かすぎて。
知らぬ間に、私は嗚咽とも静かな絶叫にも似た唸り声を上げることしかできませんでした。
それでもその人は、何も言うことなく。
私の背を、肩を、頭を。静かに撫でてくれました。
他人はもとより、両親にさえされなかったこと。
時間で言えば、短ったかもしれない。でも私には、これまでの人生を埋めるには十分過ぎる温もりを、その人はくれました。
そこで初めて、気付くことができました。
同情とは、違う。
感情移入などない、純粋に、私という人間と「同じ立ち位置に立ってくれた」という感覚。
それが、共感というもの。
そう確信することができました。
そして、それまで共感というものを言葉でしか示すことができなかった私が。
やっと、その意味を、温もりを、感じることができました。
とある夏の夕暮れ。自然が偶然生み出した、神々しさに震えた煌めきと影の空。
共感するという難しさ
私の中では、同情と共感という違い。それははっきりしていると自負しています。
失礼ながら、同情は飽く迄表面上だけであっても、寄り添うこと。
共感は、立場の違いがあったとしても、同じ立ち位置にたって、相手を理解すること。
そうやって改めて、定義しています。
どちらが良くて、どちらが悪い。そんな話ではないと私は思っています。
相手の立場と、同じ位置に立てるか否か。
感情移入の有無はともかく、それが決定的な差なのだろうと、私は思います。
そして、そんな経験をした私は。
文章というものを通じ、喩え少しであったとしても、共感を生み出せるような文章を綴りたい。
あやふやだった、私の考え。それが今、矜持という確固たるものに昇華させました。
もっと言えば。
私の文章だけでなくとも、誰かの文章が、共感という感情を生み出せるのであれば。
それは、この上ない幸せなことなのだろう、と思っています。
私は、そんな共感を得られる。
否、共感という感情を呼び起こせるような文章を綴れるようになりたい。
そう、切に願っています。
終わりに
こうして書いている文章も、私という主観を超えることは叶いません。
それを、受け取る側がどう捉えるか。
伝えたいものと、受け取るもの。そこには、絶対的な乖離が生まれてしまうことは、避けようがないと思っています。
人間はその人それぞれが違う考え、思い、思想を持っていると思います。
そこに、間違いだとか、正しいだとか、そういったものはない。
そんなもの、誰が決められるものか、と考えている為です。
それでも、少なくとも、私は。
価値観も、思いも、あまりに違いすぎて。
一見相見えることができないヒトという存在が。
文章、声という言葉を通して、わかりあえ、共感できる。
そうなることを、心から、切に願っています。
本日も御閲覧くださり、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。