白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【車・無意識】無意識の恐怖 ~路上講習にて~

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 帰りの電車内。

 旅行客や出張帰りなのか、自由席に座るのがやっとという混雑具合でした。

 そんな折、たまたま隣に乗りあった方が、唐揚げのお土産を持っていました。

 
 その匂いを嗅いで、無性に「からあげクン」が食べたくなった、白兎です。

 

 皆様、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 一年ほど前になりますでしょうか。

 会社が計画した、車の安全運転講習に参加した時のことです。

 免許取得以来となる自動車学校に赴き、教官が助手席に座る中。

 教習車に乗り込んで、一般道を「普段どおり」に運転し、その後講評をいただく、というものでした。


 私の務める会社は60歳過ぎの方も多く、また、新入社員も車を運転した経験が少ない者も多く、今でも交通事故のみならず、自損事故が後を絶ちません。

 そういったものへの対策の一環として、自動車運転講習や安全運転講習といった講習会が数多く導入されて、久しく感じています。

 

 さて、実際に路上教習という名目で挑んだその時の私は。

 

 教習車に乗り込み、助手席や後部座席に誰かが座っているという中での運転は、やはり緊張するものです。

 ましてやそれが身内ではなく、教官や先輩社員という状況。

 仮免許取得、路上検定以来となる、十数年ぶりのシチュエーションでは、「変に意識せずに」と言われても、どうしても妙な緊張感は拭えませんでした。


 しかしそれでも、学ぶことはたくさんありました。

 

 それは、運転するに慣れてしまったが故、いかに「無意識的」であって。

 免許取得時はこれでもか、という程意識していたことを、すっかり忘れてしまっていたことを思い知らされる時間でありました。

 

 今回は車を運転する、という状況だけでなく、人間が生きる術として身に付けてきた「無意識的行動」の素晴らしさと。

 その裏に潜む恐怖や奢りについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車を運転する時、動作を意識しているのだろうか

 

 

 

 普段クルマを運転する中で、「意識して運転する」ということはかなり限られてくるかと思います。


 例えば、発進時。

 マニュアル車の場合はクラッチを踏んだ状態でローギアに入れ、踏み込んでいたクラッチを少しずつ離しながらアクセルを踏み込んでいって、半クラッチ状態を経て動力をタイヤへと伝えていく。

 AT車であれば、ブレーキを踏んでミッションをPレンジからDレンジに移し、クリープ現象を利用しながら少しずつアクセルを踏んで加速していく。

 

 曲がり角や交差点を曲がる時はブレーキを踏んで、もしくはエンジンブレーキ併用しながら速度を落とし、曲がり角の角度によってハンドルを切る。

 

 

 そういうことを、いちいち意識しながら運転なんてできないかと思います。

 

 免許を取り立ての頃は、半クラッチだとか右左折時の後方確認を、教官に言われるがまま意識してやっておりました。

 

 しかし、今ではほとんど、特に考えることなく運転するようになっています。

 


 これは所謂、無意識での動作です。

 

 一度学習し習慣化したことは、頭で考えながら行うのではなく、身体が覚えたこととして、ほぼ自動的に行う。

 色々と思考することなく、身体が状況に応じて勝手に動いてくれる。

 

 私の思いとしては、こういった無意識的動作は人間という生き物が持ち得る、非常に優れた能力であると思っています


 こういった無意識的動作や行為は、運転に限らないかと思います。


 朝起きたら顔を洗い、歯を磨き、身だしなみを整える。

 中には特別意識して、念入りに行う方もいらっしゃるかもしれません。

 ですがこのようなことを、毎日毎日意識しながら行う人は、そう多くないと思っています。

 これもほとんど意識せず、習慣化されたことの一例と思います。

 

 そのような無意識、と対を成すもの。

 それは意識であったり、自覚的に行う動作であり。目の前の事象に対し視覚を始めとする五感で捉え、思考し、動作に移すことです。


 この割合が、無意識:意識=1~3%:99~97%と言われているそうです。
 それだけ特段意識することなく、物事を処理しているということになります。

 そうでなければ、ヒトという生き物は一つひとつの行動に対して思考、処理を行った上で行動として現れることになり。

 人間が持つキャパシティを遥かに超え、日常生活もままならなくなってしまいます。


 

 

 

 無意識が齎していたもの

 

 

 


 話を戻します。

 今回の講習を通して、無意識というものが優れている反面、怖いものであることを実感しました。


 その理由は、路上講習を終え、教官に言われた言葉でした。

「ブレーキが全体的に遅い。カーブ時も減速が遅めだから、もっと早めのブレーキを意識して」

 
 たった30分の、講習とは言え私なりの「普段どおり」の運転でした。

 しかし教官というプロフェッショナルの目は、私の「車を運転する」という無意識的動作の欠点を、完全に見抜いていました。


 言われた直後は「そんなことない、と思うんだけどなぁ」などと思いながら、愛車と共に着く帰路の中。

 日中教官に言われたことを、「頭ごなしに拒否しない」ようにし、私なりに意識して。

 俯瞰視点で見るような形で、いつもの帰り道を運転しました。

 

 すると、です。

 赤信号で、前のクルマが止まっているのに。

 頭の中では、減速が遅すぎる。このままではブレーキを強く踏まないと、追突する。

 でも、身体は思考に従うことなく、「普段どおり」に強めのブレーキを掛け、停車していました。

 

 交差点を曲がる時も。

 頭では減速が遅くて、明らかにオーバースピードのままコーナーに入ってしまう。もっと早く減速しないと、対向車線にはみ出す勢いで膨らんでしまう。


 しかし。

 身体は思考を無視して、「いつもの通り」ハンドルを切り、曲がっていく。

 案の定、曲がり切った時に初めて脳がようやく状況理解して、フロントが対向車線にはみ出ていることに気が付くのでした。

 

 昨日まで走ってきた、何気ない帰路が。

 まるで別の、全くの初見の道を走っている。そんな思いすら感じました。

 それでも、必死に考える中でも、身体は無意識のまま、「いつも通り」動き続けました。

 

 

 

 

 怖さを、感じた

 

 

 

 

 帰宅して、愛車のエンジンを切った途端。

 

 得体のしれない「怖さ」を、私は感じていました。

 いつもなら、仕事を終えて帰宅した「安堵」に浸るはずなのに。

 
 無意識に、ただ「何気なく」行っていた自分の運転が、怖い。

 しかし無意識下に置かれてしまった「運転する」という動作は、思考を容赦なく上書きしました。


 これが、今回のタイトルそのものです。

 

 喩え一度でも、「思考」を通すことなく自動化されてしまった動作。

 一時は恐怖を感じるようなことであっても、「無意識」の内に行われる処理は。

 たとえ意識していても変えることが難しいことを痛感しました。

 

 でも。


 私が今できることは、無意識で行っていた動作を「意識」して。

 上書きするように行い続けることで、少しでも変えていく。

 そんなことしかできなないのかな、と思っています。

 

 

 話は逸れますが、私の好きな歌の中で、こんな歌詞があります。

 

『失って気付くことさえ 人は繰り返し間違う』

 

 今日感じたことが自分にとってどれだけ大切で教訓としなければ、と思っていても。

 いつかは、忘れてしまう。

 もしかしたら、明日の朝には。


 だからこそ。

 備忘録として。何よりも、自分への戒めとして。

 

 今回の記事を綴らせていただきました。


 習慣化されてしまった無意識下の動作を、如何に思考して、意識して。

 それを変えていけるか。

 それが喩え、明日も、明後日も、週末も、それ以降もであったとしても。


 いつかは頭の片隅に置くことになるかもしれない今日の出来事を、考え続けて。

 出来っこないと勝手に決め付けることなく自分なりのやり方や考え方で。

 周りを、何よりも自分を護る為に、無意識を意識に変えていきたいと思っています。

 

 

 ※本記事は、車のSNSで上げた記事を基に綴らせていただきました。※

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

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