白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【価値観・人間関係】SNSが齎したもの 〜人の繋がりは、発展したのか〜

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 ブログを綴り始め、早くも一ヶ月以上が経とうとしております。

 最近はパソコンだけでなく、スマホを用いて下書きを書くようになりました。

 書きたいと思った事柄に出会したり、唐突に閃いた疑問など。

 これまではメモ書き程度に残して参りましたが、時間が経ったり別のことを考えていくうちに「本当に書こうと思ったことって、何だったっけ?」と悔やむことも少なくありませんでした。

 ところが、スマホで下書きを書こうとしても、私はフリック操作が遅く誤操作多いので時間が掛かり、誤字も増えてしまいまっていました。

 そこで購入した、Bluetoothキーボード。

 細かな編集はできなくても、スワイプではとても追い付かない、文字を起こすことができる軽快さ。それのみならず、タイピングそのものの心地好さ、携行性の高さ。

 便利過ぎるまでの携帯型キーボードを使いながら、いそいそと文字を起こしている白兎です。

 

 皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

 

 さて、今こうして文章として綴っている自分の思いを、遠く離れた誰にでも手軽に伝えたり、情報発信ができる時代となっています。

 たった半世紀までは、離れた相手と話しをしたり思いを伝える手段は、電話しかなかったというのに。

 ブログだけではありません。Line、Twitter、Facebook、動画配信。

 上げ始めたら切りがない、SNSと纏められるもの。

 

 誰もがいつでもどこでも、手軽に情報発信し、交流できる手段に恵まれるようになったと思っています。

 

 その一方で。

 

 匿名性を利用して、交流や人との繋がり以上に、誰かを傷付けたり貶す手段になりかねないのでは、私は考えています。

 

 人と人との繋がりを手軽く、多種多彩にしてきたSNS。

 繋がりは増えて意見や意志を示す手段は確かに増えました。

 だがしかし、裏では誰かがそれによって傷ついたり苦しんでいる一方で、別の誰かはそうすることで自らの存在感を示し、高める材料にしているのではないのだろうか。

  そんなことを、最近は思うようになりました。

 

 今回は、人の繋がりに利便性と手軽さを齎したSNSについて綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 SNSがなければ、外に飛び出せなかった

 

 

 これまで記事を起こして参りました通り、私は人見知りが激しく内向的な人間です。

 面向かって話そうとしても視線を合わせられなかったり、相手の言葉に即応できない程、変に深読みしてしまったり。

 その結果、誤解を受けたり訝しげな目線を向けられてばかりでした。

 自分の、本当に伝えたいと思う言葉を探そうとすればする程。

 私は、周りの反応ばかりを気にし過ぎるあまりに、自分というものから逃げてばかりでした。

 

 それ位、幼少期から人との接触に苦手意識を持っています。

 

 自分の心の中だけが、世界。

 そう信じ込んでいた私が、世間という外界に飛び出す切っ掛けとなったもの。

 それは紛れもない、SNSです。

 

 私の場合は、同じ趣味を持つ人たちとの出会い。クルマという共通項を持った人たちとの交流が、始まりでした。

 最初はオフ会といった、直接的な交流は望んでおりませんでした。クルマのパーツを紹介したり、自分の思いを綴ることで、間接的な交流に徹していました。

 顔や私の本音が伝わらないことをいいことに、表向きには理屈好きな人間を気取っておきながら。

 実際の私は、自己承認ができなくなっていた補完として、情報発信することで誰かに認めて欲しかっただけでした。

 

 

 でも、そんな自己嫌悪に陥りかけていた私に声を掛け続けてくれたのは。

 気兼ねなく、私を一人の人間として迎えてくれた、温かい人たちばかりでした。

 そして、この人たちとなら、向かい合えるかもしれない。

 いつの間にか捨ててきてしまった、直接人と交流したいという、素直で我儘な気持ち。

 本能的に、希望という形で抱くようになっていきました。

 

 

 そして意を決する勢いで、初めてのオフ会に参加しました。開始直前までは、不安と緊張で潰れそうでした。

 迷子になった子供のようであった私を、クルマ仲間の方々は、警戒や外見で判断するようなことなどせず、私を受け入れてくれました。

 

 普通にできていた、人と会って話しをする、当たり前のこと。

 あの時から、そんなことすらできなくなっていた私は、オフ会の時間は笑顔で一杯でした。

 無邪気な程に、はしゃぐ位に。

 

 以来、SNSを通じ、それから直接お会いして仲を深めることの喜びと楽しさを覚えた私は、我武者羅なまでに色々な場所へと飛び出していくことになりました。

 その場所場所で沢山の人や場所に出会うことで、これまでの自分が余りにも狭い世界でしか生きてこなかったことを実感し、心と脳裏に刻んできました。

 

 人と出会うということを、一度捨ててしまった私が、外の世界に再び飛び出すことができた、一つの切っ掛け。

 それが私にとっての、SNSです。

 

 

 

 

 

 良いことばかりではなかった

 

 

 成功したり達成感を味わった数以上に、SNSで失敗したり後悔したことも多くあります。

 

 ちゃんとした段階を踏まずに、一度でも自分の投稿を見てくれた人に、友達申請して。

 それを無視されて、勝手に「無視された……」と落ち込んだり、憤ったりしたことも。

 

 オフ会に勧誘されて「仲良くなれたら、良いな」と身勝手な希望を抱いて臨んだイベントで、新入りと認識されて誰からも声を掛けられず、また私から進んで仲間入りしようと努力もしなかった時は。

 「やっぱり、人を信用した私が馬鹿だった」と、人の輪に入れなかったことを全部他人のせいにして、自分勝手に人を憎んだり。

 

 SNS上での交流を経て、何度か実際に会って仲良くなった「つもり」だった人からのふとした言葉を受けて勝手に傷付いて、自暴自棄になって。一時はSNSから身を引いて「やっぱり、人なんて……」と自己嫌悪ならぬ他者嫌悪に陥ったり。

 

 

 相手が正しくて、自分が間違っているのかもしれない。

 そうやって身勝手な憶測に憶測を重ねて、勝手に人を憎んだことも数多くあります。

 しかし全ては、私の勝手な思い込みが生み出した感情に過ぎませんでした。

 

 

 

 

 

 本当に相手を知りたいのなら、直接会って話すしかないのかも

 

 

 

 これは、私の考えに過ぎません。

 

 SNS上で情報を共有したり、時には愚痴を言ったり聞いてほしいと思うことを発信して。

 それに対して、誰かにリアクションして貰うことで、安息や癒しを求める。

 そういった目的でSNS使うこともあれば。

 

 自分が成し遂げたことを披露して、称賛されることで、自己肯定を高める。

 そのような意識でSNSを利用していることもあるのかもしれません。

 

 私は、「それはおかしい」だとか「そういうことして楽しいのか」と非難するつもりも、拒絶するつもりは全くありません。そして、したくありません。

 SNSは情報発信の一手段だけであって、明確な利用方法が定義されていない分、どう使うかは使う人に委ねられている、と私は考えている為です。

 

 

 本題は、別にあると思っています。

 それはSNSを通じて知り合い、仲間意識を育んだ、その先のことについてです。

 

 

 SNSの特性上、個人を特定されない仕組みになっているからこそ。

 SNS上での交流を続けるか。

 それとも、一歩踏み込んで、SNS上だけではわからない相手と実際に会って向き合おうと思うに至るか。

 

 それの選択次第で、得られるものは変わってきます。良し悪し、なんてものはありません。

 

 ただ、それこそ私事にはなってしまいますが。

 幸いにも、踏み出す一歩に怖さや不安を胸一杯に抱えながらも、周りに助けて貰って。今でも助けて貰ってばかりです。

 踏み込んだことで、自分が抱える不安・恐怖を少しずつ払拭し、直接的に人と会うことへの抵抗感を薄めて。

 今は、喩え僅かであったとしても、SNS上ではできない、実際に相手と目を向き合って話すことができるようになって参りました。

 

 

  SNSを通じ、人と直接会うという選択を自分が選んで、私は人との繋がりを取り戻せたと思っています。

 

 

 

 匿名であることを盾にして

 

 

 

 しかし、そう上手くいかないことの方が多いのではないかと、私は思えてなりません。

 

 実際、目を通して見かける事例として。

 SNSで特定の個人を極端に責め上げ、それを出汁に周りを巻き込むことで「こいつはおかしいが、自分は正しい」と煽動したり自身の正当性を前面に出して「正しさ」のようなものを語るような言動であったり、投稿であったり。

 個人的には、その行動は「自分を正当化して、賛同させることで承諾を得たい」のではないかと、思えてなりません。

 

 自分が持つ考えや価値観と、SNSで公開された内容を比較して、吟味して。

 賛同するか否かを決定することは大切なことであり、尊いものであると思っています。

 

 然れど、それを公に非難し、相手を批評して自らの正当性を証明したいとなってくれば、私は「それはどうなんだろう」と思ってしまいます。

 本能的なものなのか、意図的なものなのかは、また別にしても。

 

 所謂「拡散」という形で周りをその気にさせ、相手を一方的に責め立てて、非難して、SNSという公共的な場から排除しようとするのであれば。

 

 匿名であろうがなかろうが。それは「イジメ」と言えるのではないか。

 私には、そうと思えてなりません。

 

 人と人との繋がりを容易にしてきたSNSと、相反する行動ではないのだろうか。

 そう思うのは私だけかもしれません。

 

 ですが、正直に申し上げます。

 意図的か否かはさておき、実名や実態をあやふやにしているSNSで。

 会ったことすらない相手を。SNS上という、飽く迄「表面的」な表現や意志提示だけを見て。

 相手を非難することが、SNS本来の目的なのか。

 

 私は、それは断じて「違う」と思っています。

 

 

 

 

 交流の手段であって、SNSがその人全てではない

 

 

  

 相手の顔を直接見たり、直接声を聞くことができないSNS。

 発信者や受け取る側の真の意志や思いを見出したり、汲み取ることは非常に難しいと私は思います。

 実際、私は下手に深読みし過ぎて、自分から人との繋がりを壊してばかりでした。

 

 

 逆にもっと上手にこなせる人はSNSでの交流や情報発信で救われたり、より濃厚な関係を築いている人も多いと思っています。

 

 

 だから、SNSというものは。

 交流手段の一つであって、その人全てを表すものではない。

 

 色々と綴って参りましたが、このような結論に至りました。

 

 人を誹謗中傷するような、犯罪のような使い方をしなければ。

 SNSが齎し、これから齎すことは、無限大なのではないかと、私は思っています。

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

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