【HSP・生き方】理解を求めるより、自分らしさを ~理解される努力よりも、自分を大切にする努力を~
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学生の頃や社会人になりたての頃は、一年という時間が物凄く長く感じて仕方ありませんでした。
一年どころか、一週間が、一日があまりにも退屈で、変わりない毎日に嫌気が差していました。
それが三十路を過ぎた頃からか。一日や一週間が過ぎ去るのが遅いと思うことはあれど、時間が過ぎ去るのがとてつもなく早く感じるようになっています。
今年も、その一つ。気が付けば極月です。あと一ヶ月足らずで2020年も終わってしまいます。
時間が早く過ぎ去ってほしいと小さい頃から願い、早く歳を取りたいという年齢不相応な考えを持ち続けた私には、今がちょうどいい塩梅な時期なのだろうなと煙草を吹かしている【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
コロナ禍で始まり、コロナ禍で終わりを迎えようとしている今年は。
大勢の方がコロナウィルスの害を被り、亡くなった事実を受け止めながら、お見舞いとご冥福をお祈りすると共に。
良い意味でも悪い意味でも、私たちヒトが生きる意味を考えさせられ、多様な生き方が見直される一年になったかと思います。
これまでの私生活に始まり、会社や学校、人との触れ合い方が次々と考え直される中で。私は、個人の生き方や考え方も尊重され重視されるような時間となったと考えています。
ことさら、生き辛さや息苦しさを感じて一日を送るのがやっとだ、というHSPの気質を持つ方。それだけでなく、HSSや双方を含むHSS型HSP、そしてHSSとは思えずとも外交的なHSPの方まで。
或いはそうでなくても、恒常的に人との繋がりを求めたくない人にとっても、人と物理的に距離を置くことができることを実感できる一年になったのではないかと思っています。
そんな私たちは、周りから理解を得られることはまずないと考えています。
目に見えない、心の持ちよう。それが病気でないのだから、尚更「人付き合いが悪い」「絡みづらい」と思われても不思議ではないからです。
それが、コロナウィルスの蔓延によってテレワークや外出自粛という名目で人と離れる機会ができたことで、自分という人間を見詰め直す機会に巡り会えた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
今回は、その当事者の一人であるHSS型HSPを自認する私が改めて人と接することを見つめ返したことで。
最後は、自分を理解できるのは自分しかいないことを再認識したことと。
それを他人に理解を求めても、何も始まらないことと。理解されることよりも自分らしさを大切にしたいと思ったことを、過去とこの一年で私が感じ思ったことを交えながら、綴って参ります。
- 息苦しさや生き辛さ。それをわかってあげられるのは、自分だけ
- 自分のことさえわからないのに、人に理解を求めても
- 皆が皆、同じ感覚や思考で生きている訳ではない
- 理解を求めるよりも、まずは自分らしさを大切にすること
息苦しさや生き辛さ。それをわかってあげられるのは、自分だけ
人と会うだけで疲れてしまう。
様々な場所から齎される情報が多すぎて、頭が一杯一杯になって他のことを考える余裕がなくなった。
ニュースや報道を見ていると、何だか自分のことのように思えて苦しい。
周りの人と、自分は何かが違う気がして嫌気が差した。疲れて苦しくて、幻滅した。
ネットやその他情報源が指し示す、HSPの兆候や心境を簡単に列挙しました。
その中で、ご自身が幾つ当てはまるか?……と質問形式で提示され、答えによってHSPか否かを診断するのが一般的な手法であると思います。
私としては、間違った方法ではないと思っています。
敵を知り、己を知ればという故事成語があるように、まずは自分がどんなことを思っているのか、どんなことに気が向いて仕方がないのかを知ることが、第一歩であると考えている為です。
が、しかしと付けさせていただきます。
この世の中に生きる中で、何となく息苦しさや生き辛さを感じて。その原因を知りたくて検索すれば、そのような診断サイトやアドバイスサイトにたどり着くことが容易になっています。
逆に言えばこの手の診断は、飽く迄普遍的で統計的情報を元に作られた質問群です。万人向けかもしれませんが、事細かに自分を知るという目的には向いてはいません。
人間は性格から考え方、価値観まで、それこそ星の数を数えるのと同意程の違いや差があります。
言い方は悪くなりますが、それをたかがネットの診断程度で「俺ってやっぱり変わっているんだ」「私はHSPやなんだ!」と判断するのは早計な気がしてなりません。
指標として使う分には、私も同意できます。寧ろ否定どころか賛同できることと思います。生きることに違和感を覚え、自分を知ろうとする切っ掛けを創ることは難しいと共に、それを実行できる人は少ないと思うと共に尊いことだと私は信じています。
然れど、それで満足して終わって足を止めてしまってはダメな気がしてなりません。
そのような診断をして、質問内容に少なからず「ん?これは違うかも?」や「何を聞きたいのか、ちょっとわかんないな」と思うことがあると思います。
決め付けにするつもりは毛頭ありませんが、生き辛さや息苦しさを何とかしたいと思い、進んで行った方は、必ず引っかかることが生じると思っています。
私もHSS型HSPを自負していますが、始めは体の良い診断結果に満足した結果、長年違和感を抱き続けることとなった経緯があると共に。
診断だけではわからないことは、自分の中に眠っていることに気付かされた現実がある為です。
統計などではわからない生きることの辛さや息をすることさえ苦しい思い。それは決して機械が判断できるものではありません。
全ては、そう思い感じた方の胸中に、奥底に眠るようにして根付いているものだと思うのです。
自分のことさえわからないのに、人に理解を求めても
本記事はHSPに特化させ綴っておりますが、そうでなくても、自分のことを完全に理解して生きている方はほとんど皆無と言っていいと、私は考えています。
知識や学力といったものである程度は取り繕うこともできますが、人間という生き物は、最後は自分自身が内包する思いや考え方に帰着すると思います。
何だか、生きていて窮屈な気がする。人と一緒にいても楽しめない、もしくは最初は楽しくても別れと同時に疲労が押し寄せる。周囲の空気が何となく気持ち悪くなって、その場から一刻も早く出たくなる。
これは「自分でもよくわからないけど、何となくそんな気分になる」と言い換えることができると思います。
では逆に。
そんな心境に陥った時や日々思っていることを、他人に説明しろと言われれば、どうなるでしょうか。
とても難しいことだと思います。
仮に話をしたところで、「気のせい」「思い込みすぎ」「それ、言い訳?」と言われる未来が見えてしまいます。
何故なら、言葉や理屈では説明がつかない思いの塊であると同時に。科学的根拠や医学的に説明ができるようなものではないからです。
もう少し踏み込むと、自分でも明瞭でないモヤモヤとした感情や思いが纏わりついているだけで必死なのに。
他人に説明できる余裕など、どこにあると言えるのでしょうか。
喩え訴えることができたとしても、真の理解は得られないと私は思えてなりません。
という私も、散々そのような思いに刈られ、人を忌避して避ける日々を送ってきた過去があります。
自分のことも、己が抱えている思いも感情も理解できないまま、魂がすっかり抜けた状態で20代を費やしたと言っても過言ではない程です。
それでも、他人が、周りが齎す怒りや悲しみといった感情が勝手に入り込んでくることが、苦しくて。避ける為なら、どんな方法をも用いてきました。
自分に関する質問ははぐらかしたり無視して。会社に付き物の飲み会でも人の話を聞くことに専念していました。
そこはHSPの特徴である、傾聴し共感すること。そして元来聴覚に敏感だったこともあり、然程苦痛に思うことはありませんでした。
でも、今思えば。面白くもない話を聞いている時間が、とてつもなく無駄で詰まらないと思って仕方がありませんでした。
他方で、自分でもよくわからない、自分自身という人間を知ってほしいと訴えようと喉元まで出かかって、最後は飲み込むという葛藤を味わい続けてもいました。
結局、言い出せないまま悶々とした日々を過ごし、それを他人のせいにして不貞腐れた生き方をしてきた気がします。
私という存在を理解されたいという気持ちと、他人に絶望し諦めている思い。
相反する思いは最終的に解決どころか、一層人を疑うこととなり果てていました。そして、人との溝を埋められない程にまで、自ら広げていました。
他の誰でもない、私自身の手で。幾度も裏切り裏切られて穢れ切った、この手で。
皆が皆、同じ感覚や思考で生きている訳ではない
人との違いを感じ、自ら離れるような態度を取り始めてどれ程の時が経った頃か。
相変わらず周りとの付き合いを拒み、淡々と仕事をこなしては定時で上がる。仕事をする面白みも何も感じない日々を送っていました。
そんな私のような性根が腐った人間にも、唯一心を開ける相手がいました。入社し初めての配属となった場所で、新入社員時代の苦楽を共にした同期の存在でした。
彼は何を言われても、催促されようとも、ひたすら自分のペースを守る人でした。仕事の配分だけでなく、休憩のタイミング、挙げ句には食事に行こうとする時間帯も絶対に曲げない人間です。
せっかちな私は食堂が混む前に行こうと仕事を急いで片付けても、彼は自らの生きるテンポを決して変えようとしませんでした。早く行こうと言っても、「まだ早い」「ちょっと、人がいなくなった時を見計らって」と諭す程でした。
でも、休憩に入った途端に和気あいあいとスマホでストレスを溶かす日々を一緒に過ごしていました。私とは全く違うのに、何だか歩調が不思議と合っている、そんな印象を抱き続けていました。
ある時、何となくではありますが、私は気付いたような気がしました。
この同期といる時は、気を安らげるのは確か。しかし、私の主張を簡単に受け入れるような人ではない。寧ろ自分というものをしっかり持ち、それに基づいて生きている。かと言って、彼自身の考えを押し付けようというつもりはありませんでした。
なら、私も「押し付けがましく理解を求める」よりも、「自分が思った通りに、貫いて生きてみてもいいのかな」って。
そう。これまでもそうだった。私は周りに求めるだけ求めて、返そうともしないまま生きてきてしまいました。
私にも非はあり、罪も多くあります。
然れど、結局は自分という存在を出しきれなかったことに尽き、これまでの私の全てと言っても過言ではない生き方でした。
そんな生き方、もう辞めにしよう。
人に求めることを、理解される為に自分を売るような生き様なんて。
理解を求めるよりも、まずは自分らしさを大切にすること
そう思ってから、守るべき礼儀は自分なりに押さえながら。親しき仲にも礼儀あり、という矜持は守りながら。
私はプライベートでも仕事でも、上下関係を気にして生きることを辞めました。
立場が上だから、何?偉いから、何?周りがヨイショするような相手が、何?
そのような思いが、私の行動理念になって久しくあります。それによって咎められても離れられても、あまり傷付くことはなくなりました。
孤独の最中にあったイジメ時代、周囲の視線に怯えながら辛うじて命を繋いでいた自分が嘘のように。自分で言うのも難ですが、私は変わることができたと思っています。
自分よりも人に存在意義を求めることは、ある意味簡単でありながら依存し易いです。私はその傾向が強かったこともありますが、その状態から抜け出すことは勇気と覚悟が必要になります。
共感性が高く感受性が強いHSPは、自分という存在自体が他人と違うと認識しがちかと私は思っています。故に人に認めて欲しい、助けて欲しいと縋ってしまう可能性が高いと考えています。
でも。
現実はそんなに優しくありません。これは経験的にも自信を持って言えます。
ならば媚びを売るようにして理解を求めるよりも、自分という存在を。自分らしさに耳を傾けて大切にすることが、尊いと共に大事なことだと思います。
今もし、貴方が生き辛さや息苦しさを感じているのなら。
それは、周りが齎したものでしょうか。恐らく、違うと思います。
その思いも、気持ちも、感情も。全ては貴方自身が抱えているものです。他ならぬ、貴方の内からの言葉であり、叫びです。
それを否定する必要は、私はないと思います。逆に受け入れろ、とも言えません。
まずは、言葉にならない自分の思いを、大切に抱きしめてみては如何でしょうか。そこから、変わることは多いと思います。
そういった思いの数々を、自分らしさと思えるようになるには、時間がかかるかもしれません。
ですが、向き合い続ければ変われるはずです。
人に裏切られて裏切ってを繰り返した、私のような屑の人間でさえ、そうすることで生き様そのものを変えることができたのだから。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。